青年会創立77周年大会 記念講演
『違いを超えて共に手を取り合って』
弓矢八幡副教主
前WCRP青年部会幹長
林 丈嗣
6月13日、創立77周年青年大会が開催され、前WCRP日本委員会青年部会幹事長で弓矢八幡副教主の林丈嗣先生が、『違いを超えて共に手を取り合って』という講題で記念講演を行った。林先生は、ご自身の宗教者としての現場体験と、WCRPを通じて知り合った多くの宗教指導者の方々との交流を通して学んでこられたことについて、熱の籠もったご講演をくださった。本サイトでは、本講演の内容を数回に分けて紹介する。


◆緊張と緩和のセットで

皆さん、こんにちは。本日は、歴史ある泉尾教会の創立77周年の青年大会にお招きいただきまして、このように講演をさせていただくことを大変光栄に思っております。今日は祭典に引き続いてのお広前での講演で、後ろに神様が控えておられるせいか、恐縮いたしております。

さて、私は今年で、厄年も済み、数えで43歳になります。こうして、少し白髪も出てきて、「青年」には程遠くなってきているんですが……。先ほどパワーポイントのプロジェクターを使って、こちらのお教会の青年会の方々がインドでの活動を報告しておられました。素晴らしいことだと思います。WCRP(世界宗教者平和会議)日本委員会の青年部会には――私も長年メンバーに加えていただいておりましたが――多くの若い青年たちが海外での活動を通して、感銘を受けて帰ってきます。彼らは感銘を受けるだけでなく、そのことによって、彼ら自身が変わっていくのですが、その様子を見ていると、「私もこのような経験をこの会(WCRP)を通してものにさせていただいたんだなあ」と、私自身も当時の体験を振り返らせていただくことができました……。


力強い記念講演を行なわれる
林丈嗣弓矢八幡副教主

皆さん、厳粛なご祭事の直後だからか、少し元気がないようですので、まず、緊張をほぐすために、ちょっと別の話題から取り上げてみたいと思います。近頃は子供たちも、日本の伝統芸能である能や狂言に興味を持っているそうですね。古典芸能というものは、たいてい延々5、6時間は、演目が続くのですが、必ず「対(つい)」にして演じられる能と狂言のそれぞれがどういう役割を持っているか、ご存知でしょうか? 「能」は「緊張」を表し、その間に「狂言」という「笑い」をもってきて、これを「緩和」させる仕組みになっています。この緊張と緩和の緩急によって、観客は数時間も続く芸能を楽しむことができる訳です。

狂言は非常におもしろいです。日本本来の「笑い」というのが、この中にあるんですね。笑い方ひとつとっても、狂言では「ハァーッ、ハァッ、ハァッ」と大声で笑いを表現します。翻って、能では、扇を面(おもて)の口元に当てるぐらいで、ほとんど「笑い」という感情を表現しません。これは皆様の前でお話をさせていただく際に、「何かに応用できそうだな」と思いましたね。神道でも厳粛なご神事と楽しい直会(のうらい)といった二つの異質なものがセットになっております。

私は弓矢八幡という――俗に言う「八幡さん」ですが――神社の神主でございます。神主でございますから、祝詞(のりと)(=金光教の拝詞のこと)やお祓いもいたしますし、また、ご祈祷もいたします。金光教様でも、形式的には、それに似た行為をされると思いますが、それでは、「何が違うか?」と申しますと、まず、神様が違うんですね。だから違う宗教なんです。しかし、「その奥にある精神は変わらないのだ」ということが、私もだんだん判ってまいりました。本日は、その辺りのお話もさせていただこうと思います。まあ「話をする」というよりはむしろ、「語りたい」と思っております。ですので、皆さん、今日は語り部の話を聞くように聞いていただけたら、と思います。


◆八百年前からの林家先祖代々の因縁

私どもの弓矢八幡宮では、いろんな「行」があります。どういうことをするかと申しますと、滝に打たれたり、(京都伏見の)稲荷山で病気を治すための祈願をしたりいたします。私で三代目になるんですが、伏見のお稲荷さんのすぐ裏手に「道場」を持っております。本部の所在地は、温泉で有名な和歌山の白浜町にありまして、私共はその近くの日置川町というところにあります。ここは、川・海・山と三つの地の利があるところですが、人口も5,000人足らずで、ずいぶん過疎化が進んだ地区です。そこに、古くから弓矢八幡宮がありました。

歴史を遡りますと、私の3代前の教祖に当たる方に、4人子供がおられたのですが、長男(6歳)と次男(5歳)を自分の因縁の身代わりから亡くします。そして、今から68年前の話になりますが、ご自身の夫がまさに亡くなられるというその時に、以前、本家で――私の家は分家になるのですが――祀られていたそうですが、その当時は既に祀られなくなっていた八幡さんのご神体を床の間に持ってきて、祀られました。

そして、夫君の末期の瞬間にご神霊の神がかりになられました。その時に、林家先祖代々の因縁、また、これから進むべき道は「人助けの道一筋の道を歩め」と、神様から示されました。それまで、祀られていなかった神様のことは、周りから「八幡さん」と呼ばれていたのですが、「弓矢八幡大明神として祀るように」とお告げがありました。

