創立82周年 青年大会 記念講演


『聴くことで相手の尊厳に目覚める』

大阪建設労働者生活相談室
ボランティアケースワーカー
                        入佐明美

6月21日、創立82周年青年大会が開催され、大阪建設労働者生活相談室 ボランティアケースワーカーの入佐明美氏が『聴くことで相手の尊厳に目覚める』という講題で記念講演を行った。看護師であった入佐氏は、当初、ネパールでの医療奉仕活動を目指していたが、ふとしたきっかけから日本一の“ドヤ街”である釜ヶ崎でボランティア活動をすることになり、以来、30年間の長きにわたって釜ヶ崎(「あいりん地区」)の生活困窮者たちのお世話一筋の人生を送ってこられた。本紙では、数回に分けて本講演の内容を紹介する。


入佐明美氏

▼ネパールへ行きたくて

こんにちは。ただ今ご紹介いただきました入佐明美と申します。西成区の「釜ヶ崎」(註:地名としての「釜ヶ崎」は1960年代の住所表示名の変更によって消滅したけれども、今でも地元では「釜ヶ崎」と呼ばれている。行政や報道機関は、この地域のことを「あいりん地区」と呼んでいる)というところで、ボランティアのケースワーカーをしております。釜ヶ崎というところは、日雇い労働の人たちがたくさん住んでいる地域で、完全な男性社会なんですね。ですから、多くの人に「どうしてそのような男性社会の釜ヶ崎で、ボランティアのケースワーカーをするようになったんですか?」と聞かれるのですが、実は、自分自身が中学生の頃、あまり好きでもない勉強をしながら「勉強は、何のためにするんだろうか? 将来の自分はどうなっていくんだろう? どうせ人間は死んでしまうのに、どうして今こんな風に頑張って勉強しないと駄目なのかな…?」と考えながら、「生きることの意味」というものを掴むことができずに虚(むな)しい日々を過ごしていました。

何をやっても虚(むな)しくて仕方がなかったんですが、そんな時に、当時、ネパールで医療奉仕をされていた岩村昇先生(註:日本キリスト教海外医療協力会からの派遣ワーカーとして、1962年にネパールへ赴任。当時、国民の平均寿命が37歳というネパールで、以後18年間、結核・ハンセン病・マラリア・コレラ・天然痘・赤痢等の伝染病の治療予防に夫人と共に活躍)のことを知りました。その先生は、ネパールへ行き、結核や栄養失調などで苦しい思いをしている人たちに医療奉仕をしながら、そこで、ネパールの人々と一緒に暮らしておられるんです。私はその姿を知った時に「素晴らしい生き方だな」と、ものすごく感動したんです。

その感動と同時に「自分もこんな生き方がしたいな」と考えたんですね。そんな思いは、人に喋ったりするのではなく、いつも心の中で大切に温めていました。そして「もし、私がネパールへ行って医療奉仕をするのだったら、看護師になることが一番良いな」と考えました。私は鹿児島で成長し、高校を卒業した後、姫路にある「赤十字看護専門学校」というところに入学しました。看護学校は、勉強も実習も大変でしたが、「将来ネパールへ行って医療奉仕をしたい」という夢と想いが私を引っ張ってくれたおかげで、無事に卒業し、国家試験にも合格することができました。その後3年間ぐらい、私は精神科で看護師として働きました。

精神科で働くことの大切さを感じる一方で、「何のために看護師になったのか?」と考えていると、ネパールへ行きたくて仕方がなくなりました。ネパールの夢が本当に膨らんできた時に、ちょうどネパールから帰国された岩村先生の講演会がありました。その講演を聴いているうちに、私はますますネパールへ行きたくなりました。そこで、私は講演が済んでから、勇気を振り絞っておそるおそる岩村先生に「先生、実は私看護師なんですが、私もネパールで医療奉仕がしたいんです」と打ち明けました。すると、先生は「あなたは見るからにネパールにぴったりだから、早く準備をしなさい」とおっしゃったんです。

