三宅龍雄大人を偲ぶ会 謝辞

                    
  金光教泉尾教会長
三宅光雄

先ほど、金光教泉尾教会の霊殿におきまして、先代教会長三宅龍雄大人の五年祭を勤めさせていただきました。先生方にはお忙しい中をお時間を頂戴いたしまして、偲ぶ会にまでご来臨を賜りましたことを先ずもって御礼申し上げます。有り難うございます。

先代教会長は昭和三年の生まれでございます。私共では「大恩師親先生」とこう呼ばせていただいております先々代の教会長三宅歳雄は、玉水教会初代大先生から、昭和二年の1月に「泉尾で座りきれ」というお祈りを頂いて、泉尾教会に布教させていただきました。その翌年に父は生まれました。三宅歳雄は布教した年の5月に結婚しておりますから、私ども泉尾教会の信奉者にとりましては、三宅歳雄とその家内であります三宅ツ子、そして息子の三宅龍雄…。この三柱の霊様が私共の信心の基だと私は頂いております。

その三宅龍雄の五年祭を勤めさせていただきまして、今日こうして、日頃ご縁を頂いております先生方に偲ぶ会へもお運びいただいた次第でございます。先ほどの五年祭の折に申し上げましたように、父が亡くなりました年の1月17日―その日はちょうど母の誕生日でしたが―その日、私が父を見舞った際に、父が私に言われた「頼むよ。しっかり!」というお声が言葉として頂いた最期の言葉で、いわば遺言でございます。

今、この5年間を振り返りまして、「頼むよ」についても、頼まれ甲斐のない。「しっかり」についても、しっかりしてない私でございます。にもかかわりませず、神様、諸先生方、ご信者の皆さん、そして全ての方にお守りとお祈りを頂きまして、御用に使っていただいている次第でございます。

先ほどは教会で「今日が布教八十五年記念大祭の301日前に当たります。明日が300日前に当たります」というお話をさせていただきました。来年の1月22日という日に八十五年の記念大祭を仕えさせていただきますが、今日がひとつの区切りでございます。大恩師親先生は「坂を越え、坂を越えても峠かな」と御教えくださいました。私はご信者の皆さんに、「今日がある意味、200日のゴールである。しかし、テープの裏に「スタート」と書かれたゴールのテープを切ったということは、今日から新たにスタートを切ったのだ」と、こういうお話をしてまいりました。

実は、それは私自身がそのことをしっかり頂かなければいけない…。本日あらためて、先生方のお顔を見させていただきまして、大勢の先生方にお祈りいただき、お守りいただき、この場を勤めさせていただけるんだと感謝の気持ちで一杯であります。いろいろと準備不足で、ご無礼なことをいくつもしていると思います。どうぞお許しください。本当に申し訳ありません。そして、どうぞこれからも、三宅歳雄、三宅龍雄同様にご指導いただければ有り難いと思います。本日は本当に有り難うございました。



三宅龍雄大人を偲ぶ会 ご挨拶 (敬称略)

神社本庁 総長
石清水八幡宮 宮司
田中恆清


田中恆清師

三宅龍雄先生にお近しい方がたくさん居られる中で、最初にスピーチの機会をお与えくださいまして、心から感謝を申し上げる次第でございます。

今日は「偲ぶ会」ということでお招きいただきました。本来でありますならば、五年祭に参列をさせていただかなければならないのですけれども、大震災直後というこういう時期でございますので、今、神社本庁挙げて様々な取り組みを展開している最中でございます。お祭には本当に失礼を申し上げましたけれども、この偲ぶ会には是非とも参列をさせていただきたいと思いまして、ただ今この場に居させていただいている次第でございます。

三宅龍雄先生は、教会長としての御用はおよそ6年半であったと伺っておりますけれども、振り返ってみますと、歳雄先生から引き継がれたこの泉尾教会の大きなご実績の更なる発展に努められました。そのご業績の大きさは、私ども宗教協力をその任としております1人として、真に心から敬服を申し上げるところでございます。

