創立78周年 婦人大会 記念講演
『アナウンサー歴36年をふりかえって』@
NHKエグゼクティブアナウンサー
宮田 修

宮田 修 氏

7月15日、創立78周年記念婦人大会が開催され、約1,200名の婦人会員が全国から参加した。大会では、NHKアナウンサーひと筋、報道のキーパーソンとして活躍中の宮田修氏を講師に迎え、『アナウンサー歴36年をふりかえって』と題する記念講演を拝聴した。平成7年1月17日に発生した阪神淡路大震災の時には、発生直後から冷静かつ的確な報道にあたり、視聴者に感動と安心を与えた。一方で、宮田氏は平成15年6月から千葉県の熊野神社の宮司として神勤奉仕されるなど、ユニークな経験をお持ちである。本紙では、数回に分けて、宮田修氏の記念講演を紹介する。  

▼ひょんなご縁で神職に

皆様、本日はお招きいただきまして有難うございます。NHKアナウンサーの宮田修でございます。どうぞよろしくお願いいたします。私は履歴書の職業欄に、当然「NHKアナウンサー」と書いておりますが、実はその後ろに「・」(中点)を付けて、「神職」という肩書きも持っております。千葉県の田舎に小さなお宮(熊野神社)があるのですが、そこの神社の宮司をしております。「何故、NHKのアナウンサーが神社の宮司をしているんだ?」と皆さん不思議に思われるかもしれませんが、私の名前が「宮田」だから、お宮と関係があるのかといいますと、そんなことは全くありません。私の生家(写真館)も、神社とはまったく関係のない家系でした。

今からかれこれ10年近く前の話になるのですが、私はアナウンサーという職業柄常日頃、時計の秒針と仲良くしております。おそらく、普段皆さんは1分という時間をあまり気にされないでしょう? けれど、私たちアナウンサーにとっての1分は、「350文字の原稿が読める時間」なんです。それほど長い時間なんですね。ですから、(番組の最後に)あと5秒残ったらどうしようか? 10秒あったら何か言えるか? 普段そんなことばかり考えていますから、結構ストレスが溜まるんですね。そこで、私は「週末の休みには、田舎へ行って時計とは全然関係のない暮らしをしたい」と思い立ち、友人に相談いたしましたところ、「千葉県の田舎に江戸時代の末期に建てられた旧屋があり、そこを貸してもらえるらしい」と伺ったので、早速私はその古い家を借りることにしました。この家で週末のんびりと過ごすのは、非常に快適でした。


宮田修氏の講演を1,200名の婦人会員が拝聴した

ところが、そこに大きな落とし穴がありました(会場笑い)。というのも、そこは、代々その地区の神主さんの家だったんです。当時の宮司さんはご養子(婿養子)さんでしたが、既に70歳を過ぎておられましたが後継者が居なかったのです。そんな時、私をグッと見て、「よし、この人だ!」と思われたんでしょうね。ある日、神主さんご夫妻とお嬢さんの3人で私のところに来られて、「宮田さん、あなたに折り入って頼みがある」とおっしゃいました。「何ですか?」と尋ねますと、「実は、私(宮司)には後継者がいない。しかし、私の後に神主がいなくなると、この地区のお祭ができなくなってしまう。だから、なんとか人助けだと思って、私の後を継いでもらえないだろうか?」と・・・・・・(会場笑い)。「人助けだ」と言われると断れないでしょう。そんな訳で、私はそれまで全く知らなかった、全く経験のなかった神職の道に入ることになりました。

よく考えてみますと、本日頂きました講題にもある、アナウンサー歴36年をふりかえって見ますと、私が今まで進んできた道は全て縁なんですね。神主になったというのも、たまたま私が「千葉県の田舎で過ごしたい」と思い立って行きましたら、そこに宮司さんがおられて、彼には後継者がおらず、私に頼んだ・・・・・・。不思議なご縁ですよね。けれど、私がNHKのアナウンサーになったというのも、実は、いろんなところでご縁を頂いてのことなんです。