このことも含めて、どういうことが私の先祖に起こったのかが、最近判ってまいりました。先ほど申しました白浜町は、熊野水軍一党の地でございます。この地では、今から800年ほど前に、源平合戦の際に、海軍力の弱かった源氏が海上貿易で財を貯えた平家と互角に戦うために――こうして平家は壇ノ浦で滅びるのですが――弁慶が義経の命を受けて、熊野別当(註=熊野三山を統括していた高位僧の役職名)湛増(たんぞう)、つまり弁慶の父君に、「熊野水軍を従来の平家支援の立場から、源氏へ変わって応援してほしい」と頼みます。当時、庶民たちは苦しんでおり、いつか源氏の時代が来ると思ったわけです。このようにして、頼朝の時代がやってくるわけですが……。

こうした争いは、400年ぐらい前まで続きました。林家はこの熊野水軍を司る家の子孫なのですが、戦時代の1530年頃、私どもの村で内乱が起きました。これは叔父と若君が対立するのですが、その当時から、林家は八幡さんを祀っていたようです。最近『安宅一乱記』という古文書が出てきたのですが、一党は因旛の国(鳥取県)から渡ってきたようです。戦国の世には「身内同士で争った」という記録が各所で残っておりますね。

教祖が林家の因縁について語ったところによると、若君の家督相続の時に、本来、先君の跡を継ぐべき若君が幼少であったため、「彼が成人(16歳)したら、その家督を返還してくれ」という条件で、一旦、叔父(若君の父の弟)にその家督を預けます。しかし、若君がその歳になられても叔父が家督を返還しなかったため、家老職についていた(私の先祖である)林対馬太郎基春が現在の殿(叔父)のところへ諌言しに行きましたが、逆に、その場で首を刎(は)ねられるという事件が起こりました。そのことが発端となり、内乱が起きたのです。

そういう因縁を受けて、私のところは、先祖代々教祖の代に至るまで、様々な不幸ごとが重なってきて、弓矢八幡を祀ることになりました。この古文書に載っている、この因縁に関わった人々の子孫のほとんどは、現在は信者さんです。「縁」というのは400年、800年遡っても遡ることができるんですね。皆さんもこうやって、ここの金光教泉尾教会に来られている。ということは、何かしらの深いご縁があるわけです。
そして、こうやって違う神様の前で私が語らせていただくということも、どこかで繋がっているんでしょうね。私の先祖と皆さんが繋がっているかもしれない。まあ800年遡ったら、日本人のほとんどは親戚になるそうなんですが……。


◆WCRPで学んだこと

話を中東に転じて考えてみますと、あちらは、日本の歴史よりはるかに長い3,000年、4,000年の長きにわたって、殺し、殺され、恨みを残している。そんな繋がりが元にあって、今のパレスチナの状況があります。ひとつひとつの兄弟喧嘩も、何世代も経て、繰り返されるんですね。

今、こうやって世界の諸宗教の指導者たちが平和について取り組むWCRPの活動をさせていただいてるこの最中にも、まだ依然として貧しい国があり、紛争の絶えない国があります。私が(青年部会の活動を通して)関わったことのそもそもの経緯は、1979年にプリンストンでWCRP世界大会が開催された時のカンボジアプロジェクトでした。その時に、スベット・ソンという、カンボジア国会のある党派の党首(註=首相や国会議長を歴任したソン・サン氏)の息子さんが「今、カンボジアで大変なこと(註=毛沢東主義のポル・ポト政権による人民の大虐殺と伝統文化破壊)が起こっている。これをどうにかしてほしい」と、その大会の席で訴えかけられました。


林丈嗣弓矢八幡副教主の記念講演に
耳を傾ける青年会員たち

その時に立ち上がられたのが、今も活動を続けているこの青年部の初代の方々でした。比叡山の山田能裕先生、松緑神道大和山の故田澤豊弘先生、そしてもちろんのこと、この泉尾教会のご先代様であられる三宅歳雄先生のお力を借りて、青年たちがカンボジアに行きました。まだ地雷なども残っているような時に、先陣を切って、状況を視察しに行ったわけです。当時、「大勢の知識人が殺された」ということもあり、「カンボジアの文化を復興する礎とは何か?」という観点から、「失われた(カンボジアの言語であります)クメール語の書籍の復刻をWCRPにお願いしたい」との依頼がありました。それから毎年、何万冊にもわたるクメール語の復刻書籍を贈呈しに行くことになるのですが……。

そのような歴史的経緯のある中で、私は第7次の贈呈団に参加させていただきました。平成2年(1990年)頃でしたか、当時私は、大学を卒業して、石清水八幡宮に三年間奉職させていただき、勤めを終えた直後の頃でございます。この復刻書を渡しに行く最中にも、当時は既に親ベトナムのヘン・サムリン政権によって中央政権を追われ、一地方勢力になっていたポル・ポト派の迫害にあって、住民たち約200人が着の身着のまま、母親は乳飲み子を抱えて、難民キャンプに逃げ込んでくるような状況でありました。


