▼△ 創立73周年青年大会記念講演 △▼ 

プロップ・ステーションの挑戦

社会福祉法人プロップ・ステーション理事長  
竹中ナミ

6月18日、創立73周年青年大会が、『「今」を超える勇気が未来を創る。
未来に向かって自分の可能性に挑戦しよう』のテーマで開催され、マスコミ等でお馴染みの社会福祉法人プロップ・ステーションの竹中ナミ理事長が『プロップ・ステーションの挑戦』という題で記念講演を行った。 重度心身障害者の母となって以来、障害児医療・福祉・教育について独学され、障害を持つ人たちの自立と社会参加を目指して積極的に活動し、障害者(ザ・チャレンジド)のためにコンピュータを使った働く場としてはわが国最初の社会福祉法人として認可されたプロップ・ステーションの端緒について紹介された。


プロップとは支え合い みなさん、こんにちは。ご紹介いただきましたプロップ・ステーションの竹中ナミと申します。普段、私は、友だちとか、いっしょに活動している仲間たちから「ナミねえ」と呼ばれてまして、ぜひ今日も竹中先生とかそういう堅苦しいのではなくって、「ナミねえ」の話ということでお聞きいただけたら、と思います。

プロップ・ステーションという私たちの組織の名前を紹介していただいたのですが、この「プロップ」というものの意味を、ちょっと最初にお話ししたいと思います。

障害を持っていると、よく「人から支えてもらっていかなあかん」と言うのですね。「障害を持ってない人が、持っている人を支えてあげましょう」日本の福祉の中にそういう考え方がありますね。で、これは非常に良いことなんですが、じゃあ振り返って、本当に、人間は支える側の人と支えられる側の人とキッパリ分けられるのか……。

違うと思うんですよ。 例えば、今日いらっしゃってるみなさんの中で、自分1人で、籾もみ蒔まいて、稲育てて、稲刈りして、精米して、そしてそれをご飯にして毎日食べているという方は、ほとんどおられないと思うんですね。

例えば、お刺身が好きやといって、お刺身を食べるために海や川へ行って魚を釣ってきて、その魚をさばいて、それで自分が刺身を食べている。そういう方も非常に少ない。ほんの、その「食べる」というひとつのことをとっても、実は、自分が生活する時に、いっぱい人の力とか、自然の力とか、それから道具の力とかを借りて、飲んだり食べたり、生活しているわけですけれども……。

そうすると、100パーセント自分が人を支えているという人はたぶんいない。どこかに必ず支えられている。それは障害があろうがなかろうが、ある意味一緒とちゃうかしら……。と、いうふうに思うわけです。 ただ自分の長い人生の一生のベクトルの中ですね。こっち側に100パーセント支えられるとか、こっち(反対側)に支えてあげるとかいう場所があるとした時に、まあ生まれて来た時と人間死ぬ時は、100パーセント支えてもらうところにいるわけですが、それ以外のところでは少しずつ自分はこれだけは支えられる、これだけは支えてもらわないかん……。 例えば、今日は風邪をひいて、しんどくって、「自分でお茶沸かす元気もないなぁ」っていった時は、ちょっと支えてもらう方が多くなるわけですよね。

例えば、今日はケガした。足が悪い。いつもやったら駆け上がる階段が登られへん。あるいは赤ちゃんだっこしてる。荷物たくさん持ってる。「階段しんどいから、今日はエレベーター乗ろか」というように、その時の自分の状況に応じて、何かに支えてもらう。人に支えてもらったりする量が、こう動くわけですね。 ですけど、日本の国の法律や制度の中では、どうしても、例えば、高齢者の方の老人手帳とか、障害の方の障害者手帳とかを発行して、それに基づいた何か社会サービスを受けるためには、高齢とか、その人の障害の度合いとかで「線引かなしゃあないなぁ」ということで、制度上は年齢や障害によって線が引かれる。

それはあくまで社会の制度であって、現実に人間が生きて行くのは、今のように、こう支えたり、支えられたりし合いっこしながらですね、生きているんちゃうかと思うんですね。 で、そのプロップ・ステーションのプロップっていう言葉は、実は、柱とかつっかい棒とか、支え合うとかいう意味で、私たちは「支え合う」という意味で使わしてもらっているんですけど、障害を持っているからといって、支えてもらうだけではなくて、必ず自分の中に、人を支える力も備わっているんで、それを発揮して、「支えられる分は支えていこう。支えてもらう所は自然に支えてもらおう」と、そういう支え合いをしたいなぁということで、プロップ・ステーションというふうに名付けました。

重度障害の娘と共に生きるなんで私がですね、こういうことに関心を持って、こういう活動をしているかというと、28年前に私、娘を産んだんです。その前に1人、3つ上の兄ちゃんを産んでるんですが、28年前に娘を授かりまして、その娘がですね、生まれた時から実は、重度の脳の障害を持っていたわけです。 泣き声もほとんどよう立てないし、自分でオッパイに吸い付くような力もない。

ですから、授乳の時間になると、母乳をしぼって哺乳瓶に入れたりして、それを湯煎して温めて人肌にして、スポイトで口に入れて飲ませてやっているみたいな……。で、し終わったら、また次の授乳の時間が来てるみたいな……。 そんなような本当にぎりぎり、生きる、死ぬみたいなところの娘で、それだけではなくって、脳の障害が大変重かったために、私が抱っこしたりすることを拒否するんですね。皮膚とか肌の障害もあって、何かが触れるっていうことが耐えられへんっていうような娘だったんですよ。そうするとね、不思議で不思議でしょうがない。母と娘というのは、当たり前のように「生理的に一体や」と思っていたわけです。

頭の中ではね。必ず赤ちゃんというのはお母さんにしがみついてくれて、オッパイを吸ってくれて、抱っこしたらにこっと笑って……、と思ってたんですが、これらの既成概念が全部ガラガラと崩れたわけですよ。「そういうのあり?」みたいな感じなんですね。 かなり障害が重かったので、生後三カ月くらいで、お医者さんから「大変重い脳の障害やから、10歳ぐらいで死ぬんちゃいますか」みたいな宣告を受けたわけです。で、「どうしたらいいんかなぁ」と思っていた時に、私の父がですね――実は一昨年に84歳で亡くなったんですが――その父が私に向かって、「わしがこの孫を連れて死んだる!」と言ったんです。 「お父ちゃん何を言うの?」と言ったら、「いや、こういう子供を育てていくと、お前がごっつい苦労するさかいに、今のうちにわしがこいつ連れて死んだる!」とか言うんです。「ちょっと待ってんやぁ」私まだ若かったし、体力もありますしね。まして障害を持っている人と、そういういのちと向き合ったんが初めてなんですね。

小学校の時からずっと結婚して子供産むまで、障害のある人と身近に付き合ったこともほとんどなかったし、身近にいなかったし、学校にもいてなかった。で、いきなり「子供に障害があったらお前が不幸になるから、連れて死んだる」言われても、意味解らへんわけですよ。納得もできない。ちょっとやめてよ!そんなん……。 だけど、私の父はですね、戦争で南方へ行って戻ってきてから結婚して、私が生まれたものですから、かなり年齢が高くなって私が長女で生まれて、ごっつい私をかわいがってくれたんですよ。

で、父がねんねこで私を背負ってですね。『麦と兵隊』を子守歌にして、おんぶしながら私をかわいがってくれて、目の中に入れても痛くない。そんな父との関係だったもんですから。私も父ちゃんが好きで好きでしゃあなかったんで、万一私が、自分の娘が障害があるという理由で、もしなんか女め女めしいことを言ったり、泣き言をいったりしたら、「ほんまに死によんな。父ちゃんは」と思ったわけです。

それは「そんな泣き言をいっている場合とちゃうな」という感じで、かといって、その当時はですね、まぁ30年近く前ですから、松田道雄さんの育児書、スポック博士の育児書、子育てのバイブルみたいな本がけっこう図書館なんかでも、どこの本屋さんでも売っていた。今日いらっしゃる皆さんの中に、私と同世代というか、私よりすこし先輩にあたる方もいらっしゃるんでご記憶でしょうけれども、まぁその時分から育児書はけっこうありました。

ところが、そういう重度の脳の障害を持って生まれた子供の育児書、どうやって育てたらいいかっていうような本はどこ探しても無いんですよ。で、お医者さんにですね、「あんたの子供は重度の脳の障害やで、そんな長いこと生きられへんかも判からへん」と言うたお医者さんにですね、「どないしたらいいんですか?」と聞くと、お医者さんも「さぁ解らへん。だけどこんな子産んだんはあんたのせいと違うからね。お母さんガックリきたらあかんよ」と言わはったんです。

