求道会
創立61周年記念 男子壮年信徒大会 記念講演

『愚直さもひとつの美徳なり』
 政治評論家
 森田 実


森田 実 先生

2月25日、求道会創立61周年記念男子壮年信徒大会が開催され、『愚直さもひとつの美徳なり』の講題で、政治評論家の森田実氏が記念講演を行った。森田氏は、日本人が営々と築き上げてきた資産を、「構造改革」の美名の下に易々と外国資本に差し出してきた小泉・安倍両内閣を批判し、本来なら政治権力に対してチェック機能を果たすべきマスコミまでが権力に阿(おもね)っている現状を憂い、日本人が取り戻すべき誠実な生き方について提言を行った。 

▼誠実に勝る知恵なし

お招きをいただきまして、有難うございます。私はただ今74歳でありますが、まもなく誕生日が来ますと75歳になります。25歳前後から50年間にわたって、いろんな講演会にお招きを受けまして、講演をする機会がございました。おそらく1万回をはるかに超える回数になるかと思います。けれども、こうした宗教施設で、神聖なる祭壇を前にして講演をいたしますのは最初の体験でありまして、感激しております。「ご神殿を背にし、お話をさせていただいてご無礼でないのかな」と思いますが、お許しを頂きたいと思います。

私は、政治の評論を専門的に執筆をしたり、あるいはラジオやテレビで、また、新聞の原稿を書きながらやってまいりましたが、すでに40年以上経過いたしました。その中で、政治のいろんなことも学んでまいりました。私はそのように、ずっといろんなことを勉強してまいりましたが、政治家の皆さんから「政治家にとって、何が最も大切な資質でしょうか?」と尋ねられた時には「大事なことは誠実さではないか」と答えるようにしています。

19世紀のビクトリア朝全盛期のイギリス(大英帝国)において、歴史に残る政治家に、首相まで務めたディズレーリという人がいましたが、「誠実に勝れる知恵なし」という言葉を残しております。彼は「国民に対して、誠実に対応していきたい」ということを、絶えず願い続けていますが、これがひとつの「政治の根本」ではなかろうかと思います。そしてもうひとつ、これも同じく19世紀イギリスの政治家で、首相にもなったグラッドストンの残した言葉のひとつに「政治の目的は、善が為し易く、悪の為し難い社会を創ることである」という言葉がありますが、私は「これこそ政治の目的だ」と思っております。すなわち、善が通用しにくい社会を創ったり、悪が蔓延(はびこ)る社会を創ったりすることは、「政治の目的に反する」と思っております。そういうことを基本にして、政治に関する評論を続けております。


誠実な言葉で熱弁を揮う森田実先生

現在、衆議院の予算委員会が大詰めの審議をやっております。3日前の2月22日のことでありますが、私はこの衆議院予算委員会の公聴会の席に招かれました。この日は「4人の一般国民から意見を聴く」ということでした。NHKの中継放送はありませんでしたが、この様子は、衆議院事務局からインターネットを通じて全国放送されました。予算書とは、こんなに分厚い(厚さ二十数センチ)ものなんですね。

私はその4日前に、友人であります亀井久興さんという国民新党の幹事長をしておられる方から電話を頂きまして、「衆議院予算委員会の公聴会に出てほしい」と依頼を受けました。即座に「解りました。良い機会を与えていただきまして、有難うございます」と承知いたしましたところ、翌朝、私のもとに衆議院事務局から予算書が送られてまいりました。それは予算書のみならず、これに付随する税制改革等に関する提案もありまして、大変分厚いものでした。しかし、私は「これを全部読む責任がある」と思いまして、これを全部読んで、22日の朝に衆議院に参りました。

国会の中でも、衆議院の予算委員会というのは、各党の中心的な先生方が集まっていますから、ほとんど個人的に知り合いの方ばかりです。例えば、金子一義さんという人が今、衆議院の予算委員長をやっておりますが、彼は飛騨高山を選挙区としており、彼のお父さん(金子一平氏)は昔の大平正芳内閣の大蔵大臣をしておりました。私は彼のお父さんもよく存じておりますが、その人が予算委員長であります。私は予算委員長の指名を受けて、一番最後の4番目に登壇し、このように申し上げました。私は今回の予算書を全部読みました。全部読んでみて「これを作った人も大変だな」と思いましたし、また「これをいちいち読んで理解し、国会で審議するという議員の先生の仕事も相当大変だな」と思いました。


