平和を生きる 序文

「ひたむきに生きる人」




立正佼成会 開祖 庭野 日敬

宗教というものは、その時代々々に生きる人びとの機根や民族性、時代環境などによって説き方に相違というものが出てくるのは当然のことであろう。併し、極言すれば、すべての宗教は、安心立命という内なる平和と、外なる平和の確立という共通の目的をもっているといっても過言ではない。しかるに1960年代における世界の宗教界には、排他独善の態度が幅をきかし、各宗教のあいだには越え難い溝が横たわっていた。人類がとどまるところを知らぬ軍拡と核戦争の脅威におののいているというのに。

改めて申すまでもないが、nonwor(戦争のない状態)をもって平和と断じることは出来ないだろう。もし、それが平和であると言うのであれば、檻の中のライオンも刑務所の凶悪犯も平和のサンプルということになる。J・ガルトゥングが言うように、それは恰も体の内部で病気が進行しているにも拘らずいまは病気がない状態だからといって、自分は健康なのだと思いこんでいるのに似ている。病変に対する早期の発見病気をしない基磋体力づくりといった予防医学が我われに必要なよつに戦争といつものも或る日突然に起こるわけではないから矢張り不断の平和への努力が大切であることは言うまでもない。

こうした事から平和のための新しい株序の創出−そのための貢献ということが私の誓願となっていった。句論そのための担い手となるべきものはすべての人間でなければならないがとくに人間の心の問題を扱い魂の救済に関わる宗教者が平和を口にするだけで何もしないならば宗教者は人びとを救うどころか逆に見捨てられてしまうのではないかというのが私の痛切な思いでもあった。

だから相手に自分を理解させょうと考える前にまず自分が相手を理解しよつと努力するそこに平和な世界を拓く鍵がある。まず世界の諸宗教の指導者が対話と交流と協力によって世界平和を実現させる導き手とならねばならないとい三とから遂に誕生したのが世界宗教者平和会議(WCRP)であった。

「知衰ある人は知恵を提供して下さい。資金的に余裕のある人は資金を提供して下きい、労力を惜しまぬ人は労力を提供して下さい。私もまた、足りない者ですが皆様の使い走り役でもなんでも、出来ることはさせて頂きますから」という、ただそれだけの思いと情熱と行動によってWCRPは産声をあげて今日に及んでいるわけである。とはいえ「ひとりでは何も出来ない。併し、ひとりが始めなければ何ごとも始まらない」といわれる。懲が今日、WCRP活動をはじめとして、いろいろな平和のための諸活動を展開し得ているのも世界中の多くの宗教者の協力があってこそ成し得ていることは論を侯たない。

その中でも、とりわけ私と共に道なきところに道をつける苦労をされたのが畏友というか平和活動の大先輩ともいえる三宅歳雄先生であった。この大地には、もともと道というものはなかった。先ずひとりが歩く、また次の人が歩く。そうして道というものは、だんだん出来あがっていくものであろう。世界の諸宗教間に横たわる深い溝に橋をかけ、平和に向けての宗教協力を行なうことは、打でいうほど簡単なことではない。もし私ひこりであったならば、ベトナム戦争のときに北ベトナムとの団塊近〈まで地雷原を通って救援物資を持っていけたかどうかボードピープルのために汗を流すことが出来たかどうか国連のNGOとして世界宗教者平和会議の活動を根気よく続けられたかどうか。

次から次におこる苦難の重い扉を自分ひとりでは到底押し開くことは出来なかったであろうそれもこれも信仰の道を共にいそしむ三宅先生という書き友の協力がなかったならばなに一つ実現し得なかったかもしれない。

私より3つも年長の三宅先生が難航する国際会議の席上静かな激情と共に宗教者のあるべき姿を肺腑を決る言葉をもって語りかける光景はまさに洋の東西を問わず宗教者の胸に鮮烈な印象を与えたものであったいまや一日圏の世界に生きる宗教者は何をしなければならないか一体何が出来るのかを問い続け自らも実践される三宅先生の生きざまが率直に語られている本書はとかくリップサービスに終わりがちな今日の宗教界に大きな刺激となるに違いない。

この書はまさに神に使われてひたむきに生きる人間の言葉に充ち満ちている。



金光教泉尾教会

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