●● 対談 ●●

日本全体を救うことは不可能か?
自由民主党政務調査会長
                       額賀福志郎
                  金光教泉尾教会教会長
                       三宅龍雄

1月25日、与党の政策決定の責任者である額賀福志郎自由民主党政調会長が泉尾教会に参拝し、内外の諸情勢について三宅龍雄教会長と話し合った。本サイトでは、その一部を紹介する。


対談を前に記念撮影に応じる額賀福志郎自由民主党政務調査会長と三宅龍雄教会長

額 賀  本日はご祭典日のお忙しい中、わざわざこうしてお時間を取って下さり、有難うございました。それにしても、本当にご立派な教会ですね。


三 宅  こちらのほうこそ、知事選の応援とはいえ、このような寒い日に遠路はるばる大阪までご来駕下さり、有難うございます。


額 賀  昨年の夏、ご令息の善信先生に、わざわざ永田町の自民党本部までお出ましいただき、私どもの勉強会(註=昨年8月2日に開催された『くにのかたち研究会』での講演)の講師を務めていただきました。その際、古今東西の歴史宗教文化への深いご造詣とご洞察に基づいた非常に興味深いお話から、現在の世界情勢と今後のゆくえを分析していただき、大変勉強になりました。その時から、このような先生がお育ちになられた泉尾教会へお参りする機会をぜひ頂きたいものだと思っておりましたので、本日、こうして参上することができて有難く思っています。

三 宅  愚息のことですから、また調子の良いことを喋【しゃべ】りまくったのだと思いますが、お役に立たれたのなら、それはそれで良かったと思います。
それにいたしましても、額賀先生は現在、自民党の政策決定上の最高責任者として内外ともに多難な情勢の中を日夜ご苦労なされている訳ですから、さぞや大変なことでしょうね。

額 賀  いえいえ、政治家としては当たり前のことですし、また変な言い方かもしれませんが、多事多難な時ほど、政治家という人種は、燃えてくるというか、やる気が出てくるものです。その意味では、宗教家の先生方も同じだと思いますが……。それにしても、よくもまあ本当に次から次へといろいろな問題が起きてきます。


三宅龍雄教会長と
額賀自民党政調会長

三 宅  この10数年間の日本の国は、大変厳しいと申しますか、先の見えない経済不況が続いてきたわけですけれども、ちょうど私の父が昭和2年に泉尾の地に布教を開始した時代が、現在とよく状況が似ていたのですね。大正12年の関東大震災の後、昭和2年に日本で金融恐慌が起こり、銀行が次々と潰れ、さらに、2年後にニューヨークのウォール街で株の大暴落から世界恐慌に発展し、昭和12年の「2・26事件」をはじめとするテロの時代、そして、戦争の時代へと進んでいったのですけれど、ある意味、現在の日本が置かれた情勢と似たところがあります。

平成7年の阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件に始まり、平成10年の金融危機。実際に、大手金融機関の山一証券や北海道拓殖銀行が潰れましたからね。それから、平成13年の「9・11同時多発テロ」、さらには、平成15年のイラク戦争と、奇妙なほど、「いつか来た道」と一致しています。


額 賀  確かに言われてみれば、そうですね。ご先代の親先生は、そのような大変な時代にご布教された訳ですが、当時の日本と現在の日本とでは、経済力のファンダメンタルズ(基礎力)が根本的に違いますので、さぞやご苦労されたことでしょう。やはり、人々の経済的な救済を強調されたのでしょうか?

三 宅  もちろん、経済的な立ちゆきを願われたのですが、何よりも、暮らし(生活状況)そのものより「暮らし向きの安心」を強調されました。暮らしと暮らし向きとでは意味が全然異なりますからね。暮らしは現時点の生活そのものでありますが、暮らし向きとは、生活のあり方を問題にするのですからね。量的なものと質的なものの違いとでも申しましょうか……。

額 賀  本当にそうですね。しかも、80年前よりも、世界はよりグローバル化したと申しますか、相互依存が深まっておりますので、世界のどこかの片隅で起きたことが、その日の内に世界中で問題になり、また思わぬ所に影響が出てまいります。昨今のBSEや鳥インフルエンザの問題を見ても、アメリカの畜産農家でBSEの牛が1頭見つかっただけでも、あるいは、ベトナムやタイで鳥インフルエンザの患者が1人発生しただけでも、次の日には、日本のスーパーの店頭から牛肉や鶏肉が消えて失くなるんですからね。えらい時代になったものだと思います。