いや、そんなことが聞きたいんじゃなくて、どうして育てたらいいか教えてほしいんですけど……。 それで判ったことは、お医者さんが治療できたら患者さん。だけど、お医者さんの治療が難しい時には障害児とか障害者と呼ばれるということが判ったんです。「あぁそうなんや。そうすると、お医者にどうにかしてくれって言っても、それは無理なんやな。手術とかお薬で治らへんということやから、無理なんやなぁ。そしたら自分で育児書を作るしかないやん」というふうに思ったわけです。 かといって、ここで大きな声で言うのも恥ずかしいですが、私、子供の頃からずっとアウトローの不良でして、趣味が木登りと家出みたいな変な子でね。成績も悪かったし、学校も嫌いやし、中学しか出てない人です。中卒なんです。勉強というのが嫌で嫌でしかたがない……。

だけど不思議なことに、娘のことをどないしたらいいかなぁと考え出してから、もうありとあらゆる図書館みたいな所へ行きました。いろんな医学の先生をつかまえて、「もううるさいなぁ。あんたは」と言われるぐらいいろんな先生のところを廻ったり、いろんな本屋さんを廻ったり、お金がそんなにあるわけではないですから、大学の医学部の図書館へ行ってですね、こんな分厚いの読んでみたり。でもやっぱり判ったことは「どうしようもない」ということだけが判った。 かわいそうに、その小さな体に検査とかいって皮膚をちょっと取られたり、おしっこを検査したり、とにかく入院していろんな検査しても、出てくる答えは「脳の障害やからどうしようもない」ただそれだけなんですね。

で、どの本見ても、誰に聞いても、ふーんと思っていた時に、ハッと閃ひらめいた。これはなんというか、啓示というか、閃いたとしか言いようがない。すごいです、これは……。 うちの娘は重症の心身障害児。まぁ行政の用語でいうとそういう娘になるんですよね。見えないんですよね。明るい、暗いしか判らなくて、物の形は判らない。だから、つまり私と向き合っていても、その私の顔が判るわけでないし、音は、耳は聞こえているみたいなんですけど、その音や言葉が何を意味しているかっていうことが全然解らないわけです。もちろん自分で自分の意志を持って動けるわけでないし、今でもそうなんですけれども……。


◆娘に教えられたこと

お年寄りでよく痴呆症と言いますが、娘は重度の痴呆症でした。自分と他の認識とか、自分が何者かということが判らなくなる。そういう状態が一生続く、重度の痴呆症の異常な行動のあるような状態が一生続くうちの今、28年目におるわけです。

ですから、今でも私のことを母ちゃんと、どこまで認識しているかどうかは解らない。ただ、最近、抱っこしたり、クチュクチュッとくすぐるとですね「にこっ」と笑ってくれたりするんですが、そういうことも小さい頃はぜんぜんなかった。抱かれることさえも嫌がっていたくらいですからね。

そういう娘ですから、お医者さんに「ダメ(回復の見込みがない)」と言われた時に、視力もダメと判り、見えないこの娘のために何ができるかというのは、目の見えない人と付き合って習おうと思った訳です。目は見えないけれど、ちゃんと社会生活をしてらっしゃる方とお付き合いしたら、見えないということは、「何が不便、何が困る。だけど、どんなことなら楽しいとか、見えなくったってこんなことはできるとか、そういうことが判るはずや」と思ったわけです。

聞こえているけど、その意味が解らない。聞こえない、あるいはしゃべれないとしたら、聞こえない、しゃべれないという障害を現に持たれている方と付き合って、聞こえない、しゃべれないというのはどういうことで、どんなことが困るのか。だけど、聞こえなくっても、しゃべれなくっても、どんなことなら自分はできる。どんなふうにして生活してるのか、というのを習えばいい。例えば、歩けなかったら移動は困難だけど、世の中がどんなふうになれば、あるいは家の中がどんな状態であれば、自分は自分なりの行動ができるのか。何がそれを阻んでいるのか、ということを、そういう人から教わればいい……。

そういうふうに考えて――、うちの娘はありとあらゆる障害が重なっていたものですから――、その日から私は、ありとあらゆる種類の障害をお持ちの方とお付き合いを始めたんです。それで判ったことは、例えば、高齢者……。痴呆症のお年寄といっても段階がいろいろあります。段階がいろいろあって、本当に自分というものの認識がない。社会との接点が持てない。そういうコミュニケーションが取れないという方は、ごく一部の方だけだということが判りました。

障害児でも、自分の娘のように本当に100パーセント、さっき「100パーセント支えられないと生きていけないのは、生まれた時だけ」と言いましたけど、まあ、うちの娘なんかは生まれた時のような状態が、そのまんま続いてるわけで、そういう100パーセント家族や社会が守ってあげないかんという人は、ごく一部ということが判ったんです。私がお付き合いした、たくさんの障害を持った人たちというのは、見えなくっても、聞こえなくっても、しゃべれなくっても、動けなくっても、中には非常に重い精神の障害とかを持ってらっしゃっても、必ず、自分の何かこういうことがしたい気持ちとか意志とか、あるいは、これがこうなれば私はもっとこうなれるのに……。あるいは、お仕事ないんだけれども自分も働きたいとか。社会の役に立ちたい。人から自分も役に立ってると言われたいとかなど、本当にいろんな思いを持ってらっしゃるというのを、嫌というほど知ったんです。


◆画一的な福祉政策の線引き

ところが、さきほども言ったように、日本の国の福祉の概念というのは、「できる人、できない人」あるいは「障害のある人、ない人」というのをシステム的に線を引いているが故に、「できる人(健常者)ができない人に何かしてあげることが福祉」っていうふうに概念としてなっているんです。つまり、障害者といわれちゃうと、一方的に何かしてもらう立場の人で、障害がないっていうと障害のある人に何かしてあげないかん。それが福祉の関係みたいになっているっていうのが判りました。

そうすると、私が出会ったたくさん、たくさんの障害者の人たちも、実はちょっとしたことで、その人たちも社会に大いに貢献できたり、自分の夢が叶えられたりするかも判らない。だけど、それはとりあえず抑えられてるわけで、「あんたらは保護の対象。誰かから何かしてもらう対象」って言われて、だんだんだんだん、その人たちも「そうかな、そういうふうにしか生きられないのかなあ」となってしまっているっていうのに気がつきました。

人間のたくさん埋もれている可能性を引き出すよりも、可能性に蓋ふたをして見えなくしておいて、「その人には可能性がないんやから、何かしてあげよう……」私はそれがすごい不思議に感じたんですよ。しかも、私は関西人なんで、ただ不思議に感じただけでなくって、「日本の国というのは、えらい勿体ないことをしてんなぁ」と思った訳です。つまり、その人たちが自分の持っている潜在的な力を発揮して、世の中にいろんなことをしていくことだってできるのに、「せんでいいよ」って言われちゃう。「すごい勿体ないことなんや。その眠っている人間のエネルギーはすごい勿体ないやんか!」と感じました。

私はたくさん、たくさんのそういう障害を持った人たちとお付き合いする中で、「自分の娘を守る側にあんたもまわってね」って、ずっと言い続けて今日まできたわけです。で、最近ですね、プロップ・ステーションでは、障害者っていう言葉をできるだけ使わんようにしようとしています。

じゃ、どんな言葉を使っているのかっていうと「ザ・チャレンジド」という新しいアメリカの言葉なんです。なんでこんな風に、今、言葉の話をしているか、あるいは、こんな言葉に変えようとしているかというと――ちょっと頭の中で障害者っていう字を思い浮かべてみていただきたいんですが

――障害の障って言うのは、「さしさわる」という字なんですね。で、害っていうのは、まあ、害ですよね。で、その後に障害児の児とか子供とか障害者の者とか、人とかいう言葉が来るわけです。


◆娘の成長

私は、自分の娘が重症心身障害者でありながら、でも、障害児、障害者っていう言葉のあまりの暗さにというか、すごいなんか悲しいなと思ったんですよね。人間をそういうマイナス・イメージの言葉を繋げて呼んじゃうっていうことが、

「すごい悲しいなぁ」と思ったんです。だって、確かにあれもできない。これもできない。こんな困ったところのある。介護するのも大変な娘かもしれないですけど、この28年の間にも、ゆっくりゆっくり彼女なりの成長は、実はしてきていて、そのひとつひとつの成長が、私にとってはすごい嬉しいわけです。ドキドキするぐらい嬉しいわけですよね。