◆すべての行動は心に起因する

その頃の私は、まだ石清水八幡宮で3年間奉職させていただいている最中でしたが、これを辞して、弓矢八幡へ帰らせていただいた直後のことであります。平成2年(1992年)だったと思います。

そういう中で、若輩者がカンボジアに行かせていただき、これまでなんと贅沢な祈りをしてきたか……。私たちは形の上では祈ってはいるけれど、あの人たちは、まともに祈ることもできず、食べるものも食べられず、そんな中で、必死に仏様に手を合わせておられる。私たちの祈りと比較した時に、格段の差があります。クメール・ルージュ(ポル・ポト政権)の大虐殺と社会混乱の「生か死か」という究極の状況下で――カンボジアはもともと仏教国ですから、そういう中でも――御仏の心に縋(すが)りたい。その姿を見た時、今まで自分が経験してきた「信仰心」というものの概念は、完全に崩れ去ってしまいました。「なんと贅沢(ぜいたく)な……」「なんと思い上がった……」そのような思いに改められたような気がします。

その後、カンボジアへは何度か足を運ばせていただき、合計7回に及びました。訪問する度に「自分がやるべきことがどういうことであるのか?」「自分一人でもいいから、カンボジアに残って何かお手伝いをさせていただけないものか?」と思案することも一度や二度ではありませんでした。

しかし、私のお役目は、今、泉尾教会の若先生が日にち取り組んでいらっしゃるように、私共の使命として、自分が経験したことを皆さんにお伝えしていかなければなりません。そのため、カンボジアの現状に対する理解を深めてもらうために、幾度となく、さまざまな研修会や学習会を開き、また一方で、支援するためのチャリティバザーも何度となく開催させていただきました。ですから、皆さんも、それぞれの役割の中から経験したことについて、感動をもって、さまざまな思いを込めて祈っていただきたい。また、行動をとっていただきたい。

今、悲惨なカンボジアの話を聞きながらも、私の目の前で寝かかっている人がおります。こんなふうに話を聞き流すのもひとつでしょう。しかし一方で、一生懸命目を輝かせながら話を聴いてくださる方もいます。これらは皆、その人の持っている気持ちの表れだと思うんです。すべての「行動」や「形」は、「心」が起因になっているんです。この泉尾教会の先代親先生であられる三宅歳雄先生は、常々「祈りなさい。祈りなさい」とおっしゃっていましたが、これは「祈っていたら、なんとかなる」というような意味ではありませんよね。祈りの芯には、いつも燃えたぎる心で行動を起こす決意があったと思うのです。ですから、三宅歳雄先生が、手を合わせて私共に「有難うございます」とおっしゃられる時は、その後ろにいつも光を感じました。それは、なんというか……、親先生の「思い」であり、心が表れていたのだと思います。

しかし、その「行動」が相手に響くか響かないかは、相手がどう受け取るかも大切だと思うんです。ですから、今、寝ておられた人を責めたのではありませんよ……。心の持ちようが通じれば、話も楽しく聞けるけれど、嫌々ながら聞くと、眠たくなってしまう。

話をする側とて同じで「あなたのことが好きですよ」という思いを持って話をすれば、相手も乗ってきますけれど、嫌々ながら話せば、聞いている者も眠たくなってしまう。もちろん、「昨夜、勉強しすぎたから」など、別の要因があることもあるでしょうが……。


◆禊からはじめさせてもらって

青年というものは、そういう燃える思いが大きければ大きいほど、行動にすぐ移せますし、また、それこそが「青年」だろうと思います。私も、現在、青年たちを指導する立場にあるわけですが、そのように感じますね。もちろん、各々が、人生の目的を見つけることもすばらしいですが、何かきっかけを与えられることもひとつの契機になるでしょうね。例えば、海外への旅行もそうですね。

青年たちに本当に心から感動を与えるものは何かないか? といろいろ考えまして、今から6年前に始めたのですが、私どもでは、12月23日の天皇誕生日に、特別の修行をしております。それは何かと申しますと、三宅光雄先生も卒業された「神主の学校」である国学院大学を私も出ておりますが、そこで学んだ種々様々な事柄の中で、今でも私がとても身近に感じることに「禊(みそぎ)」があります。

12月23日に、私共の本部の目の前にある日置(ひき)川に入水するのですが、これが青年たちにとっては驚異的なことでした。最初の頃は「先生、(心臓麻痺で)死んだらどうしますか?」と言う者もおりましたが、私は「死ぬか生きるか、やってみないと判らん。しかし、気持ちがあったら入れるでしょう!」と答えました。

最初は4人ぐらいで始めました。12月も23日になりますと、水温もだいたい5度か6度。外気温は零度から−2度ぐらいになります。そんな中で、大声を出して禊をいたします。その時に、大声を出さないと自分が潰れるのが判ります。そうして、自分の力というものがよく判るんです。一生懸命やったら、これを乗り越えられるんですが、気持ちが入ってないと、もうそれには耐え切れないのです。そういう中で、自分がどれだけできるか? ということを、自分が知らないと、その水には入れませんですからね。人の心は体も動かし、心も動かす。