それを聞いて、私は「そうか、ネパールへ行けるんだ」と、喜びいっぱいで生活を送っていたところ、岩村先生から「○月○日に、大阪で会いましょう」と電報が届きました。私はてっきりネパール行きの具体的な打ち合わせをするのだと思い、先生のところへ会いに伺いますと、岩村先生は「将来的にはネパールへ行ってほしいけれど、ネパールへ行く前に大阪の釜ヶ崎というところで、ボランティアのケースワーカーをやってみませんか?」とおっしゃいました。私は鹿児島生まれですから、大阪のことなど何も知りません。「カマガサキとネパールと、どういう関係があるんだろう?」と思いながら、先生の話を聞いていました。

先生は私に、釜ヶ崎の簡単な説明として「釜ヶ崎の広さは、だいたい800メートル×800メートルで、0.62平方キロメートル。その中に、2万人から3万人の日雇い労働者が住んでいる。しかも、そのほとんどが男性で1人暮らしである。『3キ』と言われるきつくて、汚くて、危険の伴う重労働を担っている。景気の良い時は手っ取り早く雇われ、景気が悪くなると一番先に首を切られる」といった釜ヶ崎の状況に関する説明をされ、「釜ヶ崎では、10人に1人が結核なんです」とおっしゃいました。

結核という病気はすでに過去の病気だと思っていたのに、先進国である日本で「10人に1人が罹(かか)る」と聞き、本当にビックリしました。さらに驚いたのは、0.62平方キロメートルという狭い空間で、1年間に300人もの人が路上で亡くなるという事実でした。私は、その言葉を俄(にわか)には信じることができませんでした。日本では、普通「人間が死ぬ時は、自宅の畳の上か病院のベッドの上で亡くなるはずなのに、何故、路上で人が亡くなるんだろう?」と…。「先生、どうしてこの豊かな日本の中に、そういうところがあるんですか?」と問いかけると、先生は悲しそうな顔をして「繁栄の裏では犠牲になる人たちがいるんですね」と答えられました。


▼釜ヶ崎で働くことに決心

私はそれから1年の間、釜ヶ崎に行くべきかどうか、ものすごく悩みました。当時、私は23歳でしたが、多くの人に「あんな男ばかりの社会に行ったらあかんよ」とか「結核に感染したら死んでしまうよ」と言われましたし、そして、実際に釜ヶ崎に足を運んでみますと、本当に男性ばかりの世界で、若い女性は歩くだけでも緊張します。ケースワーカーとは、相談に乗ることが仕事のはずなのに、当時の私は声もかけられないどころか、緊張して言葉すら出てきませんでした。ですから、私は「釜ヶ崎で働くのは無理だな…」と思っていました。

けれども、その都度、「もう1回だけ行ってみよう」と思い直し、何回も何回も釜ヶ崎に足を運びました。道端に病気で倒れている人、工事現場で怪我(けが)をして体に障害を持っている人、また、ある人はアルコール依存症になってしまい、朝からお酒を飲んでいる。結核になって、苦しそうな咳をしている人…。そんな人たちの姿を目の当たりにしながら、私は少しずつ「釜ヶ崎の人たちは、仕事が重労働だから体を痛めている人が多いんだな。危険の伴う仕事をしているから、体に障害を持っている人が多いんだな」ということが判ってきました。

そして「この人たちは、医療従事者を必要としている。けれども、医療から見放されて、苦しい思いをしている人がまだまだいっぱい居る」と感じました。「実際、やっていけるだろうか?」と不安もいっぱいありましたが、「釜ヶ崎で働いていきたい!」という決心が与えられたような感じでした。とはいえ、私の人生計画では「2、3年間、釜ヶ崎でフィールドワークの実地経験を積んだ後は、どんなことがあっても、憧れのネパールで医療奉仕がしたい」という思いが当時はまだありました。けれども、結局その後、私はネパールへは一度も行くことなく、30年間、釜ヶ崎でずっとボランティアとしてケースワーカーをしてきました。

私の思いが、どういうふうに変わっていったのか…? 私は毎日、日雇い労働者とお話をしたり、住むところがない人には住まいを探したり、病気の人が居たら病院に付いて行くといったことをずっと繰り返してきましたが、その中で失敗したこともいっぱいありますし、怒られたこともいっぱいあります。また、それまで私自身が「良い」と培ってきた価値観が、根底から崩されるとかいった経験をいっぱいさせていただきました。そういった経験を通してこころに残っていることや、私が心がけていること、また労働者の人の言葉で、今も私のこころに鳴り響いている言葉…。そういったことを、これから紹介させていただきたいと思います。


