創立76周年婦人大会 記念講演
『真実に生きる』
 融通念佛宗 宗務総長
山田隆章
7月15日、婦人会創立76周年記念婦人大会が開催され、約1000名の婦人会員が全国から参加した。大会では、融通念佛宗の山田隆章宗務総長が『真実に生きる』という講題で、熱の籠もった記念講演を行った。山田師は、日本社会の規範喪失の原因を、学校教育や家庭教育の間違いに求めるだけでなく、「真実という観点から、ものごとに対する価値判断を行うことが求められている」という趣旨の講演を行った。本紙では、数回に分けて、山田隆章師の記念講演を紹介する。


◆融通念佛宗とは?


山田隆章先生

皆様、初めまして。山田隆章と申します。どうぞよろしくお願い申上げます。先程来、泉尾教会のご神事に参拝させていただき、また、婦人会の年次総会に入り、会長様、連合会長様、そして、会員お二方の感話を聞かせていただきました。本当に皆様方のご経験、お祈りの姿、また、お話……。大変、感銘と感激をもって聞かせていただきました。「よくぞ、こんな場所にお招きいただけた」と、冥加(みょうが)をただ今感じておりました。

本日は、76周年の婦人大会ですが、まことにおめでたく存ずる次第でございます。これまで講演された数々の講師の先生方のお名前等を拝見させていただきましたが、私などまったくおぼつかない、ご高名、お徳の高い方ばかりでございます。そのような場に、大変深いご縁を賜りましたこと、晴れがましい場にお招きいただきましたこと、生涯の光栄と感じます。

先ほど連合会長様からもご紹介がありましたとおり、現在私は、平野区にございます融通念佛宗総本山大念佛寺で宗務総長を務めさせていただいております。「珍しい宗派もあるんだなあ」とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、平野の地に念仏の根本道場が開かれてから、すでに900年の歴史を誇る宗派でございます。この「融通念佛宗」という宗派は、浄土宗を開かれました法然上人よりは50年早く、また、浄土真宗を開かれました親鸞聖人よりは100年早く、日本で一番最初に生まれた国産の宗派でございます。開祖は良忍という、尾張の知多半島出身の方でございます。この人が比叡山で勉学を積まれました後、大原(京都市左京区)という地に下がられ、声明(しょうみょう)の修行をされました。おかげさまで、今日まで900年間連綿と続いてきましたが、現在では、大阪府と奈良県を中心に、京都府と三重県の一部にわずか357カ寺しかない小さな宗団でございます。

本日は許された時間の内に、皆様の心に訴えられるようなお話ができますかどうか、大変心配しております。私は、30年間、ある男子高等学校に勤めた経験がありましたけれども、本日は、その時とはうって代わって、大勢の女性を前にお話をさせていただきますから、それだけでも身震いしますよ(会場笑い)。


◆物は満ち溢れているけれど……

先ほど、連合会長であられます泉尾教会の親奥様がご挨拶された中にもございましたけれども、今、世界では、イラク戦争をはじめ、各地で地域紛争や飢饉・飢餓あるいはテロが繰り返されています。いつ死ぬのか、いつ殺されるのか判らない状況下で生きておられる方がたくさんおられるわけです。

宇宙船「地球号」という、同じ乗り物に乗っているわれわれからしましたら、一日も早く平和がやってきて、戦争のない世界というものを築きたいと思います。また、今日までに起きた戦争やテロでお亡くなりになられた方々に、衷心(ちゅうしん)よりのご冥福をお祈りする次第でございます。

日本国内に目を向けてみましても、小学生の女の子が同級生をカッターナイフで殺してしまうような恐ろしい事件が長崎で起こりました。また、さらに驚きますことには、「昨年1年間で、41人もの子供たちが虐待によって亡くなった」と伝えられています。数日前には「祖母が孫を殺す」といった痛ましい事件も起こりました。子供たちにとっては、家庭内ですら安心して生活できない。