また、三宅龍雄先生は、歳雄先生の意を受けられて、世界平和のために大変なご尽力をされた方でございます。一歩一歩ではありますけれども、世界平和のために互いの宗教の垣根を越えて、お互いが力を合わせて、まず世界平和を祈り、そして、その実現のために実行していく…。そのような歩みを続けてこられた訳でございます。

そのことは、現教会長様、そしてその弟様にも間違いなく伝えられております。そのお二方の行動を常に拝見をさせていただいておりますが、まさに無私の気持ちで世界平和のためにいろいろな関わりを持ち、その実現に向かって邁進(まいしん)をされておられるお姿に、心から敬意と感謝を申し上げる次第でございます。

ご案内のように、この大災害によって、私たち日本人は、今、まさに意気消沈をしている中ではなかろうかと思う次第でございます。私事で大変恐縮でございますけれども、私が奉仕をしております石清水八幡宮は、昨年がご鎮座千百五十年でございました。貞観元年(859年)という年に創建され、1,150年という年月を経た訳でございますけれども、最近、新聞紙上やマスコミ等で「今回のこの大地震は、貞観十一年(869年)のあの三陸における大地震大津波に本当によく似ている」ということが語られるようになってきております。当時の日本の人口からすると、本当に多くの方がその津波の犠牲になられた訳です。

私ども日本人は、地震列島の上に二千数百年という長い間住み着き、そして、大きな自然災害を受けても、その都度力強く立ち上がってきた民族でございます。今回の被災地の方々をはじめ、日本国民全体が心をひとつに合わせ、そして、痛惜(つうせき)ながら、お亡くなりになられた多くの犠牲者の霊のために、力を協(かな)えて今後ともこの復興に当たっていかなければならないと思う次第です。

何故、このようなお話をさせていただいているかと申しますと、最近、政府の首脳の方、あるいは、東京大学をはじめとする研究者や電気事業会社関係の方々が「今回の大地震は想定外だ」ということを言われていますが、真に失礼な物言いかもしれませんけれども、この言葉は正に責任を回避する言葉として使われているのではないかと私は思う訳でございます。貞観十一年の大地震と大津波を、われわれの先人たちが経験をした訳で、決して想定外ではない思います。「備えよ、常に」という思いで、日本人はこの列島に住み着いてきた訳でございます。歴史に学び、そして、これからは皆さん方と共に、今回被災をされた多くの方々の気持ちを自分たちの気持ちとして、復興に向かって全国民一丸となって、当たっていかなければならないと思います。

おそらく、もし三宅龍雄先生がご存命ならば、先頭を切ってこの被災地に赴かれ、そして多くの方の気持ちを察して、大変な精神的な支えになられたであろうと思います。三宅龍雄先生の御霊を安らけく、心から祈念を申し上げまして、大変粗辞でございましたけれども、私の挨拶とさせていただきます。どうも有り難うございました。


天台宗 大僧正
山田能裕


山田能裕師

ただ今ご紹介いただきました比叡山の山田能裕と申します。全く世間知らずの山猿でございます。これから何をお話し申し上げれば良いか…。大変お恥ずかしい話になろうかと思いますけれども、今日は龍雄先生に免じていただいてお許しいただけますよう、よろしくお願い申し上げます。

この度の大地震が発生した時に、私は「もし、歳雄先生がいらっしゃったならば、すぐに東京に行ってらっしゃるんじゃないか」とふっと思いました。そして、その後を龍雄先生が受け継いで、ご信者の方々にいろんなことをお話しなさったんじゃないか…。龍雄先生のあの先見の明やいろいろな行動、また、非常に渋い声で激昂されるあの様子に、周りも自然と「やはりこれでなきゃならない」という気になっていっただろうと思います。
今時分は、歳雄先生は総理大臣を捕まえて「何をしとるか! お前さんがしっかりしとらんからこういったようなことが起こってきたんじゃないか!」とおっしゃり、そして龍雄先生は、「親先生がこうおっしゃった」と皆さんに話しておられたかも知れません。

