▼△ WCRP日本委員会 青年部会 講演会 △▼
 

『宗教対話の課題と展望』

同志社大学 神学部長  森 孝一
                            
▼真に対話すべき相手とは

 ただ今、ご紹介に預かりました森でございます。本日はお招きいただきましてありがとうございます。私、本日のこの集まりを非常に楽しみにしていたんです。若い皆さんと後でいろいろと質疑応答をしながら意見交換をしたいと、とても楽しみにしています。どうぞ遠慮なく活発にどんなことでも後でご意見ご質問いただければと願っております。誠に恐縮なんでが、三宅教会長がそこにお座りになっておられて、話しにくくてしょうがない(会場笑)。 「困ったなぁ」と思いながらお話させていただきます。今、写真を撮ってくださっているのがご子息の善信先生ですが、長年にわたる宗教間対話の実践どころか、彼は金光教の先生をされていながら、忙しい中で同時に、同志社大学神学部博士課程に在籍されており、「まさにこれが宗教間対話ではないかな」ということを実践されている方です。

 まずお話させていただきたいのは、この数日、数週間、私たちの心を痛めさせている、アフガニスタンでのタリバンによるバーミアンの石仏破壊についてです。また、それについての宗教間対話についてでございます。皆さんの中にも仏教系の方もいらっしゃいますので、本当に心を痛めておられると思います。日本政府も使節を送りました。国会でこういうことを(コップの水をかけるジェスチャー)やったあの人を団長にして、使節を送ったんです。あの方が昔、アフガニスタンの大学で体育の先生をしていたということが理由なんでしょうが、しかし、どうでしょう。タリバンの方としてもどういう方が使節で来るかという情報はちゃんと入っていると思います。そういう人を選んで日本政府が送ってきたということに、どういう反応をするでしょうか。私はプラスの反応をしているとは思いません。

 もちろん、世界のさまざまな仏教の団体がさまざまなメッセージを送りました。ですが、「そこに対話が成立したのか」という問題です。私がもっと注目しているのは、イスラムと他宗教の対話というよりも、イスラム間の対話がどうであったのかという点です。ここに3月11日付けの毎日新聞の速報がありますが、「アフガンのイスラム通信によるとカイロにありますイスラム研究で最も有名な大学、アズハル大学はその著名なイスラム法学者であるワセル先生をタリバンの元へ送り、そこでタリバン政権の指導者や同国のイスラム法学者たちと対話を持った」と書かれています。

 別の報道を見ても、「もちろんコーランの中では偶像を認めてはいけないということが書かれているが、仏像を破壊するということは書かれていない」ということで説得にあたったと思います。イスラムとイスラムの対話です。しかし、結果を見ると対話は全く成立しなかった。この点に私は非常に注目したい。先程の三宅先生のお話にありましたように「対話というものはそんなに簡単なのではないんだ」という、この点について今日は考えてみたいと思います。

 特に宗教原理主義者との対話。タリバンはイスラム原理主義者です。原理主義については後で詳しくお話したいと思いますが、英語で言いますと「fundamentalist」と呼ばれる人たちです。これはイスラム教だけではありません。私はキリスト教徒ですが、キリスト教にもファンダメンタリストが居ります。そして、ユダヤ教ファンダメンタリストも居ります。先日選ばれたシャロン首相、彼はユダヤ原理主義者ですよ。彼が選ばれてくるということは、やはり、ユダヤ教徒の中で原理主義が非常に強くなってきているということではないでしょうか。儒教の原理主義というものもあります。そういう風に考えてみますと、原理主義者との対話の難しさ、同じ宗教の中において、その宗教の原理主義者たちと対話するということが非常に難しいということを、まず、皆さんと共に確認していきたいと思います。私が体験し学んだことの中から、難しさということについていくつかの例をお話させていただきたいと思います。


▼万国宗教会議に見る宗教内対話

  ひとつはこのWCRPにも関係があるのですが、今から100年ちょっと前、1893年にアメリカのシカゴで近代において初めての宗教会議が開催されました。「シカゴ万国宗教会議」と呼ばれるもので、この100周年についてはWCRPも積極的にさまざまな活動をされたと聞いております。私は10年程前に、このシカゴ万国宗教会議についての論文を書きました。それをまとめまして、先程ご紹介の中にありました『多文化主義のアメリカ』という本の中に一章を設け、「100年前のアメリカの宗教対話とはどうであったか、そしてそれから百年後の今日におけるアメリカの宗教対話とはどうなのか」ということについて、ひとつの論文にまとめました。