私共では「一心一体」というものの学びを、この12月23日にさせていただき、今日まで続けてきております。今では、参加者の数も40名から50名となりました。しかし、大変な行であることには間違いないことですので、参加される方の年齢は「60歳まで」と制限させていただいております。しかし、青森の松緑神道大和山のほうへまいりますと、92歳のご高齢にもかかわらず、まだ毎日禊をされておられる方がいらっしゃるそうです。極寒の津軽の地での厳冬の禊ですから、「心」とは凄いものです。祈りというのは、そういう中から生まれるものなんでしょうね。また、そうでないと、本当に人の「心」は動かせない。

私も今はこんな声になってしまいましたが、昔はアグネス・チャンでも歌えたくらい高音が出たん(会場笑い)です。ところが、禊をし過ぎまして声を潰しました。私はお酒が好きなので、お酒も飲みながらカラオケもよく歌います。「それで声が潰れたんじゃないか?」と陰口を言われますが、内のほうでは年に2回、禊の「行」を持っております。その間、約3時間、休みなく延々と祝詞(のりと)(=大祓詞)を上げさせていただきます。最初の頃は、喉から血が出ました。そしてしばらくの間、一切声が出なくなります。そのような状態が5年ぐらい続きました。

何故、そんなことになるのかと申しますと、滝に入ってその前で祝詞を上げるのですが、その滝の音に負けないように声を張り上げるわけです。今、眠たそうな方もいらっしゃると思いますので、どのくらい大きな声を出すのか、皆さんにその時の状況をちょっと再現してお見せしようと思います。「高天原に神鎮まります……」(朗々とした声で大祓詞を唱える)これを3時間ぐらいずっと上げていきます。その間、喉を氷で冷やしながら、加持祈祷というものをさせていただくんです。このような行をするので、私共はこういう声になるんです。そして教主(註=林丈嗣師の父君で弓矢八幡教主の林馨師)の声と私のそれはだんだん似てきております。


◆行動を起こす勇気を

しかし、その時に私たちの気持ちが神様と繋がらない場合があるんです。金光教にも「あいよかけよ」という、良い言葉がありますね。「私たちも一生懸命やりますので、どうか導いてください! この病気をどうか治してやってください!」と……。その一心の祈りの中で、やはり皆さんもおかげを頂いてきたのだろうとお察しします。「繋がっている人」と「繋がっていない人」神様がほんとに抱き抱えてくれるような者になるには、心の持ち方が大切なのかもしれません。「君はまだここまで来ていないから、いろんな試練を受けて、それから進みなさいよ」という場合もあると思いますが……。

今日頂いたテーマは『違いを超えて共に手を取り合って』ですが、確かにわれわれには「違い」があるんですが、その「心からの祈り」や「行動のあり方」というものは、すべて「神様に対する敬虔な気持ち、一生懸命の祈りと行動」から発していると思うんです。

今、そのような祈りが「自分には足らない」と思っている方はおそらくたくさんいらっしゃると思います.例えば、私も電車の中で年配の方がおられると、「どうぞ」と気持ちよく「席をサッと譲りたい」と思っているのですが、実際に行動に移すまでには、ほんのちょっとした「勇気」が必要です。その「勇気」はどうやって出すのか? その答えは自分の心と経験の中にあります。

今、ここにも青年の方がたくさんおられますが、やはり「実際に現地に行ってみて、その場所に立ち、体験しないと分からないことはたくさんある」と伝えたいのです。映像だけでは分からないものがあります。そこで実際に経験する出遭いや触れ合いなどが必要だと思います。


◆いのちがけで教えてくださった教祖

  今、こうして大きな声で皆様にお話しさせていただいておりますが、実は、私もあがり症だったんです。本当は……。大学生の時に伊勢の神宮で神職の実習がございました。もちろん、祝詞は全部覚えており、宙(ちゅう)で上げられるはずなんですが、実際に「清祓い」を行う時は、最初にお祓い(天津祝詞)を上げます。その時、神楽殿には、ご祈祷を受けられる方が20名ぐらいおられました。私は装束を着けて、神殿へ上がって――お仕儀をしたんですが、まったく祝詞が出てこない。頭の中が真っ白になって。そのうち震えてきまして、また――礼をして何も言わず帰ってきました(会場笑い)。

そのくらいあがり症だったんですが、その間、いろんな経験をさせていただく中で、大学を出てから、京都の石清水八幡宮に3年間お世話になりました。その間は、神職として、ご祈祷だけでなく、ボーイスカウト等の活動もさせていただきましたが、そういう中で、石清水八幡宮で習ってきたことの中には、内(弓矢八幡)と違う点もたくさんありました。まったく違う生活でした。まあそういう中で、「祭事」をきっちり教える先生に教えていただきました。ところが、3年間奉職する中で、病気になります。病気平癒のご祈祷をする神主さんが病気になるというのはちょっとおかしいんですが、まあそういう中で、3年を迎える時に、いろんなその神秘的なことを受けさせていただくわけであります。