こういったようなことを思いますと、日本の宗教界は、本当に大事なお2人を亡くしたという思いがいたします。残ったわれわれが、これからどうしていくべきなのか? やはり、これまでずっと歩んでこられたそのことを、自分たち自身の教科書として、もう一度学ばさせていただき、また実践させていただくことが、ご冥福を祈る一番の方法ではないかと、かように思っております。

どうぞ、その意味合いからも、われわれ本当に至らぬ者でございますけれども、皆様方からまたご支援を頂戴いたしまして、世界平和のために、宗教者として、共々に活動させていただくことについて、ご教導のほど、どうぞよろしくお願い申し上げ、三宅龍雄先生のご冥福をお祈りしたいと思います。どうも有り難うございました。


一燈園 当番
西田多戈止


西田多戈止一師

ただ今ご紹介いただきました一燈園の西田多戈止でございます。私どもの祖父、西田天香と三代目の光雄先生のお祖父様である三宅歳雄先生とは、本当に「極めて親しい」と言いましょうか、お互いに「尊敬しあう仲」でした。金光教には、大正時代から戦後にかけて、高橋正雄先生というとても素晴しい先生がいらっしゃったそうですが、私の祖父もその高橋正雄先生と岡山の金光教本部の奥の木綿崎山の山小屋で毛布一枚を二人で分け合って一晩語り明かしたことがあった(1917年)そうですが、その祖父が歳雄先生のことを「高橋正雄さんの再来だ」と評しておりました。

その歳雄先生に、私は大変可愛がっていただきました。祖父が亡くなった翌年の1970年に、世界宗教者平和会議(WCRP)が発足いたしました。その時に、歳雄先生がわざわざ私どもの所へ来られまして「どうしても会議に参加せよ」と言われました。私は「一燈園は宗教法人として一宗を立てているわけじゃなく、一財団法人でございますから、入れていただく資格はございません」と申し上げたんですけれども、「友愛団体」といったようなカテゴリーを創ってくださり??私を引き立ててやろうということだと思いますけれども??仲間に入れていただきました。

それから40年が経ちました。歳雄先生は、WCRP日本委員会の常務理事を25年ぐらいお務めになられた後に、ご高齢を理由に龍雄先生にお替わりになって、龍雄先生は常務理事としてそれから10年間お務めになられました。龍雄先生は私より2つ年上でいらっしゃいましたが、私も常務理事だったことから、いろいろとご指導を頂きました。私も齢を取りまして、4月3日が81歳の誕生日なんです。WCRPのほうも発足時から務めさせていただき40年経ちましたので、満80歳のうちに引退させてもらうことでけじめがつくと思いましたので、先日、退会をお願いしてお許しを頂いた訳ですけれども、振り返ってみますと、その間、歳雄先生には随分お世話になりました。

どう考えても、龍雄先生の面影や思い出が少ないんです。歳雄先生は、生涯、102回も外遊され、私もご一緒させていただく機会があったんですけれども、よく考えてみますと、龍雄先生はその歳雄先生のお留守の間、歳雄先生が後顧の憂いなく思いきって活躍できるように、教会業務全般をお引き受けになられて、信者さんと神様のとの間の御取次を一生懸命されていました。今、そのことをしみじみと思います。

龍雄先生がWCRPの常務理事になってから10年でありますけれども、龍雄先生は極めて緻密でいらっしゃいましたし、曲がったことが大嫌いで、何ごとにも筋を通される。そして懇々(こんこん)と内省的なことを語ってくださいました。それはWCRPにおける役員のお役目としてだけではなく、ひとつの団体を責任を持っている立場にいる私に内省のことを教えていただいたように思います。

