創立84周年 婦人大会 記念講演
『文楽を知ろう:どうなる大阪の伝統文化?』
 演劇評論家
犬丸 治

7月15日、創立84周年記念婦人大会が『よろこび、祈り、生かされて生きる』をテーマに開催され、全国から婦人会員が参加した。記念講演は、東京から演劇評論家の犬丸治氏を講師に迎え、『文楽を知ろう:どうなる大阪の伝統文化?』と題する講演が行われた。本サイトでは、数回に分けて、犬丸治氏の記念講演を紹介する。

犬丸 治氏
犬丸 治氏


▼歌舞伎作品の7割は文楽から来ている

 ただ今、ご紹介に与(あずか)りました犬丸治でございます。私は歌舞伎大好き人間でして、小学校6年の時に初めて歌舞伎を観てからというもの、四十数年にわたり歌舞伎を見続けております。その間、いつの間にか歌舞伎を好きになり、今度は歌舞伎の批評を書いてみようかなどと大それたことを思い立ちまして、「歌舞伎評論家」という偉そうな肩書きを持つことになってしまいました。

 実を申しますと、本日関西に足を運ばせていただき、とても懐かしい思いを感じております。実は私の母方の祖父母が共に関西出身でございます。私自身は生まれも育ちも東京なので田舎がございません。母の父親は、兵庫県の小野の出でございました。そして母の母は丹後の宮津の出でございました。ですので、祖父母は共に関西弁で話していましたから、子供心に関西弁に親しく接していました。そのおかげか、文楽の世界に違和感なく浸れた訳でございます。ですから、文楽を見ていても懐かしく思います。

 今回のテーマは、『文楽を知ろう:どうなる大阪の伝統文化?』と凄いタイトルですが、実はこのお話を三宅善信先生から頂いた時に「いいですよ」と気軽にお引き受けしましたが、ご存知の方も居られると思いますが、今、大阪では文楽にとって難しいことになりつつあります。一昨日(7月13日)でしたか、文楽界の重鎮であり、また最長老でもあられ、現在87歳になっておられます人間国宝の7代目竹本住大夫師匠が脳梗塞で倒れてしまわれました。いろんな方から聞くところによると、おかげさまで住大夫師匠のご容態は安定しているようですので、私も大変ホッとしているところでございます。その過程において、こういう言い方をするのはあまり良くないかもしれませんが、橋下徹大阪市長が、文楽については大変厳しいお立場を取って「文楽協会への補助金をカットする!」と言い続けておられることへの心労が、住大夫師匠がお倒れになったことのひとつの遠因ではないかと私は考えております。辛い話でございますが…。

婦人大会参加者を前に熱弁を揮う犬丸治氏 婦人大会参加者を前に熱弁を揮う犬丸治氏

 では、何故「歌舞伎好き」の私が「文楽」を見ているのかと申しますと、歌舞伎と文楽は、実はものすごく近い関係にあるからです。あるいは「文楽がなければ歌舞伎がない」とさえ言えるんです。例えば、道頓堀にある大阪松竹座で中村吉右衛門さんが現在『7月大歌舞伎』に出演されておられますが、今回の演目『義経千本桜』はもともと文楽から来た話です。歌舞伎をご覧いただくと、作品によっては舞台向かって右側(上手)に太夫さんと三味線さんが座っておられて、難しい台詞回しを唸っておられるのをご覧になる方もおられるでしょう。これは「義太夫狂言」と呼ばれますが、もともと文楽の演目を歌舞伎にアレンジしたものなんです。

 「人形浄瑠璃(=文楽)」という芸能は大阪で生まれたものでございます。18世紀初めに天王寺村でお百姓さんをしていた五郎兵衛という人が、大変浄瑠璃が好きだったことからある名人に弟子入りし、トントンと出世し「竹本義太夫」という名前になられました。そして大坂の道頓堀に「竹本座」という芝居小屋を作った訳でございます。これが義太夫節の始まりです。現在でも、大阪にはいろんな劇場や芝居小屋がございますが、当時、人形浄瑠璃はとりわけ勢いがございました。例えば、今でも残っておりますけれども、『曽根崎心中』などの芝居は、竹本義太夫さんが近松門左衛門という大変な脚本家と組んで作った訳でございます。

