三宅龍雄先生を偲んで

東京大学大学院教授
島薗 進

金光教の教祖と教団のことについて勉強したいので、金光教の本部や教会の方々を紹介していただきたいと故柳川啓一先生にお願いしたのは、今から30年以上も前のことである。私はまだ26歳だったかと思う。大学院の博士課程に進学してわずか1年ばかりという青二才である。当時の金光教東京出張所の皆さん(亡くなった方もあり、教団の重鎮の先生方もおられる)のご尽力により、御霊地を訪問し、初めて教主お出ましをお迎えし、本部お広前に参拝した。帰り道に紹介していただいた各地の教会をお訪ねしたが、そのひとつが泉尾教会だった。話には聞いていたが、眼前に現れたりっぱなご神殿に驚き、やや気圧(けお)されるような思いもあった。

初代教会長、三宅歳雄先生が若輩者にご面会下さり、宗教の未来について熱く語られ、若い宗教研究者を励まして下さったのには感激した。だが、それとともに20歳も年長の三宅龍雄先生が懇切にご案内下さり、勉強の足りない私がお尋ねする未熟な質問に丁寧にお答え下さったのが印象的だった。「実意丁寧」の金光教と聞いてはいたが、信徒数が多くて勢いのいいこの泉尾教会は、たぶんプライドが高くて、自慢話を聞かされるのではなかろうかなどと考えていたが、すっかり予想と食い違った結果となった。

その後、WCRP(世界宗教者平和会議)をはじめとする日本の宗教協力の運動において、泉尾教会が大きな役割を果たして来られたことを知るようになった。自己の主張を外向きに訴えるというよりは、どんな他者でも静かに受け入れるような気風が目立つ金光教であるが、活発な対外活動をくり広げる泉尾教会は際だった特徴を持っている。どうして泉尾教会によってこのような独自の展開がなされたのか、ますます関心が高まった。怠慢のため、その後、一向に研究が進んでいないが、この問題はいつも私の頭の片隅に置かれている。生前に龍雄先生にもっとお話をうかがっておけばよかったと思うが、今はもうその術(すべ)がない。

初代教会長、三宅歳雄先生の信心が「世のすべての人の難儀を祈る」という特徴あるものだったことは龍雄先生もしばしば語っておられる。初代教会長がいただかれた神様のお言葉、「如何なる難儀に出遭うとも、恐れず心配せず、神に祈れ。おかげを授ける。大きい信心せい。自分ひとりの助かりでなく、世のすべての人の難儀を祈り助けよ」は、金光教の信心に新しい次元を切り開いたと言えるだろう。大きな大きな「御神願」のビジョンを打ち出された偉業は日本の宗教史に残るものだろう。

これは初代教会長が激動の20世紀を身をもって生き抜かれ、第2次世界大戦の苦難のさなかを生き抜かれながら見いだしていかれた世界だ。また、戦後、ひときわ高まった世界平和への祈りの時代に、青年のような情熱を持ち続け、つねに前向きに歩み進まれたたゆまないご努力の賜物であろう。戦前の日本人が世界の中での自己の位置を捉えそこね、失敗した理由を深く自らに問い直さなければならなかった時代に、その責任を果たしつつもひるまず前進する姿勢を貫く中で、今日の泉尾教会の基礎が築かれた。自信喪失に沈みかねなかった戦後の日本人に対して、初代教会長は見事に新たなビジョンを示された。

では、龍雄先生は初代教会長のこうした「大きい信心」をどのように受けとめられたのだろうか。龍雄先生は偉大な初代教会長の影に隠れ、つねに初代教会長に寄りそうようにしてその生涯を過ごされた。副教会長になられてから教会長になられるまで、実に38年が経過している。父上の片腕としていわば一歩下がってその生涯の大半を過ごされたのだから、そのご苦労が偲ばれる。いつも父上との関わりで自らの役割が意識される立場におられたのだが、それは容易なことではなかっただろう。

だが、龍雄先生はその持ち場を飄々(ひょうひょう)と受けとめておられた。そして、初代教会長もそうした龍雄先生を大いに信頼し、頼りにしておられた。とりわけ、世界の知識人や学者とのおつきあいにおいて、龍雄先生が果たされた役割は小さからぬものがあった。事実、大学教員という立場になって以後の私が、龍雄先生と親しく接する機会をいただいたのは、主として宗教界と学界との交流の場であったが、そうした場で龍雄先生は大切な役割を果たし続けておられた。