もうひとつ申し上げたいのは、私は15年前にサンメッセ日南という太陽のメッセージを頂いて、地球に許される生き方を気付かせていただき、宮崎県に牧場付きの公園を造ろうということになりました。その施設の中でも一番大事なのは『地球感謝の鐘』です。1996年にオープンしたんですが、21世紀を視点に置いて造った公園ですし、せっかくWCRPに入れていただいているんですから、その地球感謝の鐘を宗教協力で作らなければ意味がないんじゃないかと思いました。神社神道、伝統仏教、キリスト教、教派神道、新宗教の全部にご協力いただき、『地球感謝の鐘』ができました。そこで私が一番最初にご協力をお願いしようと思ったのが歳雄先生…。ところが当時、歳雄先生はすでにWCRPから引退されていました。

なんとか龍雄先生にお取りなしいただいて、泉尾教会で歳雄先生にお会いさせていただきました。私が歳雄先生に主旨を説明いたしますと、歳雄先生は話の途中でお立ちになったんです。私は「お話を聞いてもらえなかったんじゃないか…」と思ったんですけれど、いったん引っ込まれてしばらくしてから戻ってこられました。すると、歳雄先生にお願いしようと思っていた協賛金の100万円を持ってこられ、「これでいいか?」とおっしゃいました。

今、考えてみますと、歳雄先生があのようにされたのは、龍雄先生が事前に巧いこと手を回してくださったのではないかと思うのです。龍雄先生は歳雄先生を立てながら、実は大事なことをされていた。そしてまた、私どものために大きな祈りをくださったんだと思います。今、私は龍雄先生との19年にわたるお付き合いをしみじみと思い出しております。有り難うございました。


献杯の発声

法相宗大本山薬師寺 長老
安田暎胤


安田暎胤師

僭越ではございますが、ご指名でございますので、献杯の音頭を取らせていただきます。

三宅龍雄先生は昭和三年のお生まれで辰年であられますから、「龍雄」というお名前だと思いますが、前(さき)の歳雄先生の教会長職を継承されて、金光教の教会長として骨身を削って尽力されました。龍雄先生はやや病弱なお体でありながら、本当に先代様の「一乃弟子」として教会長をされたと思います。

また何よりも、光雄先生や善信先生などの良き後継者を育てられたことも、立派なお仕事だと思います。

在りし日の龍雄先生を偲び、哀悼の意を表し、感謝し、また、東日本巨大地震で亡くなられた皆様方のご冥福をご臨席の皆様と共に心から祈り、国難に当たる大地震災害でありますが、なんとしても立派な日本を建設しなければなりません。皆、心をひとつにして復興し、日本の良さを発揮していただきたいと思います。

龍雄先生を偲び、東日本大震災の犠牲者の方々のご冥福を願い、併せてご一族皆様方のご多幸と今後のご努力を祈念し、献杯いたします。献杯!


スピーチ

解脱会 理事長
岡野英夫


岡野英夫師

ただ今ご紹介いただきました解脱会理事長の岡野英夫と申します。実は、私は直接、先代様のご謦咳(けいがい)に触れておりませんので、私がスピーチさせていただくのは相応しくないかもしれません。けれども、私がこれまで三宅光雄先生と三宅善信先生から頂いたご厚情の中からお話をさせていただきたいと思います。

私は4年前程からWCRPの理事として、本当に親しくご指導いただきながら先生方のお姿を見させていただききましたが、本当に卓越した指導力と行動力に目を見張るばかりです。そのお姿に接する中で、本当に先代様のご恩徳と申しますか、ご人格に触れさせていただいているように感じます。

その中で、現在は幽界におわしますその霊様におかれまして、そして、ますます妙なるご教授とご加護を賜っていることを、今日のお祭に際しまして感じさせていただきました。私どもは見てのとおりの若輩者でございますけれども、今後ともこうした諸先生方の心を拝して、こうした未曾有の大災害の中で本当の日本精神を鼓舞して、そして真の日本の有り様を世界に伝え、再建に努めたいと思います。