私は、千葉県にある成田空港のすぐ近くで昭和22年にオギャー、と生まれました。不思議な話ですが、私がまだ小さな子供の頃から「修ちゃんは、将来学校の先生になって、今、修ちゃんが通っているこの小学校に戻って、先生をして下さい」と両親、学校の校長先生、教頭先生、先生方の皆に頼まれたのです。面白いでしょう? 私はとても素直な子供でしたから「解りました。私は小学校の教員免許を取って、この小学校に戻ってきます」という約束をして、実際に教職課程のある埼玉大学へ進学し、ちゃんと教員免許も取ったんです。

ところが、ここに大きな落とし穴がございました。教員免許を取るためには、5週間の教育実習が義務づけられているため、私は5年生の子供たちと共に5週間を過ごしたんですが、その時に大変ビックリしました。何にビックリしたかと申しますと、子供たちが、とにかく真っ白な(純心無垢な)ことです。真っ白なキャンバスのようなものです。そのキャンバスへ、私が教えることによって色を付けていくことになる訳です。赤や黒、緑など様々な色を・・・・・・。私はそのことに対して、「私がこの場で、この子たちにこんな影響を与えて良いんだろうか?」と非常に怖くなりました。ずいぶん悩みまして、結果的に、私は21歳の時に「こんなことは、とても私にできることではない」と挫折してしまったんです。しかし「困ったなあ」ということになりました。何しろ、子供の頃から学校の先生になるために人生を送ってきたんですから……。どうしたらいいだろう? と悩んだのですが、そこにまたひとつ面白いご縁がありました。


▼行きがかり上、NHKのアナウンサーになった

実は、私は高校生の時、放送部に入っていたのですが、そこでアナウンサーをしていました。その時も、放送部にいた私の2年先輩にあたる人が僕の声を聞いて「宮田君、君の声はアナウンサーに向いているからおやりよ」と奨めてくれましたので、放送部に入部し、アナウンサーをしていました。大学四年になった春のことでしたが、「僕はとても学校の先生にはなれない」と思っていた時に、たまたま学校に行った時に――大学も4回生になると、あまり授業がありませんから、学校へ足を運ぶのも週に1、2回になります――学生課の所に就職のパンフレットがたくさん置いてあったんです。その時、偶然パッと目に付いたのが「NHK」のパンフレットだったんです。

これは今思い出しても不思議ですよね。「そうか、就職か。NHKか。ちょっと受けてみても良いかな?」と思い、そのパンフレットを手にとって、学生課の係の人の所へ行き、「私、ここの就職試験を受けてみたいんですけれど……」と尋ねてみました。すると、係の人は僕の顔を一瞥(いちべつ)して、明らかに「お前なんか受からないから止めておけ」という顔をしたんです(会場笑い)。もちろん「受からないから止めておくように」などと言いませんよ・・・・・・。何故、このようなやり取りがあるかというと、当時、就職試験を受けるには、まず学内推薦といって大学の推薦状を貰い、それを持って試験を受けに行く制度になっていたからです。

ところが、係の人から「NHKの学内推薦はもう終わってしまったから、君はもう受けられない」と言われたものですから、私もカッときて「何くそ!」と思いました。ふとそのパンフレットを見ていますと、隅っこのほうに「ただし、アナウンサーで受験をする場合、学内推薦は要らない」と書かれていたんです。アナウンサーだけは広く人材を求めていたんでしょうね。これを見て私は、既にNHKの入社試験に受かったような勝ち誇った気持ちになって、「ほら、ここに『アナウンサーは学内推薦なしに試験を受けられる』と書いてある。僕も受けられるじゃないですか!」と口を尖(とが)らしながら言ったんです。その背景に、私は高校時代にアナウンスをやった経験からくる自信があったんですね。そう言いますと、学生課の方は渋々応募用紙をくれました。

実は、この日は、入社試験の締切前日でしたので、私も係の人に啖呵(たんか)を切ってしまった以上、一所懸命、応募用紙に記入し、翌日、NHK――当時、NHKは渋谷ではなく千代田区の内幸町にありました――へ願書を提出しに行きました。当日、駅に着いて、さあ電車に乗ろうとした時に、フッと手元の書類を見ると、判子を捺(お)して来るのを忘れている・・・・・・。「ああ、そうか。これはNHKなんか受からないから、受けるのを止めなさい」ということか、と思った時、ふと眼前にあるキオスク(駅構内の売店)を見ますと、そこに判子がぶら下がっていたんです(会場笑い)。