 「道頓堀」で思い出しましたが、「食いだおれ太郎」という人形がありますよね。ある種、大阪のシンボルでございますが、あれももともとは文楽人形をモデルに作られたということでございます。ですから、文楽というものは大阪の土壌に根付いた文化なんですね。大阪では竹本義太夫さんが亡くなった後もドンドンと名作(『国性爺合戦』、『心中天網島』、『女殺油地獄』等)ができてまいります。一方、歌舞伎は役者中心の演劇ですから、あまり良い脚本がないんです。役者が面白い芸を見せるというところはあるんですけれど、良い脚本となるとなかなか難しい。そこで「どうしようか?」と思っているところで「そうだ。人形浄瑠璃によい脚本があるからこれを歌舞伎にアレンジしよう!」と次々と人形浄瑠璃の脚本を歌舞伎に取り入れていきました。ですから、歌舞伎の演目の7割方は文楽から来ています。歌舞伎のお手本は文楽なんです。ですから、歌舞伎の役者さんというものは、とにかく義太夫節ができないと歌舞伎の時代物の台詞は言えない、というようなことになります。ですので、歌舞伎役者にとって、まず義太夫を習うことが教養なんですね。


▼文楽ぎらいの橋下市長

 今、市川海老蔵という若くて優秀で時々世間をお騒がせする若者がおりますが、ちょっと台詞まわしに難がありまして、周りの者は「海老蔵も一度大阪へ行って、文楽の師匠に習ってくりゃいいのに」と言われています。つまり、「台詞まわしを直すには、まず文楽の師匠の所に行け!」というのが歌舞伎界の常識でございます。それぐらい、歌舞伎役者にとって文楽の世界は敬われている訳です。

 そして、文楽というものにはご承知の通り、3つの要素がございます。文楽を「ただの人形劇じゃないの…」という方が居られますが、文楽を単なる「人形劇」と呼んでしまうことには、私にしてみれば疑問というか抵抗感があります。人形劇はどちらかというと子ども向けですが、文楽は子ども向けの人形劇じゃないんです。というのは、中身が男女間の心の機微に触れる大変高度なお芝居なんです。何しろ、あの近松門左衛門が書いていたぐらいですから名作がたくさんありますが、これを人形と太夫と三味線がまったく別々にやりながら、最後は三者一体になってひとつの芝居を作ってしまう訳です。「こんなお芝居はおそらく世界の何処を探してもないだろう」ということで、2003年には文楽がユネスコの世界遺産に登録されました。大阪の地元で誇らしいことだと思う訳です。

 文楽の太夫、三味線、人形と、それぞれに特色がありますけれども、太夫さんは太夫さんで男の人が全部やっていますけれども、老若男女一人ひとりの人間の声を全部1人の人間が語って、情景も語って、また語り分けます。三味線もただ単に弾いている訳じゃなくて、その場の景色や状況や役の心理を三味線の音で表現しているんです。

 人形は人形で、3人で動かす「三人遣い」ということになっております。まず中心となって人形を動かす人を「主遣(おもづか)い」といいます。

 (手で動作を示しながら)人形がこういうふうにありますと、「主遣(おもづか)い」の人が、こうやって左手を入れて人形の首(かしら)のところを動かしながら、もう片一方の手で人形の右手を遣います。じゃあ、人形の左手はどうなっているかといいますと、「左遣い」という人が動かします。最後の1人は「足遣い」といって人形の両足を動かす人がいます。この3人が息を合わせてやらないと、人形の動きがバラバラになってしまいます。では、いったいどうやって3人が息を合わせているのかと申しますと、ちゃんと主遣いの人が人形の頭の動きや肩の動きで、われわれには判らない「ズ」と呼ばれる一種のサインを他の2人に送りながら「このズで左遣いはこうしなさい」とか「このズで足遣いの人は座りなさい」と伝えているそうです。注意して見ていても私には判らないのですが…。この阿吽(あうん)の呼吸を300年かけて創り上げた訳でございます。