  この1893年のシカゴ万国宗教会議の時に、それを開催し世話をしたのは誰かというとアメリカの宗教者です。もちろん、キリスト教徒です。プロテスタントとカトリック、そしてユダヤ教の人も少しは関係したと書かれています。そして、世界各国に3,000通くらい手紙を送り、さまざまな宗教者がシカゴに集まってきた。日本からも10数名の各宗教の代表者が出て行きました。仏教、キリスト教の代表者が集まってまいりました。私が申し上げたいのは「そこにファンダメンタリストがいたのか」ということです。アメリカの場合しか判りません。19世紀末当時というのは、アメリカのキリスト教会が真2つに分かれて激しい対立をしていた時代なのです。その一方のグループというのがファンダメンタリスト、キリスト教原理主義者です。もう一方は英語で言うと「modernist、近代主義者」と呼ばれる人たちでした。今の言葉で言いますと「リベラル(liberal)派」です。

  特にどういう問題を巡って、同じキリスト教徒でありながら対立していたのかといいますと、大きく分けてふたつの点で対立していました。ひとつは「キリスト教の聖典である聖書をどう読むか」という立場の違いです。聖書を神の言葉として、一字一句文字通りに受け止めるのか、それとも19世紀の初頭から始まってきた聖書解釈のさまざまな技法を用いて、例えばギリシャ神話のような古典を分析する時の技法を用いて聖書を分析していくのか。そういうふうな近代的な聖書の分析の仕方を、同志社大学もやっているわけですが、これを認めるのかどうかという対立です。

  もうひとつは「近代自然科学の成果を認めるかどうか」という対立です。その中心はダーウィンの進化論です。聖書の中には「神が人間を創った」と書いてあるわけです。ダーウィンの進化論とは対立するわけです。それをどうするのか。リベラル派の人たちは、新しい近代的な科学的な発見というものと共存できるような解釈を加えていったわけです。その解釈を認めていくのか、それとも拒否してもともとあったキリスト教の伝統・原理というものを文字通り受け止めていくかと、ふたつのグループが対立していた時代です。ちょうどその時、1893年に、このシカゴ万国宗教会議が開かれたのです。

  ファンダメンタリストたちはこれに参加していません。そこに参加したのはリベラル派の人たちだけです。そして、世界各国から集まってきた「他の宗教の人と対話したい」と思う人たちとキリスト教の中の心開かれた人たちが会を持ったのです。ですから、キリスト教の当時の保守的な人たちとは対話できていないのです。これがひとつです。ここまでは私は本で読んだことを紹介しただけですが、今から私自身の体験のお話をさせていただきたいと思います。


▼米国におけるキリスト教神学の実態

  今から15年ほど前、1985年に1年間学校から在外研究という研究期間をいただき、アメリカのノースキャロライナにありますデューク大学というところで南北戦争時代の南部のキリスト教についての研究をやりました。どうして南北戦争時代の研究をしたかというと、次の話と関係してくるのですが、南北戦争というのは内戦です。その時、彼らの宗教は何だったのかということです。どちらもキリスト教です。どちらもキリスト教と聖書に従って奴隷制を否定したり肯定したりしていたんです。キリスト教と聖書によってですよ。ですから、信じられないかもしれませんが、奴隷制を肯定する神学・教学というのがあったんです。奴隷制を肯定する聖書の読み方というのがあったんです。そういう南部のキリスト教というのを研究したいと思って1年間、研究に行ったのです。

  デューク大学はきれいな大学なのですが、そこに立派なチャペルがあって、ちょうどその50周年の記念の年にあたっていたので、さまざまなアメリカのキリスト教の指導者を呼んで講演会をやっていたんです。ちょうど良い機会ですから、私はそれに全部出席しました。ある会に出た時の講師がどういう人かというと、「解放の神学(Liberation Theology)」というのがありまして、南米だとかアフリカ系アメリカ人の中から出てきたものなのですが、今までキリスト教だとかキリスト教の神学というのは社会の中心にいる人に焦点を合わせていたのです。男性であったり、金持ちであったり。女性や少数民族や障害者は周辺に追いやられていたんです。「そういう立場からもう一辺聖書を読み直してみなければいかん」というのが「解放の神学」です。これは今から23年前に始まりまして、現在でもキリスト教神学の中でも世界の中で一番中心の神学になっています。そのアメリカにおけるリーダーである黒人の神学者が呼ばれて来たのです。集会に来た人は黒人ばかり。白人は若い神学部の女性の学生が1人だけ。そして東洋から来た研究者の私です。