入佐明美氏の体験談を真剣に聴く泉尾青年会たち

私は、ボランティアで働いていますので、多くの人から「失礼なことを聞くようやけど、どないして(どうやって)食べてるの?」と質問されますが、最初の4年間は「釜ヶ崎キリスト教越冬委員会」というグループに雇われて、専従でケースワーカーをしていました。その後の6年間は『入佐さんの活動を支える会』という会を創っていただき、全国から300人の人が拠出してくださるお金によって支えられていました。4年間と6年間で、合計10年が過ぎた頃、私は10年分の疲れが出てしまったのか、お給料を頂いて責任を持って働くことができなくなりました。それ以降は、まったく個人レベルでのボランティア活動です。当時の退職金を使ったり、貯金を崩したりしましたし、また、引き続き個人レベルで応援してくださる方も大勢居てくださいました。それから、今日のように講演をしたり、本を書いたりして生活を支えながら、なんとか活動を続けているといった感じです。ですから、私の立場は3回ほど変わりましたが、やっていることはずっと同じケースワークです。


▼人間関係を築くことから

私は、「労働者の話を聴く」ということをとても大事にしています。ただ、言葉を聴くだけではなく、相手の方の気持ちを聴く。もっと言えば、相手の方が生きてこられた人生に耳を傾けていくということを大切にしています。私が最初に釜ヶ崎に入った時は、今から30年も前の24歳の時でした。当時、医療従事者として釜ヶ崎に常勤で入り込んだのは男性を含めて私が初めてで、それまで、炊き出しや冬に毛布を配ったりする活動をしている人たちは皆、キリスト教の神父さんや牧師さん、シスターさんでした。彼らは「病気の人が多いな。医療奉仕してくださる方に来て欲しいな」と願っても、医療従事者の方に釜ヶ崎に来ていただくということは、なかなか難しかったみたいです。

そこで、ネパールへ行っておられる岩村先生に「先生、ネパールへばかり看護師さんを連れて行かないで、1人でいいから釜ヶ崎へ送ってください」と頼んでおられたそうなんです。それと同じ時期に、私が違った場面で岩村先生に「ネパールへ行きたい」と話していたため、岩村先生の中では「この人は釜ヶ崎かな」と閃(ひらめ)かれたみたいなんです。私はその閃きに背中を押される形で釜ヶ崎へ来たんです。

ですから、仕事をしようと思っても、お手本もなければ前例もない。そういう中で仕事を創っていかないといけませんでした。「何から始めたら良いんだろう…」と思った時に、まず「人間関係を創ることが大事だ」と思い、来る日も来る日も釜ヶ崎を「こんにちは。お元気ですか? 体の具合はどうですか?」と、言葉をかけながら歩いたのですが、ほとんどの方が、私の言葉を無視されました。振り向いたかと思うと、「こんなところで若い小娘が何やってんねん!」と怒られます。そこで「実は、私はケースワーカーなんです。何か相談があったら、いつでも遠慮なく言ってくださいね」と答えると、「あんたみたいな娘に、わしらの苦労が解ってたまるか」とか「ええ格好するな!」と言われるんです。人間関係を築くことは、最初なかなか難しいことでした。でも来る日も来る日も言葉をかけながら歩いていると、そのうち「あの姉ちゃんは、鹿児島の人みたいやで」とか「看護師さんやったみたいやで」とか「相談に乗ってくれるみたいやで」というような噂が広まっていきました。

▼本音で話せる人が居たら生きてゆける

ある時、釜ヶ崎の街角で重症の結核の人と出遭いました。齢は42歳。栄養状態が悪く、歩くだけでフラフラになる健康状態でした。肺結核は、重症になると肺から出血するため、咳をすると口から吐血します。私は慌てて「おじちゃん、結核でしょう? 早く入院しましょう!」と勧めたのですが、「放っといてくれんか!」と取り合ってくれません。「どうしてですか?」と尋ねると、「今さら元気になっても仕方がないからな…」と言われるんです。その人は、若い時から何回も病院に出たり入ったりを繰り返していたのですが、たとえ結核が治っても、退院した次の日からまた日雇い労働に出なければなりません。本当に体がきつく、しばらくして体力が落ちてくると、また結核になる。その繰り返し…。そして、とうとう「たとえ病院に入って元気になったとしても、もう齢やから日雇いの仕事はできひん(できない)。若い時から日雇いの仕事しかしたことないから、日雇いができひんようになったら、もう生きていくことができひんからな〜」と言われました。

