大きな教団の諸先生方が大勢居られます中で、大変小さなグループである私ども一燈園の西田が乾杯の音頭をとらせていただきますことを大変恐縮に存じておりますけれども、また嬉しく思っております。
今日、泉尾教会に参りまして、ご神前の外殿に案内されたのですが、椅子に座る前に、光雄先生のご母堂であられる壽賀子奥様のお手を握らせていただき ました。泉尾教会のあの立派な会堂は、昭和43年に落成したんですけれども、実はその建設工事の際に壽賀子奥様も、ご奉仕をされるご信者さん方と一緒に一 輪車で土を運んだりされたお話を直接お聞きしたことがありました。壽賀子さんは、とても優しくきれいな方なんですが、その時に「私の手はとても硬いんです よ。触ってごらん」とおっしゃったのを思い出し、今日ご挨拶させていただいた折に握手させていただきましたが、その手からその硬さはすっかり取れて、
これまでのいろんな歴史を思い出します。私の祖父である初代の西田天香は歳雄先生よりも31歳年長でしたが、戦後の混乱の中、日本が精神的に曲がら ずに立派に立ち直っていくためには、宗教界のトップの人たちが協力して、仏教も神道もキリスト教も、あるいは伝統的な宗教も新しい宗教も「手を取り合って 立ち上がろう!」という動きが昭和22年の京都で起こりました。いわゆる宗教協力、宗教対話の始まりでありますけれども、そして、同志社の総長であられた 牧野虎次先生が会長に、そして三宅歳雄先生が副会長になられて、私ども一燈園が事務局を担当させていただいて、国際宗教同志会が創設されました。
それから23年経って、1970年に世界宗教者平和会議(WCRP)が発足いたします時に─ちょうどその前年に私の祖父が亡くなりましたけれども ─、歳雄親先生がわざわざ一燈園にお越しになり「WCRPにどうしても入れ!」とおっしゃって、まだ若輩であった私を引き立てていただいた覚えがありま す。
そういった関係がずっと続いておりまして、二代目の龍雄先生、それから三代目の光雄先生とも親しくさせていただいております。特に光雄先生は私より ずっとお若いのですが、極めて宗教的な感性が大変高いといいますか深いといいますか、常に感心している次第であります。本当にこの金光教泉尾教会様が、三 宅光雄先生やご信者の皆様と共に、ますます発展されることを、そしてご来賓の皆様方のご健勝を祈念して乾杯したいと思います。皆様、今日はおめでとうござ います。乾杯!
鏡開きのため登壇されたご来賓諸師
三宅歳雄先生は本当に立派な宗教家だったと思います。金光教泉尾教会の歩みを顧みますと、昭和十三年、神戸の山津波(土砂流)の救援にご信者を 500名も派遣しておられるとか、あるいは大阪大空襲で家を失った250人の一般市民の方々を教会に受け入れられたなど、当初から人々のために救済に乗り 出しておられます。それから、ソ連のフルシチョフ首相やダレス米国国務長官やオーストリアのコーネル大統領やインドのガンジー首相など、多くの有力者の 方々と早くから深い親交を結んでおられます。
でも、なんといっても、この三宅歳雄先生のお偉いところは、第二世の龍雄先生のみならず、三世にあたる光雄先生や善信先生、修先生を立派に育てられ たことも尊敬すべきことだと思います。大阪ではよく「三代はもたん(もたない)」と言われています。すなわち、大阪の人たちは教育に不熱心なんです。ある 大阪の偉い人が「大阪の学校には競争原理が入っていないから大阪の公立学校の成績が悪い」と言っておられますが、私はそれは間違いだと思っております。ま た、日教組は「貧困が大阪の学力レベルを下げている」と言いますが、これも必ずしも正しくないですね。平均県民所得の低い秋田県の子供のほうが、豊かな大 阪府の子供よりもはるかに成績が良いですから、貧困を教育レベルの低下に直接結びつけて考えるのは間違いだと思っております。