自分が病気になっていく中で、いろんな夢を見せていただいて――教祖(註=林丈嗣師の祖母 林アサ師)は、まだその時は存命でございました――そういう中で、「君にあるものが憑(つ)いている。それを祓うためには一生懸命祈らなくてはいけない」そういうことがあったので、奉職3年目の半年ぐらい経った時に、15日間、休職をさせていただきました。その時、教祖は91歳でありました。私がもし、もうそれ以上心が病んでいくと、自分でいのちを果てるかも判らない。そういう状態まで行きました。そういう中で、教祖が祈られて15日間、私に「最後の教え」をするわけですが、その半年後に教祖は亡くなりました。その時こそ「神様の祈りというものは凄いものである」と、いのち懸けで教えられたと思います。

そのことが私にとって、祈りというものは、ただ「お祈りをしました」というだけではなく、「本当にいのちを懸けてお守りしてくれる」そういう方がおられるからこそ、導かれて、先ほどの岡松さんの感話でも「ご両親がお祈りをされたおかげで、私がこうなりました」と、そういう風な言葉を発せられるということは、ご自身も苦しい思いを抱えながらも、患者さんに接する中で生み出された、共感を伴った、本当に感動の涙であろうと思います。

そういうことから考えましても、私たちが普段、それほど意識してない豊かな生活に対し、どう感謝を申し上げて生きるか? そういうことが必要ではなかろうかと思っております。「違いを超えて……」私と皆さんは、神様も違う、信仰の場所も違いますけど、心は繋がることはできるんです。今日、ここでお話ししたことは、皆様が日頃から思っておられることとよく似ているんではなかろうかと思います。

まあそういう中で「平和に向かう心」というもの。大きなことですけれど、その自分が平和の心を持たないのに、相手に「平和になれ」といっても無理でしょうね。憎しみや苦しみを心の内に抱いたまま幸せになろうと思っても駄目です。まず、自分自身が幸せの心を養い、平和への思い・祈りを心の中に持つことが大切だと思っております。


◆光雄先生からのご命でしたら

こうした活動を通して、私は泉尾教会の三宅光雄先生と出会いました。それにしても、光雄先生は本当に勢いのある先生です。私も勢いはいいほうだと思うのですが、光雄先生はもっと凄い。次から次へと青年部会にいろんな挑戦や責務を与えられ、また、実際に陣頭指導されました。特に幹事会になると「はい。これが貴方のお役目です」と、各幹事の職務が決められ、逃げられません。

例えば、1990年に実施された日韓青年交流会では「林君、コンサートの司会をしてくれ」と申されました。これがどういうことかと申しますと、「1200名もの聴衆の前で話す」という仕事なんですね。先ほど申し上げましたように、私はもともと「上がり症」でしたが、「厭だ」などとは言っておられません。この時期は、日韓関係がいわゆる「教科書問題」によってこじれた時ですが、しかし、自分が逃げないのはもちろんだけれども、相手も逃げない。そういったぎりぎりの状況の中で試されるわけです。しかし、青年期にこのような繋がりの中で、様々な状況を通して鍛えさせていただいたことが、得難い経験になっていったと思っております。

その後、青年部会の幹事長を2年間務めさせていただき、「そろそろこのお役目の幕引きを」と考えていた折にも、光雄先生が「30周年の式典は、必ず君が一番上に立ってしなければいけませんよ」とおっしゃいました。歴代の幹事長様のご賛同も頂き、もう一期お受けすることになったわけですが、本当にいい式典をさせていただけたと思っております。結局、この時も、大きなけじめをつけて幹事長という大役を引かせていただいたわけです。こうして、やるべき時にはやらないと、何ごとにせよ物事は成就していかない。そういうことなのだろうと思います。今回も同じような状況ですね。ある日、光雄先生が私のところへパッと来られて、「林君、今度、うちの青年大会でこういった仕事(註=今回の講師の役)をしてくれますか?」と切り出されたわけです。普段から光雄先生には何かとお世話にもなっていますので、私は先生のお頼みでしたら断れないですね。

先ほど、カンボジアへ向かう贈呈団に参加させていただいた折の話をさせていただきましたが、その他にも様々なエピソードがあります。例えば、先ほどこちらのお教会の青年の方々が報告会を行われたインドへ私も行かせていただいたことがあります。その時はコインバトールという所に行きました。インドはあまり交通事情もよくありませんし、時間の約束にしても、良く言えばおおらか、悪く言えばルーズなところがあります。こんなことがありました。

文化交流会を予定していたある日、事前に休憩を少し頂いていると、ちょうどその間に「文化交流会が中止になった」という連絡が入りました。その時は、私が団長を務めておりましたので、まずは私が抗議の先陣を切ります。私は、ホストを務められたインドの青年たちに「この交流会は、事前に時間を決めておいたプログラムではないですか。日本側はこの交流会のために、わざわざ浴衣まで持参して準備をしていたのに、何故、一言も伝えずにそれを変更したのですか? そういうことなら、私たちは帰らせていただきます」と伝えました。この時、われわれは浴衣を着て盆踊りをする準備をしておりました。それなのに、なんの相談もなく、急遽その会をキャンセルしてしまったわけです。