これ、本当の話ですからね! 作り話じゃありませんよ・・・・・・。僕の名前は「宮田」で、それほど珍しい姓ではありませんから、クルクルッと回すと「宮田」の判子がありました。今はもっと安価になっていますが、当時、判子が1本250円と結構高かったのを覚えています。そこで売店のおばさんに「すいませんが、朱肉を貸してもらえないでしょうか?」と頼んで判子を捺した後、NHKへ書類を提出いたしました。何を気に入っていただけたのか判りませんが、私は無事、NHKの内定を貰うことができました。ですから、実は私、就職試験はNHKしか受けていないんです。教師になることを諦(あきら)め、もうあと1年ぐらい学校にいて別の道を探すために留年することを考えていたところでしたから、自分自身、就職するとも就職できるとも考えていませんでした。こうして、たまたま行きがかり上、NHKでアナウンサーとして働くことが決まった訳ですが、本当に縁とは面白いものですね。


▼最初はスポーツアナウンサーとして

NHKにアナウンサーとして入社し、一番最初に配属されたのが北海道の旭川でした。私は、人事の人に呼ばれて「宮田さんは北海道の旭川に行っていただきます」と言われた時、思わず「旭川って何処にあるんですか?」と尋ねたほど、不案内な土地でしたが、地図を見たら、ありました、ありました。私はこの地で22歳から26歳までの4年間を過ごしましたが、旭川は本当に寒い所でした。今日、私のお話をお聴きの方の中にも北海道出身の方がおられるかもしれませんが、私がここで体験した最も低い気温は氷点下27度でした。これは私が自然界で体験した中では一番低い気温でした。氷点下27度になりますと、空気中の水分すら凍るのですが、「ダイヤモンドダスト現象」といって、凍結した水蒸気が朝日にキラキラ輝く様はとてもきれいです。

さて、旭川放送局のアナウンサーになり、当初「私はどういうアナウンサーになろうか?」といろいろ迷いました。ひとくちにアナウンサーと申しましても、ニュース、スポーツ、芸能、教養と様々な分野があるんですが、この時もある先輩が「宮田君の声はスポーツアナウンサーに向いているよ」と奨めてくれたので、私は「解りました。ではスポーツアナウンサーをやります!」――僕はとても素直なんですよ(会場笑い)。ある意味、軽率なのかもしれませんが――と答えて、早速スポーツアナウンサーになるべく勉強を始めました。スポーツアナウンサーとして、最初の仕事は何かと申しますと、高校野球です。毎年甲子園で全国高等学校野球選手権大会が行われていますが、甲子園での試合に出場する代表校となるためには、まず地方で行われる県予選大会に出場し、そこで優勝して初めて甲子園(全国大会)に行けます。

地方放送局、例えば北海道旭川放送局は、まず旭川で行われる地方大会の様子を放送しますが、その放送を中継できるようになるために、アナウンサーは一所懸命練習をする訳です。これはいったいどんな練習か? と申しますと――私自身、一番最初にやった練習はこれなんですが――当時、旭川の球場は、バックネットが破れているようなオンボロ球場だったんですが、そのバックネットの後ろにある木の長ベンチに座布団を置いて腰掛けます。目の前では高校生たちがプレーしています。野球とは「ピッチャーがボールを持ち、バッターに対して投げ、バッターはその球を打つ。その打った球がスリー・アウトになる前にランナーを動かし、その人がホームベースに帰って来ると1点入る」というゲームですが、私はその様子をラジオで実況するんです。当然、ラジオを聴いている人は球場の様子を見ることができませんから、その人たちが、今、目の前で行われているゲームが手に取るように判るように、アナウンサーは伝えなければなりません。


