大阪府宗教連盟 平成29年度理事総会 記念講演
『宗教の社会的つながり:防災・見守り・観光』

大阪大学大学院教授
稲場圭信

2017年11月16日、金光教泉尾教会の神徳館国際会議場において、大阪府宗教連盟(寺田裕司理事長)の平成29年度理事総会が、各宗派教団から約40名が参加して開催された。記念講演では、大阪大学大学院教授の稲場圭信氏を招き、『宗教の社会的つながり:防災・見守り・観光』と題する講演と質疑応答を行った。本サイトでは、この内容を数回に分けて紹介する。

稲場圭信氏

宗教の社会貢献について

皆様こんにちは。ただ今ご紹介に与(あずか)りました大阪大学の稲場圭信と申します。この度は、大阪府宗教連盟の理事総会という貴重な機会に講演をさせていただけますこと、また日頃からお世話になっている金光教泉尾教会長先生、三宅善信総長、関係者の皆様に感謝申し上げます。

お手元に『利他主義と宗教』、『災害支援ハンドブック』、そして『アメリカ創価学会〈SGI―USA〉の55年』の3枚の書籍のチラシがあると思います。「何故、創価学会なのか?」と思われる方も居られるかもしれませんが、後ほど少しお話をさせていただきたいと思います。今日の私のお話は特に資料はございません。お手元のチラシ『利他主義と宗教』そして『災害支援ハンドブック』の本の中から、主に話をさせていただきたいと思います。

本日ご来会の諸先生方は、それぞれの宗教教団の中で社会的実践というものがあり、また日頃、それぞれの檀家さんや会員の皆様方にいろいろとお話をされていると思いますが、もし今日の話を聴かれて「もう少し読んでみたい」ということであれば、これらの本を参照していただければと思います。本日頂いたテーマは、もともと「宗教の社会貢献について話をせよ」ということでした。その中から、今日は、社会的繋がりと防災をメインに、そして見守りや観光について少しだけお話ししたいと思います。

私の専門は宗教社会学です。その中でもとりわけ、利他主義、市民社会論、そして地域の中の社会的資源としての宗教を研究してまいりましたが、そこには、当然ながら、場としての宗教施設、人と人の繋がりがあり、そういった中で宗教がどのように位置付けられているのか…。私はこういった研究を20年近くやってきました。もともとは東京大学の宗教学科で、既に退官されました島薗進先生の下で研究を始めました。その後、ロンドン大学へ留学して、戦後アフメッド・カール博士と一緒にインドで活躍したサンガラクシタ(本名 デニス・リングウッド)というイギリス人の仏教運動、それから、キリスト教の「ジーザス・アーミー」という運動をイギリスで調査し、その内容をまとめたもので学位を取りました。その論文のタイトルは『Altruism in New Religious Movements』ですが、これはイギリスにおける「新宗教運動の利他主義」ということでした。その後、ロンドン大学で1年間教鞭を執り、そしてフランスの国立社会科学高等研究員というパリにある研究所でターミナルケアという臨床の現場で研究してまいりました。その後、國學院大学に数カ月間研究員として置いていただいた後、2003年から神戸大学で助教授として7年間。そして、2010年に大阪大学に移り今に至っています。

中程にあります『The Practice of Altruism』は、「利他主義の実践」という本をアメリカやヨーロッパの学者と共に編集して、出版いたしました。ただ、神戸大学に居た頃は、教育学系の先生が多く、宗教と社会貢献、利他主義といった宗教研究をあまり理解して貰えないようなところもあったため、『思いやり格差が日本をダメにする』という、2008年にNHK出版から一般向けの本を出しました。この本では宗教というものをメインに出さずに、しかし、宗教的な心の中には、先ほどの冒頭での理事長先生のご挨拶にもありましたように、社会にとって大切な心、考え方、価値観、人と人が繋がっていくような、そういったものがあるけれども、それが日本で少しずつ薄れてきているのではないか。そして、それをどういう風に取り戻していくのか。思いやりがある人と「自分さえ良ければいい」という人に二極化していく心の面での思いやりの度合いに格差が生じており、それが日本を駄目にしていくのではないかといったテーマが主軸となっています。