三 宅  本当に大変なことです。特に食肉という行為に対する考え方が、欧米人と日本人とでは、牧畜文化と稲作文化の違いとでも言いましょうか、ハッキリと異なりますからね。そもそも牛豚という動物に対する態度というか、接し方からして違いますからね。牧畜文化の国では、歴史を通じて人々の生活のすぐ傍で、家畜の生涯(受精・出産・飼育・屠殺・解体・流通)と一般の人々が関わってきたので、どの程度のものか想像がつきます。

ところが、日本では、スーパーもしくは肉屋さんの店頭で切り身になった肉を買うだけ。牛舎でモーモー言っていた牛が切り身のビーフになるプロセスを、なるべく想像しないようにしているのです。その分、自分が見ようとしない途中の手続きへの信頼がなくなると、逆に大変なことになってしまいます。他にも、現在の日本社会は、昔だったら考えられなかったような、親が子供を虐待死させたり、子供が親を殴り殺したり、あるいは子供が幼児を苛め殺したり、嫌な事件が次々と起こってきますね。

額 賀  そうなんです。戦後、ただ豊かさというものを求めて、日本の社会は突き進んできて、そのこと自体は世界的にも稀なレベルで成功しましたが、その結果、われわれが目にしたものはなんだったのかというと、このようなモラルハザード(道徳破綻)をきたしたあるアノミー(社会規範の崩壊)の世界であります。そのことについて、宗教家である三宅先生のお考えをお聞きしたいと思うのですけれども……。


三宅龍雄教会長と
額賀自民党政調会長

三 宅  おそらく、宗教がただ個人の救済だけでなく、社会正義というものをその視野に入れて考える時に、3つの類型があるかと思います。

額 賀  3つの類型と申しますと、どのようなものがあるのでしょうか?

三 宅  まず第1番目は、自分が本当に救済されるためにはその社会的条件を良くしなければならないという考え方です。すなわち、「世直し」ということです。世の中が良くならなければ、自分たちの暮らしも良くならない。確かにそれはそう言えますね。戦争が起こればいくら個人が頑張っても、いつ殺されるか判らないのですから。

その次に、世の中の条件を変更しても救済されないという場合もあります。その場合には、その人の価値観の再編成ということを説く宗教があります。禅宗なんかそうですね。「心頭滅却すれば火も自ら涼し」(『碧巌録』より)ですから、価値観の再編成ということに重きを置きます。

3番目に、自らの価値観も変えなければならないが、同時に、世の中も変えなければならないという両方の折衷型の宗教があります。金光教も、どちらかと言うと、その類型に属すと思うのですが……。

額 賀  なるほど、なかなか面白い考え方ですね。東京で善信先生からご講演を伺った時も、世界のいろいろな宗教や国家のあり様についてお聞きしたのですが、実にうまく類型化してまとめられ、私共にも解りやすく解説していただいたのですが、それはこちらの家の遺伝なのでしょうか?

三 宅  遺伝かどうかは存じませんが、「世の中、たったひとつの統一的原理でできているわけではなく、宗教にしろ、政治にしろ、文化にしろ、いろんなパターンが同時並列的に存在している」と考えるのが、金光教の伝統なのではないかと思います。
ですから、去年来、アメリカがイラクに大軍を派遣し、日本もまた現在、自衛隊を派遣しつつあるわけですが、当初は、フセイン大統領を捕まえてしまいさえすれば、事態は収束する方向へ向かっていくと思われていたのですが、なんのなんのかえって大規模戦闘終結宣言後のほうが、はるかに多くの米兵あるいはその同盟軍への犠牲者の数が増えています。

額 賀  それはいったいどういう意味でしょうか? やはり、三宅先生はアメリカのやり方に問題が多かったとお考えなのでしょうか?