 橋下市長の悪口になってしまいますが、彼は府知事時代に一度文楽をご覧になりましたが、その時あまり面白くなかったらしく「文楽は二度と観ない!」と言っておられました。それを聞いて私は「あらら」と思っていましたが、さらにその後だったか、よせばいいのに「3人遣いは無駄だから2人遣いにしたら?」(会場、ざわつく)とおっしゃいました。私は「ちょっと待て、それは違うだろう!」と思いました。そういう話が彼には非常に多いのですが、一連の文楽協会への補助金打ち切り騒動の折には、私も心を痛めた訳でございます。


▼文楽協会と文楽そのものは別もの

 文楽の仕組みを簡単に申し上げますと、先程申し上げた太夫、三味線、人形という三位一体の働きをする人々を「技芸員」と呼びます。その人たちを束ねているのが「文楽協会」という公益財団法人です。橋下さんのおっしゃる通り、ここはひどくて天下りの巣窟みたいな所です。何しろ、中には文楽を見たこともない役員の方も居られますからね。職員もやたら多いし、やってることは怠慢ですし…。あれは、橋下さんの批評も当たっていると思います。しかし、何故、文楽協会ができたのかという歴史を考えないといけません。

 明治の終わりぐらいになってくると、江戸時代から道頓堀にあった「文楽座」という文楽の劇場の経営がだいぶ悪くなってまいりました。その時にどうしようもなくなった文楽関係の人たちが頼んだ先が「松竹」でした。映画や歌舞伎をやっている松竹株式会社ですが、当時はまだできたばかりでした。何故「松竹」というかと申しますと、ご存知の方もおられるかもしれませんが、創業者の大谷竹次郎の「竹」と白井松次郎の「松」の双子の兄弟の名前からそれぞれ1字を取って、当初は「松竹(まつたけ)」という名前でやっていたそうです。そこへ文楽の大名人の方が「大谷先生、どうか文楽を守ってください。お願いします!」と頭を下げた。当時、まだ35歳だった大谷竹次郎は、「よし、解りました。やりましょう!」と、松竹の下で文楽を守った訳でございます。

 とはいうものの、興行は大変な赤字続きでした。戦争中ということもあったんでしょう。文楽の入りが悪くなりました。最終的に、松竹は昭和38年にとうとう文楽を手放すことにしました。手放したものの、「文楽は何処へ行くんだ?」ということで創られたのが財団法人の「文楽協会」です。その時に、自民党の大野伴睦(ばんぼく)さんという有力代議士─彼は、新幹線のルートを変えさせて、地元の岐阜羽島に駅を造った人ですが─が仲介に立ち、国と大阪府と大阪市とNHKがお金を出し合って文楽協会が創られました。そして、「国立文楽劇場ができるまではそこを受け皿にして、なんとか文楽を守りましょう」ということになりました。

 公的資金によって、伝統文化である文楽を保全しようということ自体は良いことだったと思います。ただ、残念なことに、だんだんと文楽協会の運営が惰性になってきて、文楽専用の国立劇場ができあがったにもかかわらず、文楽協会がそのまま残ってしまったんです。残っていたが故に、役人の天下りポストとして腐敗の温床になってしまい、橋下さんがおっしゃってるような弊害が出てきた訳です。