また、外へ一歩出ましても、交通事故や誘拐(ゆうかい)に遭うかもしれない。大人は子供たちに、「絶対、人を信じてはいけませんよ。誘われてもついて行ってはいけませんよ。他人はまず疑ってかかりなさい」と教えなければならない社会になってきたわけであります。

日本は今日、大変な経済不況下にあります。加えて、国と地方の財政赤字というものは、本当に膨大な数字の赤字です。また、失業者もたくさんおります。昨日は「大きな銀行同士が合併する」というニュースが報じられていましたけれども、また、これによって余剰人員のリストラが生じ、大勢の人が職を失う可能性が出てまいります。必ずしも「世界一の(規模の大きな)銀行ができる」からといって、それだけで喜ばしいこととは言えないわけであります。


山田隆章師の講演に耳を傾ける婦人会員たち

しかし、こうして、民間企業は「不況だ。不況だ」といい、「国や地方には膨大な借金がある」と世間では申しておりますが、実際、それぞれの個人のお家へお伺いしましたら、物は大変、潤沢にあります。預貯金にいたしましても、これまた大変、多くあります。恐らく皆さん方にしましても、「へそくり」と申しまして、あちらこちらの引き出しを開けましたら、かなりのお金が出てくるのではないかと思います。特に女性の方はたくさんお金をお持ちだと思いますけれど……。また、スーパーを覗(のぞ)きましても、品物は山と積まれております。本当に日本は物で溢(あふ)れているわけです。


◆いきがいの創出

加えて、日本は、世界一の長寿国になったわけでございます。物は溢れ、お金も潤沢にございますけれども、現代の人々は心の内面において本当に幸せを感じているのか? あるいはいきがい――充足感ですね――「本当に有難い。結構なことだ」と思いながら生活されている方が、いったいどれほどおられるのか? 今日、この場にお越しいただいている方は、このような例には該当せず、本当にお幸せに過ごしておられると思います。ですので、ただ今からの話は、「道路を隔てた向こう側」の話として、お聞きいただきたいと思います。

いきがいや充実感を感じないで生きておられる方がどれほどおられるのかということを考える上で、ヒントになるひとつの数字があります。日本では、昨年だけで3万2000人もの自殺者があったそうです。「不況だから」とか「生活が苦しいから」という理由だけで自分自身を殺(あや)められたわけではなく、いろいろな事情がございまして「こんなことでは生きていても仕方がない」とか「頑張っても仕方がない」と自らいのちを絶たれたわけでございます。3年続けて3万人以上の方が自殺されたわけです。この頃は「自殺」とはいわず、「自死」と呼ぶのが正しいそうですね。一日平均して、百名近くの方が自らいのちを絶たれているわけです。

幸せで喜びに溢れた人生を送るには、お金や物といった豊かさも、もちろん大切ではあります。しかも、日本人である私共は、それを十分享受させていただいているのではないかと思います。それなのに、小さな子供からお年寄まで、何かしら「イライラ・クヨクヨする」といった忸怩(じくじ)たるものを持っており、本当は「思い切って腹の中に貯めていることを言ってやりたいなあ」と思っていらっしゃる方も大勢いらっしゃると思います。人様よりも金銭的・物質的にも恵まれていながらも、寂しく、辛く、悲しい思いで過ごしておられる方もいらっしゃるでしょう。何故日本は、このような国になってしまったのか? 本日はそのようなことについて、2、3考えさせていただきたいと思います。


◆家庭のあり方から

このことを考えます時、私はまず、「家庭のありかた」というものが昔とずいぶん変わり、否、変わるというよりは「崩壊しつつある」ことが一番の原因ではないかと思います。

学校では先生が生徒に教えます。一方、家では親が子供に教え育てるわけであります。子供の側からすれば、先生から、また親から「学ぶ」わけですが、この言葉は「真似ぶ」という言葉が語源であります。つまり、「真似をする」というわけです。福沢諭吉という慶應義塾大学を開かれた先生が「口に依らしむべからず 目に依らしむべし」という言葉を残しておられます。