▼民を尊しとなし、社稷これに次ぐ

これを読んで、まず思い浮かんだ言葉は、古い言葉ですが、『孟子』の中の一節です。「民を尊しとなし、社稷(しゃしょく)これに次ぐ」です。この「社稷」という言葉は非常に難しい漢字ですが、古代中国においては、「国家」のことを「社稷」と言っておりました。この社稷の「社」は、今でも日本で使われている言葉ですが、「稷」は、戦後の漢字(常用漢字)では使われておりません。「稷」とは、もともとは「祭壇」の意で、古代の国家においては、人民を代表して天神地祗に祈りを捧げることが君主の重要な務めだったというところから来ています。この「民を尊しとなし、社稷これに次ぐ」の意味を易しく言えば、「人民の幸福が第一であり、国家のことは二の次でよろしい」という、中国の儒教の思想家である孟子の教えなんです。その言葉が頭に思い浮かびました。

しかし、「頭に思い浮かんだ」というのは、「今度の予算がそのように作られている」という意味ではありません。逆であります。孟子の言葉を使って言えば、むしろ「社稷を尊しとなし、民これに次ぐ」と感じております。なんと言っても、政治は国民第一であって、国民が苦しむようなことをしてはいけない。そのようなことを「国家の必要だ」という理由で国民を犠牲にしてはいけない……。これが私の立場です。国会議員の皆様は選挙でもって選ばれてますから、国民のことを第一義的に考えていただきたい。私は「できれば予算について考え直してほしいと思いますけれども、それができないのであれば、これを補う方法を考えていただきたい。これが私の第一の見方であります」と、提言しました。

そして、「第二に浮かんだ言葉は、孔子の『論語』にある言葉で「人、遠慮なければ、必ず近憂(きんゆう)あり」です。と続けました。この「遠慮」とは、現在は「控えめに生きる」あるいは「あまり出しゃばらない」という意味に使われていますが、古代中国においては「遠くのことを考える」すなわち、「遠い将来のことを考える」という意味なんです。これから先の将来のことを考えず、見通しを持たないまま、ことに臨めば、必ず「近憂」すなわち目の前で心配事が起こるということです。この言葉は『論語』の中で最も有名な言葉のひとつですが、私はこの言葉が思い浮かびました。

拝見したところ、現在提案されている予算は、過去の延長で作られていると思います。過去の延長とは何かと申しますと、米国は今、イラクで戦争をしておりますが、米国のブッシュ政権の政策は、市場主義――すべての選択を個々の欲望がぶつかり合う市場の決定に委ねる――という美名の下に、強い者がさらに強く、弱い者はさらに弱く不幸になるという方法を取っております。また「グローバリズムは世界的なひとつの流れだ――『グローバル』は『地球』という意味ですが――地球全体、全世界にこの米国流のやりかたを拡げていこう」というのがブッシュ政権の政策で、日本もこれに「協力してやっていこう」と進めてきた小泉・竹中路線の延長で、この予算が組まれております。

しかし、世界はすでに大きく変わり始めております。西暦で言うと、2007年から2008年に至る2年間は、世界が大きく変化する曲がり角に立っているのではないかと……。それはどういうことかと申しますと、まず、イラク戦争は終わると思います。アメリカの国論は「もうイラク戦争は止めなさい」という方向に動いておりますし、さらにブッシュ政権が進めてきたところの自由競争政策も行き詰まりました。アメリカ国内においても、自由競争政策が生み出した格差がどんどんと拡大して、不幸な人たちが増えています。(健康保険に加入できないので)医療も受けられない人が4千万人を超えるほど増えてきているのです。金持ちはますます金持ちに。貧しい人はますます貧しくなってゆく……。しかし、実はアメリカ国内においても「これはもう止めよう」という流れが、昨年の11月7日に行われた中間選挙の結果に表れ、ブッシュ大統領の政策(共和党)が破れました。

アメリカにおいてすら、このように非常に大きな変化が起こりつつある。ヨーロッパにおいても、最もアメリカに協力してきた英国においてすら、大きな変化が来ました。そうした「中東でのアメリカの戦争に協力するのはもう止めよう」さらに「貧富の差がどんどん拡大するような政策は止めよう」という流れになっています。「少なくとも、政府は、国民の医療や福祉に対してきちんと責任を持たなければいけない。それまでも自由競争に委ね、市場原理に委ねるのは間違いである」という流れが、欧州においてもできつつある。「この2007年から2008年にかけての2年間に、世界の資本主義先進国は大きく政治の方向を変えようとしています。