▼文楽は数少ない大阪の宝

 僕は、橋下市長のおっしゃってることはよく解ります。けれども、その一方で、橋下さんが近頃「ツイッター」(註:最大百40文字の文章をPCや携帯端末から誰でもネット上に簡単に投稿できる情報通信サービス)を使って、文楽の悪口をいろいろと書いておられます。それを読んでいると、私たち文楽を愛する人間から見ますと、彼は「文楽」という芸能そのものに対して非常に否定的なんですね。この前は、とうとう「文楽の脚本が悪い」と言い始めました。けれども「文楽の脚本と演出が悪い(から、もっと受ける現代風のものに変えろ)」と言われると、私なんかは、「文楽はもはや古典芸能じゃなくなってしまうでしょう」と思ってしまいます。文楽というのは大阪が生んだユネスコも認める「世界遺産」であるだけでなく、日本の国の重要無形文化財なんですよ! 文化財というものは、できるだけそのままの形で、それを守っていかなきゃいけないものなんですよね。

 ですから、「文楽協会の改革をしなくちゃいけないよ」という話と「文楽の中身をどうしようか?」という話とは、全く次元の違うものだと僕は思っています。やはり、そこで文楽というものをもっときちんと未来に伝えていくということが私たちの仕事であり、責務だと思う訳です。「文楽って敷居が高いから…」とおっしゃる方も大勢居られると思います。けれども、考えてみれば、大阪に国立の劇場があるって凄いことですよ。大阪以外には、沖縄に琉球の組踊を保存する「国立劇場おきなわ」という劇場があるだけです。この他には、東京に3つ、国立劇場と国立演芸場と国立能楽堂があります。ですので、「何故、国立文楽劇場が大阪にあるのか?」それは、大阪が文楽のふるさとだからなんです。だから、大阪には文楽を守っていかなければいけないという責務があると僕は思っています。

 これは東京人の勝手な思い込みかもしれませんが、いろんな箱物を造っていくよりも、「まず大阪の歴史を見直していきましょう」と言いたいです。「大阪にある宝とはいったいなんだろうか?」と、まず胸に手を当てて考えてみた時、やっぱり文楽なんじゃないかと思います。それをもっと世界に発信していくことが、大阪に住む人々だけでなく日本人に与えられた仕事だと思います。だからか、このところの論調を見ていると「文楽なんて見たことがない」とか「どうもつまらなさそうだ」という意見までは解りますが、その後「つまらない文化は滅んでいい」という意見は、私はちょっと言い過ぎだと思います。それは、おかしい…。

宗教も文化も、人間の持っている心の内面や多様な豊かさというものであり、その互いの違いを認め合う…。「私は文楽は見ないけれど、面白い趣味だね」とか「私は文楽大好きなんだよ。君はまだ興味がないかもしれないけれど、いつか見てごらん」とかそういった会話が成り立つのであればまだ良いのですが、いきなり「文楽はもう古くさいから、滅んで結構です」というような乱暴な議論はちょっとやめてくれないか、というのが私の率直な気持ちでございます。

文楽というものは、本当に人間の有り様を描いた人形劇ですから、例えば、近松門左衛門が描いた『女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)』という芝居がございますが、私は、大津で問題になっている中学生のいじめ自殺事件などのニュースを見た時に、「近松という人は凄いなあ」と思います。『女殺油地獄』っていう浄瑠璃のあらすじを説明しますと、河内屋与兵衛という油屋のドラ息子の道楽者に関わる話です。この人は可哀想に父親(油屋の主人)に先に死なれてしまったのですが、母親が油屋の番頭と再婚してしまいます。つまり、自分にとって元は使用人だった人と母親が再婚してしまったが故に、この河内屋与兵衛という青年はもの凄くグレてしまった訳です。グレてグレてグレまくって、とうとう家庭内暴力に走る訳です。こんな話、今は何処にでも転がってますよ。それを今から300年ぐらい前の近松門左衛門が、ちゃんと脚本にしているんです。

そして、とうとう借金に借金を重ねてしまい、しようがないから、同じ町内の油屋豊島屋の女房お吉という女の所に借りに行くんですが、最初は小銭をくれていたお吉からも断られてしまったことから、勢いで彼女を殺してしまうんです。理由もなく惨殺して店のお金を奪う。これはまさに、大津のいじめ事件や、この前の心斎橋通り魔事件と同じような話が文楽には書かれており、それをちゃんと芝居にして人間が演じて、今日に至るまでずっと伝えている訳なんです。