今日は、その力を頂いたように感じます。また新たな気持ちで努力をさせていただきたいと思います。僭越ではございますが、本日ご同席させていただきました御礼の言葉に代えさせていただきます。有り難うございました。


生田神社 宮司
加藤隆久


加藤隆久師

東日本大震災で、国難と言うべき大災害に心を痛めている訳でございます。16年前のことでございます。ちょうど1月17日の未明でございました。私が奉仕いたしております神戸の生田神社も、大変な被害を受けた訳でございます。今まで短歌など詠まなかった私が、その時突如、歌を詠んだのです。

「朝まだき 床持ち上ぐる上下動 怒濤の如き南北の揺れ」
「マグニチュード七・二てふ大地震(なゐ)は 神戸の街を崩(く)ゑ散(は)らかせり」
「あのビルもこの家もまたかの店も 瓦礫と化して蹲(うずくま)りたる」
「うるはしき唐破風持ちし拝殿は 地上に這(は)いて獣(けもの)のごとし」

というような歌でございます。

その後、皆様方から多くのご支援を頂きました。当時、この泉尾教会の副教会長であられました三宅龍雄先生のご指示で、三宅光雄先生が私のところに震災後すぐにお見舞いに来ていただいた訳でございます。

「義捐(ぎえん)の水押し戴きて飲み干しぬ 余震の続く暗き厨(くりや)に」

本当にあの時のことを思い出した訳でございます。実は、三宅先生のご一家と私は、また40年程前に遡りますが、WCRPが発足し、庭野日敬先生と共に、三宅歳雄先生の謦咳(けいがい)に触れることになった訳でございます。その頃、WCRP日本委員会に青年部会というのができて、初代の幹事長に常盤台教会長の三宅美智雄先生がなられたのですが、その際、実は私が副幹事長になった訳でございます。そして三宅歳雄先生にもいろいろとご指導を頂きながら、WCRPの日本委員会の青年部会の活動を行った訳でございます。

実はその頃、私の神社に和歌山市の中之島にあります志磨神社という古い神社の宮司の息子の島千尋さんという神職の方が修行に来ておられたのですが、その島君から「実は泉尾教会の三宅さんと島家とは親戚である」という話があり、余計に私はこの三宅先生のご一家と親しくなった訳でございます。

そんな折、私は兄(加藤知衛)から龍雄先生の紹介を受けました。10歳年長の私の兄は、大阪府の神社庁長を27年間やっており、服部天神の宮司であったのですが、大阪の宗教者同士である三宅龍雄先生とは大変親しくしておりました。こんなこと言っては失礼でございますが、歳雄先生や美智雄先生に比べ、龍雄先生は非常に知的でいらっしゃいました。

いつ頃でしたか、聖エジディオ共同体の行事でドイツ西部の古都アーヘンに行くための準備会があったのですが、その時に龍雄先生がいらっしゃいまして、話がもつれた時に、非常に適切な発言をされました。私は「こういう立派な方なのだな…」と、その時に感じました。

いつもお着物を着られて、そして静かに適切なご助言をしてくださった、そういう方でございまして、私はあの阪神淡路大震災の時に、まだまだ余震が続いていた神戸にいち早くご長男をお見舞いに差し向けてくださいました龍雄先生のこのご尊影に深く頭を垂れる次第でございます。

どうぞ龍雄先生、今後ともわれわれをお守りくださいますようお願い申し上げまして、一言偲ぶ言葉とさせていただきます。


本門法華宗 管長
大本山妙蓮寺 貫首
松下日肆


松下日肆師

ご紹介を頂きました京都の本門法華宗大本山妙蓮寺の住職をしております松下日肆と申します。歳雄先生、龍雄先生、光雄先生と三代にわたって支えていただいておりますが、思い出しますと、私は歳雄先生に昭和24〜5年頃にお会いしています。鹿児島県の屋久島出身の私が、小学校を卒業してから坊さんになるために大阪に出てきて、港区にある寺で内弟子修行をしておりました。