  次に別の会があった。皆さん時々聞いたことがあると思いますが、アメリカには宗教右派というのがありますね。大統領選挙などにも大変大きな力を持っているキリスト教の保守系のグループです。そのリーダーが来た。聴衆は全部白人。白人以外でいるのは私だけです。ということはどういうことですか。このふたつの集会、両方に出たのは私だけです。同じアメリカのキリスト教で、ひとつの大学の神学部にいながら、その中で黒人と白人の対話ができていないのです。同じキリスト教の中で。これが現実なのです。


▼南アフリカでのフィールドワーク

 第3番目の例ですが、1999年の8月、私は3週間南アフリカ共和国に初めて調査に行きました。文部省から研究費を頂いて行ったんです。アパルトヘイトとキリスト教との関係についての研究です。先程お話した南北戦争とそっくりなんです。アパルトヘイトを実施していた白人と、それに抵抗していたD・ツツ大主教をはじめとする黒人。どちらもその90パーセントはクリスチャンなんです。だから、アパルトヘイトを肯定するキリスト教徒と批判するキリスト教徒が両方存在するんです。これが現実なのです。

 私はケープタウンから50キロメートルほど東にある南アフリカで2番目に古い町であるステレンボッシュという大学町へ行きました。そこのステレンボッシュ大学の神学部にごやっかいになりました。このステレンボッシュという町はアフリカーナと呼ばれるオランダ系の南アフリカ人、いわゆるアパルトヘイトを実施していった側の人たちの町であり大学であり、その神学部はアパルトヘイトを肯定する神学を展開した大本山なのです。私が「行って研究したい」と言うと、受け入れてくださって、そこで私はいろんな教会を見て回り、いろんな人から話を聞いて回りました。

  白人の町ですから、いろんな白人の教会へ行きました。3週間いましたから3回日曜日があったんです。毎日曜日の朝と夕方2回、いろんな教派の教会へ行って礼拝に参加しました。黒人はどうかというと、黒人もいることはいます。ステレンボッシュという町は昔のオランダ植民地時代の建物が残っているとてもきれいな町なんです。ところが車で10分ほどの町外れまで行くとひどいバラックが続いているのです。このバラックにはトイレもなければ水もない。共同トイレと共同水道だけのひどい所です。ここに黒人はいるのです。これだけ経済格差があるのです。N・マンデラによる1994年の改革というのは革命ではなかったのです。革命というのはそれまでの経済構造をひっくり返すものですが、南アフリカは経済構造はそのままなんです。未だに南アフリカでは国民の10%の人が土地の70%を持っているのです。黒人の失業率は41%もあるのです。そして黒人はひどいバラックに住み、白人は瀟洒な家に住んでいるのです。こんなことでは治安が悪くなるのは当然です。

  そんな中で宗教があるのです。先程も言いましたが、黒人も白人も90%がクリスチャンなんです。その中で私は「黒人の教会にも行きたい」と思って、ステレンボッシュ大学の神学部の先生に尋ねました。すると先生が紹介してくださって電話番号や住所を教えてくれました。しかし、そこへいくら電話をかけても繋がらない。町の案内のところに行ってどこにあるのかを聞いても「解らない」と言うのです。しかたがないから住所を地図を頼りに出かけていってみると、そのひどいスラム街の中に入っていくわけです。ものすごく危険なことです。しかし、がんばって行ってみると、バラックのような教会がありました。残念ながら鍵が掛かって人がいない。誰にも会えずに帰ってきました。

 そういう経験をして、私が皆さんに何を言いたいのかというと、住所が分かっていて電話番号まで分かっていて、市のインフォメーションのところへ行き聞いたわけです。対応してくれたのは黒人の女性でした。しかし、その黒人の女性は白人の世界の中で働いている黒人の女性です。その黒人の女性はスラムにいる黒人とは対話がないのです。これが現実です。世界の現実とはこうなのです。ですから、本当にそこで対話しなければならない、南アフリカの同じキリスト教徒の黒人と白人、あるいは黒人同士の対話がない。これが現実なんです。これをわれわれは知る必要があります。


▼国内キリスト者間の認識の違い

 もっと身近な例をお話しましょう。私は日本のプロテスタントの一派である日本基督教団に属しています。ところが、この日本基督教団のなかにファンダメンタリストとリベラル派があるんです。小さな小さな10数万人の教団なんですが、その中に両派の対立があって対話がないのです。数年前まではリベラル派が教団の主導権を握っていたのですが、いまはひっくり返ってファンダメンタリスト、保守派が実権を握っています。そこには全然対話がないのです。