真面目な話、文楽は本当に世界的視野から見ても、将来にわたって長く伝えられてもよい演劇だと思っています。文楽というものは、先程申し上げたように「敷居が高い」と言われますが、考えてもごらんなさい、例えば歌舞伎でしたら、先月まで俳優だった香川照之が歌舞伎役者、市川中車(ちゅうしゃ)を襲名しましたが、あの時の襲名披露興行の切符は19,000円ですよ! 京都南座の顔見世興行も高いですが、歌舞伎の観劇料は、文楽のそれと比べたらもの凄く高い…。文楽でしたら日本語ガイドもあれば字幕も出てきます。おまけに、台本も付いているということで、ある意味われわれは、外国人並みに日本の伝統文化を至れり尽くせりの状態で提供されているという、もの凄く幸せな状態にある訳です。

東京に住む私などにしてみれば「大阪の方は文楽劇場があって良いな」と、いつも思います。ですので、本当にそういった意味でも、文楽に興味がある方もない方も、是非一度大阪の文化に触れていただいて、その良さというものを知っていただきたいと思います。先ほども申し上げましたように、橋下市長のしていることをはじめとする様々なことに対して、異論反論もあるでしょうし、良い面も悪い面もあります。そういった中で、文化というものを大阪のためにもきちんと守っていかなければなりません。そこでまず、「文楽って何なんだ」と、皆さんご自身に実際にご覧いただいた上で判断していただきたい。たとえ「やっぱり私には合わないや」という感想であってもそれはいいんですよ。それから先は見なければいいんですから。けれども、まずは文楽を知った上で価値を判断していただければ、と思う訳でございます。


>▼『仮名手本忠臣蔵』の誕生

言い忘れていましたが、11月の文楽公演は『仮名手本忠臣蔵』を通しでやります。われわれはよく赤穂浪士の討ち入り事件のことを「忠臣蔵」といいますが、実は「忠臣蔵」という言葉のオリジナルは、文楽『仮名手本忠臣蔵』から取られたものなんです。ですから、文楽がなかったら忠臣蔵はなかったんです。赤穂浪士の討ち入り事件(1703年)があった後、(その記憶も生々しい1710年に赤穂事件を題材にした)『基盤太平記』という浄瑠璃が近松門左衛門によって創られるんです。江戸時代の人たちにとって難しかったのは、その時代に起こった出来事を、その時代の話として上演できなかったのです。なぜなら為政者を批判することになるからです。ですから、実際に起こった事件を、鎌倉時代に起きた出来事にしたりとか、南北朝の頃にしたりと、いろいろ工夫したり脚色してごまかしてやってみたりしたんです。そういうことがあって、たくさん赤穂浪士ものができたんです。

それが何故か─これもまた偶然なんですが─赤穂浪士の討ち入りから47年後(1748年)に大坂の道頓堀の竹本座で人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』というものが上映されたわけでございます。これが大当たりとなり、すぐに歌舞伎に翻案しました。ですので、赤穂浪士と言えば忠臣蔵…。ですから、われわれは「忠臣蔵、忠臣蔵」と普通に使っていますが、元はと言えば、文楽から来た言葉なんです。例えば、文楽劇場のある大阪から皆さんが「あの忠臣蔵の故郷は大阪ですよ」とアピールすれば、もの凄い宣伝になるんじゃないかと、私は他人ごとながら思ったりする訳です。