それなのに、日本だけは過去の延長の予算を組み、過去の延長の道を進もうとしているのは大きな間違いだと思います。これから起こる変化……。それは「戦争は止めよう」さらに「貧富の差を拡大するような政策は止めよう。少なくとも政府は国民の医療や福祉について責任をもって臨む」という政治の方向に変化しつつある。予算とは、その変化の方向を先取りする形で組まれるべきものですが、その点において、今回の予算は方向が間違っていると思います。是非、この点も考え直していただきたい」というようなことを、国会議員の皆さんに申し上げました。

3番目に「国家の実力は地方に存する」という言葉を思い出しました。この言葉は100年ほど前に、徳富蘆花が『思出の記』の中で書いた一節であります。「国家の実力は地方に存する」つまり、日本国の実力は何処で測れるか? といいますと、東京だけではない。全国の日本国民がどう生きているか? 地方はどうなっているか? ということによって測らなければならない。東京に住んでいるのは、人口の1割に過ぎません。その一地域だけが繁栄して、他の地域が繁栄しないような政策でしたら、間違っていると思います。この点は直していただきたい……。

最後に「政治とは何か?」と問われれば、「政治とは調和を実現することである。間違っても、政治が強権的になって一般国民を抑圧して搾取し、そして一般国民がその状態に打ち拉(ひし)がれて諦め、諦めることによって堪え忍ぶということがあってはいけない。この「搾取」と「迫害」と「諦め」をなくし、いろんな立場の人間が、あるいは、富める者も貧しき者も、調和し合って生きていける社会を創ること。「これが政治の目的ではないか」と私は思っております。

ですから、是非、政治の根本も考えてやっていただきたい。ただ「改革」の美名を叫んで、その下に貧富の差を拡大するような政策を行ってはいけない。これを皆さんに訴えて、予算についてしっかりとした審議を行って欲しい。そして、予算でカバーできないのであれば、相当の政治的な措置を取って欲しい。そのようなことを、私は22日の衆議院予算委員会の公聴会の席で発言しました。

それから、各委員からいろんな質問がありましたが、私が国民の代表のひとりとして国会に訴えるべきことの基本は、最初の発言でだいたいカバーできたと思います。国会は今、自由民主党と公明党が政権を握っており、なんでも数の力でグイグイと押しております。私はちょうど与党議員の席の真正面でしたので、与党議員の顔を見ながら証言をいたしました。中には、私の発言の最中に、不愉快そうに途中で席を立つ方もいましたが、与党議員の中でも何人かは公聴会終了後、「これからも調和の政治を心がけて努力したいと思います」と言ってこられたので、私も「ぜひお願いいたします。大事な時ですから、道を間違わないようにお願いいたします」と、彼らに話しました。野党の議員は、概ね私の考え方に賛同しているような感触を受けましたが……。ともかく、私はそういう考え方であります。


▼ネオコンとアメリカの終わり

現在に至る大きな政治の流れは、レーガン大統領が大統領に就任した今から26年前か27年前に起こりました。それまでのアメリカは、もう少し穏健で調和的な政策を執っていたと思います。ところが、自由主義の政策を執ることと、強大なる軍事力を以て、「世界をアメリカ的秩序に従わせる」という政策を執るようになりました。この強大な軍事力を以て、当時敵対していたソビエト連邦に圧力をかけまして、10年かけてソビエト連邦を瓦解させました。ソビエト連邦は、1991年から1992年にかけて崩壊いたしました。これでアメリカが勝ちました。

綺麗な言葉を使いすぎる訳ですが、それまでは、アメリカが自由を主張し、ソビエト連邦が平等を主張しておりました。それぞれの国が信奉するのは、アメリカが「自由主義・資本主義」であり、ソビエト連邦は「平等主義・共産主義」です。第二次世界大戦後、この2つが対峙し合ってきましたが、一方の共産主義、平等主義体制の国家が崩壊したことによって、共産主義・平等主義という価値観まで弊履(くたびれたワラジ)の如く捨て去られ、この結果「自由の時代が来た」と言われるようになりました。

フランシス・フクヤマというアメリカでも有数の政治経済学者がおります。この人のお母さんは、京都大学の系譜では非常に著名な河田嗣郎さんという先生がおられるのですが――この人は大阪市立大学の前身である大阪商科大学の初代学長として関西では非常に著名な方です――この人のお嬢さんです。戦後まもなくアメリカへ留学をされて、その留学先の大学でフランシス・フクヤマのお父さん(日系2世)と知り合いました。このお父さんも学者です。そして、1952年にフランシス・フクヤマがこの世に誕生するんですが、この両親は大変偉い人でした。