そんなふうに、日本抜きで予定を変えられてしまうのなら、日本側も協力することはないでしょう。この様子を見ていたアメリカ人の方が、見かねて仲裁に入ってこられましたが、交流というものが、こういった信頼醸成のための地道な活動の積み重ねの上に成り立つことを考えると、やはり私としても簡単に引き下がるわけにはまいりません。


◆日本の当たり前が通用しない

 結局その場は収まったのですが、時には、やるべき時にやり通すために、意に添わない時は、スパッと思っていることを伝えるのも大切ですね。何しろ全く違う習慣の上に生活している者同士なんですから、お互いの気持ちを相手に伝えることは非常に大切な事柄です。しかし、できるかぎり「やる」と決めたことはやらなくては……。インドでは、万事こういった感じで「ノー・プロブレム(問題じゃない)」を繰り返されることは、いささか堪えましたね。結局、その文化交流会は、翌日に執り行われることになりました。

 「ちょうどその日に、隣村から住民が太鼓を叩き、踊りながらこの村へ来るから、その日にしましょう」という提案があったんです。最初に聞いた話ですと、夕方の「4時に来る」ということでした。しかし実際、彼らが村に着いたのは翌朝の2時! 真夜中ですよ。それでも青年たちは、深夜の2時から早朝5時まで3時間、踊り続けました。もうヘトヘトに疲れているんですが、「隣村の住民がこんな風に訪れるということは、かつてなかったことだ」と聞くと、やはりこちら側もその場の大切さを感じますから、それに応えるわけですが……。中には、初めて参加した青年たちもいることを考えると、このままの状態でプログラムを進めていくなら、彼らの体調などにも注意を払わなくてはなりません。おまけに時間にルーズなところだから、何が起こるか判らない。そこで私は「予定している飛行機に乗れず遅れて帰れない、なんて事態になってしまっては大変だから、1日早く現地を発とう」と予定を変更して、日本へ帰ることにしました。

その一行に、現地での食事がひとつも取れないため、毎日持参したジュースだけを飲んでいたドイツ人の青年が「僕も一緒に連れて帰ってほしい」と加わり、コインバトールからボンベイまでタクシーを飛ばしました。これでもう問題はないか? というと、そうじゃないんですよ。このタクシーも大変でした。バッテリーが上がるということだったので、お客であるわれわれが水を入れたやかんを持ち、時々エンジンを冷やしながら、なんとかボンベイに辿(たど)り着いたのですが、そのドイツ人がタクシーのドアを開けようとすると、そのドアが取れました(会場笑い)。というようなオチまで付きましたが、とにかく帰って来れて、ほっとしたこともございました。

海外に行くと、本当にいろいろな経験をさせてもらえます。日本では「当たり前だ」と思っていたことが、全然当たり前ではなく、通用しない。例えば、日本では、電車に乗るにしても、ちゃんと時刻表どおりに分刻みで列車が到着しますけれど、インドでは「来るはずのバスが来ない」なんてことはしょっちゅうあります。そうやって他国と比較して考えてみると、日本人の勤勉さをあらためて思い知らされますね。けれども、彼らの暮らし――時間に捉われない、ゆったりとした生活――の中にも、やはり見つめるべきものがたくさんある。そうして初めて「本来、日本人というのはどういうものであるか?」ということを考え、歴史や伝統文化を知る意義に目を向けることもあるのではないでしょうか。


◆心の繋がりを訓練して

先ほど皆さんにお話し申し上げた能と狂言の違いの話も、こうやって考えると、興味深い話になってくると思います。心を落ち着かすためには、緊張と緩和が必要……。その中に、本当の笑いが出てきたり、深い繋がりができてくる。しかし、そういうことを、はたしてわれわれは本当に理解しているでしょうか? そういった意味でも、昔から大切にしてきた「心」を取り戻す場というものが必要なのではないか、と思っております。

神様が実際に目に浮かんでくる人は少ないですけれど、心を感じ、伝えることはできますし、また、そのことを解ろうとする努力が必要だと思います。しかし、残念なことに、私たちはそういうことにおいて努力をすることが少なくなってきているように思います。何かあれば、直接話すよりも、相手にメールを打つことを選ぶ。それなのに、メールの返信が返って来なかったら来なかったで、心配でたまらない。このメールが本当の心の繋がりになるのかどうか、私には判りません。むしろ、直接相手と会って、お互い話をしないと解らないのではないか? と思います。

つい先日も、長崎県で小学6年生の女の子が引き起こした痛ましい事件がございました。「インターネットのチャットで中傷され、感情的なものが爆発した」と言いますが、もっと会って直接話していれば、ああいった惨事には至らなかったかもしれない。そのためにも、普段から、見えない心の繋がりをしっかりと訓練し、人の心や痛みが解るように子供たちを育てなければ、と思っております。

これは私の信仰のお道の話になりますが、初めてお会いする方なのに、会った瞬間から、その方の痛みや病気が判る時があります。「ここが痛いでしょう。それから、ここも痛いですよね」といった具合に感応するんです。そうして、今度はその痛みをどうしていくかが大切です。そこのところを神様にお願いしていく場合、例えばこちらの金光教さんでしたら、「お取次」をしていただき、神様にご報告申し上げることによって、神様と繋がっていきますね……。つまり、われわれが悩みを抱えたとしても、そこに必ず「窓口」があるわけです。そう思うと、私たち1人ひとりも、人の心の痛みを感じられるような「窓口」を心の中に持つことが大切ではなかろうかと思っております。