三 宅  もちろん、そういうことも要素のひとつとしてありますが、なにせアラブ人と日本人とでは言うまでもなく、アラブと欧米でも、社会のあり方が全く違いますよね。そもそも彼ら(アラブ人)は遊牧民ですから、伝統的に男は剣を、そして20世紀になってからは皆、銃を一般市民が持っていますね。イラクでは、銃どころか迫撃砲を撃ち込んだりしますからね。これは、日本の基準で言えばもう立派な「戦闘行為」と言っても良いでしょう。

その点、日本なんかは、銃刀に関する取り締まりが世界的に見れば異常といっていいほど厳しいですからね。ピストルはもちろん御法度【ごはっと】ですが、刀剣類でも、刃渡り何10センチ以上の刃物を所持している人は、警察に届けを出さなければダメだとかうるさい限りですよ。下手すりゃ、板前さんが使っている刺身包丁だって銃刀法違反になりかねない(笑い)。

額 賀  その点では、アメリカも銃社会ですからね。銃社会のアメリカと銃社会のアラブが張り合っているわけですから、日本には「刃傷沙汰【にんじょうざた】」という言葉がありますが、米国ではすぐに「発砲沙汰」ということが起きますね。私は、若い頃、アメリカで生活した経験があります。当時は貧乏学生でしたので、パートで留守番をする家政夫(?)のような仕事をしたことがあるのですが、どこの家でも、ベッドメイクをした時に、こそっとベッドの下を覗いてみますと、必ずピストルが置いてあるのですね。つまり、夜中に泥棒などの不審人物などが侵入してきたら、いつでもこれで応戦するというのが、アメリカでのごく一般的な常識で、ある意味、大きなカルチャーショックを受けたことがあります。


三 宅  そうです。私も随分以前にアメリカに行った時、デパートで普通に下着などの売っているコーナーのすぐ横で、やはり、同じような感覚で拳銃が売られており、住所氏名を書くだけで、誰でも簡単にピストルが購入できるのを見て、アメリカが銃社会であることは理屈では承知してましたが、大きな違和感を感じた経験があります。
何しろ日本は、豊臣秀吉が「刀狩り」という政策を実施し、いわば「兵農分離」という考え方を打ち立て「侍以外のものは武器を持ってはいけない」ということになりましたね。しかも、その上、明治維新の際には「武士の魂」であった刀まで取り上げ、新政府の官憲以外は武器を持てない社会になりましたが、『ラスト・サムライ』はアメリカ映画の話で、実際そのことに対する武力抵抗もあまりありませんでした。この頃、日本でも凶悪事件が増えましたが、やはりなんといっても、そういう意味で、日本は「武器のない(安全な)社会」を当たり前のようにしてきました。


額 賀  確かにそういう意味では、日本人のわれわれが考える社会と、米国人やアラブ人がイメージする社会における武器所有の日常性をいうことを比較すれば、強力なリーダーが統率しなければ平穏な社会生活は保たれないという彼らの原理主義的な考え方が、理解できない訳でもありませんね。


三 宅  日本でも一応、16世紀末の秀吉の「刀狩り」によって兵農分離が行われましたが、それでも山窩【さんか】(註=猟師・木こりなど、土地所有に根ざした封建的支配構造秩序に属さない山間部に暮らしていた人々)などは、江戸時代も明治になってからも生活するために刀を持っていましたし、また鉄砲も持っていました。今でも、狩猟をする人は散弾銃を持っていますからね。

解りやすく言えば、そういう社会状態のままで現代になったのが、アラブ社会です。しかも、そういった武器の性能は、昔のものと比べて命中精度や破壊力が格段と大きくなっていますからね。問題は深刻です。こういうイラク社会へ日本の自衛隊が行っても、欧米の軍隊が行っても、この文化自体を変えることができないわけですから、占領地から全くそういった銃撃事件(テロ)ということがなくなるとは思えません。


額 賀  本当にそうだと思います。日本政府も今回は非常に際どい判断をして行かなければならないことになりました。
ところで、経済政策というか、現状の分析もそうですし、将来の展望について、三宅先生はどのようにお考えでしょうか?


三 宅  ここ3年、小泉総理が日本の政治の舵取りをしてきた訳ですが、その間、「失われた10年」を取り戻すための経済政策については、常に2つの考え方があったように思います。

ひとつ目はもちろん、小泉さんの言う「痛みを伴う構造改革」の路線であります。従来通りのことを繰り返していたのでは、賃金が安い中国やその他の国々が追い上げてきたので、もはや日本の経済には、そういった意味では国際的な競争力がないわけですから、日本の産業全てを救うことは無理で、この際、劇的な業績回復の見込みのない非効率的な会社や社会的な弱者には泣いていただいて、そういった不採算部分を、言葉は悪いですが、切り捨てることによって身軽になり、競争力のある部門の収益性を上げ、そのことによって日本の社会全体を再度浮上させようという考え方です。

