(書 評)
三宅師歳雄教話選集『泉わき出づる』を読んで


                     東京大学 教授(宗教学)
                        島薗 進

 三宅師歳雄師(一九〇三〜九九)の教話の記録であるこの本は、しばしばその教話が語られていた場の感動を伝えている。ということは、この記録は、人が信心に目覚め直す場を捉えているということであり、そのような力をもつ教話が再現されているということである。

「世界取次ぎをめざす」と名づけられている、昭和三十六年の訪米に際しての教話を取り上げよう。途中に「(語られる親先生が感泣しておられる)」とか、「(合掌しつつ語られる先生)」という言葉がはさまれている。そして末尾は「(お話終わって、なおしばらくご祈念していられる親先生…)」とある。語り言葉を記事にしようとしていた担当者がこのような異例の記述をしたこと自体が何事かを語っている。金光教の教祖、金光大神は自らの一生を振り返り、神の「おかげ」により助けられた時の感動に思い至ったとき、「ここ迄書いてから、おのずと悲しうに相成候」と書き込んだ。その時空と「世界取次ぎをめざす」の時空には相通じるものがある。

 そもそも「世界取次」の語には壮大な意気込みが感じられる。昭和三十年代の教話を集めた本書の中には、ソ連、モンゴル、中国訪問時の的確な視察や印象も含まれており、世界平和のために行動する宗教者の姿が映し出されている。そのことを三宅師師は「世界苦の中に飛びこんで行く」ことだという。「世界苦、人間苦とシッカリ取り組み、甘い考えを捨てて、あくまでも自らの至らざるを改め、人を責めず、人に求めず、謙虚に謙虚に道を求め、『世の塩』『家の塩』となりきってゆく道を歩ませていただきましょう。それが信心です。それが宗教の指し示す道です」

 このように「苦難」や「問題」に正面から向き合うことを厳しく促し、そこから「人に頼らず」「物に頼らず」ひとりひとりが「自分」の「立ち行く」道を見出していけるのだという、まことに前向きの気概あふれる信心の世界が開けている。

 その前向きの信心生活を支えているのは、人とともに苦難を忍び、「祈り」の姿になりきっている神の像であろう。金光教の信心のキイワードの一つである「あいよかけよ」を師は見事に表現している。「肩に食い込んでくる重荷を通じて、『有難うございます』と杖に御礼申し、同時に、杖も『有難う』とおっしゃって下さる。このような関係が神様と氏子の間柄です。……神様にいきがいを感じていただけるように、たった今から、私と皆さんたちが一体となって、『助かり祭』の真の意味を行じてゆこうではありませんか」

 他者とともに、そして神とともに、苦悩し、感動していく「共鳴者」としての豊かな資質をもった三宅師師の語りの場に、こうして立ち会っていると、「苦難」とか「助かり」が織り合わされた「御神願」の時空に、即座に導かれてゆきそうで、あたかもめまいに見舞われたかのようである。

金光教泉尾教会
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