そういえば、こんなこともありました。韓国で開催された第1回日韓青年交流会の折、翌日は独立記念館に行くという日の晩のことです。それ以前に「日本人から酷い仕打ちを受けた日帝時代の資料館がある」ということは聞いておりましたが、その晩に見た夢が、なんと自分が裸になって鞭で打たれる夢なんです。その上、本当に痛みを感じるんですよ。翌朝「おかしな夢を見たな」と思いつつ独立記念館に入りましたが、そこに展示されていた蝋人形を見て驚きました。髭を生やした日本の軍人が、韓国人を鞭で打っているのですが、その韓国人の姿こそ、まさに昨夜、私が夢のなかで鞭打たれた姿そのものだったのです。「韓国には、苦しい状況の中で思いを残し亡くなった方がたくさんおられるんだな。それを知らせるために神様が私に見せて下さったのだな」そう思いました。

そういう中での日韓交流……。その道をつけられた光雄先生もさぞやご苦労されたことと思います。当初は「日韓」と書いただけでも叱られ、「韓日と書け」と言われました。本当に言葉だけでも大変な恨みや、ぶつかり合いがございました。ミーティングも今よりずっと長かったと思います。その頃を思えば、現在は日韓の青年たちの交流もより進んできておりますし、「次のステップに入った」と申し上げていいでしょう。それほどWCRPの日韓青年交流は成功裏に進んでいると思います。

最近は「今度は、中国やアジア各国に向けた次なるステップを踏み出そう」とか「日韓の交流の輪を拡げよう」そういった動きも出てきております。この新しい動きを支えている今日の日韓の交流の発展は、光雄先生が先陣を切って切り開いていただいたおかげです。何しろ、なんでも最初の切り出しというものは大変なご苦労を伴いますから……。むろん、どちらの教団においても、どのような会においても、最初は苦労されていらっしゃると思います。そういったことを切り抜けるためには、よほどの覚悟がないと乗り越えられないものがあるでしょうね。


◆心がすべてを動かす

  先日、難民委員会で黒部ダムを訪れたのですが、皆さんは黒部川第四発電所へ行かれたことはありますか? 俗に言う「黒四ダム」です。戦後、「これから日本が経済成長をしていくうえで、電気はより必要になってくる」と関西電力が立ち上がり、大変な苦労の結果、建設されたものです。しかし、あの発電所は完成するまでに、実に171名の犠牲者が出る難工事でした。そういった厳しい状況を抱えつつも、関西電力の社長さんは社運を賭けて肚を決めているわけです。その社長さんが言った言葉に「100パーセントの仕事なんか存在しない。果敢に前を向き、70パーセントを乗り越え成功させてこそ、その仕事そのものが成就していく。では未知の部分である残りの30パーセントはどうか? というと、すべて運を天に任せて乗り越える力が必要である」というのがあるそうです。厳しい言い方ですが、一度成功することは皆、できるのです。しかし、関西電力には今もなお、171名もの犠牲の上に成り立った誇りある黒四ダムの他にも17基の原発がございます。

余談ですが、原子力発電がいかほどの電気を生み出しているかというと、今、水力発電所を18基造ったとしても1基の原発にはかなわないぐらいなんですよ。だから、原発の力は「並外れて凄いものだ」と言えるし、また同時に、「ひとつ道を間違えると、その事故は大惨事になる恐れがある」とも言えますね……。原子力発電を例にとって「良いものはできても、必ずその裏には、苦労された方々の苦しみや心、行動がある」というお話をさせていただきました。

泉尾教会の青年会も発足して77年経ちました。この部会を興(おこ)した時点から、今に至る継続の歴史の中にも、先人の方々の思いがあり、並大抵ではないご苦労の中に継続されてきたんだろうと思います。そういったことに思いを馳せると、私が今、こうやってお話をさせていただき、本当にお役に立てるのかどうか判りません。ただ判っていることは、「心がすべての物事を動かし、その行動がさらなる全てを生み出してゆく」ということ。祈りの内に自身のするべきことを「こうなるんやな。ああなるんやな」と導いてくれる。やはり、神様は皆さんを常々見ておられると思いますね。

 「私の住む町は熊野水軍の一統だ」という話を最初にしましたが、そういう風に時代を遡れば、皆、繋がる。先祖に繋がっていく力があります。先祖に繋がるのは日本人だけとは限りません。人間としてのルーツを考えればどんどん遡っていける。モンゴル人の顔と私たちのそれとも似ているでしょう? やはり、どこかで繋がっているものがあるんです。モンゴルの人々が拝んでいるのは、日本の神様とは違います。しかし、どこかで精神的なものが繋がっている。