私はその時、これまでに出遭った患者さんは、どんな立場の人でも「早く元気になりたい」と思う人ばかりだったと気が付きました。入院されている人は皆、元どおり元気になって退院したいのです。けれども、釜ヶ崎で初めてケースワーカーとして関わった人は、「元気になっても仕方がない…」と言いました。私はこの言葉を聞いた時、大変なショックでした。誰だって病気になったら、元どおり元気になりたいはずなのに…。その思いすら持つことのできない状況の厳しさ…。好景気なうちは手っ取り早く日雇いで雇われ、ちょっと不景気になると、真っ先にクビを切られる。クビを切られると、現金収入が途絶えてしまうから、とたんに食べてゆけなくなり、路上で倒れて死んでしまう。そういった人々が「もう一度元気になりたい。働きたい」と思うようになるには、いったいどういった関わり方をしてゆけば良いのか、私はずっと考えていました。

その人と1カ月ぐらいの間、ある時は世間話をしたり、ある時は「何故、釜ヶ崎に来ることになったのか?」と尋ねたり、またある時は「病院に入院した時、わしが釜ヶ崎の人間だということで差別された」といった話に耳を傾けたりしました。けれども、やはり「入院したい(元気になりたい)」という気持ちにはなってもらえなかったんです。知り合ってからの1カ月、その人はみるみる衰弱してゆきました。それから2週間経った、ある晴れた日の午後だったと思います。「姉ちゃん、わしやっぱり元気になりたいから、ええ病院紹介してくれへんか?」と、私に初めておっしゃったんです。

私はその言葉を聞くと同時に、福祉事務所へ行き、入院ができるように手配をしていただきました。結核治療の専門の病院から迎えの方が来られて、すぐに入院となりました。私は以前にその人から「家族が居ない」ということを聞いていたので、毎日のようにお見舞いに行きました。すると、病院のベッドの上でえらくニコニコしながら「姉ちゃん、世話になったな。わし、元気になるからな」と言ってくれたんです。

その人がちょっとお手洗いに立たれた時、隣のベッドの方がしみじみと「姉ちゃん、あの人はな、『姉ちゃんが話を聞いてくれたんが一番嬉しかった』って言うてはったで…」と教えてくれました。そして「姉ちゃん、人間って1人でも本音で話せる人が居たら生きていけるねんな。そうやないと、私らみたいな立場の人間は『もう、どうでもええわ。酒でも飲んで死んだほうが楽や』って、ついつい思ってしまうねん」と言っておられました。その人のことが、今も昨日の出来事のように心に浮かんできます。「この世の中で、ほんの1人でいいから、本音で話せる人が居たら生きていける」私は30年間、この言葉を土台にして、仕事をさせてもらっています。


▼相手の方と同じ目線で、しんどくない間合いで

私は釜ヶ崎を回る時は、いつも運動靴とジーパンとジャンパーです。相手の方が立ってお話をされたら私も立ってお話を聞く。しゃがんでお話をされたら私もしゃがんでお話を聞く。いつもそういう風に、目の高さを同じにして相手の話を聞くんです。そして、もうひとつ大事なことは「相手の方との間の取り方」です。例えば、今ここに「生きるか死ぬかの瀬戸際で、息をするのもやっと」という人が居るとします。その人を励まそうと思って若く元気な人が「おじちゃん、頑張ってや!」と勢いのある大きな声で言葉をかけても、気持ちが通じない―その若々しい勢いを、重たく痛く感じ、負担に感じるという人が居る―ということに、ある時、気が付きました。

よく「心をもっと広げなさい」と言いますけれども、心には、幅だけでなく、「ここまでは入ってきて良いけれど、これ以上は入ってこないで」という奥行きもあると感じたんです。例えば「Aさんの心はここまで入っても良いけれど、Bさんは、ここまで入られるとしんどい」といったように、皆それぞれなんです。私は、いろいろ失敗を重ねながら、目の高さや相手の方がしんどくならない間の取り方、心への入り方に気を付けながら関わっていきました。