もし、2人が家庭内で日本語を使えば、息子は日本語も覚える。そして「日本語と英語が同時にできる」ということになれば、アメリカでは、そのほとんどが日本学(ジャパノロジー)の学者か、日本担当の行政官になるということが運命づけられたそうです。しかし、ご両親は「アメリカの学会において、より広く生きて(自由に研究分野を選んで)いくためには、むしろ日本語を覚えないほうがいい」と、家庭内において子供の前では日本語を一切話さず、生活をしたというんですから……。なかなかの両親ですね。そのため、フランシス・フクヤマは日本語ができないまま、逆に言うと、英語だけを学んで、その結果として、アメリカを代表する政治経済学者になったんです。

このフランシス・フクヤマが今から15年ほど前に、『The End of History and the Last Man』という本を書きました。この著書の中で彼は「ソビエト連邦共産主義体制が崩壊した。これからは、アメリカ的自由主義、民主主義が世界全体に拡がっていく時代だ。そういう方向に不可逆に歴史は動く」と、今後の見通しを書いています。日本語の翻訳版では『歴史の終わり』(三笠書房)というタイトルになったんですが、この本は、全世界でベストセラーになり、全世界において、その後の時代を見る教科書になったんです。

実は、この『歴史の終わり』という歴史観に賛同して、一連の政治グループが動き出すんですが、これが新保守主義者(ネオコンサバティブ)通称「ネオコン」というグループです。彼らがその論理の上に乗って強力なアメリカ帝国を築く方向に動きまして、その後、ジョージ・W・ブッシュ大統領の出現によってこれが実現する訳です。そして、ブッシュ大統領の登場とともに、不幸な「9・11」米国中枢同時多発テロが起きます。
この事件にアメリカ国民全体が憤(いきどお)り、これを契機にアメリカの力が非常に高揚します。この高揚した力を以て、全世界にアメリカが君臨する。また同時に、アメリカ的な経済理論を全世界に普及させるということを行った連中が、ブッシュ大統領の取り巻きとなりました、これが新保守主義者ですね。

この新保守主義者の元祖が、「実はフランシス・フクヤマだ」と言われてきたのですが、このフクヤマ氏は、昨年、反省の書を出しました。「自分は間違っていた」と……。「ブッシュ大統領のイラク戦争を支持したのは、間違いであった」そして「ブッシュ大統領の政策を支持してきたのは間違いであった」と……。この書も日本語に翻訳され、昨年末に『アメリカの終わり』(講談社)というタイトルで出版されました。今、国内各書店に並んでおり、ベストセラーのひとつになっておりますが、さすがフクヤマですね。間違いは間違いとして、反省した訳です。

しかし、そのために彼は「アメリカ国内では、その新保守主義者の人たちから裏切り者の転向者と言われて、非常に苦しい思いをした」と書いております。しかしながら、私はフランシス・フクヤマは正しいと思います。アメリカがイラクに軍隊を送り、アフガニスタンに軍隊を送り、そしてアメリカの軍事力を以て各国を従わせる。そして北朝鮮に対しても――もちろん、北朝鮮にも問題がありますよ。改めてもらわなければならんと思いますが――強い圧力をかける。その他の国に対しても、「アメリカを敵に回したら、恐ろしいことになりますよ」と、圧力をかける……。「このようなやり方は間違いだ。それはやめなきゃいかん」とフランシス・フクヤマは説いたんですが、このことは、アメリカの方向を変える上で非常に大きな意味を持ちました。

つまり新保守主義者は、ブッシュ大統領、チェイニー副大統領を立てて、これだけの大きな世界の変化を創り出した訳ですが、いわば彼らの本当のリーダー、つまり本当の精神的中核となった『歴史の終わり』を書いたフクヤマが「それは間違いだったんだ」と、自分を否定したんです。これは立派なことだと思いますね。人間というのは、なかなか自分を否定することができないものなんです。特にフランシス・フクヤマのように、一時期「世界の学者のリーダー」とまで言われる存在となった人がですね、それをやったということはやはり立派なことだと私は思います。その彼の真面目さ、ある意味では愚直さは、十分評価するべきだと……。


▼一隅を照らす政治を

実は、昨年11月7日にアメリカで行われた中間選挙において、国民がブッシュ大統領を否定した。ブッシュ政治を否定した大きな原動力のひとつが、このフランシス・フクヤマの自己反省、自己批判。これに起因しているんです。ですから、今アメリカで起こっている大きな変化というのは、本質的な変化です。ヨーロッパでは、既に「もうアメリカ的政策ではやっていけない」というのが大勢になりました。繰り返しになりますが、「社会福祉や医療を蔑(ないがし)ろにするような政府が良いのか?」というのが主流派になってきているのです。