ところで、皆さんの中にモンゴルの伝統音楽である「ホーミー」をご存知の方はいらっしゃいますか? これは神様と交信する音楽なんですが、おもしろいことに、われわれが上げる祝詞の音程やユーミン、中島みゆきの音程と非常に近いそうです。小さなお子さんをお持ちの方でしたら、思い当たる方もいらっしゃるかもしれませんが、財津一郎さんが出ておられるピアノのCMなんですが、ある音程に来ると、子供がぴたっと泣き止むそうです。「音」というものは時空を越え、私たちの心の問題をも飛び越えて、心の深層部に入って来ます。共通するものは必ずあるんです。だから「神様に通じる。仏様に通じる」また、動く神に通じることは、どこへ行っても通じる、ということです。


◆ボスニアまで届くご神縁

それを教えていただいたのは、泉尾教会の先代親先生であります三宅歳雄先生も行かれました、1994年にイタリアで開催された第6回WCRP世界大会で、青年部会がボスニアを訪れた時のことです。これは苦しい戦乱の中にある子供たちにプレゼントの詰まった巾着袋を渡す「愛のポシェット運動」と呼ばれる活動なんですが、そのためにUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)を通じて、ユーゴスラビアの紛争地域の中へ入らせていただきました。ただし、受け入れ側が出した条件が「4人しか入国することができません」ということでしたので、われわれの中から選抜した1名に入ってもらいました。

この時、運転をしていただいた人が早川さんという「国境なき医師団」のメンバーの方で、JENという日本の緊急支援ネットワークの中でお仕事をされていました。この方に「ボスニアの現状を撮りたい。なんとか1枚写真を撮らせてもらえないだろうか?」と頼んだのですが、彼曰く狙撃手(スナイパー)に間違われて撃たれるかもしれない、「危険だ」ということで最初は一向に許してもらえませんでした。そうして、一枚も写真を撮ることなく現地に入りました。

現地は停電も頻繁に起こり、食事も何時になるか判らないような状況でした。そのような状況でしたが、「コミュニケーション」より「飲みにケーション」が好きな私は、早川さんを忍ばせて持ってきていたお酒で釣ろうかな、と考えましてね。ところが不思議な縁とでも申しますか、私が早川さんに「どうか写真を撮らせてくれないか」と交わしていた会話の中でこんな発見があったんです。早くに亡くなられた弓矢八幡の信者のお子さんにあたる方に、早川さんという彼と同姓の代議士をされていた方がいらっしゃるんですが、その時に「代議士をされていた方で早川さんという方を知っているんですが……」と話をしたんです。すると彼が「その方は私の叔父です」とおっしゃったんです。それからです、状況が一変したのは……。明くる日から「ビデオを撮ってもいいですよ。写真を撮ってもいいですよ」とまあ、おっしゃることがコロッと変わったんです。まあ、何にせよ有難いことです。狙撃兵(スナイパー)に間違われないように隠しながらですが、ビデオを撮らせていただきました。

それにしても、偶然、仕事でお世話になった日本から遠く離れたボスニアで働いている方が、弓矢八幡さんでお祈りしていただいている信者さんのお孫さんであったこと。そういう縁によって「海外にあっても導かれている」ということを知って、「こんなところまでご縁を繋げてくださる神様とは凄いな。私たちは計り知れないところまでご縁を頂き、平和に向かうための絆を作っていただいているんだな」と本当に感動いたしました。


◆大切なのは継続すること

こうして様々なご縁を通して、私たちは見えないうちに神様から鍛えていただき、心身ともに健康にさせていただいているのですね。世界は依然として、平和に向かうには程遠いのですが、それでも1人ひとりが心から祈り、自分を改革し心身を磨くことが必要です。そうして年齢を重ねながら魂を磨き、次の世代にいのちを繋いでいく。今を生きるわれわれには、そういう大きな役割があるということを感じさせていただきました。

私ももう44歳になり、すでに「青年期」ではありません。しかし「青年」というのはただ年齢が「若い」ことを指すのではなく、その人の燃え上がる気持ちや、行動を起こす意志の強靭さ。それこそが本当の「青年」であり、またわれわれも幾度でも「青年」の心へ蘇ることができる原点なのではなかろうかと思っております。実際、青年期にもやりたくてもできないことがたくさんあります。大切なのはそのような状況でも継続すること。いずれ目指す方向を見つけ、本当の自信が生まれることによって、物事をやり遂げるための十分な環境が整ってきます。そのような日々の繰り返しを通して、本物の平和の心が宿り、優しさが宿り、生きる魂が宿っていきます。そしてその姿に多くの方が感動を覚え、幸せになっていくのではないでしょうか。

そろそろ時間になってまいりました。順番を追ってお話をできたらいいのですが、今日は徒然(つれづれ)なるままに語らせていただきました。私自身、皆さんのインド訪問に関する発表に感銘を受けました。心から感謝申し上げたいと思います。また、教会長先生には、本日この場所に私をお招きいただきましたことに深く御礼を申し上げます。今回は三宅光雄先生から頂いたお話でしたが、少しでも私の話が皆様のお役に立てれば幸いです。

私も一生懸命お話をさせていただきました。これで私の「語り」を終わらせていただきます。本当に有難うございました。


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