すると、だんだんと労働者の方が自分の生い立ちを話されたり、何故、自分が釜ヶ崎に来ることになったのか? といった話を、私にしてくださるようになってきました。「田舎で農業をしていたけれど、農業だけでは食べていけなくなって出稼ぎに来たんや」とか、「九州で炭鉱夫として働いてきたけど、閉山になってしもうたから大阪に出てきたんや」とか、「小さな会社で働いていたけど、潰れてしもうた」とか、「一流企業に勤めてたけどリストラに遭ってしもうた」という「理由」を告げる人も居れば、「私にも姉ちゃんみたいな娘がいるんやで。けれどもう10年も会ってない」と、家族への思いを抱えている人がいたり、「姉ちゃん、わしな、オヤジが戦死して、養護施設で大きなってん」とか、「お母ちゃんの再婚先で、すごい辛い思いをした」とか、「親戚をたらい回しになった」とか、「生まれた時、私の家は貧しくて貧しくて、三度の飯も満足に食べられへんほど貧しかった。学校へも行かず、お父さんお母さんと農作業してたんや」と、幼い頃の辛い体験を抱えている人、さらには「戦争に行き、生きるか死ぬかの戦地からやっとの思いで故郷に帰ってきたら、隣近所の人たちが『どこそこの息子さんは、お国のために立派に戦死された』と話している。だからわしは、生きて帰ってきたことが辛くて辛くて、逃げるようにして釜ヶ崎に来たんや」と長年、癒されることのない心の傷を打ち明けてくれる人もいました。

こんなこともありました。ある人の話を聞いていると、ポケットから外国人登録証を出して「ウチ、実は在日なんや。本名はこの名前や。小さい頃から日本人に苛められた」と、そっと打ち明けてくれたんです。最初、私は皆さんの顔を見ながら「そうですか」と頷いていたんですが、だんだんと自分の頭が下がってきていることに気が付きました。それは、話を聞く中で「そんな辛い中、よく生き抜いてこられましたね」、「差別され、阻害されながらも、耐え抜いてよく生きてこられましたね」という思いで、胸がいっぱいになったからなんです。労働者の方たちが、これまで選択肢のない中で生きていかざるを得なかったということを実感した時、私は初めて、自分の人生と釜ヶ崎に来ている人たちの人生を比較してみたんです。


▼変わらなければならないのは自分自身

私は1955年(昭和三十年)の生まれで、小さい頃から三度のご飯はお腹いっぱい食べられたし、両親に捨てられたこともありませんでした。そこそこの家庭環境だったけれども、それでも「将来、看護師さんになりたい」と思ったら、勉強させてもらえる家庭環境でした。つまり、どちらかというと、自分の人生を選びながら生きてこられたんだと思いました。もし、自分の人生を釜ヶ崎の労働者の方たちの人生と置き換えたら、そんな苦労や大変な中で、果たして私は生きてこられただろうか? と思ったんです。

労働者の方たちの話を聞けば聞くほど「よく、そんな厳しい中で生き抜いてこられましたね」という尊敬の念が湧いてきました。私はそれを「自分の心が、鏡のように相手の気持ちを映すようになってきた」と思ったんです。それまでの私は、日雇い労働者に対して上から目線で「もっと頑張りなさい」とか、「お酒を止めなさい」と命令的に関わっていました。そのことに気が付いて、「やっと良い関係ができそうだ」と思っても、いつもその途中で「若いくせに、偉そうなことを言うな」とか「わしらの苦労も知らんくせに、偉そうなことを言うな」と怒られてしまい、なかなか良い関係が築けなかったんです。

ですから、労働者の皆さんのこれまでの人生を知った時、私は本当に「申し訳なかった」と思ったんです。その自分の傲慢さに気が付いた時、「『変われ、変われ!』と彼らに要求してきたけれども、本当に変わらないといけないのは、私自身だったんだ。私の傲慢さが問題だったんだ」と、自分自身にショックを受けて寝込んでしまいました。そして、天井を見つめながら私は「生まれ変わろう」と決心したんです。「労働者の方が生きてこられた人生の話に耳を傾けて、私のほうが変わっていこう。そういう方向で仕事をしていこう…」それから再び、私はスニーカーを履いて、ジーンズを履いて、ジャンパーを羽織って、外を歩き出しました。すると、少しずつ不思議なことが起こり始めました。