例えば、はじめは抱っこしたり、触られることを拒否していた娘が、7歳くらいになった時、抱っこしたら、ちょっと体寄せてくるようになってきました。それでも、おんぶまでは無理やったんです。おんぶなんてすると、背中にぺたってなって、顔によだれが付くんで、それが嫌で「ワァー」って、こうそっくり返ってですね、危のうて、危のうてしゃあないような状態やったんです。

ところが、18歳になった時には、腰におんぶすると、自分からちょっと足をまわしてくれるようになりまして、これだけでおんぶするのすごい楽なのと同時に、「あっ、この娘の足ここにまわってる」って感じる。これはすごい嬉しいんですよね。で、28歳の最近はどうかというと、おんぶすると首に手をまわすんです。こうおんぶして、きゅっとしてやると、そのまま捕まえたりできるんですよね。

そればかりか、「マキ」っていう名前なんですけど、「マキちゃん」って呼ぶと、にこ〜って笑ったりする。あんなに泣き叫んでですね、自傷行為っていうんですけど、泣き叫んで自分の髪をむしったりしてですね、全然、母ちゃん寝かしてくれへんかったような娘が、今そうやって、にこ〜っと笑ったりして、おんぶするとぎゅって首に手をまわしてしがみつくような動作して、手を持つと、ゆっくりやけども、だいぶ歩けるようになりました。最近では、見えないんだけれども、こう、おしりの辺をぽんぽんと押してやると、家具とか人をよけて、歩いたりできるようになってきています。

このゆっくりゆっくりゆっくりやけんど、そういうふうにして節目ごとで「すごいな、すごいな、やっぱり人間ってすごい。いのちというのはすごいな」と思わしてくれている娘も、社会的な単なる言葉で言っちゃうと、重症心身障害者という堅苦しい、しかも暗いイメージなんですよね。「なんとかもうちょっと人間をポジティブに呼ぶ方法ってないんかなぁ」と、私ずうっと考えてきてまして、10数年前に国際障害者年というのがあったんですけど、その頃から日本全体ででも、その障害者という言葉をもうすこし何か、日本語としてポジティブに表現できないかなぁ。いい言葉ないかなっていうふうに捜す動きはされてきたんですけど、残念ながら日本ではずっと障害者のまんまなんですね。


◆変化する呼称 

 片や目を転じて、アメリカでは障害者のことをどう呼んでいるかっていうと、皆さん良くご存じの言葉やと思うんですけど、「ハンディキャップ」って言ってました。ハンディキャップっていう言葉を知らないっていう方いらっしゃいますか?おられないですよね。ハンディキャップっていう言葉、その後アメリカでは、「ディセイブル・パーソン」と呼び方が変わりました。ところが、ここ10年ぐらい前なんですけれども、ハンディキャップもディセイブル・パーソンも、その人のマイナスイメージを強く表現してるっていうことで、「ザ・チャレンジド」っていう言葉で呼ばれだしているんです。ですから今アメリカでは、ハンディキャップとディセイブル・パーソンと、ザ・チャレンジドという三つの言葉が混ざりあっているんですが、だんだん、ザ・チャレンジドという言葉に置き替わりつつあるんですね。

 この言葉を私が知ったのは、1995年の阪神大震災の直後だったんです。アメリカにいてる、ブロップステーションの支援者の方からこの言葉を教えてもらいました。ちょうど私も神戸の東灘区が実家で、あの震災で家が全焼しちゃってですね、「どうしようかしらん」と思ってたところだったんですが、この言葉を教えてくれた人が、「チャレンジドというのは決して障害者だけを表すんではなくって、震災復興に立ち向かう人もチャレンジドだよ。そういうふうにも使うのよ」と教えてくれたんです。「じゃあいったいどういう意味なん?」って聞きました。「チャレンジ=挑戦」ですよね、「チャレンジャー=挑戦者」ですよね。でも、「チャレンジャー」じゃないんですよ、「チャレンジ」に「ED」という字がついて受け身体になったんですね。

 「チャレンジャーならわかるんやけど、なんでチャレンジドという受け身体になってんの?」って聞いたんです。そうすると、「挑戦という使命、または、チャンスをより広くいう神から与えられた人」そういう意味なんです。

 すなわち、「人間には生まれた時から必ず、自分の課題に立ち向かう力が備わっている、そういう力が与えられているのよ」と、そういう意味だと言うんです。すると、自分の課題が大きければ大きい程、不可能が多ければ多い程、その課題に向かう力がたくさん備わっている。そういう意味だ。私は、「これはすごい言葉やなあ。これはすごい」と瞬間的に思いました。で、「プロップステーションでは、障害者とは呼ばずに、チャレンジドと呼んでいこう、そして自分の中のチャレンジドなるものを、生かしていくようにしよう」と決めました。私自身も考えてみたら自分の娘が重度心身障害者ということでたくさんの人と出会って、自分がどう生きようとか、何をしようか、今、何をすべきかとかいうようなことをずっと自分なりに探してきて、自分の大きな課題に向かってきたわけですね。「娘かってそうやし、私かってチャレンジドや」と、そう思います。

 振り返ってみると、「なぜ日本では障害者という言葉しかないんかなあ」と疑問に思います。アメリカではどんどん言葉を変えてきているんです。アメリカではもうひとつ、あのミスとミセスってありますよね。男性はミスターひとつなんですが、女性はミスとミセスで女性たちから声が上がって、ミズという新しい言い方、女性全体を総称する新しい呼び方が生まれてきて、言葉をそういうふうにどんどん歴史に応じて変えていってるんですね。


◆言葉は哲学から生まれる

 でも日本ではずっと障害者。で、考えてみるとほかにもそんな言葉があったんです。バリアフリー、それからノーマライゼーション。この言葉が日本に入ってきてからもうだいぶになりますけど――20何年以上になりますかね――その当時、お役所は「横文字使わんとできるだけ日本語で」ってことだったんです。最近はあんまり横文字が多過ぎますよね。その当時は、もっともっと「言葉は日本語で」という時代で、バリアフリーは「障害の除去」、ノーマライゼーションなんて「普通化」と訳されて、ちょっと違う感じがして、結局バリアフリーにノーマライゼーションで今、日本で定着しているんです。だいたいどんなことを意味している言葉かっていうのはたぶんお解りやろうと思うんですね。たとえば建物だったら段差がないとか、「あなたと私との心の中はバリアフリーだ」と言う時には、きちんとコミュニケーションがとれるというような意味で定着しようとしています。

 で、それはなぜかというふうに私考えてみたんですよ。すると言葉っていうのは、文化であり哲学やっていうことに気が付きました。つまり、その国にそういう意味を表す文化や哲学がないと言葉も生まれないっていうことなんですよ。バリアフリーという概念のない社会だからバリアフリーにあたる言葉はない。ノーマライゼーションっていう哲学が日本にはなかったから、つまり「人間には必ず序列があったり、分けられたりしているものよ」という国だったから、ノーマライゼーションという言葉は日本では生まれようがなかった。

 だとすると、チャレンジドという言葉も今は耳慣れない言葉かも判らないけど、「チャレンジドというのはこういう意味なんよ。人間はすごい力を備えて生きてきてるんよ。自分が課題に立ち向かえる力をもってんのよ」という、このチャレンジドという言葉を積極的に使うことで、その精神というか文化とか哲学も伝えられるかもしれないなと思いました。で、プロップステーションでは、チャレンジドという言葉を出来るかぎり使おうとしています。

 ですから日本でもハンディキャップや障害者やチャレンジドと、いろんな言葉が混ざっているわけです。で、私は自分がこういうチャレンジドだということに今、なんかすごく誇らしく感じている。自分の娘が確かにいろんな意味で大変なことをいっぱい持って生まれてきたんですけど、「彼女がいたから自分がある」という考え方にすごく納得して、この言葉を使っているわけです。


◆チャレンジドの労働環境

 ところで私が出会ったたくさんのチャレンジドたちなんですけども、特に家族の介護のようなサポートを受けながら日常生活をされてるような方たちというのは、その人たちが「自分も社会の役に立ちたい」とかあるいは「自分も仕事をしてみたい。自分でお金も稼ぎたい」とか思っていても、「まず無理や」と言われてきました。

 厚生省と労働省というお役所があるのをみなさんもご存知やと思うんですけれども、労働省は、「こういう人達は働ける、こんな人達もこんなふうに働かしてあげよう」ということを決めています。それから法定雇用率というのがあって、「ある一定の人数以上の社員がいらっしゃったら、必ず1.8%――ついこないだまで1.6%だったんですけど――は障害を持った方を雇わないといけません。雇わなかったら罰金です」という制度なんですが、企業は雇用率を達成するために障害者の人を雇うというような、これが労働省の省令なんです。かたや厚生省の方はどうかというと、そういう働ける人ではない人達、特に家族の介護などが必要な人達に対していかに社会保障したり、つまり、ぶっちゃけたというか、くだけた言い方したら、その人達に「なんぼあげるか」ということをしてるんです。