ご承知の通り、アメリカでは人口の18%の人が、日常的に医療を受けることができません。何故か? 健康保険証がないからです。健康保険に加入できないのは何故か? 貧困だからです。貧乏だからです。お金がないからです。そのために「重症になって救急車で運び込まれる以外に病院に入りようがない」というのが現実であります。

この間、ロサンゼルス在住の友だちが日本に来た時に「ロサンゼルス辺りでは、非常に悲しい光景が目立つようになった」と私に言っておりました。と言いますのは、救急車で運び込まれる人というのは、実際かなり手遅れの状態の人が多いんだそうですね。そのため「腕を怪我している人は、腕の元から断たなければいのちが保持できない。足を怪我した人も脚の付け根から断たなければいのちを保持できない」というケースが多く、「そういった重傷の人が街中でも目立つようになった」と、そんな風に言っておりました。

こういうことがアメリカで起こっている。これは何を意味するのか? 「強い者が勝ち、弱い者が不幸を耐え忍ばねばならない」という政治のあり方に対して、強い反省を示すもの、あるいは反省を促すものだと私は思います。今、政治は大きく変わりつつあると思います。最近は「政治は何のためにあるか?」と問われると、多くの政治家が「恵まれざる者のために政治はあるんだ」と答えるようになりました。

これはひとつの進歩だと思います。また、大きな変化の兆しだと私は思います。これから日本も、この大きな変化の中で選挙の年(註:4月の統一地方選と7月の参議院選)を迎えます。その選挙に国民が積極的に参加することによって、政府の過ちを正し、政治をキチンとしたものにする……。私は、「政治というものは、現在ある世界の中、現在ある日本の中で、害あるものを取り除くために一生懸命やるべきだ」と思います。害あるものをひとつひとつ丹念に取り除いていくためにあるんだと思います。

ですから、私は政治家の集まりに招かれますと、伝教大師最澄の言葉である『一隅(いちぐう)を照らすものは国の宝なり』をしばしば引用します。「この『一隅を照らすものは国の宝なり』の精神を以て、政治に取り組んでいただきたい。それが、日本の政治を良くする道である」ということを訴え続けております。

3番目に「国家の実力は地方に存する」という言葉を思い出しました。この言葉は100年ほど前に、徳富蘆花が『思出の記』の中で書いた一節であります。「国家の実力は地方に存する」つまり、日本国の実力は何処で測れるか? といいますと、東京だけではない。全国の日本国民がどう生きているか? 地方はどうなっているか? ということによって測らなければならない。東京に住んでいるのは、人口の1割に過ぎません。その一地域だけが繁栄して、他の地域が繁栄しないような政策でしたら、間違っていると思います。この点は直していただきたい……。

最後に「政治とは何か?」と問われれば、「政治とは調和を実現することである。間違っても、政治が強権的になって一般国民を抑圧して搾取し、そして一般国民がその状態に打ち拉(ひし)がれて諦め、諦めることによって堪え忍ぶということがあってはいけない。この「搾取」と「迫害」と「諦め」をなくし、いろんな立場の人間が、あるいは、富める者も貧しき者も、調和し合って生きていける社会を創ること。「これが政治の目的ではないか」と私は思っております。

ですから、是非、政治の根本も考えてやっていただきたい。ただ「改革」の美名を叫んで、その下に貧富の差を拡大するような政策を行ってはいけない。これを皆さんに訴えて、予算についてしっかりとした審議を行って欲しい。そして、予算でカバーできないのであれば、相当の政治的な措置を取って欲しい。そのようなことを、私は22日の衆議院予算委員会の公聴会の席で発言しました。

それから、各委員からいろんな質問がありましたが、私が国民の代表のひとりとして国会に訴えるべきことの基本は、最初の発言でだいたいカバーできたと思います。国会は今、自由民主党と公明党が政権を握っており、なんでも数の力でグイグイと押しております。私はちょうど与党議員の席の真正面でしたので、与党議員の顔を見ながら証言をいたしました。中には、私の発言の最中に、不愉快そうに途中で席を立つ方もいましたが、与党議員の中でも何人かは公聴会終了後、「これからも調和の政治を心がけて努力したいと思います」と言ってこられたので、私も「ぜひお願いいたします。大事な時ですから、道を間違わないようにお願いいたします」と、彼らに話しました。野党の議員は、概ね私の考え方に賛同しているような感触を受けましたが……。ともかく、私はそういう考え方であります。