 6月頃に、この3月に各神学校を卒業して新しく牧師になっていく人の研修会が伊豆で持たれるのです。私もそれに出て行きますが、日本基督教団に属するいろんな卒業生たちが集まってくるのです。驚きますよ。あまりのキリスト教理解、神学理解、信仰理解の違いに唖然としてしまいます。日本のプロテスタント教会の中で同志社大学というのは最もリベラルな立場に立っていると思います。「同志社大学の神学部に行きたい」と言うと、保守派の人たちには「止めておけ。あそこに行くと信仰がなくなる。悪魔が住んでいる(会場爆笑)」と言われます。

 ちょっと例を上げます。ここに同志社大学の神学部が出している論文集、『基督教研究』という日本で一番古いキリスト教の研究ジャーナルがあります。最新号が昨日出来上がりました。この中に「世紀が替わったので今までの神学の総括をやろう」という特集を組んでいまして、神学のいくつかの分野の代表の方の対談を3つ載せています。その最初は聖書学――聖書の読み方の研究――の学者2人の対談です。その対談のタイトルは『歴史のイエスをどうとらえるか〜現代の視点から〜』というものです。2人とも同志社の神学部関係の方で、一人は橋本滋男先生といって同志社大学神学部で新約聖書学を教えておられる私の同僚です。もう一人は笠原芳光先生といって、最近まで京都精華大学の学長をされていた先生です。この方もなかなか面白い聖書の読み方をされていまして、なんと言いますか、キリスト教理解では最左翼の方です。最近、『イエス逆説の生涯』という本を出されました。この先生の主張は「イエスはキリストではない」というキリスト教なんです。「イエスは人間だ。人間イエスに私は惹かれるのだ」と言う先生です。

 この論文集の一番初めのページの1行目が橋本先生の発言で、「イエスはキリストか」という見出しがついていて、笠原先生にこう言っています。「先生の新著『イエス逆説の生涯』を拝見しまして、『イエスはキリストではない。自らそういう自覚もなかった』とされていますが、これは今日の聖書学の領域では常識になっていますね」と、こう始まるんです。すると笠原先生は「そのことと、今のキリスト教(教会の現場)との大変な違いはどうなっているのですか」と言うのです。実際の教会・キリスト教のレベルではこんなことは通じません。非常に保守的になっている。ところが、聖書学では「イエスはキリストではない。イエス自身はそういう自覚はなかった」ということは常識となっているんです。ここから始まるんです。

 これを日本のファンダメンタリストのキリスト者が読んだらどうなるんでしょう。実は私は昨日、初めてこれを見たのですが、立場上、神学部長が編集人で発行人ですから大変なことなんです(場内笑)。私は「これで良い」と思っていますが、これを読んだらずっこけるようなキリスト者はたくさんいます。対話できない人はたくさんいます。それが日本のキリスト教の現状なんです。皆さんの教会・神社・お寺ではどうでしょうか? 実は、日本のキリスト教、世界のキリスト教ではそうなんだということを押えておきたいと思います。


▼宗教に求められる、これからの対話

 これは「このWCRPをはじめ、現在行われている宗教間対話の実情とはどういうことか」ということのひとつの反省になると思います。世界で行われている宗教間対話というのは対話できる人たち同士の対話である。対話しなければならない人との対話は、実は行われていない。これをわれわれはこれをしっかり知った上で、なお、対話を求めていかなければならないのではないか。その対話しなければならない相手とは誰か。私は原理主義の人たちだと思います。それぞれの宗教の原理主義者との対話。これが今、宗教において本当に求められていることだし、世界が宗教に求めていることではないか。

 このタリバンによるバーミヤンの石仏の破壊。これは破壊したタリバンの立場から言うと、信仰的に正しいことでしょう。しかし、破壊したことによって世界の人々はタリバンに対してどういう思いを持ったでしょう。あるいはタリバンだけではなくて宗教一般に対してどういう思いを持ったでしょうか。私はこれは非常にマイナスだと思います。こういう宗教一般に対しての非常に厳しい目、これは世界にも日本にもあると思います。例えば日本ではあのオウム真理教の事件以来、宗教一般に対しての世間の非常に厳しい目というものがあると思います。私はオウム真理教も原理主義だと考えています。なぜそう考えるかということについて、後で少しお話させていただきたいと思います。