 このように日本の障害者政策は2本立てになっているわけです。つまり、働ける人と働けない人とで政策も全然違うってことになってます。ところが、さっきも言ったように、私が出会ったたくさんのチャレンジド達は、家族の介護を受けていようが受けていない人であろうが、「自分も何かしたい。社会の役にもたちたい。仕事もしたい」という思いは全く一緒やったんです。だけど制度はそれを分けているんですね。で、私はそういう皆と「自分らが働けるようになるには、どうしたらいいか?」っていうことで、全国のそういう家族の介護を受けて生活している人達にアンケートを取らしていただきました。

 それが1991年です。1991年というと記憶されてる方も多いかと思うんですが、バブルの最後の絶頂期、もう世の中、バブリー、バブリーで最後の超爛熟の時期だったんです。で、その年の夏以降にバブルが弾けてガラガラと大不況がきたんですが、ちょうどその時分に私は障害を持っている人達と一緒にやっていた活動の中でアンケートを取らしていただいたんです。

 そのアンケートがどういう内容だったかというと、「皆さんはたいへん障害が重くて家族の介護も受けていますが、働きたいですか?」っていうのがひとつ。「もしあなたが働こうとすると、そのために役立つのはどんな道具でしょうか?どんな道具があったら働けるでしょうか?」っていうのがふたつめの質問でした。

 全国各地からお返事が寄せられまして、分厚い封筒で来たのでいっぱい綿々と書いてあるのかと思ったら、手が不自由ですから1字1字大きな字で「働きたい」と何枚にも分けて書いてあったりしてですね。大変熱心な熱いお返事がたくさん届きました。回答を寄せて下さった方の8割が、「自分は大変障害が重くて家族の介護も受けているけど、働きたい」と書いていたんです。

 で、「自分達のような者が働くためには、これからはコンピューターがきっと役に立つと思う」と書いてあったんです。で、その中には「自分は交通事故にあって全身麻痺になって、ほんのすこし指先だけが動くだけになっちゃって、ベッドに寝たきりなんだけれども、友達でコンピューターの得意な人がベッドの上のテーブル――病院に入ったらお食事したりするテーブルとかあるじゃないですか――の上にパソコンを置いてくれました。その友達から習って自分はこれで仕事できるようになりたいと思ってるんです。そういう準備してます」っていうお手紙もあったんです。すごくびっくりしました。

 重度身障で家族の介護を受けていて、今の日本の制度の中では「働けない」と断定されている人達、その人達の8割が働きたくって「そのための武器はこれからはコンピューターや」と思って書いてきたんですよね。その1991年という年はパソコンにとっても大きな変化の年だったんです。パソコン通信というのが日本でニフティサーブというところで始まって、少し定着しかかった時でした。今日いらっしゃってる皆さんの中でパソコンとかパソコン通信とかインターネットとかいうのを、今やってらっしゃる方ちょっと手あげてみていただけますか?まだ少ないですね。全然そういうことは知りません、使ったこともありません、という方?少ない、あれ?その他の方は何でしょう?その他の方は恥ずかしいですかね。


◆パソコンで繋がる活動

 ちょうどパソコン通信というのが日本で始まったところだったんですよ。私その時、プロップステーションの前身の活動をしてたんです。「メインストリーム協会」っていう、障害を持つ人たちで集まって、自分たちが自立していくためにどんなふうにすればいいかを考えている組織だったんです。そのグループの中で、見えないとか、聞こえないとか、しゃべれないとか、動けないとか、いろんなメンバーがいたんですね。で、そのいろんなメンバーたちやボランティアたちが活動を続けていく上で、話し合いをしようという時に、パソコン通信というのを使い始めていたんです。

 目が見えないメンバーは、音声でパソコンを入力すると、その打った文字が音になって自分で確認できる。あるいは、パソコンを通して人からお手紙つまり電子メールが来た時に、画面上の文字は読めないんだけど、コンピュータがちゃんと音声で何が書いてあるか教えてくれる。それで、目の見えないメンバーたちがパソコン通信をやりはじめたんです。

 聞こえない(=しゃべれない)人は、私たちに会ってもコミュニケーションが非常にとりにくいんですけど、皆さんご存知のように、手話とか筆談とかでコミュニケーションができますよね。その筆談とまったくいっしょで、パソコン通信は文字ですから全然支障がないんです。

 動けない人、例えば電動車椅子の人たちも、一緒に集まって会議しようとすると、車椅子がかなり大きいので家から出て来るだけでも大変なんですよね。朝起きたら、家族に起こしてもらって顔拭いてもらって、食事たべさせてもらって、下のこともお世話してもらって、もう出るだけでも大変……。着替えるのも大変。だけどそういう人たちが、家にあるパソコンで自分の都合の良い時間に、自分の意見を書くということができるわけです。

 私のように、自分の娘が重度身障なんだけれども、自分自身は見えて、聞こえて、しゃべれて、動けてですね、しかも、心臓強いからどんな所へでも怖がらずに行ける人は、「皆でなんか集まりをしよう」となったら、「何月何日の何曜日に、どこそこの喫茶店に何時から集まろうね」と、それでOKですよね。皆で電話連絡かなんかして、それでOKで集まれるじゃないですか。

 ところが、今、言ったように、見えない、聞こえない、しゃべれない、動けない人と、「なんでもOKよ」という人が集まるっていうのは大変なんです。そこで、このパソコン通信が威力を発揮したわけです。例えば、今日のような会をみなさんが持たれるために、「何日にこのような青年大会があるから」っていうご連絡があって、「今日は行こう」って皆さん来られたと思います。でもスタッフの方々は、今日の会をするのにいろんな事前の打ち合わせとかされているんですよね。

 私たちも、自分たちの活動の主旨をたくさんの人に伝えるためにシンポジウムしようとか思うわけです。だけども、今も言ったように、「どこそこの喫茶店で集まって打ち合わせしよう」とはいかないわけですから、まず、そのパソコン通信で最初の意見交換するわけです。「今度、シンポジウムしたいよね。いつごろがいいかなあ。どんな場所でするのがいいかなあ。誰を講師に呼ぶのがいいかなあ。その講師ってお礼がいるんやろかいな?」とかですね。そんな打ち合わせをパソコン通信でしちゃうわけですよ。

 それで、「どこそこの公民館を借りよう」ってなったときに、「じゃあ、その公民館の申し込み、誰が行く?」そしたら、動けるスタッフの子が、「じゃ、申し込みやったら私が行こうか」となって、本当に最低限必要な顔をつき合わせて集まらないとできない打ち合わせ以外は、事前にみんなそうやって連絡取り合いっこしてですね、できちゃうってことが判ったんです。

 自分たちにとっても、まず、日常のそういう活動にものすごく役に立つことが、その時点で判ったわけです。同時に、全国各地の重度の障害もっているチャレンジドたちが「コンピュータにすごい可能性を感じていて、コンピュータを使えば、自分は仕事できるようになるんじゃないかと思っている」という回答を寄せてくれたわけですよね。


◆いざ、パソコンを手に入れるために 

 ところが私は、実はごっつい(大変)パソコンが苦手なんです。こういう活動をやっていて、しかもリーダーだというと「さぞ、あんたパソコン、バシバシなんやろうね」とか、よく言われるんですが、この活動を10年近くやっていて、今だに両方の指1本ずつで、キーボードの文字を探しながらやってるのって私ぐらいなんですよ。ほかのメンバーは、どんなに障害が重くっても「この道具で自分は社会とコミニュケーションをとろう」と思っているんで、半年とか1年勉強すると、その人なりの使い方をするようになっちゃうんですけど、私の場合は、見えてる目に頼ったり、しゃべれる自分の口に頼ったりしてしまって、一向に上手にならへんのです。でも、彼らの上達はすごく早くて、「人間って、切羽詰まると、必要と思うと、なんでもできるすごい力を持っているなあ」って、あらためて思わされたんです。

 この機械の苦手な私がですね、「チャレンジドのみんながコンピュータ使って仕事できるようにしようよ」という合言葉で、プロップ・ステーションは、コンピュータやそれを使った通信に絞りこんで活動しようというふうに決めました。で、いろんなコンピュータの会社とかコンピュータのお仕事している人たちに「こういう活動に協力してもらえませんか?」と、声を掛けたんですよ。