▼ネオコンとアメリカの終わり

現在に至る大きな政治の流れは、レーガン大統領が大統領に就任した今から26年前か27年前に起こりました。それまでのアメリカは、もう少し穏健で調和的な政策を執っていたと思います。ところが、自由主義の政策を執ることと、強大なる軍事力を以て、「世界をアメリカ的秩序に従わせる」という政策を執るようになりました。この強大な軍事力を以て、当時敵対していたソビエト連邦に圧力をかけまして、10年かけてソビエト連邦を瓦解させました。ソビエト連邦は、1991年から1992年にかけて崩壊いたしました。これでアメリカが勝ちました。

綺麗な言葉を使いすぎる訳ですが、それまでは、アメリカが自由を主張し、ソビエト連邦が平等を主張しておりました。それぞれの国が信奉するのは、アメリカが「自由主義・資本主義」であり、ソビエト連邦は「平等主義・共産主義」です。第二次世界大戦後、この2つが対峙し合ってきましたが、一方の共産主義、平等主義体制の国家が崩壊したことによって、共産主義・平等主義という価値観まで弊履(くたびれたワラジ)の如く捨て去られ、この結果「自由の時代が来た」と言われるようになりました。

フランシス・フクヤマというアメリカでも有数の政治経済学者がおります。この人のお母さんは、京都大学の系譜では非常に著名な河田嗣郎さんという先生がおられるのですが――この人は大阪市立大学の前身である大阪商科大学の初代学長として関西では非常に著名な方です――この人のお嬢さんです。戦後まもなくアメリカへ留学をされて、その留学先の大学でフランシス・フクヤマのお父さん(日系2世)と知り合いました。このお父さんも学者です。そして、1952年にフランシス・フクヤマがこの世に誕生するんですが、この両親は大変偉い人でした。

もし、2人が家庭内で日本語を使えば、息子は日本語も覚える。そして「日本語と英語が同時にできる」ということになれば、アメリカでは、そのほとんどが日本学(ジャパノロジー)の学者か、日本担当の行政官になるということが運命づけられたそうです。しかし、ご両親は「アメリカの学会において、より広く生きて(自由に研究分野を選んで)いくためには、むしろ日本語を覚えないほうがいい」と、家庭内において子供の前では日本語を一切話さず、生活をしたというんですから……。なかなかの両親ですね。そのため、フランシス・フクヤマは日本語ができないまま、逆に言うと、英語だけを学んで、その結果として、アメリカを代表する政治経済学者になったんです。

このフランシス・フクヤマが今から15年ほど前に、『The End of History and the Last Man』という本を書きました。この著書の中で彼は「ソビエト連邦共産主義体制が崩壊した。これからは、アメリカ的自由主義、民主主義が世界全体に拡がっていく時代だ。そういう方向に不可逆に歴史は動く」と、今後の見通しを書いています。日本語の翻訳版では『歴史の終わり』(三笠書房)というタイトルになったんですが、この本は、全世界でベストセラーになり、全世界において、その後の時代を見る教科書になったんです。

実は、この『歴史の終わり』という歴史観に賛同して、一連の政治グループが動き出すんですが、これが新保守主義者(ネオコンサバティブ)通称「ネオコン」というグループです。彼らがその論理の上に乗って強力なアメリカ帝国を築く方向に動きまして、その後、ジョージ・W・ブッシュ大統領の出現によってこれが実現する訳です。そして、ブッシュ大統領の登場とともに、不幸な「9・11」米国中枢同時多発テロが起きます。
この事件にアメリカ国民全体が憤(いきどお)り、これを契機にアメリカの力が非常に高揚します。この高揚した力を以て、全世界にアメリカが君臨する。また同時に、アメリカ的な経済理論を全世界に普及させるということを行った連中が、ブッシュ大統領の取り巻きとなりました、これが新保守主義者ですね。

この新保守主義者の元祖が、「実はフランシス・フクヤマだ」と言われてきたのですが、このフクヤマ氏は、昨年、反省の書を出しました。「自分は間違っていた」と……。「ブッシュ大統領のイラク戦争を支持したのは、間違いであった」そして「ブッシュ大統領の政策を支持してきたのは間違いであった」と……。この書も日本語に翻訳され、昨年末に『アメリカの終わり』(講談社)というタイトルで出版されました。今、国内各書店に並んでおり、ベストセラーのひとつになっておりますが、さすがフクヤマですね。間違いは間違いとして、反省した訳です。