人を育てようと思ったら、口でとやかく言っても無駄である。それよりも耳を傾けている子供たちの「目に依らしむべし」だと……。そして、話をするものは全人格、それまでの生きざまを伝え見せていくことで、人は育てていくべきだと……。ですから、今の世の子供たちがこんな風になってしまったのは、大人の責任・親の責任の欠如ではないかと思います。

皆さんもよくご存知の、『サザエさん』という番組があります。8チャンネルで、日曜日の夜6時30分から放映されています。あの『サザエさん』という番組は、昭和43年の10月から始まり、実に36年間もの長きにわたって、ずっと続いてきた超長寿番組です。その上、平均視聴率が27パーセントもあるそうです。最近では、巨人と阪神の野球中継をしても、そこまで視聴率は上がるでしょうか? 『サザエさん』というのは、それほど大勢の方が見ている番組です。

私は常々、このサザエさん一家の面々……、サザエさんもワカメちゃんもマスオさんも、皆さん年齢(とし)を取らないことを不思議に思って見ておりますね。素朴な疑問ですが、皆さんも一度は思われていたことがあるでしょう。この番組の設定は、一軒家の中心ともいえる茶の間に卓袱(ちゃぶ)台、つまりお膳がございまして、それを囲んでおじいちゃんとおばあちゃん、お父さんとお母さんと、そして、子供たち三人で総勢七人の家族のやり取りが展開するわけです。その中でおじいさん(波平)はおじいさんとして、おばあさん(フネ)はおばあさんとして「私はこう思うよ」と言います。また親であるマスオやサザエも親として意見を言う。子供(サザエの弟と妹のカツオとワカメ、サザエの息子のタラ)は子供なりの現代的な感覚で「こうや」と言っています。


◆家庭の教育力を取り戻せ

この『サザエさん』の番組は、放映が始まった頃の――つまり今から40年ぐらい前の――平均的な日本の家庭の雰囲気を題材として創られたものですが、当時の日本は、それぞれの家庭一軒ずつに独特の香りや匂い、また、味わいや温もりなどというものが存在していたと思います。しかし、それらを現代のものと比較した場合、残念ながら「味わい」とか「温もり」などが、だんだん失われつつあるのではないかと思うのです。

それを家庭のあり方から考えると、おじいさんやおばあさんと同居する方が減ってきたことと関係があるのでしょうね。日本人の家庭というものは、おじいさんやおばあさんの姿――ご先祖様を大事にされ、あるいは神様仏様を信心されるお姿、信仰心――これを見ながら育つ子供たちは、小さいうちから自然とその姿を見習いました。そして「自分もこうしなければならないんだな」と、おじいさんやおばあさんの日々の生き方から、家族の温かい愛情を知り、また、厳しいけれども大切な躾(しつけ)が形成されてきたことと思います。一軒家の中で家族がそのようにして過ごすことにより、日本のすばらしい伝統文化が育まれてきたとも言えると私は思うのです。それ故に、諸外国の人々から「日本人とは礼儀正しい素晴らしい民族だ」とか「非常に謙虚さを尊ぶ人たちだ」と、私たちの独特の気質を美徳として一段崇めてもらってきたわけです。

しかし、昨年、首相を退任されたマレーシアのマハティールさんという方がいらっしゃいますが、彼は、一昨年に来日された折に目にした東京の印象を、かつての日本のそれと比べて「日本は好きですし、とてもいい国だと思っていました。長年、『わが国(マレーシア)も是非、日本のような立派な国になれたら』と思っていました。しかし、今回の日本滞在の印象から振り返りますと、日本から学ぶべきことは今は何もないように思われます」と言われてお帰りになりました。この話の根本を探ると、今の日本の家族制度における「教育力」がないことが非常に大きな問題であり、現在の変容をもたらしているのではないか? と私は思います。