それは、労働者のほうから声をかけてくれる環境が整ってきたり、「どこそこに困っている人が居るから、わしと一緒に行ってくれへんか?」と、ケースワーカーという私の仕事に対して協力的になってくださったり、釜ヶ崎に入った頃に比べて、いくぶんスマートになった私を見て「姉ちゃん、男社会で大変やろ? 何か相談することあったら、いつでも言うてや」と、まるで立場が逆転したかのように励ましてくれる人も出てきました。

私は、そういう関わり方ができることが楽しくなってきました。この変化に、私自身も「生きていること自体が凄いことなんだ。ありのままで良いんだ。そんなに頑張らなくていいんだ。自分なりで良いんだ」と思えるようになってきました。そんな風に、労働者の方たちとの関わりが少しずつ楽になってゆき、喜びが与えられたり感動が与えられたりする中で、私はつくづく「変わっていかなければならなかったのは、自分自身だったのだ」ということを、改めて感じました。

▼「生活保護」を受けるという方法

今までお話ししたことを基本にしながら、これから、私が一番力を注いでいることについて、お話しさせていただこうと思います。「路上で人が亡くなる」ということは、私にとってものすごくショックなことでした。若い頃からいのちがけで働いてきた人たち、日々の肉体労働で、本当に自らのいのちを削りながら生きてきた人たちが、人生の一番最期に路上で亡くなっていくという現実…。寒い時は冷たいコンクリートの上で、病気や衰弱した体でひもじい思いをしながら息を引き取る…。そういう場面に何度も出遭った時に、「一人でもよいから、畳の上かベッドの上で人生を全うさせてあげる方法はないのか?」と思ったんです。そのことに関して、私は本当に祈りました。

そうすると、またひとつ思いが与えられました。日本には(日本国憲法の第二十五条にある「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という条項に基づいて制定された)『生活保護法』という法律があるということに気が付いたんです。つまり、日雇い労働者には「生活保護」を受ける権利がある。しかし、路上に暮らす人たちは氏名はあっても住所がないですから、いろんな書類を役所に申請することができず、その結果、最低限の生活保護すら受け取ることができません。ですから、まず先にその人たちにお金を貸して、とにかくアパートに入居してもらい、各々の現住所を設定します。そして、自分の生活を創りながら、生活保護を申請することを始めたんです。

このことは、私が想像していた以上に、労働者の方たちに喜んでいただけました。「これで道端で死なんで済んだ」とか、「これでやっと人間らしい生活ができる」という言葉が、私の耳に入ってきました。大阪市の場合は、65歳以上で所在地となる住所があれば、全く仕事をしていなくても生活保護の申請が可能です。65歳よりも若い方の場合は、その人が労働ができない―病気や体に障害があるといった―ということを証明する診断書があれば良いのです。

私の働いている事務所に来ていただいて、これからアパートに入っていただこうとする人たちに説明する時に大切にしていることがあります。それは「これからアパートに入りますけれど、三畳か四畳半の一間ですが、あなたはどちらを希望されますか?」とか「1階と2階のどちらが良いですか?」などと尋ねることです。けれど、そう尋ねても、皆さん最初はたいてい「姉ちゃん、わし今、野宿しているんやでえ。泊まれるんやったらどこでもええ」と答えられます。私は「でもせっかくアパートに入って生活保護を受けるんだから、とにかくあなたの希望を言ってみて」と続けます。

そして、今挙げてもらった条件の中で、一番希望していることは何ですか? と尋ねると、「わしは腰が悪いから、1階にしてな」とか「わし、働いている時は釜ヶ崎でええけど、生活保護受けられるならちょっと離れた所にしてえや」、「わし、胃潰瘍やから、自分の料理は自分で作りたい。せやから、部屋の中に炊事場があるところにして」といったそれぞれの答えが返ってきます。

その第1希望を柱にしながら、その人の言ったイメージに添って、何件か下見をしておいた後、その中で一番良いと思える所を選び、私が保証人になってお金を貸します。そして布団やお茶碗といった生活用品を部屋に運び込み、1泊そこに泊まった次の日に生活保護の申請手続きをします。2回か3回役所へ足を運んだら、後は役所の人がちゃんとアパートに住んでいるかどうか出向いて確認し、その2週間後にお金が支給されることになります。