▼宗教復興時代

 一方で、世界の宗教というものを見てみると「宗教復興の時代に入っている」というのは確かなんです。世界の各地域・各宗教で今まで以上に宗教が力を持ってきている。宗教復興の時代になってきている。マルクスを始めとして近代科学者たちは「宗教はなくなる」と予測していたんです。近代的なものの考え方です。「宗教はアヘンだ。だからアヘンを必要とするような痛み――経済格差――がなくなったら宗教もなくなるんだ」と考えられていた。ところが、現実にはマルクスの共産主義がなくなって宗教が復興してきた。歴史の逆転です。ここで、われわれが気をつけたいのは「世界で起こっている宗教の復興とはどういう宗教か」ということです。実は原理主義なんです。世界各地・各宗教で起こっている宗教の復興の大半は原理主義なんです。私は「課題と展望」ということを掲げましたが、本当に課題であり展望として持たなければならないのは地球規模の視点だと思います。

 面白い本を1冊紹介したいと思います。テレビにも良く出る評論家の立花隆さんという方がおられますね。ロッキード事件だとか脳死の問題を扱われた非常に鋭い方ですけれども、この立花さんが書いたわれわれにも関係の深い興味深い本があります。『宇宙からの帰還』という中央公論社から出ている本です。中公文庫にもなっています。これは立花さんがアメリカに行ってNASAの宇宙飛行士たちにインタビューをしたものなんです。NASAの宇宙飛行士たちが宇宙に出た時にどういうことを感じたかということを聞いてまとめているんです。

  なぜ面白いと私が感じたかというと、宇宙飛行士たちが宇宙に出ることによって宗教体験をしているのです。闇黒の音のない宇宙の中に太陽が輝き、その太陽の輝きを受けて地球が輝く。そしてそこに自分がいる。その宇宙体験をやっているわけです。この本を読んでいると「これは宗教体験だな」と思う言葉がたくさん出てきます。ある一人の宇宙飛行士は「宇宙体験――自分と宇宙とがひとつになるという宗教体験――は、今までは宗教における特別な人、聖人にしかできなかった。ところが、ロケットに乗って宇宙に飛び出すことによって、多くの人がそれを直に体験することができるようになった」と語っているんです。

 仏教の専門家の方がおられるのにお話するのは恥ずかしいのですがお許しください。弘法大師様が土佐の海辺の洞窟で太平洋を見ながら瞑想をして悟りを開いた話に「明けの明星が腹に入った」と書いてあります。これは宇宙体験でしょう。明けの明星が腹に入ることによって宇宙と自分がひとつになるわけです。これは「仏人同一」でしょう。宗教体験だと思います。そういう宗教体験を宇宙に出て行った宇宙飛行士は直に体験しているのです。そういうことができるような地球規模の時代に入っているんです。「その宇宙船に乗って地球を回っていると、キリストが生まれた所、マホメットが生まれた所、仏陀が生まれた所、それらの上を数分のうちに通り越していく」と言うのです。そうなった時に「既存の宗教の枠組みがあまりにも狭いと感じた」と語っています。「『キリスト・マホメット・仏陀が生まれた所を瞬時に飛び越えられるような時代にキリスト教やイスラム教や仏教ということの意味がどこにあるのだろうか』と感じた」と言っているのです。

 これが実はグローバルということです。グローブというのは地球という意味ですから、グローバルというのは地球規模ということです。ですから、今日宗教の抱えている課題だとか、宗教対話の展望ということになると、地球規模の視点に立った対話が必要なんだと思います。ところが、世界で盛んになっている宗教というのは原理主義です。原理主義の宗教というのは、今お話した地球規模の宗教のありかたというのとは正反対、対極にあるような宗教のありかたです。それが今日の宗教の復興のあり方なんです。われわれは「宗教が復興して良いな」なんて呑気に構えられることではないんです。今、起こってきている宗教の復興というのは、人と人を分断し、民族と民族を分断し、宗教と宗教を対立させて相手を抹殺していくような宗教なのです。この点をわれわれは知る必要があります。ところが、どうでしょう。それぞれの原理主義というのはイスラム教であり、キリスト教であり、ユダヤ教なんです。同じイスラム教の中には原理主義の立場もあればリベラルな立場もあるんですが、その間には対話はないんです。この点をはっきりと知っておく必要があると思います。