昨日、所用がありまして、JR大和路線から大阪環状線へと乗り換えて、梅田の地下街を少し歩いたのですが、街中の若者を見ると、「ずいぶん凄いことになってきたな」と思わざるを得ませんね。若い女性の方はお臍(へそ)を出し、男性はズボンをお尻が見えるようなところまで下げて履いています。「これが現代の風俗、ファッションか」と感じ入った訳でございます。こういった現状に対して、私はまず「昔の家庭にあった家族そのものの温かみ」あるいは「教育力」と呼ぶべきものを取り戻すべきではないかと思っています。


◆損得だけがものさしになった社会

と申しますのも、現代における「日本人のものさし」があるように思うのですが、私はこれに疑問を感じるんです。何がものさしになっているかと申しますと、「これをしたら得か、それとも損か」この考え方が大変強いように私は感じます。今の若い人たちを中心に、基準となりますのは「得」をすることのみにあります。その「得」するための方法も何かといいますと、「労せず楽して、どうやって得するか?」あるいは「格好悪い手段を取らず、できるだけ颯爽と格好よく得する」という「得・楽・格好良く」の3つでございます。どの言葉にも「く」が付きますので、私は「3つのく=見下し主義」と呼んでおります。

今、女子高校生が学校帰りにスーパーマーケットでアルバイトをするとします。レジを打つ仕事で、時給にしてだいたい710円。3時間一生懸命働いてやっと2130円の収入を得ることができるわけです。ところが一方で、こうやってスーパーでレジ打ちをして、コツコツと働く高校生と同じ年代の女の子が、援助交際や売春を手段として、「楽して得(お金儲け)をしよう」としているわけです。そんな考えから、自分自身の体を平気で擲(なげう)っている若い人たちがいます。

文化庁長官の河合隼雄という先生がおられるのですが、この方はもともと京都大学の教授で、日本を代表するユング派の心理学者でございます。この先生が、ある時、そのような子を見つけて「そんなことをしたらあかん。そんなことをしても、これから先ええことないで」とおっしゃったそうです。すると、その子は「そやけど、別に減るもんと違うし。それに(援助交際の相手である)おっちゃんも喜んではるよ」と答えたそうです。それに対し、河合先生は「そうかもしれへんけど、止めたほうがいい。何故って、あなたが将来結婚する相手の人を傷つけると思うから」と続けると、女の子は「そうやけど、言わなかったら相手には分からへん」と言ったそうです。その時に、その河合先生がおっしゃった言葉は「あなた自身の魂に悪いからそれは止めるべきだ……」この言葉は、とある講演会で、私も直接聞きました。

平気でそういったことを行動に移してしまうこと。そして、自身の冥加(みょうが)を越えた持ち分を求めること……。例えば、高校生ですら、遊びに行く時にルイ・ヴィトンというフランス製の高級ブランドのバッグを持って行きます。このバッグは、本国フランスの人たちでさえも「次はあのバッグを手に入れたい」と思っても、手に入れるのに何年もかかるような代物(しろもの)です。そして、普段から、「(次の世代である自分の)子供たちも、この同じバッグが使えるように」と、一度使ったらその都度、きれいに汚れを拭い取って保管し、大切に扱い、代々伝えられていくものなのです。それなのに今、日本の若い女性がフランスへ旅行し、ヴィトンの本店に行きますと、「ヴィトンならなんでもいいです。今お店にある最新のモデルを売って下さい」と言って買ってくるわけです。こうやって、自分の年齢にふさわしくない物を若いうちから持つことによって、優越感を得ようとしているわけです。これはよく考えると大変なことではないでしょうか?


◆嘘か真かをものさしに

私は現在、八尾市に住んでいますが、私の近隣にも「放題がたくさんできてきた」と心配しております。どんな放題かと申しますと、「食べ放題」「飲み放題」という、時間内に必死に食べないといけないようなものです。昨今は私たちも随分慣れてまいりましたので、初期の頃のように、たくさん手元に取り、結局残してしまうという人も減り、食べる量だけ取ってきて頂く方も増えてきていると思いますが……。これだけ「○○放題」が定着してきますと、次に出てくるのは「言いたい放題」ではないでしょうか(会場笑い)。「一億総解説者」と言われますが、皆「私だったらこうしていたのに……」と無責任な発言を言いたい放題です。しかも、その基準にしているものさしは、先ほどと同じく、その人自身にとって「得か損か」ということだけです。