▼私は私の人生をつくる主人公である

私は、(生活保護の第1回目の支給日である)2週間を見届けたら、「後は自由に生きてくださいね。私はいつもこの事務所に居ますので、何かあったらいつでも言ってください」という風に、相手の方が自由と安心を感じてくださるように心がけるんです。何故、私がアパート探しにこれだけの手間暇をかけるのかといいますと、労働者の方たちはこれまでの人生の中で、自分から希望を言ったり、自分で選んだりすることができた経験のある人が非常に少ないんです。

そこで、できる限り「希望を言うことができた」、「選ぶことができた」という喜びを何回も体感してもらうんです。そうすると、その人の表情もだんだんいきいきとしてくるにつれて、言葉遣いが変化してきます。どんな風に変わるかというと、主語を入れてお話しなさるんです。「わしが選んだ」、「わしがこういう風に言った」といったように、主語を入れて喋れるようになるということは、いきいきと生きてゆくということと同じことなんだな、と感じました。

私は、ある教育者の言った言葉で、とても好きな言葉があります。それは「私は、私の人生をつくる主人公である」という言葉です。労働者の人たちは、ずっと自分の人生の主人公として生きることを許されなかった。私は、そんな人たちが少しでも良いから自分に与えられた人生の主人公として生きられるように、お手伝いをさせていただきたいと思っています。

もうひとつ、私が思っていることは、30年前に岩村昇先生が、道端で倒れて野宿している人を見て「病気を治すということは、どういうことだと思う?」と私に尋ねられた時、私は「救急車を呼ぶしかない」と答えました。ところが、先生は「病気を治すということは、生活を直すことだよ」とおっしゃったんです。私は、その言葉を今になってやっと理解できました。

野宿をしている方たちがアパートに入って生活保護を受け、三度のご飯がきっちり食べられるようになること。夜になれば、熟睡できること。それだけで、皆さん元気になっていかれるんです。ある人は、血圧が安定して薬が不要になりました。ある人は、胃潰瘍で入退院を繰り返していたのに、1回も入院しなくて済むようになりました。三度のご飯や夜眠れることを、私たちはごく当たり前のことと感じているけれども、それを奪われている人たちが、この日本にもいっぱいいらっしゃるんです。

それから、人間がいきいきと生きていくためには、人間関係を回復することがとても大切だと思います。一人っきりで孤独だった人が、アパートに入って近所づきあいできたり、大家さんとの関係が生まれたりします。ある人は、田舎に手紙を書いて送ったことで、お母さんがまだ存命していることを知り、あんまり嬉しくて生活保護の中から飛行機代を貯めて、田舎に帰りました。お母さんが入居している老人ホームに行くと、93歳になった母親は認知症を患っており、彼が自分の息子であるかどうかすら解らない。けれども、お母さんの耳元で声をかけたり、ご飯を食べさせたりしたら、何とも言えない穏やかな表情をされたそうです。

私はそんな話をいきいきと報告されるのを聞きながら、「回復するべき人間関係の中でも、親子間や兄弟間の人間関係が回復することは、本当に心の深いところが開放されていくんだな」と思うんですね。人は、生き方を変え、生活を変え、人間関係を回復するということを、何回も何回も重ねていくことで、いきいきと生きてゆけるんだと改めて思います。


▼その人の存在そのものが愛おしい

最後に、2人の方の話をさせていただこうと思います。ひとりの方は69歳で、アパートに入って1年半が過ぎた頃に、「アパートに入って、生活が落ち着いたことも嬉しいけれど…」と、私に話してくれました。その人は「それよりも嬉しかったのが、アパートに入る前、2月の一番寒い頃にずっと外で寝ていたから、着ている服もボロボロ。食べるものもないから、炊き出しに並んで雑炊を啜(すす)る。体も弱り、風邪を引いて辛い中『いつ、お迎えが来るんやろうか? わしの人生って、いったい何やったんやろうか?』とばかり考えていた。