 その当時、コンピュータってのはね、ごっつい高かった。近頃10万円を切るコンピュータも出てきまして、日本で一番安いやつが5万円くらいで買えてしまいますし、パソコン通信やインターネットというのもどんどん価格が下がってきています。でも、昔はパソコン通信しようと思ったら、スイッチ入れて、必要な電子メールを書いてビュッと送ったら、すぐまた電源切らなあかんくらい高かったんです。

 パソコンがどんなに高かったかというとね、一流企業のサラリーマンの方が、ボーナスを含めてローンを組まないと買えない値段だったんです。パソコンやワープロを使われている方はご存知でしょうが、フロッピーという記憶装置がありますよね。あれが1枚3000円くらいしたんですよ。しかも、ちょっと文章を入れちゃうと、すぐそれで一杯になるような、そんな時代だったんですよ。そんな高価なものでも、チャレンジドのみんながそれに期待をして、自分で買ったりしながらでも、「パソコンを勉強して仕事ができるようになりたい」と言い始めたんですね。けど、あまりにも敷居が高いし、値段も高い……。でも、いろんな企業の応援をもらって、中古のパソコンでもなんでもいいから、勉強会ができるようにしようと思ったんです。で、いろんな企業にお願いしたんですが、バブルの絶頂期でしたから、企業も景気が良かったわけです。「なんでも手伝いまっせ」みたいな……。

 このパソコンを使う仕事というのは、1日中椅子に座ってパソコンの前で指先だけ使い、トイレに行く時以外はずーっと椅子に座っているから、「車椅子に乗っているのと一緒や」と……。「パソコンができたら、車椅子乗っていても金の卵や。だから、応援しよう。仕事もできるようになったら発注するで」と、たくさんの企業が言ってくれたんです。そういうような時期だったんです。「ああ、ラッキー」という感じで……。応援してくれる人から、パソコンも中古ですけど何台か頂いて、勉強会を始めようとした途端、さっき言ったバブルが弾はじけたんです。

 「応援したる」と言っていた会社がたくさん潰つぶれました。コンピュータのソフトを作っているところは、どこも割りに小人数でね、技術者の方が集まってお仕事してらっしゃったんですが、ソフトハウスなんか社長さんが夜逃げしたりですね、社員の方、全員クビにして夫婦だけでせこせこすることに変えたとか。本当に一気にそういう大変な状況になりました。私が頼みに行っても「金の卵? なにそれ?」みたいな……。「そんなこと(障害者の支援)言うたんかいな」みたいなことになっちゃったんです。

 でもですね、ここでめげてはいけない。まぁ、もともと私は性格が脳天気なほうなんです。自分の娘のことでも、父ちゃんは自殺を考えるほど思いつめていたけど、母親の私の方が「父ちゃん、そんなこと言って死なれたらかなんで」と、いろいろ自分で動き回ったんですね。自分が納得するようにしないと気が済まないタイプで、しかも、あまり物事を暗く考えるのが嫌。暗く考えて自分が暗くなるのが嫌という性格なものですから……。

 その時も「バブルが弾けて、応援すると言ってくれていた社長さんも消えてしまったか。うーん」と考えて、またひらめいたんですよ。不況というのは歴史的に見ると、波がありますよね。不況の時もあれば、景気の良い時もある。どん底の時もあれば、また、このバブルの絶頂の時もあった。そうすると、いつか必ず不況も底を打って景気が良くなる。また、この間はたくさんの人がみんなしんどい目に遭あうだろう。いい仕事にも就けない時が来るだろう。それなら、次に景気が良くなるまで、みんなで勉強しようと思い付いたんです。「景気が良くなって社会にいろんな仕事が出てくるようになったら、すぐにできるようにしておいたらいいやんか」と思ったんです。景気が戻るまでに何年かかるか判らないけど、この間に勉強するチャンスをもらったと思おうということで呼びかけました。

 企業に「どこも皆さん大変やと思いますけど、景気が良くなった時に、必ずあなたの会社で働けるような技術者を私たちは育ててみせるので、先行投資やと思ってあなたの会社のコンピュータを寄付して下さい」といろんなところにお願いをしたわけです。で、1台2台では頼りないので、「せめて5台、しかも車椅子に積んで持ったり動かしたりできるような、ノートブックタイプのパソコンを5台寄付してください」とお願いしたんですね。


◆アップルに救われて

 当時、私たちは小さな福祉協会の1室に机を置かしてもらって事務所として借りていたんですが、ある日、そこの協会から電話が入ったんです。「ナミねえ、ちょっと大変なことになってるねん」、「どうしたん?」、「あんたとこの荷物で、天井までダンボールが山積みになってるねん」、「えっ? なにそれ?」て言ったら、「何か判らないけど山積みになってる。全部プロップステーション様ってなってるもん」、「どこから来てんねんやろ?」、「なんか、りんごのマークがついてるねん(会場笑い)」こんな調子で。それで、慌ててそこの協会まで走って行ってみると、りんごのマークが付いた段ボール箱が本当に山積になっている。開けてみると、アップルコンピュータという、りんごマークの会社のコンピュータだった訳です。しかもそれが、「5台お願いできませんか?」って言ったのに、10台以上来てるんです。

 それどころか、コンピュータ本体だけでなしに、百数十万もするようなレーザープリンタが――今、プリンタって2、3万で買えるんですけどね――来てるんですよ。周辺機器一式来ているんですよ。「えーっ! なにこれっ?」って……。慌ててそのアップルコンピュータっていう会社に電話をかけて、「すいません、プロップステーションの竹中という者ですが、コンピュータがいっぱい来てるんです(会場笑い)。5台ってお願いしたんですけど、間違いじゃないでしょうか?」って問い合わせたんです。

 使ってしまってから「返せ」と言われても困る(会場笑い)から聞いたんです。そしたら、電話に出たお姉さんが、「少々お待ち下さいませ」と言って、5分ほど待たされて、「間違いだけれども良いそうです。主旨に感動して贈らせていただいたそうなので、ぜひ活用して下さい」って言われたんです。ああそうですか。ラッキー!

 でも「私たち絶対結果を出します」と言って、コンピュータを頂いたんですから、頂いた以上は本気で取り組まないといけないわけですよ。それで、すぐに勉強会を始めようとしたんです。ところが、さっき言ったように、私は機械が苦手だったんですよね。今のコンピュータは、買った時にいろんなソフトが入っているんです。たとえ5万、10万のパソコンでも、今のパソコンには、ワープロのソフトとか計算するソフトとか、お絵描きするソフトとかそういう基本的なソフトが全部組み込まれているんです。インターネットにもそのまま繋げるようになっているんですが、その当時は、ぜんぜん違っていたんです。コンピュータといっても、ソフトが無ければただの箱なんです。

 もう、私は喜んでスイッチ入れたんですが、画面にアップルコンピュータのマークは出てくるんですけど、ただ、それだけなんですよね(会場笑い)。で、私はボランティアの技術者の人に言ったんです。「電源入れてもワープロとか計算とかできないんだけど?」、「当たり前やん。ナミねえそんなん知らなかったん? パソコンっていうのは、ワープロのソフト、計算のソフト、お絵描きのソフト入れないと動かんのよ」、「えーっ? うそーっ!」って言うと、「冷蔵庫だって、買ってきても、中に何か入れないと、開けても食べ物も何も無いでしょうが(会場笑い)」まあ、そらそうやけど……。「どうしよう。で、そのソフト幾らぐらいするの?」、「パソコンより高いわ」ここで再び、「えーっ? うそーっ!」お金、1円も無いのにパソコンだけ来てしまった。

 そう思っている時に、ちょうど大阪府が地域福祉振興基金という基金の受け手を募集していたんですね。上限万円。で、ボランティア活動をする人たちに申請書を出させて、活動がちゃんと福祉基金の理念に適っていれば、寄付しましょうと……。で、100万円ぐらいあったら、それぞれの機械にワープロのソフトと計算のソフトとデータベースを入れて勉強会がやれる。「よーし。これ申請しよう」、「そんなん、上限までくれるかどうか判らへんやんか?」と言われながらも、申請しようと一生懸命書いて提出したんです。