 「得か損か」といえば、今年になりましてから、京都府の養鶏場で鳥インフルエンザが流行りましたよね。(インフルエンザが出たことを隠蔽(いんぺい)していた)あの経営者も、目の前の損得だけを考えずに、正直に言えたら良かったですね。その後もBSE(いわゆる「狂牛病」)問題に絡んで、「実際には処分対象ではない食肉まで偽装して補償金を騙(だま)し取る」いわゆる「ハンナン事件」がありました。これらはすべて、愚かな人間の作ったものさしでございます。お金を儲け、立派な家を建てて住んだとしても、選んだやり方が腰縄手錠で捕まえられてしまうようなものでは駄目だということです。

  では、この「損か得か」ものさしが役に立たないならば、いったい何をものさしにしたら良いかと申しますと、「真か嘘か」を基準に考えなければならないのではないかと思うのです。言ってみれば「損か得か」は人間のものさし、「真か嘘か」は神様仏様のものさしであります。今日お話を聞いて下さっている皆様方のように、正しい信仰を持ち、心を清浄にされている方でしたら、わざわざ(「神様のものさしをあらためて使おう」と)思わずとも、判断に誤りはないものと思います。この「正しい見方」を身に付けることが大切で、それには、幼い頃からシッカリと感性を磨くべきだと思います。


◆ちょっと違う視点から考えてみる

  今、仮に、学校で「雪が溶けたら何になりますか?」という質問を子供たちに出すとしたら、ほとんどの場合が「水になる」とか「H2Oになる」と答えさせます。しかし、もっともっと感性を磨かせるという意味において、答えを考えさせる必要があるのではないでしょうか。例えば、雪が溶けたら「平和になります」とか「春が来ます」といったように……。これを「パラダイム・パラドックス」と申しまして、いわゆる「発想の転換」を意味します。

  発想の転換を図ると、思わぬ効果を生むことがあります。例えば、このようなエピソードがあります。現在、日本の女子バレー選手の中に、栗原恵さんというなかなか上手な方がいらっしゃいます。彼女はより高い打点から打つためにどうするかを考えた時に、実際に打つほうの手である右手のことばかりを考えず、左手の位置に注目しました。この左手をどこの位置に持っていくかで、ジャンプをする時の力加減が変わるそうです。もちろん、何かしら目標を掲げた場合、そこへ到達するためには日々地道な努力が必要不可欠です。しかし、その努力ひとつとっても、柔軟な発想を加えることがとても大切で、より良い効果、あるいは結果を導き出せるのではないでしょうか。

  例えば野球のピッチャー……。より早いボールを投げるためには、ただ投げる練習をしていても駄目なんですね。グランドを走って走って走り回って足腰を鍛え、バネをつけ、そうして初めて150キロの豪速球が投げられるわけです。その他にも、林英哲という日本を代表する和太鼓奏者の方がいらっしゃいますが、彼はあの著名なカーネギーホールでも演奏をされています。そういった所で演奏をしようと思うと、太鼓そのものの練習だけでは不十分です。走って足腰を鍛え、シッカリとした下半身を作ることによって、あの音色がはじめて出るそうです。

  では、100メートル走など、実際に走ることそのものの競技の選手が、タイムを上げるためにどんなことをされているか? これも同じで、より大きな歩幅で走るなど「脚」のことだけを考えればいいわけではなく、「腕」をしっかり振ることも、「脚」と同じぐらい大切なことなんですね。このように、「ちょっと違う視点から考えてみる」、「発想の転換を図ってみる」ことで、考え方により広がりが生まれ、物事の本質(真実)に気付くことができるように思います。