とは申せ、まだ「子供」でしたし、島育ち故、水泳には自信がございましたから、私が大正橋のたもとで泳いでいた時に、たまたま通りかかられた歳雄先生から「コラッ! そこのボン、こんなとこで泳いだらあかん(危ない)で……」と怒られたように思います。「お前、名前何と言うんや?」と問われたので「はい松下といいます」と答えると「ええ名前やないか」と褒められた覚えがあります。

その後、二、三度お目にかかる機会があったのですが…。長じて、昭和59年(1984年)にWCRP(世界宗教者平和会議)の第4回世界大会がケニアのナイロビで開催された折にご挨拶をしましたら、最初にお会いした時から30年も経つというのに、私のことを覚えていてくださいました。「十五、六の時にお世話になった松下です」とご挨拶しますと「おう君か、これから頑張れ!」と声をかけていただいた思い出がございます。

それから、私は、龍雄先生もご卒業なされた天王寺区の高津高校(註:三宅龍雄師が卒業した旧制の高津中学が、戦後、新制の府立高津高校になった)に在籍をしておりましたが、だんだんお寺のほうの修行が忙しくなりまして中退いたしました。それから定時制のほうへ入ったんですが、今宮の工業高校で学びながら修行したこともあります。近畿大学に入学してからは、剣道ばかりしていました。

五年祭を迎えさせていただいた今、お世話になりました初代の歳雄先生、二代龍雄先生、そして当代の光雄先生の三代にわたる先生方のご芳情にあらためて感謝している次第です。昭和20年代からいろいろとお世話になっております。どうも有り難うございました。


IARF財務委員長
ジェフリー・ティーゲル


J・ティーゲル氏
バストショット

三宅光雄先生をはじめ、本席にお集まりの皆様、私はこのパーティーに招待されている海外からのゲストを代表して一言ご挨拶を申し上げたいと思います。そして、私は先ほどもご紹介いただきましたように、IARF(国際自由宗教連盟)という国際NGOの役員をいたしております。その年次国際役員会が明日から京都でございます。

この度は、三宅龍雄先生の五年祭という日本の伝統的な宗教行事に、われわれをお招きいただいたことに、まず感謝申し上げたいと思います。私は残念ながら、最近になってIARFの役職に就きましたので、亡くなられた三宅龍雄先生とは直接面識がございませんけれども、長年、IARFの業務を親身になってお世話くださった三宅善信先生をはじめ、昨年9月にインドにおいてIARFの会長になられた三宅光雄先生を通じて、龍雄先生のお人柄に関するお話を度々聞かせていただきました。

IARFという団体は、1900年にボストンで創設された世界で一番古い諸宗教対話の団体ですが、昨年(2010年)9月に、南インドのケララ州コーチという町で、ダライ・ラマ14世法王を基調講演者としてお招きし、われわれの第33回世界大会が開催されました。その世界大会の席上で、三宅光雄先生にIARF会長に就任していただきました。現在、IARFは、三宅光雄先生、そして日本のIARF加盟団体である各ご教団のいろんな方々のご援助によって、恙なく運営されております。明日からの国際役員会議において、私共はIARFのこれからのことについて考えることになっております。

実は、IARFは3年前に運営上の危機に直面しました。それまでは、英国のオックスフォードという大学街に国際事務局があったのですが、運営上の危機に瀕した時に、大阪の金光教泉尾教会が「国際事務局の施設を無償で提供しますので、どうぞお使いください」と申し出てくださったおかげで、その危機を回避することができた訳でございます。本日は、泉尾教会以外にも、日本のIARF加盟団体の先生方が大勢お見えになっておりますけれども、IARFはこういった日本のご教団の先生方が大変な尽力をしてくださったおかげで、将来の展望が拡がった訳でございますので、この席をお借りしまして先生方にお礼を申し上げたいと思います。