では、いったい何故、大阪は学力が低下したのか? 実は大阪には─現在は違いますけれども─職場があったため、「商売には学問は必要ない」と、子供 に教育を付けなかった訳です。関東で大学進学率が一番低い県はどこかといいますと、東京の隣の埼玉県なんです。すなわち、「東京」という職場に労働力を供 給することができるので、勉強は必要ない訳です。逆に一番学歴の高い県はどこかといいますと、長野県なんです。長野県には、東京やかつての大阪のように、 十分な職場がありません。したがって、子供たちには学力を付けて大学を出させて就職をさせるということであります。すなわち、「職場があるから子供には学 問は必要ない」ということを念頭に置いて正しい判断をしないと、民主党は正しい政権運営ができないと申し上げたいと思います。
三宅歳雄先生はお孫さんの1人である善信先生に薫陶を授けて、ハーバード大学まで留学させられた。また、修先生もニューヨークでWCRPの国際業務 を経験させられた。次男や三男は実力を付けないと社会で生きていけない訳ですから、善信先生や修先生には、外国に行って実力を付けさせられた。ご長男の光 雄先生には、国内で宗教者としての人格を磨かされた。泉尾教会では確実に三代続いて、そして、今の三代目世代が、また子供さんたちを立派に教育されること と思います。泉尾教会が今後益々発展していかれることを祈念いたしております。本日はご盛会、誠におめでとうございます。
ただ今ご紹介に与りました、金光元正と申します。この度、泉尾教会の御布教八十五年記念大祭が、麗しくお仕えになられましたことを心よりお祝い申し 上げます。私は時折、人様から「金光元正さんは教祖(金光大神)からいうと、どのような関係ですか?」と聞かれることがございます。ただ今、丁重なご紹介 をいただきましたが、少しばかり金光教祖との関係から説明させていただきたいと思います。
私は金光大神の曾孫でございます。祖父は、金光山神と申しまして、明治十六年(1883年)に教祖が亡くなりました後、教祖の生前の願いを受けて家 督を継いで、教祖から始まりました金光の家を治めると共に、教祖のみならず先祖の御霊を祀ってまいりました。それを受けて、父がお守りしてきた教祖と先祖 の
泉尾教会とのご縁につきましては、私の個人的なささやかな思い出ではございますが、その中のひとつふたつをお話しさせていただきたいと思います。私 は、幼い頃に岡山にございます金光町で、初代の三宅歳雄先生のお姿を、時折遠くからお見かけいたしておりました。1950年頃のことだったと思いますが、 当時、10歳前後だった私は、金光教本部の境内と、そのすぐ傍にあります教祖奥城周辺の広場で2歳上の兄とよく遊んでおりました。ある日、2人が遊びを終 えて境内を通って家路につきました時、私たち2人とは逆の方向から三宅歳雄先生を先頭に本部広前に参拝なさる団体参拝の大きな隊列に出くわしました。私た ち小さな子供2人が正面から出会った訳ですが、その時、先頭を歩いておられた三宅歳雄先生がサッと
二代教会長であられた三宅龍雄先生は、金光教本部の会議にも度々出席されています。私も、本部の職員として同じ会議に出席した時など、先生から親し く話しかけてくださいました。ある会議の折、休憩時間に私の所へ来られ「ちょっと…」と声をかけられました。先生がおっしゃるには「あのね、泉尾教会の広 前会堂は、5、6前に新築させていただいたんですが、ちょっと確かめたいことがあるんです」。と申しますのは、本部広前の会堂が新築される前に既に泉尾教 会の会堂は竣工されていたんですが、「泉尾教会の参拝者入り口の足下の上がり
私は先生と一緒に会堂へ出向き、広前の職員の許可を取った後、先生が上がり框の部分を手でなぞるように触って、確か持参されたメジャーを使って測っ ておられたのを覚えております。この時の先生のお姿を見せていただいている時に、お教会の会堂は既に竣工して数年経っているにもかかわらず、建物の一部と はいえ、どこまでもご本部のなさった会堂建築の精神に添いたいという龍雄先生の思いがあるに違いないと感じさせていただきました。先生の、何事も神様そし て教祖様へ、人としての限りを尽くして信心を進めていこうとされる誠に純粋な信仰姿勢に胸が熱くなっていったのを覚えております。