  もしも子供さんが野球好きだったら、この夏休みの間にでも一度、実際に甲子園へ連れて行き、いつもブラウン管を通して見ている阪神戦とはまた違った、あの大歓声の中で野球を観戦させてやってみて下さい。きっと皆、大喜びすると思います。野球でなくてもその代わりに、例えば「京都の国立近代美術館で催されている『横山大観展』も見に行こう」と、提案する。「本物の横山大観の絵はこんな感じだよ」と、見に連れて行ってやるのです。日本の古典芸能や美術にもどんどん触れさせることは、「本物とは何か?」、「真実とは何か?」ということを考えさせる良い機会になりますからね。


◆自ずから異なる父母の役割

  もうひとつ、日本を悪くしていると私が思うものに、「男女共同参画社会」があります。昔は「男子厨房に入るべからず」といって、「男は家事には関わったら駄目だ」と申しておりました。私は、その考えが必ずしも間違っているとは思いません。昔から「おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に……」とそれぞれの「役割」というものがありました。男女共同参画社会では、おじいさんも、おばあさんもどちらも山へ柴刈りに行くし、川へ洗濯に行く。何ごとも共同で行うわけです。ところが、実際にはそうではなく、「おじいさんは山へ行けば、川へも行く。おばあさんは、何もしなくて良い」(会場笑い)と考えておられる人も多いと聞きます。

  ここで何を言おうとしているのかというと、父親と母親のそれぞれの役割についてです。試しに「父」と「母」の漢字の上に草冠をつけてほしいと思うんです。すると、その漢字はどう変化するでしょう? まず、「母」は皆さんよくご存知の、世界中の子供が大好きな「苺(いちご)」という字になります。では「父」は何になるかと申しますと、あまり馴染みがないのですが「艾(もぐさ)」という字になります。小さい時に、こんな風に親から叱られた方も中にはいらっしゃるのではないかと思うんですが、昔は悪いことをしたら「艾灸(やいと)を据えるぞ!」と言われたものです。これは効果てきめんでして、私はこう叱られるのが一番怖かったですね。したがって、「親」というものは、この一番怖い「艾」と、一番好きな甘い「苺」が一緒になったものであり、また、それが「父」と「母」の本来の姿だと思うのです。

  ところが、どうも近頃は、それぞれ本来の役割を失っているように思えます。父親は自信を失い、母親はあまりにも強くなり過ぎていないでしょうか? 昔は、間違いのない子供に育てようとしましたら、例えばこんな感じです。子供が約束した時間に帰って来なかったとしましょう。すると、まず父親が「今日は、これこれの記念日だから、食事も取らずにお前が帰ってくるのを待っていたのに、(最初に決めた時間に)帰って来ないとは約束が違うだろう!」と叱る。その時、母親はまず「お父さんの言う通りだ。お前のほうが悪いよ」と、言う。けれど「お母さんも一緒に謝ってあげるから、お父さんに謝りなさい」と、こう子供に言うわけです。子供はそのような場面を通して、父親・母親それぞれの本来の良さを実感してきたのではないでしょうか?

  それなのに最近は、父親が怒っている姿を見ても「何をイライラしているのだろう。ストレスでも溜まっているんじゃないか?」と平気で言ってしまう。また、昔は子供に向かって「しっかり勉強して、お父さんみたいな立派な人になってね」と言ったのが、昨今は「しっかり勉強しなければ、お父さんみたいになるよ」(会場笑い)と言うそうです。それなのに、何かあれば「子供を叱るのは父親の役目だ」とお鉢が回ってくるんですね。今はそのようにして子供を育てているわけです。まともな子供が育つ道理がありません。


◆無財の七施で

  今日は『真実に生きる』というテーマでお話しさせていただきました。この「真実に生きる」ということを、私は次のように考えています。まず他人に対する真実である「誠実」と、自分自身に対する真実である「忠実」と、そして時間や約束をきちんと「確実」に守る。この3つの「実」の要素を併せ持った生き方が真実に生きる姿だと思っております。仏教で申し上げますと――これは『雑法蔵経』というお経の中に出てくるんですが――「誠実」は「無財の七施」と言い、お金を使わなくても人に親切ができる。また誠実な生き方ができる、という教えがございます。