今回私たちは、現在日本国が直面している3つの大きな混乱―大地震、大津波そして原発の事故―がある中で、日本へ来させていただきました。残念ながら、最近日本は世界の中で注目されない国になってしまっていたのですけれども、今回のこの大地震を通じて、本当の困難に直面した時の日本人の立派な振る舞いに触れて、あらためて世界中の人が本当に日本人のことを思っていて―それは、今まで日本が世界のためにしてきたことを含めてなんですが―世界中の全く多くの無名の人々が、いろんな国で義援金とか募金を集めてくださいました。英国に住む私が「近々、日本に行く」と周囲に伝えたところ―本当に名もない一般の人々のお金ですから大した額じゃないのですが―本当に世界中の多くの人から「日本に行くなら、是非これを届けてほしい」と義捐金を託された訳です。

このような困難な状況下にもかかわらず、海外から来日したわれわれIARF国際評議員を、泉尾教会をはじめ日本の先生方にこのように歓迎していただいたことに、私は心から感謝申し上げます。本日は、本当に有り難うございました。


曹洞宗審事院 監事
国際宗教同志会 会長
村山廣甫

(写真1103五年祭曹洞宗村山0828: 村山廣甫師 バストショットで全員大きさを揃えて)


村山廣甫師

ご紹介に与(あずか)りました村山廣甫でございます。自坊は、豊中市にございます曹洞宗東光院「萩の寺」という花のお寺でございます。ただ今、仰々しいほどの肩書きをご紹介いただきましたが、実は国際宗教同志会というのは、昭和二十二年に龍雄先生の先代であられる歳雄先生と、今こちらに居られます一燈園の先々代である西田天香先生、そして同志社大学の総長であった牧野虎次先生たちが、宗教・宗派を超えて、人間が人間であるために尽くすことが宗教家であるということから、大同団結されて行動された関西では最も古い宗教対話の会ではないかと思います。

10年ほど前、三宅龍雄先生が善信先生と共にお寺に来ていただきまして、私に一言申されたことを未だに覚えております。ちょっとご披露申し上げます。私は、曹洞宗という宗派に属しておりまして、今度の津波では(東北地方で被害にあった宗教施設の)5軒に1軒が曹洞宗でございます。現地では1,000カ寺以上が被災しており、また、たくさんの僧籍にある方々が亡くなっておられます。いろんな宗派を超えて行動するということは、いったいどういうことだろうか?

そう思いました時に、龍雄先生がおっしゃられた言葉を本日はメモして参りました。「人間が人間に習うて使いをするのがわれわれの仕事です。宗教の違いなど関係ありません」このようにおっしゃいました。非常に温かいお言葉でございます。それから私は「泉尾教会には必ず行こう」と思いました。講演会へも講師として招いていただいたこともありますし、あるいは、いろいろな意味でお諭しを頂いたりいたしました。本当に温かい気持ちで龍雄先生を偲ばせていただいております。

われわれの教団も実は「シャンティ国際ボランティア会」というボランティア組織を持っております。元々は「SVA(曹洞宗ボランティア会)」という名称でしたが、この名前ではNPO法人にはなれません―「宗教の名前を冠した団体がNPOの法人格を取得できない」なんて、今の日本の法律のほうがおかしいですね―ので、「シャンティ国際ボランティア会」と名称を変更いたしました。私がWFBY(註:世界仏教徒青年連盟。タイに本部を置く世界各国の仏教連盟の上部組織の青年部門)の議長を務めさせていただいた時に、初めて全日本仏教青年会の理事長が曹洞宗から出ました。