自身の体験を熱弁する宮田修氏

投手の指からボールが離れる瞬間、「ピッチャー、第1球を投げました!」とアナウンサーが言います。そうすると、ボールがシューッとキャッチャーのミットの中に入りますが、まず、投球には直球とカーブとシュートがあります。つまり球種ですが、真っ直ぐ投げたのか、曲がったのか? そして、次にボールはどこを通過するのか? ですが、これは高め、低め、アウトコース、インコースとあります。キャッチャーが球を受けますと、お面を被って後ろに立っている審判(アンパイア)が「ストライークッ!」、「ボール!」と判定を下します。私はこれを「ピッチャー、第1球投げました! アウトコース、高め、カーブ。ボール!」と実況し、ひとつ完結します。そして、「ピッチャー、第2球投げました! インコース、シュート。ストライク!」と再び完結します。

このようなことを、バックネットの後ろに座って、延々続ける訳ですが、この描写ができなければ、スポーツアナウンサーとして成立しないのです。さもなければ、ラジオを聴いている人には何のことがさっぱり判りませんからね。とにかく、このような作業を朝から晩まで続けます。しかし、この球も、投げてキャッチャーのミットに入るだけなら良いですよ。時々バッターがカキーンと打っちゃうでしょう(会場笑い)。そうすると、ボールがどこへ飛んでいくのか? フライなのか、ライナーなのか、ゴロなのか? ランナーはどうしているのか? ホームインしたのか、しなかったのか? タッチしたのか、しなかったのか? アウトか、セーフか、全部言わなければなりません。
こんな勉強をして、いったい何を目指すのかといいますと、実はアナウンサーも高校生と同じなんです。つまり、ラジオで中継を担当する若いアナウンサーも、甲子園へ行けるように頑張るんです。これは「誰が何年勤務すれば甲子園に行ける」という話ではなく、例えば、10人のアナウンサーがいる場合、その中で一番上手な人が甲子園に行ける(=全国大会の実況中継を担当できる)訳です。

まず自分の実況した放送を録音テープに録り、スポーツアナウンサーの中心になっている先輩に送って聴いてもらいます。すると、「おっ、こいつ上手だね。呼んでやろう」あるいは「こいつは下手だね。駄目・・・・・・」そんな世界です。同期でNHKに入ったら、誰が一番最初に甲子園で喋(しゃべ)るかというのは、まさに競争なんです。

私は「絶対負けない。絶対一番にやる」と、本当に喉から血が出るほど練習しました。皆さんも、やかんでお湯を沸かす時、触ると熱いですよね? そういう時、「ああ、熱いな。このまま触っていると火傷(やけど)をしてしまうから手を離そう」などと頭で考えて手を離すのではなく、「熱い!」と言った瞬時に手を離すでしょう? 目の前でプレーしている選手を見ながらの実況中継は、まさにこんな感じです。要するに、その都度、頭で考えて話すのではなく、見た瞬間に目の前で起こっていることがパーッと言葉になって出てくるようになるのが、われわれアナウンサーにとって最初の勝負です。

一所懸命やったおかげで、私は4年後の春、甲子園での選抜高校野球大会にようやく「初出場」できたのですが、これは、同期や少し前に入社した先輩の中でも格段に早かったです。その時は「努力して良かったな。頑張ってスポーツアナウンサーになって良かったな」と思いましたが、ちょうどその頃、旭川から甲子園球場の地元、神戸放送局に転勤になりました。神戸へ転勤しますと、大阪放送局と一緒に春夏の甲子園での高校野球大会に毎回参加できるんです。「嬉しいな。やっぱり、努力した甲斐があったな」と思っていましたら、何のことはない。私が神戸でのんびりしている間に、私は他の人に抜かれてしまったんです。他の人が私より上手になってしまったため、甲子園の実況中継の担当をクビになってしまいました。その頃、「私はこれから先20年、30年経っても『ピッチャー、第一球投げました!』とやっているんだろうか?」と想像すると、寂しく思う気持ちもあったので、心に隙ができたんでしょう。そうなると駄目ですね。そこで私は、スポーツアナウンサーの道を断念しました。