今、お聞きいただきました私個人の一方的であり、かつ非常にささやかな思い出ではございますが、私の中では、泉尾教会のみならず光雄先生をはじめ、 ご家族の方々と何か強い、そして、ほのぼのとした繋がりを感ぜずにはおれないものがございます。泉尾教会御布教八十五年記念大祭に捧げる言葉に代えさせて いただきたいと思います。有り難うございます。
この度は、金光教泉尾教会布教八十五年大祭の意義ある節目の時に、記念祭典にお呼びいただきましたこと、さらには本席におきまして挨拶の機会を賜りましたことに深く感謝を申し上げたいと存じます。
金光教泉尾教会さまと私どもの立正佼成会とのご縁は、「宗教協力」という共通の平和事業に携わってきた歴史に端を発しております。三宅歳雄親先生の類い
私の父であります庭野日敬は、昭和四十七年に刊行された『平和への道』という著書の中でこのように書き記しております。「私は政治・軍事・外交・国 際問題の専門家ではありません。しかし、「平和には専門家はない」という学習院大学教授の飯坂良明先生の言葉に力づけられ、宗教家としての立場から平和を 考え、平和を希求し、平和を訴えたい、と意図した次第です」。庭野日敬は、その生涯を通し、平和を真剣に希求する多くの指導者との出会いを頂戴して参りま した。泉尾教会さまの歴代の教会長先生方からも共に時代を牽引する協働者として、平和を阻害する国内外の諸問題に取り組みながら、宗教者としてのメッセー ジを発信し続けてきたのでありました。
泉尾教会様の85年にわたるご布教の歴史が、多くの人々の物心両面にわたる救済につながり、さらにはこれからの時代を担い得る平和への貢献者が一層 輩出され、益々大きく役割をお果たしになりますことを心から祈念いたしまして、措辞ではございますが私の挨拶とさせていただきます。本日は誠におめでとう ございました。
三宅光雄先生、三宅善信さん、金光教泉尾教会の信者の皆様、本日の八十五年記念大祭、誠におめでとうございます。私が、金光教との関わりを持ち始め たのは、上智大学の修士課程を終えて神道国際学会という研究機関への参加を通して三宅善信先生と親しくなってからのことです。今日のようなお祝いや、いろ んな活動に招待あるいは参加をさせていただくことによって、三宅光雄先生や三宅善信先生からいつも温かいお心遣いをいただき感謝しております。
昨年は、三宅善信先生から、ローマ・カトリック教会の長であるベネディクト16世にお会いになられた時の報告を写真と共に送ってくださったこと、ま た、忙しい日程の合間を縫って南アフリカ共和国で開かれたCOP17国連気候変動枠組会議に参加された折に、現地からアフリカの伝統芸術の絵はがきを送っ てくださたことにも感謝しております。
金光教の信者の皆様や本日ここにお集まりになったご来賓の皆様も含めて、世界が一番求めているものは「平和」だと思います。私は、コンゴ民主共和国 から参りました。コンゴという国は、資源はなんでもある国です。しかし、世の中で一番貧しい国で、今でも燃えて(治安情勢が不安定)います。今日頂いた写 真集『真をつなぎて』にもあるように、このような情勢下で、三宅歳雄先生が提唱された「平和のために働き、平和のために祈る」ということは、これから三十 年経っても百年経っても、私たちに与えられた終わりのない課題だと思います。本日はお招きいただき、誠に有り難うございます。
私は禅僧でございます。国際宗教同志会に禅宗の者が入らせていただいたことも珍しいことですが、ご縁がありまして、理事長の光雄先生を応援する意味で会長をさせていただいております村山でございます。