▼原理主義興隆の背景

 次に、なぜ原理主義的な宗教の復興が世界で起こってきたのか? ということについてお話したいと思います。結論から言いますと「これは人間の本性だ。宗教を持ちたいというのは人間の本性だ」ということになるでしょう。この場合、「宗教」というのは広い意味で使っています。別の言い方をしますと「意味を探求するというのは人間の本性である」ということになります。自分の存在の意味というものを知りたい、求めたいと考えるのは人間の本性であり、誰が否定しようともなくならない。それが人間の本性なんです。昔、「ホモ・サピエンス」と言った人がいました。「考える」ということが人間を人間たらしめるものだ。「考えるもの」は他にもイルカだとか烏だとかいますが、烏やイルカが自分の存在の意味を考えるということは恐らくないでしょう。「他の生物とは違う人間の特徴はどこにあるのか?」と考えると、ひとつの答えかもしれないのは「自己の存在の意味を探ね求める」ということだと思います。「自分の属している集団に意味を与えていくもの」これは広い意味での宗教だと思います。

 なぜ1980年代くらいから世界で宗教復興が起こったのかと考えてみると、これは共産主義の崩壊、近代主義の行き詰まりということと非常に深い関係があると思います。最初に現れた世界における原理主義の大きな運動は、1979年のイランのホメイニ革命でした。そして1980年にアメリカではレーガン大統領が現れました。レーガン大統領はアメリカのキリスト教原理主義者たちに推されて出てきたのです。そしてその10年後に共産主義が崩壊していくわけです。共産主義が崩壊した後、共産圏において宗教と民族の復興があったのです。全て「自己の存在の意味」ということに関係していると思います。

 では、冷戦の時代はどうだったのか? 例えば、旧ソ連の人々はどういう形で「自己の存在意義」というものを見つけることができたのか? それは共産主義イデオロギーによってです。「差別のない、搾取のない、理想的な社会を創るんだ」と…。実現はしなかったが、信じていたんです。ということは共産主義イデオロギーというのは宗教です。「共産主義という宗教だ」と私は言います。それを信じることによって、今の自分の存在に意味を見出すことができていたんです。この共産主義を世界に実現するために働く、その働く今の自分に価値を見出すことができる。一方で自由主義世界はどうだったのでしょうか? 「あの悪魔のソ連・共産主義陣営がいる。それと戦うんだ」という自由主義陣営のイデオロギー、それを自分の生きる意味としていくことができていたんです。

 ところが、その共産主義陣営がひっくり返ってしまった。人々は心にポッカリと穴が空いてしまったように感じました。心理学では「空虚な自己」と言います。今まで共産主義イデオロギーが詰まっていたところがポンとなくなってしまう。空の自分に耐えられるのか。耐えられない。それが人間だからです。人間の本性は何かによって自分の意味を見出さなければならない。そこで、人々が縋ったものは何かというと、自己の民族であり、その中心にあった宗教なんです。「ファンダメンタリズムとしての宗教であった」と言うことができると思います。これが世界の宗教復興のひとつの原因です。今、共産主義がずっこけた話をしましたが、自由主義陣営でも同じです。自由主義が世界に伝えようとしていたものは「物質的な豊かさが人間に意味を与えていくんだ」というものでした。それに「そうではない」と宣言したのがホメイニ師の「イスラム革命」であったわけです。それと同じように、自由主義陣営の中にも「近代が『これが正しいんだ』と言ってきたことからは、自分のいのちということは汲み取れない」ということを感じてきた。これが宗教復興の原因であると思います。


▼日本人を襲う空白

 ここで話のテーマを変えて「日本における原理主義」ということについて考えてみたいと思います。「日本に原理主義はあるのか?」ということです。ぜひ皆さんも一緒に考えていただきたいと思います。日本は宗教的原理主義というのはあまり強くないと思います。こうしていろんな宗教の人が集まって一緒に居られるのですから。しかし、構造的に宗教原理主義とよく似たものは日本の中に見られると思います。例えば、共産主義が倒れた後の「空虚な自己」という感覚は、今の日本の社会の中にかなりあるんではないでしょうか。どう思われますか?

 5年程前から中学生などによる非常に悲しい事件がたくさん起こりました。須磨の(酒鬼薔薇聖斗)事件があった、山科の(てるくはのる)事件があった。須磨の事件の時にどういうことを少年が言っていたかというと、「透明な存在としての僕」と書いていましたね。これは今までお話してきたことと絡ませて言えば「空虚な自分」ということではないでしょうか。空虚な自分をなんとか満たしたい。そこで、異常な方向へ走ってしまうんですね。人を殺すということによって自分の存在感を確認していく。これは異常なことだしおかしいことだと思います。しかし、そこで「空虚な自分を埋めていきたい」という意識的か無意識的か判らないけれど、そういう思いは存在していたというのは事実だと思います。