主に京都で会議が行われる「現代における宗教の役割研究会」(コルモス)は、そうした集いの中でもとりわけ意義深いものである。キリスト教学の中川秀恭先生や安斎伸先生や幸日出男先生、仏教学の雲井昭善先生や奈良康明先生、神道学の上田賢治先生や薗田稔先生、宗教哲学の西谷啓治先生や上田閑照先生、浄土真宗本願寺派の大谷光真門主や大本の廣瀬靜水総長など、日本の著名な宗教関係者、宗教学関係者が多数集い、名論卓説を語り合われる。そうした重々しい方々と話があい、うち解けたおつきあいができる宗教者は多くない。だが、龍雄先生にとってはそれはたやすいことだったと思われる。

学界との交流ということでもうひとつあげたいのは、東京に本部がある国際宗教研究所である。これはGHQの宗教政策に関わったW・ウッダードと東大宗教学の岸本英夫先生が設立したもので、コルモスよりはもうひとつ社会の現場に近いところで宗教者と学者の交わりを持とうとするものだった。宗教者や宗教学者と社会、マスコミとの接点という点で独自の役割を果たしてきた組織である。ウッダードの後には、デヴィッド・リード、ヤン・スィンゲドーなど欧米から日本にやって来た宗教学者が大きな役割を果たし、一時は、英文の宗教研究誌も刊行していたから、国際学術交流の上でも見落とせぬ団体だ。龍雄先生はこの国際宗教研究所にも長年にわたって関わりを持ち、宗教者と宗教研究者との交流に多大な貢献をして下さった。

私が今こうして龍雄先生の思い出を書くような立場にあるのも、私が深く教えを受けた脇本平也先生、柳川啓一先生、田丸徳善先生、井門富二夫先生、阿部美哉先生らと龍雄先生の長年にわたる交流があってのことである。これらの諸先生は、コルモスと国際宗教研究所の双方において、龍雄先生と度々楽しい交わりの時をもたれたのだった。脇本先生、柳川先生、田丸先生、井門先生、阿部先生らにとって、龍雄先生は日本の宗教界の学界に対する窓口としてたいへん貴重な存在だった。 

宗教界にとっても同じことが言えるだろう。宗教団体の知的活動の支えという点でも、WCRPのような対社会活動を行う上でも、龍雄先生のこうした人脈が果たした役割は大きかったと思う。宗教関係の諸学界のこれだけ広い範囲の方々と交わりをもっておられた宗教者はさほどおられない。今後もそうした方はなかなか出ないだろう。初代教会長の補佐役として学界との交流に力を入れられたこと、宗教学を中心とする学問の世界に広く通じておられたこと、国際交流の豊かなご経験に支えられた広い知識、そして肩肘のはらない気楽なおつきあいのスタイル――こうしたことによって、龍雄先生は目立たぬ形で日本の宗教界と学界に大きな恵みをもたらして下さったのだった。

第2次世界大戦後の日本宗教の国際交流活動は、日本宗教史上とても重要な意義を持っている。WCRPのことはすでに述べたが、他にも世界連邦建設同盟や国際自由宗教連盟の活動は、世界の諸宗教の相互理解の試みとして、また宗教界による世界平和への貢献の企てとして時代を先導してきた。伝統教団のいくつか、大本、立正佼成会、妙智會教団など、教団をあげてこうした活動に取り組んでいる例はあるが、金光教泉尾教会は金光教の中の一教会として取り組み、他の諸教団にまさるとも劣らない貢献をして来られたのはあっぱれという他ない。

それを可能にしたのは、初代教会長、三宅歳雄先生と二代教会長、三宅龍雄先生の呼吸のあった共同作業だったと思う。龍雄先生のご逝去の際、たぶんあの世の初代教会長は「ご苦労様だった」と心からのねぎらいのお言葉をかけられたのではなかろうか。お二人が過ぎ去った事どもをお話になりながら、この世に残る後輩たちに温かい眼差しを送っておられるさまが想像される。いつか私もお二人の近くに参って、生前のご厚誼のお礼を申し上げ、その後の学界のことなどご報告し、四方山話(よもやまばなし)のときを過ごしたいものである。