もう一方は、亀井静香さんなどが主張されるように、現在のアメリカ主導のグローバリズムは、大多数の弱者を踏み台にして、ごく一部の強者だけが繁栄するハゲタカのような社会の到来させるものであって、そこには人間同士の思いやりといったようなものは一切顧みられず、この方法をドラスチックに実施すれば、確かにある意味での繁栄は手に入れることができるかもしれないが、日本の良き伝統は失われ、欧米のような犯罪社会に日本もなってしまう。という2つの考え方のどちらを日本は採るべきかということであります。

選挙等の結果を見れば、現時点では小泉さんのほうが、支持者が多い訳ですけれども、いくら総理大臣が「痛みに耐えて」と言っても、必ずその方法が成功するかどうかの保証はない訳ですし、仮に遠い将来に成功するとしても、人々にその将来への展望が見えなければ、そのうち人々は耐えきれなくなります。


額 賀  そうなんです。この2つの考え方というのは、私ども政治家の中でも非常に難しい選択でありまして、かつての「55年体制」のような自民党と社会党、右と左、資本主義と社会主義といった、いわば二者択一的なイデオロギーの選択ではなく、同じ市場経済を採るにしても、これをどういうスタンスから運営するかという問題で、小泉さんは、「やる気や汗をかく人にはそれだけの成果を掴んでいただき、そうでない人との格差ができて当然だ」という考え方です。「もはや、日本全体を救うことができないので、せめて、沈没する船の一部を切り離して、救える部分だけでも救おう」というのが、小泉政権のスタンスであります。

ただ、そのことが、小泉政権を批判される方がおっしゃるような「日本(の美味しい部分)をアメリカに安価で売り飛ばしてしまう」ということになるかというと、その部分での批判は当たらないと思います。かつて日本は「欧米に追いつけ追い越せ」ということで、国民全体が一致協力して努力し、また、事実そういう意味では大成功をいたしましたが、気が付いてみると、後ろには中国をはじめとする国々が急速に日本のことを追いかけて来ていますので、これまでの方法通りで日本が繁栄し続けるということは不可能なことは明らかであります。


三宅龍雄教会長と
額賀自民党政調会長

三 宅  私は中国よりも、ある意味インドのほうが、日本と世界にとってはこれからは大きなファクターになっていくのではないかと思います。ここ10数年の間は巨大な人口を抱える中国が「世界の工場」あるいは「世界のマーケット(市場)」というふうにして注目されると思いますが、3、40年先には、インドが世界経済をリードする国になっているというような気がします。


額 賀  そうですね。何よりもインド人は、学校を出ている人なら皆、英語の読み書きが完全にできますし、もともと数学の能力はインド人が世界中で最も秀でていますからね。なにしろ、3千年も前に「ゼロ」という概念を発見したのはインド人ですからね。1、2、3という自然数は猿でも理解できますが、「ゼロ」ということを理解するのは大変なことです。欧米には、今でも掛け算の九九すらありませんが、インドには2桁の掛け算の99まで(註=11×11から99×99まで)あるそうですからね。これから、ますますコンピュータ社会になって行きますので、インド人のアドバンテージ(優位性)は明らかであります。

これまでインドがあまり発展できなかったのは、欧米の一流大学に留学した優秀な若者が、インドへ戻りたがらずにそのまま欧米の社会に定着してしまったからでありますが、これからは、インド国内でもそのような優秀な人材を吸収する産業が発展してきており、その人たちがどんどんインド国内に留まって、インドの産業の発展に貢献し出すと、インドという国の潜在能力には大きなものがあります。


三 宅  そうなんです。おそらく100年経って経済的には大発展しても、インド人の文化・風習・宗教等はそれほど変わらないと思います。明治以後、日本は、日本の良い伝統を棄てることによって、確かに欧米に追いつくことができましたけれども、現在ではそのことによる「負の遺産」に苦しめられている日本人にとって、それぞれの文化が持つ伝統を尊重しつつ、なおかつ欧米が提示してくる地球的市場経済というものとうまく調和を取っていく方法を、これからの日本もアラブ社会もインドに学んで行かなければならないと思います。

本日は、政務ご多忙の中、わざわざ大阪までお越し下さり、限られた時間でございましたが、このような興味深いお話を聞かせてくださいまして有難うございました。


額 賀  いえいえ、こちらのほうこそ。ご祭典日のお忙しい中、意義深いお話を聞かせていただく機会を頂戴いたしまして、また、ご参拝もさせていただき、有難うございました。これからもできるだけ機会を設けて、こちらの教会にお参りさせていただきたいと思っております。本日は有難うございました。

                               (文責: 編集部)


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