 締め切りを過ぎて1週間経っても2週間経っても、大阪府から全然、連絡が無いんです。大阪府の担当の部署に電話して、「すみません、プロップステーションの者です。この間ソフトウェアの申請させていただいたんですが、どうなったでしょうか?」と聞いたら、「ああ、あれはね却下です」、「えっ? なんでですか?」、「そういうの補助金給付の対象にならないんですよ」、「なんでですか?」、「形の無いものは駄目なんです(会場笑い)。この基金というのは、例えば、活動の中でファックスが必要ですとか、あるいはパソコンそのものが無いとか、電話器とかカメラ、活動を撮影するビデオカメラとか、そういう物に対して補助をするんです。で、こちらの補助金で購入した物に『福祉基金』とシールを貼ってですね(会場笑い)、そういう物に使っていただくお金で、ソフトウェアのような形の無いもののための基金ではないんです」「だけど、もう既にパソコンをこういう風に寄付してもらってしまっているんです。『勉強したい』って障害者の方が何人も待ってらっしゃるんです。新聞に、こういう勉強会をするという募集記事まで出してしまって、ボランディアさんが30人くらい集まってくれているんですよね。いったいどうしたらいいんですか?」、「知らんがな(会場笑い)」、「そんなこと言わずに、なんとか......」と、何回も申請書のやり取りをして、もう1回申請を受け付けてもらって審議してもらい、それで結局、100万円の満額が決定したんです。受け付けられた方も相当悩まれたと思うんですけれども、最終的にはOKを言ってくださいました。で、その100万円でソフト買って、それぞれの機械に入れて、勉強会を始めたわけです。


◆発展し続ける活動
 それからもう9年になるわけです。ここ数年はチャレンジドだけではなくて、高齢者の方も一緒に勉強していただいています。というのも、高齢者の方もなかなかコミュニケーションをとるのが難しかったり、あるいは、高齢者というだけで、「働きたい」という意欲が残っていても、定年退職になったからお仕事が無かったり、同じような悩みを抱えているということが判ったわけですよね。なおかつ、年と齢しがいけばいくほど目が見えにくくなってきたり、耳が聞こえにくくなってきたり、動きにくくなってきたりする。こういう問題が(障害者と)重なり合っているなということで、数年前からは障害を持った方と高齢者の方と一緒に勉強していただいているんです。この9年の間に、プロップステーションのコンピュータセミナーでおよそ400人くらいの方が勉強されました。

 その間に、コンピュータはどんどん壊れていきますよね。持ち運んでいると、余計に壊れてしまうんですよね。で、その都度いろんなメーカーに、修理やら買い換えやら協力してもらっていたんですが、ある時期からコンピュータそのものを頂くということではなくて、コンピュータを備えているセミナールームをお借りして、そこで勉強会をするという協力も得られるようになったんです。場所はそのコンピュータメーカーさんが貸して下さって、自分たちが全部企画を立てるんです。ボランティアの講師に集まっていただいて、「勉強したい」というチャレンジドや高齢者の方にも集まっていただいて、「何月何日こういう講習会をします」ということを決め、電話で受け付けて、日にちをみんなに知らせて……。こういう形でずっと勉強会を続けていきました。

 今、大阪と神戸と両方で勉強会をやっているんですけど、ある時ハッと判ったんですよね。通信を使っているのだから、習っている中で必ずインターネットも勉強するんです。インターネットの使い方を勉強して、ある程度覚えたら、後は家に居ながら勉強ができるというのを、今やっているんです。最初は通って来るだけの勉強会だったんですが、「家から非常に出にくい」、「外出が困難や」という理由でこの活動を始めたとしたら、勉強そのものも家で完全にできるようになったほうがいいですよね。そういうわけで、インターネットが普及した後ですが、日本で初めて、このチャレンジドの支援団体として、インターネット上にプロップステーションのドメイン――世界中からお手紙が届く、いわゆる住所みたいなもののことです――を取得しました。「www.prop.or.jp」というんですけれども、通ってこなくても家に居ながらにして、ベッドの上のコンピュータで、そのまんま勉強ができるようになったんです。実力がついたら、そのまんま仕事ができるという形も取るようになってきました。

 初めのパソコン通信の頃は、コンピュータも通信費も非常に高かったんですが、インターネット時代になって、急速にパソコンも通信費も安くなってきました。ですから今、全国各地の方が、ベッドの上とかベッドの上でないまでも、家族にサポートしてもらいながらとかですね、気軽にプロップステーションのコンピュータのネットワークに入って勉強ができるという状況になっているんですね。で、その中からも、プロの方が生まれてきまして、今まだ、やっと40人から50人くらいなんですけども、全国各地で家族の介護を受けながらプロとしてお仕事しています。

 最先端のお仕事ですよね、コンピュータのお仕事っていうのは。だけど「じゃあ、その人たちが1人で勉強して1人で仕事できるか」って言うと、それは非常に難しいんです。なぜかって言うと、仕事は待ってても来ないからなんです。仕事っていうのは探しに行かないと来ないんですよね。今日いらっしゃってる皆さんの中にも、サラリーマンの方がいらっしゃると思うのですが、サラリーマンの方というのは、ちゃんと面接を受けて、その会社の試験を受けてお入りになって、月給なりお給金が決まると、会社に行くとお仕事がありますよね。

 だけど、在宅で仕事をするというのは、そういう形ではないですから、仕事が無い限りいくら技術を高めても仕事人にはならないわけですよ。「技術を持っています」と、いくら言っても仕事が無ければ駄目ということですね。その人は家から出にくいわけですから、仕事の営業に行けないわけです。まして仕事の営業に行っても、出てきた仕事が自分のできる仕事か判らないわけなんですよ。たとえばデータベースのプロになったとしても、その営業先に「グラフィックの仕事をしてほしいねん」と言われたら、いくらデータベースの知識持っていたって駄目なんですよね。

ですから、私たちプロップが重要な役割を果たさないといけないなということになってきたんです。それは営業をすることと、お仕事の価格を設定すること。それから、お仕事できる人たちがどんなお仕事を何時間できるっていうのを把握してお仕事を振り分けること。振り分けたお仕事をまたプロップステーションがちゃんとまとめて、企業に、また自治体でも行政でもなんでもいいんですが、そのお仕事を出してくれた人たちに、ちゃんと責任を持って返すこと。そして、それぞれのお仕事をした人たちにお金を払うと。コーディネーション(調整)なんですよね。このコーディネーションの役割をプロップステーションがどこまでできるかということが、私たちの非常に重要な責任になってきました。


◆「お役所」をも動かす情熱
 勉強して実力を上げるというところまではできたわけです。ところが、日本の障害者雇用というのは、労働省の専権事項ということになっているんですね。職業安定所というのが間にあって、ある企業の(障害者)雇用率が足りない、あるいは雇用率が足りていても、もっと障害者の人を採用しようと思っている。すると職安が紹介して初めて障害者雇用が成立して、例えばその人が会社で働く時に一般の機械では仕事ができないという時に、特別な機械を買ったりする補助金が出たりする。そんなやり方になっているんです。

 「行政が必ず間に挟まって、障害者の雇用を進めていくんだ」というようになっているんです。で、そこに民間は一切タッチしてはいけない。最初は、そんなこと知らなかったんです。ある時、ある程度コンピュータができるようになった車椅子の人が職安に行ったんです。「プロップステーションで勉強してコンピュータができるようになって、仕事を探しています」と言ったんです。すると「プロップステーションなんかと付き合っている人に、仕事は紹介できません」と言われた。びっくりして、「なんでですか?」って聞いたら、「そういうことに民間はタッチしてはいけない」っていろんな職安に回っていたらしいんです。「うっそー!」みたいな……。

 出発は、そんな感じでした。ところが、プロップの活動が少しずつ前に進んできて、「全国各地でベッドの上ででもお仕事できるよ」という人が増えてきて、ついに一昨年ですね、なにが起きたかっていうと、労働省が「重度の障害者の在宅雇用と就労を推進する研究会」というのを作って、私に「委員になって下さい」と言ってきたんです。重度の障害者で在宅の人たちは今まで厚生省の枠で労働省は一切タッチしなかった。そういう人たちは、そもそも民生系・福祉系で、「なんぼか貰う人やから、労働省には関係ない」と言っていたのに、「そういう人たちも働ける可能性があるのなら、労働省が受け止めてみよう」ということで、研究会を作って本当に働けるようにしていこうということになったんです。

 「すごい変化だな」と思いました。つまり、もし私たちが「働かせてくれ」とか「働きたい」とか言うだけで、それ以外のことしなかったら、そういうふうに国も制度も動かなかったと思うんですよね。「あんたら民間がそんなことにタッチしたらあかん」で終わっていたと思うんです。実際にたくさんのチャレンジドが必死に勉強して、ひとつでもふたつでもお仕事ができるようになって、現実に稼ぐ人も出てきました。稼いだことを元に「自分の知識をいろんな人に伝えよう」という人も出てきました。プロップのチャレンジドメンバーの中には今、高齢者の方にパソコンを教える講師をしてる方もいるんですよ。まして、インターネットを使うと家でベッドの上にいながら先生もできちゃう。そういうふうになってきたわけです。そうすると行政もこれをこのまま放っておいてはいけない。何とか行政としても一緒にやっていく仕組みを作らないといけないということになってきたわけです。