その後も、宗教と社会貢献に関する研究を続け、『社会貢献する宗教』という本を世界思想社から出しました。残念ながら、この本はもう手に入らないんですが…。この本は北海道大学の櫻井義秀先生と共に編集したのですが、その後、私が編集委員長として一般向けにオンラインで誰もが無料で読める雑誌を作ろうということになりました。学術論文というものは、たいてい非常に閉鎖的です。日本ですと、日本宗教学会や宗教と社会学会という学会に入っているメンバーの研究者や宗教者の方々だけが読める雑誌があります。しかし、それでは社会になかなか宗教の社会貢献、そして宗教がどのように社会と関わっているのかが伝わっていかないのではないかということで、私が研究会を2006年に立ち上げて、10名ぐらいの研究者でずっと研究を続けてまいりました。そして2011年から毎年、年に2回、無料でインターネット上で、誰もがアクセスできるジャーナルとして『宗教と社会貢献』を刊行しています。この研究は日本国内だけが研究対象ではなく、海外も含めて、仏教、キリスト教、神道、教派神道、新宗教といった様々な宗教が、どのように社会と関わっているのかを研究してジャーナルに掲載しています。まったくボランティアベースなので細々とやっていますが、ネット上で検索してプリントアウトしてお読みいただければ有り難いです。

また、『利他主義と宗教』を2011年に弘文堂から出しました。この本では先ほど申しましたイギリスでの研究を日本語に訳して紹介し、グローバル社会における宗教、そして、さまざまな宗教が災害の現場や貧困の現場といった様々な領域に関わっていく宗教の社会貢献というものについて書きました。2011年3月11日の東日本大震災以降、本当に多くの宗教施設が緊急避難所になりました。ここに居られる方々の中にもそういった避難所を提供された方も居られると思いますし、また、募金活動をされたり、被災地に駆けつけて支援活動等をされたことと思いますが、そういったことをいろんな研究者と共にまとめた『震災復興と宗教』という本を、國學院大学の黒崎浩行先生と2人で編集し、諸宗教の活動として1冊の本を作りました。この本は明石書店から出ていますが、『宗教とソーシャル・キャピタル』という、4巻本の叢書の中の1冊になります。この他は『ケアとしての宗教』、『地域社会をつくる宗教』、『アジアの宗教とソーシャル・キャピタル』がございます。ご関心がある方は、書店あるいはアマゾンなどネット上で検索していただければと思います。

大阪府宗教連盟の役員諸師に熱弁を揮う稲場圭信氏
大阪府宗教連盟の役員諸師に熱弁を揮う稲場圭信氏

東日本大震災の時、私はさらに宗教者の方々と、島薗進先生、東大の仏教学の蓑輪顕量(みのわけんりょう)先生、國學院大学の黒崎浩行先生をはじめとする多くの研究者と共に、宗教者災害支援連絡会を立ち上げました。その後も、東京大学仏教青年会館において、継続的に情報交換会を行っています。その中で見えてきた災害時に持つ宗教の力と申しますか、現場でどのように宗教者が活動し、市民団体、または行政や社会福祉協議会と協働しているのか。日本は今、災害が頻発していますので、今後、東日本大震災の時の経験が生きるのではないか…。そういうことをハンドブックにまとめました。残念ながらその刊行直前に熊本地震が発生したのですが、その時の対応もこの本の中に書かれているようなことが実際に現場で起きています。その話は、また後ほどさせていただきたいと思います。


欧米における創価学会研究の意味

それからもうひとつ、お手元のチラシにあります『アメリカ創価学会〈SGI―USA〉の55年』ですが、何故、創価学会をとりあげたのか? この教団は日本においてはさまざまな反応があり、また政治との関係、あるいはさまざまな宗教との軋轢(あつれき)などがある組織ですが、この創価学会が、海外では創価学会インターナショナル(SGI)として192カ国地域で活動が展開されています。日本もそうですが、多くの国々で宗教離れ―世俗化と言われていますが―が進む時代にあって、何故、海外で、このSGIが成長を続けているのか。それを学術的に解き明かしていこうということで、文部科学省の科学研究費を頂きまして、大阪府立大学の秋庭裕先生、大阪大学の川端亮先生、そして私の3人で、ハワイからはじまり、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、シカゴといったさまざまなアメリカにおけるSGIの拠点に赴き、10年間で60名以上にインタビューを行いました。

さらに、例えば「師弟不二」という言葉がありますが、“Master and Disciple(師匠と弟子)”から“Mentor and Disciple(助言者と弟子)”へと、どのように変化してきたのか、あるいは「Worship(礼拝)」や「Devotion(勤行)」という言葉や「ご本尊」という言葉がどのように変わってきたのか。どのようにして現地化していったのか。手前味噌になりますが、古い新聞記事などの膨大な資料―創価学会本部の方々も把握していないようなものも含めて―を10年間かけて読み解きインタビューを行い、最終的に新曜社という学術出版界から2巻連続で出版の運びとなりました。