それでは、何故『仮名手本忠臣蔵』というか分かりますか? 「仮名手本」というのは、いろは仮名の仮名ですよね。つまり、赤穂浪士たち忠臣のお話を、仮名手本、つまり簡単に書いてみてお手本のようにして読みましょう。語って聞かせましょう。という意味が『仮名手本忠臣蔵』にある。一方で、仮名って何文字でしょうか? いろは四十七文字です。赤穂浪士も「四十七士」でしたから、そのことを、ちゃんと仮名手本にかけて入れてあるんです。そして、忠臣蔵の「蔵」は大石内蔵助の「蔵」なんです。昔の人は強(したた)かというか、頭が良いんですよ、そういうところは…。幕府に対してはちゃんとごまかしながらも、ちゃっかり題名の中に入れておくんです。ですから、今でも忠臣蔵っていう狂言は、歌舞伎では「(芝居の)独参湯(どくじんとう)」といって、万病に効く薬という意味で、それまでの興行がどんなに不入りであっても、『忠臣蔵』をかければ必ず満員になるという伝説があるぐらいです。

でも、そうはいっても、最近、テレビで『忠臣蔵』をやらないですよね。かつては、12月になれば、必ず「忠臣蔵もの」がオンエアされました。最近の人は浅野内匠頭や吉良上野介と言っても判らないんじゃないかと心配になります。そういった時代劇があまりないということも、歌舞伎なり文楽なりの元のところの物語の面白さを分からなくさせてしまっている一因なんじゃないかと思います。これは歴史教育ではなく、物語教育、あるいは国語教育と言うのでしょうか。そこに行き着くんです。とはいえ、そんなことを言っていても始まらないので、とにかく文楽劇場の座員たちは、まず、11月の『仮名手本忠臣蔵』を、おそらく全力をかけて上演するはずです。

現在、文楽の座員は何人いるかと申しますと、わずか八十数人しかいないんです。橋下大阪市長は、よく「もっと採算が取れて、お金が儲かる文楽にしろ!」とおっしゃいますが、文楽という演劇は、そもそも儲からないんですよ。何故かと申しますと、八十数人の座員のうち、人形遣いは30人ほどしかいません。人形遣いが30人いるとはいっても、1体の人形を3人で遣う訳ですから、主な役は10体ほどしか遣えない訳です。例えば、「劇団四季」ですとか「吉本興業」のように、同時に、別の場で─例えば今日、東京と福岡と大阪で同時に同じ芝居の─幕を開けるということはできないんです。しかも、文楽は人形を遣いますから、大きな声に向きません。勢い、小さなホールでやらなきゃいけないことになる。その上お客さんが少ない。ですから「入りが悪い」というとおかしいですが、収入としては少なくなる非常に難しい面がある訳です。どうしても、国なり自治体なりの補助金が必要になってくる。

松竹という興行会社が「ああこれはもうだめだ」と判断した昭和38年当時、松竹は文楽だけで年間5,000万円の赤字を抱えていたそうです。現在に置き換えると多分5億円ぐらいだと思いますよ。それでも、大谷さんが頑張って、踏ん張って、踏ん張ったけれど、とうとう堪えきれなくなって駄目だったから仕様がない。「国に頼るしかない」というようなことになり、財団法人として文楽協会が創られた訳です。

その文楽協会ができて今に至る訳ですが、その精神性が途切れてしまい、あんな形で天下りの体(てい)たらくになってしまったことは大変悲しいことです。しかしそれは、技芸員の責任ではございません。で、技芸員の人たちは、先ほど申し上げた通り、重要無形文化財(人間国宝)でございます。無形つまり形になってないもの─魂─そして目に見えない技芸─技─それを伝えていくのが、重要無形文化財なんです。それを今、パッと絶やしてしまえば、それはすなわち過去からの歴史を断ち切ることであり、未来への責任も断ち切ることになる訳でございます。それは、決して望ましいことではありません。これは宗教や文化でも同じことでしょう。そこには当然、寛容な気持ちが求められると思います。

そろそろ私の拙い話もおしまいにしたいと思います。金光様に皆様が心を寄せておられるのと同じように、日本が誇る伝統文化である文楽を今一度見据えていただいた上で、大阪の将来を含めて考えていただく一助になれば本当に有り難いことだと思います。本日は誠にありがとうございました。



(次号につづく 文責編集部)

 


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