  ひとつめは「眼施(がんせ)」です。若い男性と若い女性だと、目だけでものを言っているわけですから、この次元の布施のことです。次に、優しい目つき、柔和な顔つきのことを「和顔施(わげんせ)」といいます。優しい言葉遣いでもってしてお年寄りや障害を持っている人に声をかけるのが「愛語施(あいごせ)」です。それから「心施(しんせ)」これは「心で施す」というわけですが、これは人の立場に立って優しく親切にすること。また「体で施す」ほうの「身施(しんせ)」というのは、礼儀正しく振舞ったり、ちょっとでも落ちているごみに気が付いたら拾う、といったことです。6つ目が「どうぞこの場所にお座りください」と席を譲る「牀座施(しょうざせ)」になります。それから、昔のことですが、旅人や巡礼者の方に対して「こんな場所でよかったら体を休めてください」と寝るところを用意する「坊舎施(ぼうしゃせ)」この7つを「お金には替えられない本当の親切心とはこういうものですよ」と説いた「無財の七施」です。


◆人の助かりをわれの助かりに

  皆様方ご自身、素晴らしいご信心を持っておられる方ばかりですが、このお広前で、先代親先生である三宅歳雄先生に始まり、今の親先生や三代先生、弟様方に至る諸先生方から、ご教話をはじめとする貴重なお話の数々を日々このお広前で聞いておられることと思います。私自身も若い時分からこの泉尾教会の諸先生方にご指導を賜わっております。2002年の布教75周年の時もお参りをさせていただきました。

  その時に頂いたご本の中で、私は今でも「素晴らしい言葉だなあ」と思う一節があります。「われより先に人を祈り、人の助かりをわれの助かりとお礼を申せるわれにならせていただきましょう」(三宅歳雄教話選集『園に集う人々』より)何故、私がこの言葉に感激したかと申しますと、これはまさに大乗仏教の教えなんですね。比叡山を開かれました伝教大師最澄の教えに「忘己利他」という言葉があります。「己を忘れて他を利するとは慈悲の極みなり」という意味です。この「人様のために祈りましょう。人様の助かりを願いましょう。そしてその徳を自分も頂きましょう」という素晴らしい教え……。これが、先代親先生の一番素晴らしかったところだと思います。

  つい最近、残念に思ったことがございました。テレビで金曜日の深夜から翌朝の4時半まで、皇太子様の発言や、雅子様にまつわる様々なことなどの、現在の皇室についてトークする番組(註=テレビ朝日の『朝まで生テレビ』)があったのですが、真夜中から明け方という時間帯にもかかわらず、私は結局、最後までその番組を視ておりました。その番組に出演しておられた方の一人に、私が常々「この人は良いことを言うなあ」と感心し、注目している方がいたのですが、その方がこの番組の中で、ご自身は「無神論者、無宗教者だ」とおっしゃっていました。

  私は愕然(がくぜん)としましたね。と申しますのも、「無神論」や「無宗教」という言葉は、「世の中を自分ひとりで生きている」とでも思っていないと到底出て来ない言葉だからです。森羅万象、空気や光、あらゆる目に見えないもの、また、あらゆる目に見えるもの。私たちは多くの犠牲の上に、このいのちを頂いているわけです。そこに思いを馳せると、無宗教や無神論の方に対して大いなる疑問が湧いてくるわけです。生きていれば誰もが苦悩、あるいは苛立ちや腹立ちを経験しますが、「生かされている」と思えば、自然と感謝の念や謙虚さが心の底から湧いてくるのではないでしょうか?

  そろそろ与えていただいた時間も終わりが近づいてまいりました。最後に、この泉尾教会の素晴らしい先生方の御神願を頂かれ、心の充足を得られている皆様方。これからもますます神様のご恩寵(おんちょう)を頂かれ、お幸せになっていただけますようお祈り申し上げるとともに、婦人会の一層のご繁栄、ご発展、泉尾教会のご一統様のご繁栄いただけますことを心から念じつつ、終わりの言葉とさせていただきます。本日はどうもご清聴有難うございました。

(連載おわり 文責編集部)


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