▼緊急時にはマイクの一番近くにいた人が放送する

次に、僕が何をやったかといいますと、それは今現在に至るまでずっと続いているんですが、ニュースを読むアナウンサーです。皆さんも視て下さってますよね。当然のことですが、ニュースというのは全部生放送で、今までNHKで放送されたニュースの内、いったん収録してから放送されたことは一度もありません。私の場合、スポーツも生中継でしたから、最初から一貫して生放送に関わっている訳です。この生放送の良いところは、「終わったら、終わり」のところですね。例えば、午後7時のニュースは、7時ちょうどに始まり、午後7時30分に終わります。それ以降はどんなに大声で話そうが何をしようが放送されません。つまり、その時間帯だけキチッと放送すれば良い訳ですが、私はこの仕事が結構好きで、ニュースアナウンサーを選んだ次第です。

今まで、いろんなことをニュースで伝えてきました。何しろ36年も経ちましたのでね・・・・・・。その中で最も大きい事件は、先程ご紹介いただいたように、平成7年1月17日午前5時46分に起きた、あの阪神淡路大震災です。先程、三宅善信先生とお話をした際に、「(阪神地域から直線距離が近く、地盤の悪い)こちらの教会も相当な被害があった」と伺いましたが・・・・・・。あの時、たまたま私は、大阪放送局の中で、一番ニューススタジオの近くに居たアナウンサーだったんです。これはもう宿命のようなものですが、NHKアナウンサーは、「何かが起こった場合、マイクロフォンの一番近くに居るアナウンサーがそれを放送する」ことになっています。そのアナウンサーが去年入った新人でも、明日定年の人でも構いません。


宮田アナの講演に引き込まれる聴衆

思い出してみますと、それ以外にもいろいろと私が伝えてきたニュースがあります。例えば、ダイアナ元英国皇太子妃がパリで交通事故で亡くなりましたが、あのニュースも私が放送しました。私の前の時間帯のアナウンサーの時点では、まだ「交通事故で重傷」だったんですが、私の担当の時間帯に変わった途端、亡くなられたんです。それから、神戸の須磨で『児童連続殺傷事件』があったのを覚えておられるでしょうか? その元少年Aは既に出所(註:2004年3月に医療少年院を退院)していますが・・・・・・。あの「酒鬼薔薇聖斗」と名のった14歳の少年Aが捕まった瞬間も、私が最初に放送で伝えました。それから、この間亡くなりましたけれど、15年の時効寸前に捕まった福田和子容疑者を覚えておられますか? あの方がお捕まりあそばされた時(会場笑い)も、放送していたのは私でした。まさに、その瞬間瞬間に担当していたアナウンサーが最初にそれを視聴者に伝える訳です。ここで言うところの「担当」とはこういう意味です。


▼ネクタイしたまま寝ろ

公共放送であるNHKは、緊急時には24時間いつでも放送を出せるようになっていますが、仮に24時間1人のアナウンサーがスタジオにつきっきりだと疲れてしまいますから、時間制で交代します。消防署と同じいわゆる「有事即応体制」ですが、私もエグゼクティブアナウンサー(管理職)になったとはいえ、今でもこの担当になることがあります。深夜になっても、放送局の灯が消えることはありませんから、当直スタッフは一睡もせず全員徹夜なんですが、アナウンサーだけは「テレビに顔が出るから疲れた顔をしていてはいけない」という理由で、寝ても良いことになっていて、スタジオ内にはベッドが用意されています。どこに「用意されているか」というと、ニュースセンターにあるスタジオのアナウンサーが話している後ろに衝立があるでしょう? この衝立と壁の間にこれぐらいの幅の(と手で指し示す)隙間があるんですが、そこにベッドが置いてあるんです。まあ、そこで眠れるかどうかは別問題ですが・・・・・・これは便利ですよ。何か起きても3秒でカメラの前に座れますから。