 では、なぜ日本でそういうものが急に出てきたのか? 私が学生の頃そんなことはなかった。なぜ今、出てきたのかと考えてみると、つい最近までは「意味を見出せるもの」があったんです。それは経済復興だったと思います。戦後の経済復興。戦争で負けてゼロになった日本をなんとか建て直していかなければならない。「そのためにがんばるんだ。会社もがんばるんだ、会社の中のひとつの部分として自分もがんばるんだ」という私の父親の年代です。子供の頃のことを覚えていますが、まだ新幹線もなかった時代に、父は月の半分くらいは、8時間もかかって夜汽車で東京へ出張へ行っていました。体を壊すくらい働いていました。

 なんのために働いていたのか? 会社のためでしょう。では、ただ会社で儲けるために働いていたかと言うと、そうではなかったと私は思います。「会社で働いて会社を成功させることによって日本を復興させるんだ」ということに自分の意味を見出せていたんだと思います。勉強するということも同じだったと思います。「勉強することによって会社に入れるんだ、そして会社に入ることによって日本の経済復興のために働けるんだ」という形で、そこに答えを見出すことができていた。ところが、日本が経済復興を達成した後、ポッカリと空白がやってきたのではないかと思います。


▼早急で単純な答え

 原理主義とは何かと言いますと、ひとつの特徴は「単純な答えを求める」ということが原理主義に共通する特徴だと思います。世界の原理主義的宗教に共通して見られることは、非常に単純なことに答えを求める。しかも早くそれが欲しい。早く手に入れられる単純な答えを求めたがる。別な言い方をしますと「待つことのできない人々」が原理主義者ということになります。次の答えというのはそう簡単には出てこないのに、答えというものを待つことができない人々、それが原理主義者だと思います。戦後の日本には経済復興という単純な答えがあったんですが、それがなくなった。どうするか。人間は、本性的に意味を求めていくんですから、やはり単純な答えを求めていくんです。

 それが、日本においては偏差値であったと思います。偏差値というひとつの価値。非常に単純ですね。人間を測り社会を測っていく上で非常に単純な偏差値というものを社会全体の価値にした。親は偏差値が上がったか下がったかということだけ見ていれば、難しいことを考えなくていいんです。下がったら怒ればいいんです。学校は偏差値を上げるためだけに教育すれば良いのです。生徒・学生たちは、高い偏差値を取るためだけにがんばれば良いんです。非常に単純です。それがある程度答えになってしまうんです。「それは本当の答えではないのではないか」ということを考える人間が出てくるのですが、そういう人たちはいじめに遭っていくわけです。

  それでも、そこでがんばって単純な偏差値が唯一の価値観になっている世界から飛び出してく人たちが出てくるのです。オウム真理教の人たちです。オウム真理教の人たちは皆、高学歴の偏差値でエリートだった人たちです。そのエリートたちが偏差値至上主義に疑いをもって「そうではない」と思って、社会から飛び出していったんです。そしてどこへ行ったかというと麻原です。麻原彰晃という単純な答えに飛びついたんです。構造は同じです。そこから抜け出せないんです。ひとつの答えが違うと思っても、それに代わる単純な新しい答えをすぐに求めなければ我慢ができない。そういう意味で私はオウム真理教もファンダメンタリストだと思います。こういう世界において全てに見られるのですが、ファンダメンタリズムが非常に力を持っている。


▼「同化」の伝道からの脱却

 私はキリスト教ですから、キリスト教における原理主義的傾向ということについて少し自己反省的にお話をしたいと思います。「伝道」という言葉があります。「布教」と同じです。伝道というのはどういうことなんだろうか? キリスト教の教えを伝えていくことです。もう少し別の視点から言うと、「同化」だと思います。ある人を自分と同じ型に填めていく。これまでのキリスト教の伝道論というのは、この「同化」だったと思います。相手を改宗させるんです。改宗させて自分と同じ鋳型に填めていくんです。そうすることが正しいことなんだと思っている。これは一神教的なユダヤ教、キリスト教、イスラム教に共通する伝道論ですね。相手を自分と同じようにさせていく。それが正しいことだと考えていたのが、今までのキリスト教の伝道論でした。

 私は、この21世紀の諸宗教対話の時代、しかも地球規模で自分を考え、自分たちの宗教を考えていく時代に、「同化させていくことが正しことだ」という今までの伝道論に立っていていいのかと私は強く感じます。答えはなかなか難しいです。これに代わるものとはなんなのだろうか? いくつか考えはありますが、今お話をするよりも、話し合いの中で意見交換できればと思います。「同化が正しい。伝道が正しい」という立場に立つ限り、それを受け入れない人は悪です。ファンダメンタリズムの立場からすれば、そのような人は抹殺しても善ですね。そういう宗教というものが、今の世界の宗教に広がっているということをもう一度確認したいと思います。