しかし、そのために彼は「アメリカ国内では、その新保守主義者の人たちから裏切り者の転向者と言われて、非常に苦しい思いをした」と書いております。しかしながら、私はフランシス・フクヤマは正しいと思います。アメリカがイラクに軍隊を送り、アフガニスタンに軍隊を送り、そしてアメリカの軍事力を以て各国を従わせる。そして北朝鮮に対しても――もちろん、北朝鮮にも問題がありますよ。改めてもらわなければならんと思いますが――強い圧力をかける。その他の国に対しても、「アメリカを敵に回したら、恐ろしいことになりますよ」と、圧力をかける……。「このようなやり方は間違いだ。それはやめなきゃいかん」とフランシス・フクヤマは説いたんですが、このことは、アメリカの方向を変える上で非常に大きな意味を持ちました。

つまり新保守主義者は、ブッシュ大統領、チェイニー副大統領を立てて、これだけの大きな世界の変化を創り出した訳ですが、いわば彼らの本当のリーダー、つまり本当の精神的中核となった『歴史の終わり』を書いたフクヤマが「それは間違いだったんだ」と、自分を否定したんです。これは立派なことだと思いますね。人間というのは、なかなか自分を否定することができないものなんです。特にフランシス・フクヤマのように、一時期「世界の学者のリーダー」とまで言われる存在となった人がですね、それをやったということはやはり立派なことだと私は思います。その彼の真面目さ、ある意味では愚直さは、十分評価するべきだと……。


▼一隅を照らす政治を

実は、昨年11月7日にアメリカで行われた中間選挙において、国民がブッシュ大統領を否定した。ブッシュ政治を否定した大きな原動力のひとつが、このフランシス・フクヤマの自己反省、自己批判。これに起因しているんです。ですから、今アメリカで起こっている大きな変化というのは、本質的な変化です。ヨーロッパでは、既に「もうアメリカ的政策ではやっていけない」というのが大勢になりました。繰り返しになりますが、「社会福祉や医療を蔑(ないがし)ろにするような政府が良いのか?」というのが主流派になってきているのです。

ご承知の通り、アメリカでは人口の18%の人が、日常的に医療を受けることができません。何故か? 健康保険証がないからです。健康保険に加入できないのは何故か? 貧困だからです。貧乏だからです。お金がないからです。そのために「重症になって救急車で運び込まれる以外に病院に入りようがない」というのが現実であります。

この間、ロサンゼルス在住の友だちが日本に来た時に「ロサンゼルス辺りでは、非常に悲しい光景が目立つようになった」と私に言っておりました。と言いますのは、救急車で運び込まれる人というのは、実際かなり手遅れの状態の人が多いんだそうですね。そのため「腕を怪我している人は、腕の元から断たなければいのちが保持できない。足を怪我した人も脚の付け根から断たなければいのちを保持できない」というケースが多く、「そういった重傷の人が街中でも目立つようになった」と、そんな風に言っておりました。

こういうことがアメリカで起こっている。これは何を意味するのか? 「強い者が勝ち、弱い者が不幸を耐え忍ばねばならない」という政治のあり方に対して、強い反省を示すもの、あるいは反省を促すものだと私は思います。今、政治は大きく変わりつつあると思います。最近は「政治は何のためにあるか?」と問われると、多くの政治家が「恵まれざる者のために政治はあるんだ」と答えるようになりました。

これはひとつの進歩だと思います。また、大きな変化の兆しだと私は思います。これから日本も、この大きな変化の中で選挙の年(註:4月の統一地方選と7月の参議院選)を迎えます。その選挙に国民が積極的に参加することによって、政府の過ちを正し、政治をキチンとしたものにする……。私は、「政治というものは、現在ある世界の中、現在ある日本の中で、害あるものを取り除くために一生懸命やるべきだ」と思います。害あるものをひとつひとつ丹念に取り除いていくためにあるんだと思います。

ですから、私は政治家の集まりに招かれますと、伝教大師最澄の言葉である『一隅(いちぐう)を照らすものは国の宝なり』をしばしば引用します。「この『一隅を照らすものは国の宝なり』の精神を以て、政治に取り組んでいただきたい。それが、日本の政治を良くする道である」ということを訴え続けております。

権力の持つ魔力に、人は動かされることが多いんですね。また、権力というものは、いったん握りますと、それをますます強くしたい……。そして「強くするためには手段を選ばず」ということで、間違いが起こる場合が多い。ですから、選挙を通じて国民が政治に参加し、この選挙の中で、政治家にきちんとした生き方を取り戻してもらう。取り戻すことのできない政治家には、選挙において「国民の支持を失う」という経験を与えることをもって、政治を正常化したいものだと思っております。