それから、われわれアナウンサーは男性でも化粧をします。素のままでカメラの前に出ますと「無精髭が生えている」などと視聴者からお叱りを受けるものですから、ドーランを塗り白い粉をはたくんです。僕はつくづく女性の皆さんが毎日化粧をされるのは大変だろうなと思います。顔はベタベタしますし、嫌ですよね。私も男に生まれたのにお化粧をする仕事をすることになるとは思いませんでしたが・・・・・・。夜寝る時は、いつ呼ばれるか判りませんから、お化粧したまま眠ります(会場笑い)。寝返りうつと枕に化粧がつきますから寝返りがうてない。昔の日本髪を結った女性と同じで、上を向いたままですよ。しかも、内規では「ネクタイをしたまま寝ろ」とありますが、さすがにこれは酷いでしょう? ですから、私はこの規則は守りません。ネクタイは外して、おまけにボタンも2つ、3つ外しますが、ワイシャツは着たままです。本当はズボンも履いたままでないと駄目なんですが、これも嫌ですから脱いでしまいます(会場笑い)。そんなあられもない格好で、衝立と壁の間のスペースでアナウンサーは眠っていますが、次の担当の人が来ると「お疲れ様!」と交代します。

とにかく24時間必ず誰かがスタジオに居る訳ですが、不思議なことに私が担当にあたっている時は、実にいろんなことが起こります。阪神淡路大震災をはじめとしていろんなことが起こるものですから、周りのスタッフは、僕が担当で出向くと「宮田さんが来たよ。宮田さんが来ると何か起こるんだから・・・・・・」と嫌がります(会場笑い)。けれども――これはジンクスのようなものですが――逆に、私が行くと「何かが動く」と皆思ってくれています。

畏(おそ)れ多くも皇太子殿下ご夫妻に愛子様がお生まれになった時――これはNHKに限らず他の報道各社も大変でしたが――とにかく、いつお生まれになっても良いように、当番表を作り皇居の門の脇に車を停めて、そこで24時間体制で待機し、当番でない者は近くのホテルに行って仮眠を取ります。そんな状態が1週間、10日も続きますと、さすがに皆くたびれてきますが、とにかく第一報をちゃんと伝えられなかったら大変ですからね・・・・・・。当時、私は大阪放送局に在籍していたのですが、「手伝って欲しい」とお声がかかりましたので、東京に行き、私も同じように車で待機しました。交代後はホテルで休みましたが、その翌日、僕が行った直後に愛子様がお生まれになりました。NHKには技術スタッフが大勢いるのですが、彼らも僕の顔を見るなり「(宮田さんが来たから)これでやっとお生まれになるよ」と言うので私も「絶対大丈夫! まかしておきなさい」(会場笑い)と言っていたら着いた翌日にお生まれになりました。そういうジンクスってあるんですね。


▼いろんなご縁を頂いてきた年月

そうして36年が過ぎ、私もまもなく59歳になります。実は57歳になった時に、定年でNHKアナウンサーをいったん退職いたしましたが、「60歳まではNHKで仕事をして下さい」と要請がありましたので、退職した次の日に再雇用契約をNHKと結びました。現在の正式な任務はエグゼクティブアナウンサーになるのですが、NHKの専門委員――一般企業でいいますと「顧問」に当たります――として、週3日働いています。もちろん、私にはニュースを読むことしかできませんが、振り返ってみると、不思議なことに、ニュースしかずっとやってこなかった。料理番組もやっていませんし、歌謡番組で「歌手の○○さん、どうぞ!」といった仕事もやったことがありません。

ですから、他の仕事はまったく来ません。仮に僕が他の仕事をしたとしても、(視聴者の皆様にすると、私はイメージ的に)全部ニュースになってしまうんです(会場笑い)。それは拙(まず)いでしょう? ですから、ナレーションの仕事も来ないんです。とにかくニュースしかやりません。時々皆様もご覧いただいているかもしれませんが、現在は夜中のニュースと朝のニュース、それからラジオのニュースを読んでいます。それも、来年の10月になりますと、私も60歳還暦の誕生日を迎えますので、NHKとの契約が終了し完全に定年になります。それ以降は、先程も少し申し上げましたが、神主の仕事に取り組むことになっています。