つい最近、出たばかりなのが、この『アメリカ創価学会〈SGI―USA〉の55年』で、こちらは秋葉裕先生の単著です。そして、2017年の年末になるか2018年の1月になるか判りませんが、次に出版が予定されているのが、この『アメリカ創価学会における異体同心―2段階の現地化』です。この「2段階の現地化」とは、すなわち、アメリカナイゼーション(アメリカ化)を意味するのですけれど、言葉や文化の翻訳、組織論的なこともそうですが、そうしたことがこの55年間でどのように変化し、米国における会員数が11万人を超える組織となったのか…。この流れは今もまだ続いており、会員数も爆発的に伸びています。そういったことを宗教社会学の理論を使って学術的に考察しています。

アメリカでは既にフィリップ・ハモンドとデヴィッド・マハチェクによる『アメリカの創価学会』という本が出ています。この本は日本語にも翻訳されていますが、しかし、あの本はアメリカのロスアンゼルスにあるSGIとの連携がベースになっており、そこから多少のお金も出ています。こういってはなんですが、日本の創価学会がどのようなものであり、どのようにして現地化されてきたかといった深いところまで考察には至っていません。その足りない部分を、日本人であり英語の文献資料も読み解けるわれわれのチームで10年間掛けて解き明かしたものが、この2冊の本になります。

創価学会に対しては、非常に多くの宗教者や研究者がまだまだ批判的なスタンスにありますが、ひとつの学術的なものとしてご参照いただければ有り難いと思っております。さらに文科省のお金を頂いて、ヨーロッパにおけるSGIの研究も3年前から始めました。イタリアにおける会員数もかなり伸びており、イタリア政府とSGIの関係性も非常に強まっています。何故、カトリックの国であるイタリアでSGIの会員数が伸びているのか? スペインでもそうですが、現在の会員数は加速度的に増えており、その数は7万~8万人と言われています。

その理由を探るために、今、丹念にイタリア人にインタビューを行い研究を進めております。今日はこの話については詳しくいたしません。


家族構造の急激な変化

本日お集まりの先生方も既に感じておられるだろうと思いますが、社会構造や社会問題の多様化、少子高齢化、家族構造の変化、多文化共生の危機といったことが日本のみならず世界中で起きています。とりわけ少子高齢化と家族構造の変化においては、日本が世界のトップランナーです。これは急激に進んでおり、特にシングル(生涯に一度も結婚しない人)が、1970年は2割弱だったのが、今では3割…。2030年には4割になると言われています。日本では、これまでは「家」を単位として宗教というものが成り立っていました。もちろん、宗教によってはさまざまな布教形態があり、家族、筋、ブロックといった信者さんや会員さんをケアするさまざまなシステムがあると思いますが、従来は基本的に「世帯」というものが日本社会の基盤にありました。

しかし、これが急激に崩れつつあります。残念ながら、今の国の政策には劇的に変わるようなものがありません。このまま続くと間違いなく、あと十数年で、結婚を生涯に一度もしない単独(身)世帯が4割から5割になるでしょう。これを劇的に変えるには本当にさまざまな政策が必要となります。フランスはこういった問題に取り組み、出生率が増えています。例えば、3人目を産むと国からかなり補助金が出ます。どうせだったら2人産むよりも3人産んだほうが良い。しかも、正式に法的な婚姻関係になくても、男女の間で子どもが生まれれば、婚外子であっても差別されることなく国から補助を受けられます。もともと出生率の高かったイスラム教徒やアフリカ系移民の大量流入の問題もありますけれども、政策的に取り組んだことでフランスは再び子どもが生まれるようになりました。また、若者と高齢者が一緒に暮らすなど、世代を超えた連携システムの仕組みも作っています。

日本政府は「子育て支援」と言ってはきましたが、実態はなかなか改善されません。今、多くの研究者は「単独(生涯独身)世帯数は4割に達するだろう」と言っています。地縁、血縁、社縁といった縁がない『無縁社会』という番組をNHKが2010年に制作しましたが、この時は無縁のポジティブな面を理解しないで非常にネガティブな面だけが描かれていました。一般から見ればさまざまな縁がなくなった社会、人間関係が希薄化して支え合いや助け合いがなくなり、生きづらい社会になってきたと理解されています。こういった時代において、宗教がどのように社会にかかわっていくのか…。地方においては過疎化が進み、檀家さんや氏子さんといった、今まで宗教施設や組織を支えていた力がだんだんと居なくなってきている。そこにどう関わっていくかということですが、この辺の話も『利他主義と宗教』の本の中で書いております。