◆プロップステーションの法人化
 プロップステーションというのは、ずーっと草の根の組織でこういう活動を続けてきたんですが、1998年に社会福祉法人として厚生大臣の認可を頂きました。それまで社会福祉法人というのは、ご存知の方も多いと思いますけど、老人ホームとか障害者の施設とか、そういう施設を運営している団体に認められていたんです。特に障害者の方、高齢者の方をお預りして、国の補助をもらって、国に代わって施設を運営するというのが社会福祉法人という通念だったんですよね。プロップステーションのように、草の根で、しかもコンピュータネットサービスという、ある意味、仮想現実みたいな中でやっている活動が、社会福祉法人として認可されたことは、ひとつも前例が無かったわけです。でも、前例が無いからこそやりたいし、思い付いたらやらずにいられない性格で、前例が無くてもぜひそういう認可をとってみようと思ったわけです。

 なぜ社会福祉法人という法人格を取ろうと思ったかというと、草の根の団体というのは法律的には「任意団体」と呼ばれまして、任意団体というのは法人ではないので、全ての責任がそれを主催している人間個人にかかってくるんですね。つまり、「プロップステーションの責任者は、良いことも悪いことも全てナミねえよ」ということになるんです。もう個人商店と変わらないんです。

 すると、この中に企業とかお商売をされている方がたくさんいらっしゃると思うのですが、企業とか行政が仕事を出す時は、個人には絶対に出さないんです。というか出せない仕組みになっているんですね。信頼がないから……。個人に仕事を出した時、無責任な人だったら、そこで全部お金のやり取りなどがパーになります。仕事も途中で分解してしまいます。だから、個人には出さないんです。それで私たちはプロップの仕事を法人化する必要があったわけです。プロップはコンピュータを勉強するということで、たくさんのコンピュータメーカーや企業が応援してくださいましたから、そういう企業の中の担当の方が、個人レベルで出せる仕事を私を信用して出してもらっていたんです。でも、たくさんのチャレンジドのみんなが受けられる大量の仕事を請け負えるかといえば、それは、個人の裁量では企業の中でも行政の中でも無理なんです。ということで、法人化っていうのが、私たちプロップステーションにとって絶対必要な所に来たわけです。

 法人っていうのは2種類あるんですね。営利法人と非営利法人。営利法人っていうのはみなさんご存知のように会社ですよね。で、非営利法人っていうのは、財団、社会福祉法人、社団法人。他にも学校法人とか医療法人とか宗教法人とかいろいろありますが、大きく分けて私たちが関係するのは、この三つなんです。社団法人って言うのは主に親睦の組織ですから、お仕事に関わることができない。「じゃあ、財団か社会福祉法人だね」って言ったけど、財団っていうのは、最低3億円、普通は5億円くらいのお金が要るんです。なぜかというと、その財団の基金の利子で活動するということが前提になっているので、ものすごい巨額なお金をプールしてその利子で職員を雇って、余ったお金で社会福祉に還元していくような活動をしていくのです。ものすごい基金を持ってないと駄目なんですよ。

残るは社会福祉法人。実はこの社会福祉法人でも1億円ぐらいの基本財産が要るんです。でも、少しでも私たちがなれる可能性があるのがこの社会福祉法人なんです。で、ちょうどその時にNPOという非営利組織の法人化というのも、世の中でいろいろと活動が始まっていたんですけれども、もう私たちは、かなりのメンバーが仕事ができる状態になっていましたので、何とかこの社会福祉法人の資格を取得しようと思ったんです。で、いろんな自治体とかに相談をしたわけです。ところが、こういう活動が社会福祉法人になって認可されたという前例は全く無いので、誰も「それは無理です」としか言わないのです。思い返してみれば、自分の娘が生まれていろいろ相談しても、みんなに「そんなん無理です」と言われたのと同じ反応だったんです。そうするとますます燃えてくる。そうして、応援してくださっている企業の中で、「1億円の基金を何とかしよう」と言ってくださる企業が出てきたんです。

◆マイクロソフトの支援
 みなさんも新聞などで良くご存知だと思いますが、マイクロソフトという世界で一番大きなシェアを持っているコンピュータソフトの会社なんですね。マイクロソフトのビル・ゲイツさん。今、アメリカで余りにもシェアが大きくなりすぎて、「独禁法違反」とか言われたりしていますが、まあこの話は置いておきますが、私たちの活動に、まず賛同してくださったのは、実はマイクロソフト会長のビル・ゲイツさんだったんです。

 これからの日本は高齢化社会になり、どんどん高齢者の方が増えてくる。つまり今のようにコンピュータをスムーズに使える人よりも、「コンピュータが使いにくいよ」と言う人が増えてくる時に、この活動は非常に重要だということを認識してくださったんです。つまり、指が動かない人がいる。瞬きするだけで精一杯という人もいる。全く見えない、聞こえない、しゃべれないという人がいる。そういう人たちも「コンピュータを使って自分も社会に何か貢献したい。仕事もしたい。勉強してお金も稼ぎたい」と思っている。彼らを支える団体を応援することによって、その人たちがどういうふうに働けるようになり、社会参加していくか。そのためのソフトを開発していく。それをすることでマイクロソフト自身もどんどん前へ進んでいけるという発想を持ってくださったわけです。

 プロップを支援してその人たちがお金を稼ぐようになれば、きっとパソコンを買うようになります。そこへ行くまでにすでにプロップでコンピュータの勉強をされた人は、ある程度勉強すると皆さんコンピュータを買っているんですね。当然なんですが、家で予習復習をする。パソコン通信やインターネットを家でつないでみなさん勉強しているのですから、みなさんユーザーになるわけですよ。すると、こういう活動が広がるということは、ひとつはユーザーがきちっと増えていくことであり、「使いにくい」という意見や、「どうすれば良いか」という知恵が入ってくるわけです。企業にとってはそういう結果になるわけです。でも、その結果が出るのは5年後、10年後かもしれない。プロップステーションが活動を始めて、そういう社会福祉法人の認可を受けるまでに、約7年かかっているんです。それで仕事ができる人が全国で40人から50人集まるのに10年かかっているんですから、結果が出るのに長い年月がかかるかもしれないけど、少なくとも、その間にずーっと蓄積されたものの上に、本当に使いやすい機械とか、使えるユーザーが増えてくるということを、マイクロソフト社は認識してくださったのです。

 その社会福祉法人の申請をする前提に1億円の基金が必要だったんです。活動そのものより何より、「少なくとも基金のところはクリアできる」という裏付けが無かったら法人格を差し上げることができませんということになったわけです。私たちが「そんな大金ないのにどうしよう」と言っていた時に、マイクロソフトが「それを約束しましょう」と言ってくれたんです。約束をしていただいたら、法人格が取得できて1週間以内にプロップステーションの通帳の中に1億円が振り込まれないといけないんですね。振り込まれた上で、しかもその1億円というのは、塩漬けの基金になるわけです。なんか矛盾といえば矛盾なんですが、その1億円というのは通帳の中で寝たままで、でも、その寝たままのお金があるっていうのを行政は信用するわけですよね。不思議な仕組みなんですが、そういう仕組みなんです。

行政のほうも、そういうきちっと約束して下さっている人もいる、ここまでこういう風に活動してきたということで、初めて社会福祉法人として厚生大臣の認可が1998年の9月に下りたんです。どきどきしていたんですが、1週間後に通帳にちゃんと1億円が入りました。すぐさまですね、定期預金を契約して塩漬けにしました。

 本来、財団と同じように、その利子は活動に活かしていくことができるんですね。しかし、以前は1億の基金があれば、だいたい200万円ぐらいの利子がついていましたから、「アルバイトの人たちに少しお金を払って活動できるな」と思っていたんですけれども、ご存知のように「ゼロ金利」の時代になってですね。この1億円を預けた時には、本当に利子が下がっていて、今、なんと1億円の利子が15万円です。コピー機のトナーや用紙を買ったら終わりです。それで相変わらず自分たちでお金を出し合いし、私も未だに無給の奉仕職で理事長という名前だけ立派にやっているんです。

 でも、お金に変えられない楽しさというのがあるんですよね。自分がこういうことやろう、とたくさんの人たちと一生懸命やって、企業も応援してくれて、なおかつ行政も頭を切り替えて「こういう時代になったんだから、こういう制度を作るように行政としても何かをやろう」と、いろんな人たちとここ数年動いてくださっているんですね。