 では、原理主義的でない宗教のありかたというのは何なのか? 今まで私はそれを「リベラリズム」という名前で呼んでまいりました。リベラリズムというのは直訳すると自由主義ということなんですが、自由主義と宗教におけるリベラリズムというのはちょっと意味が違うと思いますので、リベラリズムという言葉を使いながら、もう少し説明をさせていただきたいと思います。

  私は「リベラリズムとは何か?」という定義で、最近はややこしいことは言わずに「反原理主義だ」というように言っているんです。「そんなことでは辞書を引いているのと同じだ。もっとちゃんと説明しろ」と言われるんですが、それが一番ハッキリしているんではないかと思います。今までお話したことの裏返しです。答えを急がない。自分が答えを持っていると思わない。一生懸命答えを求め「今のところこれが答えだ」と思うことです。しかし、「ひょっとしたらこの答えは本当の答えではないのかもしれない」というように思う感覚、これがリベラリズムの中で一番大切な感覚だと思います。


▼絶対の神と有限の宗教

 ちょっとアメリカの話をさせていただきます。先程お話した南北戦争の時の話ですが、北軍の総司令官が誰だったかというと、もちろんA・リンカーンです。リンカーンが南北戦争を戦い始めた最初の時にニュージャージー州の州議会で「これから南北戦争を戦う」と演説をしたんです。普通そういう時に、北軍の最高司令官はどういう演説をするかというと「皆、がんばれ! 自分たちは神に守られているんだ!」という演説をやりますね。ところが、彼が、アメリカあるいは北軍について、アメリカ人についてどのように語っているかと言いますと、「God's almost chosen people.」と言いました。almostがなければ、chosen peopleは「選民(神によって選ばれた正義の民)」ですね。本当は元気づけるためにもそう言わなければならないのに、リンカーンは正直ですから「almost(だいたい)」と言ったんです。これをある人は「神によって選ばれつつあると言ってまず間違いのない国民」と訳しました。苦労してますね。これは正しいと思います。「almost」にはそれくらいの意味があります。これがファンダメンタリストとリベラリストの境目です。このalmostの感覚が非常に大切だと思います。

 また、これは仏教からの引用の言葉ですが、間違っていたら後で指摘してください。恐らくこれは禅宗の言葉だと思うのですが「師に遭ったら師を殺せ。仏に遭ったら仏を殺せ」という言葉があります。自分が「この人こそ先生だ。真実を教えてくれる先生だ」と思う人に遭ったら、その人を殺せ。「仏に遭った(悟りに到達した)」と思ったら、その仏を殺せ。「否定、否定、否定の先に真実はあるんだ」ということではないでしょうか。言葉で言うとそうだと思います。

 これはファンダメンタリスト批判の非常に重要な部分だと思います。こういうことだと思います。私はキリスト教ですから「神」という言葉を使いますが、皆さんの場合にはそれぞれに置き換えてください。「神は絶対である。神は永遠である。しかし、宗教は絶対ではないし、宗教は有限である」そこがハッキリ解るかどうかです。ファンダメンタリストは自分たちの宗教が絶対であり無限だと思っているんです。ここがファンダメンタリストとリベラリストの違いです。リベラリストは「自分たちの宗教は人間が作ったものだ」と思っています。「絶対者である神を信じる。神は絶対である。しかし、その神を信じて、今自分たちが営んでいるこの宗教は人間が創り出したものであり有限である。なぜか。人間が有限だから」この部分を押さえられるかどうかです。これが対話という点では非常に重要だと思います。

 このことを神学的あるいは哲学的に言いますと、「超越」ということだと思います。神は人間を超越したものなんだ。その人間というものの中には、われわれが真実だと考える宗教も含まれる。神は宗教をも超越されているものなんだ。だから、宗教は過ちも起こすし、自分が宗教において正しいと信じていることは、ひょっとすると正しいことではないかもしれない。精一杯求めるけれども、その求めた上で自分が到達しているものは「almost」なんです。そういう感覚というものが諸宗教対話においては非常に大切なのではないかと考えています。

 与えられた時間がまいりましたので、この後、皆さんとお話し合いができればと考えています。ありがとうございました。

                                             (文責 編集部)


戻る