そんな時に姉ちゃんが来て、アパートの話をしてくれた。こんな人間が、アパートに入って暮らせると思ってくれたこと。こんな人間にお金を貸してもちゃんと返す人間やと信じてくれたこと。今やから言うけれど、わし、ほんまに嬉しかったんやで」と言ってくれました。そして「保護費の中から返せると思うギリギリの額である月15,000円ずつ、返していきたい」と言われました。4カ月目に全額返し終えた時、その人は「これでわしも人の信頼というものを裏切らんで済んだと思うと、あんなにホッとしたことはなかった」と胸をなで下ろし、「これで、わしも人間というものを信じられるようになった」と言い残して帰っていかれました。

もう一人の人は、53歳で、アパートは持っているけれど仕事ができなくなって、家賃が払えない状態でした。そこで、2人でなんべんも役所に足を運び、病院に行って診断書を書いてもらい、なんとか生活保護の申請が順調に行き、私はホッとしていました。その翌月の月初めに、その人から電話がありました。小さな声で聞き取りにくいと思ったら、泣いておられたんです。その人は泣きながら「今までの人生で、こんなに人から大事にしてもろうたことはなかった。おおきに…」と言って、電話を切られました。以前に、私はその人から聞いた「わしは親に捨てられて養護施設で大きくなって、苦労ばっかしやった」という言葉を思い出しました。

この2人の人の言葉がものすごく心に残って、私は何度も何度もその言葉を反芻(はんすう)しました。今まで私は、生活に困っている人たちにアパートを探すことを目的として、無我夢中でやってきました。けれども、そのことを目的にしては駄目なんだということに気が付きました。それをきっかけにして、最終的には日雇労働者の方が「自分も大事な人間なんや。自分も人から信じてもらえる存在なんや」と、自分自身をかけがえのない存在として生かされていることを感じてくれるような関わりを作っていくことを、最終目標にしなければならなかったんだと思います。

「あなたは大切な存在だ」という関わりを作っていくには、私はどうあるべきか? と考えた時に、「自己肯定は、他者肯定と比例する」そして「自己受容は、他者受容と比例する」という言葉に出会いました。そこで「私自身は、自分のことを肯定しているだろうか? 受容しているだろうか?」と考えみると、いつも「自分にこんなところがなかったらもっと良いのにな」と、いつも自分にケチを付けて文句を言っていることに気が付きました。弱さや欠点があって、時々本当に落ち込んだりするけれど、こんな私でもかけがえのない人間として生かされているということを、まず自分から感じていくということが大事だと気付きました。一生涯切っても切れない縁があるのは、自分自身です。だから、自分自身を好きになって、仲良くなって和解しながら、折り合いを付けながら暮らしてゆく…。そういうことが、結果的に相手をありのまま受け止めるということに繋がっていくんじゃないかと感じています。

私は釜ヶ崎で、路上で亡くなる人や、「病院に行って治療してもらい、もっと生きたい」とどんなに願っていても、病気で亡くなる人を何回も目の当たりにしてきました。そうすると、今度はこうやって生きていることが、まるで不思議なことのように思えてきたんです。そして「今日もこうして生かされているということは、不思議なことやな。有り難いことやな」と、「生きている」というよりは「生かされている」と思うようになってきました。

ですから、日雇い労働者の方との関わりも、相手に条件を付けて受け入れるのではなく、お互いのありのままを本当に受け止め合って、「お互いが、今こうして存在しているということが愛おしいな」と思えるような関わり方を作っていきたいと思います。

私は、30年間ずっと釜ヶ崎で働きながら、「1人の人間の存在というものがどれほど愛おしいものか」ということを強く感じるようになりました。時たま人から「ネパールへはもう行かれないんですか?」と尋ねられますが、昔あれほど「ネパールへ行き、医療奉仕がしたい」と願った夢は、自然と溶けていき、「わざわざネパールまで行かなくても、釜ヶ崎で日雇い労働者の人たちとの関わりを大切にしたい」と、自然に思えるようになったんです。

そんな時、ある方から「あなたは中学校の頃から追い求めていたネパールと、釜ヶ崎で出会いつつあるんじゃないですか?」という言葉を聞いた時、「そうだったのか。私が追い求めていたネパールとは、場所そのもののことではなかったんだ。厳しい状況に置かれた人たちと関わることだったんだ」と感じました。これで、私の話を終わります。ご清聴有り難うございました。

(文責編集部)

 


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