現在、曹洞宗の財政部長をしております神野哲州老師が、曹洞宗災害対策本部員としてシャンティ国際ボランティア会の職員を連れて1週間かけて被災地を回ってまいりました。現地でいろいろな情報を集めまして、私の長男で全日本仏教青年会の理事長でございます村山博雅に「こうしなさい、ああしなさい」と言ってきておられます。これはある意味におきまして、われわれのお寺とか教会が砦として存在するだけではなしに、仏や神を見ようと思ったら、やはり「孤独とそして貧困とそして今窮乏されている方の中にこそ神様や仏様を見てほしい」ということに尽きると思うのでございます。

そういう意味におきまして、国際宗教同志会は、その先見の明においても、また、その活動の継続性においても、かけがえのない団体です。そのような団体の会長にさせていただいたことに感謝しつつ、二度とない人生でございます。今後ともに、両三宅先生にいろいろとお教えを受けながら、皆様と共に頑張りたいと思っております。偲びまして、「三宅龍雄先生、本当に有り難うございます」と申し上げたいと思います。本日は有り難うございました。


謝 辞

金光教泉尾教会
総長
三宅善信

この度の五年祭では、泉尾教会でのご祭事の際に、祭主の御用というおかげも頂きました。会場におられる儒教研究の第一人者の加地伸行先生と目が合いましたので、今、思いつきました話をさせていただきます。論語に「子曰く、父在(いま)せばその志を観よ。父没すればその行いを見よ。 三年父の道を改むるなくんば、孝という可(べ)し」という句です。

私の祖父三宅歳雄は96歳まで長生きしたものですから、本日、先生方から頂戴したお言葉にも再々ご紹介いただきましたように、父は長年、副教会長として祖父の留守居役として、泉尾教会を守り、72歳にしてやっとご自分が教会長になられたのも束の間の6年半で、今から5年前に帰幽した訳でございます。普通でしたら、長らくナンバーツーの位置にいた後にトップになったならば「よし、俺だったらこうする。ああする」と思うものかもしれません。

しかし、父は徹底的に亡き祖父―泉尾教会では大恩師親先生と申しておりますが―のやり方そのままを、論語の「三年父の道を改むるなくんば」の倍以上の期間にわたって続けられました。その後、私の兄であります現教会長が、また同じように、祖父の築かれた道を歩んでおります。これこそ「孝の極み」だと思います。

また、先生方から、「歳雄先生、龍雄先生の薫陶を受けて、光雄先生も善信先生もよくやっておられる」との身に余るお言葉を頂戴いたしました。穴があったら入りたいくらい恥ずかしい限りです。いろんな国際会議や諸宗教間対話の集まりで、いつも吼えているのは私でございます。本夕ご来会の先生方にもお心当たりのある方もいらっしゃるでしょうが、現教会長である兄と私とでは、また全然違う訳であります。

本当に亡き父の霊も、本日ご参会いただいた先生方お一人お一人の顔を見て、心から感謝申し上げていると同時に、「どうぞ、3人の息子たちのこともよろしくご教導ください」と申していると思います。あのような大震災が起こったわけですから、この3日間ぐらいの間にバタバタと、東京方面や東北方面の30名ぐらいの先生方から「なんとか調整して参拝させていただきたかったが、どうしても出席が叶わず申し訳ない」と連絡をいただきました。また、本日ご参会いただいた先生方の中にも、被災地に関係者の方々や、ご宗派ご教団の方々が居られると思います。そのようなお忙しい中、ご来臨賜りまして真に有り難うございます。

残念ながら、泉尾教会の桜は、ここ数日急に寒くなりまして、間に合いませんでしたが、今日やっと一輪咲きかけました。おそらく、この後、教会に戻ったらもっと咲いていることと思いますが…。「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず.」という句がございますように、年々人が変わっていくのは世の常でございますが、その中でこうして変わることなく泉尾教会を盛り立ててやろうとのご厚情、本当に有り難いことと思っております。どうぞ皆様、今後とも泉尾教会をご指導ご鞭撻賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。本日は真に有り難うございました。


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