◆米国ではペンタゴンがチャレンジドを支援
 今年、8月30、31日に、東京の京王プラザホテルで、私たちのこういう活動をよりたくさんの人たちに知っていただくための「チャレンジド・ジャパン・フォーラム」というのを開くことになりました。毎年1回か2回ずつ、全国各地で開いているんです。チャレンジドたちが自ら企画して、インターネットで打ち合わせして、どんな会場で、どんな人たちに集まっていただくか決めて、講師を招いて、自分たちでインターネットのお知らせのページを作って、ポスターも作って、冊子も作って……。自分たちで発展しながら、自分たちがやってきたことをたくさんの人に知ってもらって、元気出してもらって、活動に参加してもらう人を増やそうというこのチャレンジド・ジャパン・フォーラム……。今年でもう第6回になります。

 今年のフォーラムは「第6回チャレンジド・ジャパン・フォーラム日米会議」というのですが、ゲストはなんと、アメリカの国防総省ペンタゴンのCAPというセクションからダイナ・コーエンさんという女性リーダーが来てくださるんです。「なんでペンタゴンとチャレンジド?」と思われるでしょ。実は私もそう思っていました。去年の10月に先程の労働省の委員会の視察でアメリカに行かせてもらったんです。2週間行きました。テーマは「チャレンジドのテレワーク(遠隔就労)」だったんですね。その時、ちょうどシアトルでテレワークの国際学会というのが開かれていたんです。で、そこに参加しました。「環境とテレワーク」とか、「ビジネスとテレワーク」とかいろんな切り口のセッションがあったんですが、その中に「チャレンジドのテレワーク」というセッションがあって、そのセッションの講師がペンタゴンのダイナさんという女性講師だったんです。きりっとした制服を着られてテレワークについていろいろお話をされました。コンピュータを使ってどんな重度の方でも、いろんな仕事ができるようになったというお話をいろいろされたんです。
 でも、なんでペンタゴンなのか、なんで国防総省なのかって解りにくかったんです。それで最後に質問させてもらったんです。私は英語ができないので、通訳の方を通して質問させてもらったんですね。その時、彼女は背筋をぴんと伸ばして厳しい目でこうおっしゃったんです。「全ての国民が誇らしく生きられるようにすること、それが国防の一歩でしょ」と。目から鱗というのはこのことでした。私たちがやってきた活動というのも、「人間が人間の誇りを取り戻すために自立しよう、働こう」という運動だったんです。アメリカではそれを国防と捉えてやっている。「ぜひ今度のチャレンジド・ジャパン・フォーラムのゲストに彼女に来ていただきたいな」と思いました。
 それで年が明けてから私は国防総省に行ってきました。で、彼女に直接お会いしたんです。CAPというのは、「コンピュータ・エレクトリック・アコモデーション・プログラム」の略だったんですね。彼女は「最先端の機械こそ最重度の障害者の人に使わせるべきだ。なぜか?人間は不可能に挑戦することで科学を発展させてきた。とすると、不可能が最も大きい人の存在そのものが科学に最も貢献する。そうでしょう?そして、それが人間の誇りに繋つながる。アメリカはベトナム戦争を体験し、誇りを失いたくさんの若者を死なせた。二度とああいうことをしてはいけない。私たちは誇らしく生きなければいけない」と言うんです。

 全く見えない、耳も聞こえない状態で暗闇でジェット機に乗って、脳波でジェット機を操縦するシステムをそのまんまコンピュータに取り入れているんです。日本でも脳波でコンピュータを操作するというのが、そろそろ開発されていますが、1セット300万円くらいするんです。ペンタゴンで一般に市販されているその道具は、センサのついたベルトを頭に巻いて、細い線とコンピュータが繋がっている装置とコンピュータを繋ぐもので、ワンセット日本円にして10数万円です。

 しかも、毎年300人の障害を持つ学生をペンタゴンがインターンで受け入れて、その人の実力をきちっと測り勉強させ、優れた人はそのままペンタゴンの職員になれる。電動車椅子に乗って、指も1本も動かない人がリーダーとして、ダイナさんの上司でいらっしゃるんです。見えない人もいます。動けない人もいます。誇りを持って彼らはペンタゴンのリーダーになっているんです。300人の大学生とチャレンジドの勉強した成績というのは、ペンタゴンだけでなく、アメリカ全土の企業にシェアされて、「この人を私の会社にほしい」というようなことも申し込めるようになっています。すごいなと思いました。

 今年は、ぜひ彼女に来ていただいて、そういう誇りということについてお話していただこうと思っています。誇りを持つために、自分自身がいかに誇りを持とうと思うかということも大事です。で、合い言葉を「レット・ビー・プラウド(誇りを持って生きよう)」というタイトルでさせていただきます。


◆プロップステーションの成果と今後

 ここまで長々お話してきたんですが、こういう活動の結果として実は本とCD―ROMを1冊ずつ持ってきましたので、最後にそれを紹介させていただきたいと思います。これは「プロップステーションで、私や娘がこんな体験をして、こんな人たちとこんな人たちに応援してもらいながら、自分はパソコンができないけど、今、活動がこんなになったよ」というのを、社会福祉法人格を頂く前の草の根の活動の集大成ということで書かせていただいたものです。筑摩書房から出版されました。『プロップステーションの挑戦』、今日のお話のタイトルにもさせていただいているのですが、この本を20冊くらい受付のところに持ってきましたので、もし「読んでやろう」という方がいらっしゃいましたら、お帰りにご購入ください。英語版も、この夏のチャレンジド・ジャパン・フォーラムのためにジャパンタイムズが発行してくれるということになりました。この英訳も全盲の青年と重度の身障の青年が自宅で翻訳の勉強をして、英語にしてくれたものをジャパンタイムズが本にしてくださるということになっています。

 この本のご紹介がひとつ。それから、このCD―ROMです。今日いらっしゃった方の中で、どれだけパソコンを使う方がいらっしゃるか判らないんですが、最近買われたパソコンはCD―ROMが全部見られるようについてます。このCD―ROMはプロップステーションでグラフィックの勉強をして、仕事の打ち合わせも全部自宅からインターネットを使ってやって、ホームページを作る仕事をしているメンバーがいるんですが、彼らが使っている最新のソフトのデモ版も入っていて、自分が勉強したことをこのCD―ROMでみなさんに学んでいただいて、簡単にホームページを作れるようにというものです。パソコンの中に入れていただくと自動的に立ち上がって、ウィンドウズでもマックでも使えます。これは1冊2000円なんですが、入り口のところにこれも30枚ほど持ってきました。もし「見てみよう」とか、「自分は使えないけども人に薦めたい」という方は、ご購入いただくと嬉しいです。このプロップステーションの活動の収益に関しては全部プロップの活動に活かさせていただくことになっています。

 それからこのCD―ROMに関しては、売上はチャレンジドのメンバーの収入になります。これを作ることに彼らは大変な労力と神経を注ぎましたが、売れなげれは彼らは作っただけということになります。1枚でも売れるとそれが彼らの収入になるわけで、初めてのオリジナルの販売製品です。それでタイトルが「思い思いのe‐letter」と付けさせていただきました。電子メールのことをe‐mailというんですね。

 e‐mailはいろんな情報交換の手段に今使われているんですけども、もう少し心を込めた、自分の大切な人に思いを伝えたい時に、ホームページの形式にしてグラフィック=お絵描きを入れたり、音を出したり、あるいは光らせてみたり、そんなホームページを作って、自分の気持ちを届けようということで、このタイトルを「思い思いのe‐letter」とお手紙というようなタイトルにさせていただきました。それでこのCD―ROM自体が、勉強したチャレンジドからの買ってくださるみなさまへのe‐letterということになっています。

 時間が過ぎましたが、これからこういうプロップの活動のエッセンスをもし何らかの形でみなさんの生活の中に少し取り入れていただけたら嬉しいと思います。たくさんのチャレンジドと会った時に、「この人たちに何かできることはないか」と考えてくださることは大変嬉しいことなので、ぜひそのように考えていただきたいのですけれども、それだけでなくて、生きていく上でのお互いよきライバルとしてでも見ていただけたら嬉しいと思います。

 プロップステーションは大阪と神戸で活動していて、チャレンジドや高齢者のセミナーも定期的にやっていますので、ぜひ活動を見てみたいとか、パソコンを勉強してみようとか思う方は、ご遠慮なくお電話1本下さい。そうしましたら自由にご見学いただけるようになっております。

今日はこういう機会を頂いて、金光教始まって160年ですか?この教会が設立されてもう既に4分の3世紀が経つとお聞きしています。こういう歴史のある場所で、みなさんの前でお話させていただいたということを大変光栄に思っています。このご縁に、ますますいいお付き合いをさせていただけたら嬉しいかと思いますので、よろしくお願いします。ありがとうございました。

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