今朝起きました時には「ああ、お天気になった。良かったな」と思いました。私の自坊は通称「萩の寺」と申しまして、四季を通じて花がいっぱいありま す。今も咲いている花もあるんですが、私が一番好きな花は咲いておりません。「それはきっとハギだろう」と思われるかもしれませんが、実はそうではないん ですね。モクレンなんです。そのモクレンの花がだいたい3月頃から咲き出しまして、大きな花を咲かせます。寿命が3日ほどですぐに散ってしまいます。3月 ならばもう
昨年、ご縁がありまして光雄先生たちとご一緒に被災地の石巻へ東日本大震災慰霊祭に行きました。私たちが訪れたお寺は八幡太郎義家が前九年の役で安 倍貞任と宗任兄弟を破った本陣があった東北地方随一の由緒あるお寺でした。普通ならば慰霊祭開始のお迎えがありますとサッと中へ入られてご本尊のほうへ行 かれると思うんですが、先生は私のお願いを聞いてくださって、大津波の被災者のお骨が一杯積み重なって安置されているご本尊裏の内事の所へ行かれ、ちゃん と装束を召されて、しばし5分間ほど拝礼された。それを見た時に「これが清風を起こすということだ」と思いました。彼は素晴らしい宗教家です。そのお祖父 様がご布教された泉尾教会が85年経った。この85年経った今、歳雄先生はどう思われているだろう…。そう思いますと、素晴らしいことだと思います。
本日はたくさんの素晴らしい方々にお会いさせていただき、と同時に、光雄先生と善信先生の力量を見させていただいて、ひと言だけ申し上げたいことが あります。どうか、これまでの姿勢をこれからも貫いていただき、今以上に益々発展されますことを祈りたいと思います。そこで、今日はひと言書いてきた言葉 があります。幕末の儒学者佐藤一斎という人が書いた言葉があります。これは陳腐な言葉かもしれませんが、大変なことだと思います。「一燈を
まったく突然のご指名で、何を話して良いのか判らないのですが…。また、既にお酒を相当頂戴しておりますので、混乱もいたしております。どうぞ、私 の話をお聞きくださる皆様方のほうで、何が言いたいのか適当に繋ぎ合わせていただきたいと思います。支離滅裂が私の本領でございます。どうぞよろしくお願 い申し上げます。
本日は誠におめでとうございます。先程来いろいろな先生方からお話を聞かせていただきまして、それぞれ懐かしく、また、その当時を思い起こさせてい ただき「自分も齢を取ったな」と思わせていただきました。いずれにせよ、人間は本来、120歳までの天寿があるそうですが、心配する毎に、あるいは激怒す る毎に、ひとつずつ寿命を減らしていくんだということです。ですから、本当に幸せな人は120歳まで生きられる。これが人間が本来持っているところの天寿 だと京都大学のある先生に教えていただきました。
それならば、しょっちゅう激怒したり怒鳴ったりしている私は、いろんな面でカッカしておりますので、多分「人生は短いだろうな」と思っていました ら、その先生から「まったくその通りだ。80歳まで生きられるかどうか…」と言われました。しかし、今年ようやく80歳にならせていただきました。これも いくらかWCRPや三宅先生にお出会いをさせていただいたおかげだと思います。どうかこれからもよろしくご指導を頂きますようお願い申し上げ、私の挨拶と させていただきます。有り難うございました。
本日は、金光教泉尾教会御布教八十五年記念大祭大変おめでとうございます。AYC(世界連邦アジア青年センター)の仲間を代表して、ご挨拶を述べた いと思います。現在、AYCはインド、ネパール、バングラデシュ、スリランカ、タイ、パキスタンといったアジアの国々で活発に平和活動を行っております。 明日はAYCの役員会が金光教泉尾教会で開催されますが、こちらも同様に楽しみにしております。
本日は、記念すべき日を皆様と共に祝えることを光栄に思っております。最後に三宅光雄教会長様をはじめ、三宅家の皆様に心よりお祝いを申し上げたいと思います。