今年は2つの大きな選挙、すなわち、4月には統一地方選挙があります。7月には参議院議員選挙があります。おそらく私の見るところ、来年には衆議院総選挙が行われる可能性が高い。現在の衆議院議員の任期は、2009年の9月11日までですから、任期満了まではさらにもう1年あるんですが、参議院で変化が起こる可能性があります。もし、参議院で自公連立政権が過半数を割ったら、(註:たとえ衆議院で3分の2議席以上の圧倒的多数を占めていても、衆議院で可決された法案が参議院で悉く否定されることになって、改めて民意を問うために)「衆議院の選挙をしなければ国政が進まない」という事態が、来年の春には起こり得ると思いますので、そこで衆議院の解散が行われる可能性があると思われます。この統一地方選挙と参議院の2つの選挙。それから、来年に予想される衆議院の総選挙を通じて、日本として、独立国家として、日本の政治のあり方を取り戻す。また、日本が日本らしい生き方を取り戻す大きなチャンスではないか、あるいはチャンスにしたいと思います。


▼一極集中でない楕円形型日本をめざす

「自由競争」と「自己責任」というのは美しい言葉でありますが、たとえ果たしたくても自己責任を果たすことのできない人が実際数多くいる社会において、政治家が「自己責任」を一方的に強調することは、政治家のあり方として正しくないと思います。弱者に対して手を差し伸べることが先だと思います。その点では、われわれは日本の社会の中にある、もともと優れた日本的精神である「和の世界」と「相互扶助(たすけあい)」を日本社会の中に取り戻すべきだと思います。

また、政治や経済の中心地であれば、関東と関西……。この2カ所が日本列島の2つの柱として切磋琢磨し合って、お互いに栄えていくという方向に方向転換したいものだと思います。東京一極だけが栄えて、関西をはじめ各地方が寂(さび)れていくのでは、日本がうまく発展していくとは思えません。私はかれこれ五十数年間東京で暮らしておりますが、祖先から伝わった伝統や人々の文化力という点においては、歴史の浅い東京は関西には足許(あしもと)にも及ばないと思います。確かに欲望の坩堝(るつぼ)と化し、外資系の企業もどんどん入ってきて、活発な経済活動が行われていますが、東京だけが栄えれば日本全体が栄えるということはないと思います。

ですから、私は政治の方向についても二極中心主義を取ってもらいたい。同心円ではなくて、楕円形には2つの中心があるように、「楕円形型日本」になってもらいたい。これが、日本全国が大きく成長する上での鍵ではなかろうかと思いまして、そのことも国会議員の皆様に主張いたしました。私はこういう生き方でいきたいと思っております。

率直に申します。小泉政権がかなり荒っぽいことをやって、多くの国民の皆さんが絶望し、「日本は駄目じゃないか……」あるいは「われわれは当分の間――10年、20年という期間――堪え忍ばなければならないのか……」という思いが拡がりつつあるのは、明らかに政治の失敗、政治の退廃だと思います。

私が生きてまいりましたジャーナリズムの世界も、今、非常な危機にあると思います。ジャーナリズムが心すべき、目指すべきものは、政治権力が過ちを犯さないように、これを監視し、また過ちがあれば諫めることであり、これこそがジャーナリズム(新聞やテレビ)の役割だと思いますので、現在の日本のように、ジャーナリズムまで一緒に大合唱して、間違いの政治を擁護するのは堕落だと思います。これから、私もそれを糺(ただ)すために努力したいと思います。真っ直ぐな精神、真面目な精神……。政治家はもちろんのこと、ジャーナリストや役人や経済人も、この精神を取り戻さなければならないと思います。

最近の日本の指導者のほとんどが、アメリカで教育を受けてまいりましたが、特に東北部で教育を受けた人が非常に多い。代表的なのがハーバード大学です。彼らは確かに良い環境で勉強してまいりました。ですから「アメリカが優れた国だ」と思うのは当然です。ですが「アメリカのような国に日本をしなければならぬ」と彼らが決意して日本に帰国するというのは、大きな間違いなんですね。日本には日本の歴史があり、日本には日本の生き方があるんです。この点も糺していかなければならないと思います。近年、「そのことは十分に可能だ」と、東京にも反省の芽が少しずつ出てまいりました。今までのことを反省して、今までのような荒っぽいやり方ではなくて、もう少し情(じょう)のある、情(なさ)けのあるそういう方向に転換しようという人が徐々に増えてきておりますので、私もその方向に持って行きたいと思っております。

約束の時間がまいりました。ご清聴に深く感謝いたします。最後に皆様方のご多幸をお祈りしまして、終了させていただきます。皆様、本当に有難うございました。

(文責編集部)

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