こうして、これまでの人生を振り返ってみますと、私も本当にいろんなご縁を頂いています。今日も泉尾教会での講演会が終わった後、広島に行くことになっているんですが、何故広島へ行くのか? と申しますと、実は魚釣りをしに行くんです(会場笑い)。この魚釣りに呼んでくれている友人というのが、僕と同い年で、私が昭和61年に広島放送局へ転勤で出向いた折に最初の仕事でご一緒した方なんです。仕事が終わった後、「趣味はなんですか?」と尋ねますと「魚釣りです」という答えが返ってきましたので、「実は僕も魚釣りが好きなんです」と・・・・・・。そこで新しいご縁ができた訳です。そうして広島に居た3年間、私は年間100日近く彼と一緒に魚釣りに行っていたのですが、それ以来、彼とは兄弟と同じような付き合いが続いています。時々、電話がかかってくるのですが、今回も「そろそろ来いよ」と誘いを受けたので「分かった。今週大阪に行く用事があるから、その後広島へ行くよ」(会場笑い)と快諾し、明日・明後日と一緒に魚を釣る予定です。

人と人の繋がり・・・・・・。アナウンサー時代の経歴も含め、僕の人生はこっちへ行きそうになるとあちらへ。あっちへ行きそうになるとこちらへと、節目節目でいろいろ思わぬ方角へ変化して来ました。これをずっと振り返ってみますと、実にいろんなご縁があり、常に誰かが現れて新しい展開がある。それが不思議でもあり「人生とはそういうものなのかな」という気持ちにもなります。いろんな場所でいろんな人にお目にかかることができて、その人たちといろんなことができたことが私にとって一番良かったことだと思います。

話が戻りますが、たまたま借りた千葉にある田舎家の大家さんが神職だったこと。それがきっかけとなり、今日皆さんの前でこうやってお話をしているんですね。三宅先生とお知り合いになったのも、神主になったことがきっかけでしたから、もし私が神主になっていなければ知り合いになることもなければ、今日ここでこうやってお話をしていることもない訳です。こうして日々いろんなことが起こる訳ですが、それを全部蔑(ないがし)ろにして、ひとつひとつの出来事に対して何の関心も持たずに済ませることも可能なんです。けれども、そこで「何故、ここでこの人と会ったんだろう? 何故、ここでこの人とこの話をしたんだろう? 何故、次にお目にかかる機会はないんだろうか?」といったことを考えていきますと、どんどんと輪が拡がっていきます。

こんなことを言うのも何ですが、私は毎年、年賀状を書くのが大変なんです。有り難い話なんですけれど・・・・・・。先程もメールアドレスを尋ねられたのですが「一応アドレスは持ってはいるのですが、パソコンをやらないものですから全く使っていません」とお答えしました。私、手紙は全部手書きで書くことにしているんです。最近の年賀状はどれもこれも印刷で味気ないですね。僕はそういうのはあまり好きではないので、いつも万年筆を使って相手の方の住所と名前を書き、裏返して版画を刷った上に「明けましておめでとう」とか「謹賀新年」と書き、いろいろ近況を書きます。友人の数も36年もの間にずいぶん増えたので、毎年最終的には800枚ほど書くことになるのですが、これを半月ぐらい毎日一所懸命書く訳です。けれども「私の友人としていてくれる人がこれだけいる」と思うと、私にとって、これが人生の財産なんですね。

口幅ったいようですけれども、お目にかかった時に何かご縁を感じ、そのご縁を大事にして次の機会に繋ぐ。その親しいお付き合いの中から有り難い気持ちが湧いてくるんですね。最近、私はNHKの若いアナウンサーによくこういうことを言います。「人生の目的とは何か? 私は『死ぬまでに本当に親しい友人を何人作れるか?』だと思うよ」と・・・・・・。ここで言う友人とは、「お金を儲けた」あるいは「損した」という関係ではなく、打算のない「この人と居ると本当に嬉しい。この人と話していると本当に楽しい」という人です。

今日はここ泉尾教会で、こんなにたくさんの方々とご縁を作っていただいたことに深く感謝します。また、皆様が私の話をこんなに熱心に聞いて下さったことにも感謝し、また、本当に有り難いことだと思っています。NHKのアナウンサーというのは、時間だけはキチッと守りますから(会場笑い)、お約束の時間がまいりましたので、これでお話を終わらせていただこうと思います。本日は熱心に耳を傾けていただき、本当に有り難うございました。

(連載終わり 文責編集部)



戻る