こういった「日本社会はしんどいな、大変だな」といった非常に暗いイメージの一方で、ボランティアや社会貢献といった支え合う社会の動きも確かにあります。これはまさに、今の社会構造の変化の中で行政が対応できないところは、「お上がやってくれる」から…と与えられるのを待つのではなく、地域社会で市民が自発的に支え合うような社会を創っていこうという動きが日本の中にも出てきました。もちろん、誰もがそういう方向性を持っている訳ではありませんが、そういう希望を感じられるような動きも確かにあります。それを私は「利他主義」と名付けましたが、「そのような純粋な人助けはあるのか?」と思われる方も居られるかもしれません。しかし、人間、人から感謝されると嬉しい、自分が生かされていると感じることができる。そういう内面的、心の面でのメリットはあるのではないかと思います。


宗教と社会貢献の相関関係

見えない心の面で利他主義があるのかと問うと哲学論争になってしまうので、私の場合は社会科学的に、こういう定義に基づいて目に見える社会の活動を対象とした研究を志してきました。とりわけ、こういった他者との関わりは宗教がずっと説いてきたことですが、「利他」という言葉は仏教的な用語としてありますが、他の宗教にも「隣人愛」や「助け合い」が説かれています。そういった宗教的理念に基づいた利他主義というものを「宗教的利他主義」と呼んで研究していますが、これがとりわけ重要ではないかと思います。私自身、宗教の社会的あり方や宗教者の生き方というものが、ここに如実に表れてくると思いながら、いろんな研究者と共に「宗教の社会貢献」というひとつのフィールドを持って研究をしています。

「宗教の社会貢献」と聞くと、教団が大きなお金でボランティア活動や災害支援をすることといったイメージをお持ちかもしれません。もちろん、それも大切な社会的な力ですが、それだけでなく、宗教と関連する文化、思想、心の面も含めて、安らぎや安心感を与えたり、あるいは「おかげさま」という意識をもたらすということも、宗教が社会に何らかの形で良い影響を与えている。そういったものも含めて「宗教の社会貢献」として定義しています。その中には、例えば地域で行っている祭や宗教的な供養も、社会に安心を与えて善くする力を持っています。もちろん、宗教によってはそれぞれ宗教的な営みの意味付けや世界観は異なるかもしれませんが、一般社会に与える影響としては良いものがあり、宗教の社会貢献のひとつとして数えることができます。

その一方で、「宗教の社会貢献やボランティアといっても、日本ではアメリカのそれと比較してあまり優位ではないのではないか」という声もあります。これを大阪大学の大学院生が計量分析をしてデータ的に見てみたところ、例えば、インタビューや実際の報道で取り上げられるのはごく少人数ですから、一般全体でどうなのかということで社会調査の計量分析を行いました。これはアンケートを実施したものに基づいて、一般のサンプリングの中で本当にそういうことが起きているのかという調査です。そうすると、仏教であろうが、キリスト教であろうが、神社神道あるいは教派神道、新宗教といった信仰する宗教が何であれ、その人になんらかの信仰心がある場合、それが優位にボランティアへの参加度を高めているということが、かなり強い相関関係にあることが判りました。この「優位になる」という相関関係は、誤差の範囲ではなく、明らかに相互関係にあることが認められました。

これは比較的予想通りの結果という気もしますが、その次も大事です。正月、お盆、お墓参りといった伝統的宗教儀礼を行っている人は、本人が毎週お寺や教会といった宗教施設に行って宗教的実践をしていなくても、あるいは教団組織に所属していなくても、こういった年中行事や宗教儀礼を大切にして行っている人は、ボランティアやNPO活動に積極的に参加するという調査結果も出ました。これは欧米での研究結果とかなり近いですが、日本の場合は、自覚的宗教者(宗教組織に属している人)は少数派で、朝日新聞、読売新聞、NHKあるいは統計数理研究所が定期的に行っている調査では、自覚的宗教者は1割から2割という数字が出ています。そうしますと、7割以上が無宗教となりますが、そういった方々でも「お陰様で生かされている」、「ご先祖様があって今がある」あるいは「神様仏様」といった、なんとなくそういうものを信じている。私はこれを「無自覚の宗教」と呼んでいますが、こういった初詣やお墓参りといった年中行事に参加する人は、人助けをしやすいということが明らかになっています。


世界的に活躍する日本の宗教NGO

そうすると、宗教の社会貢献にはどういった領域があるのでしょうか? これも『利他主義と宗教』の52ページに詳細に書いていますが、日本の宗教界の皆様方は、非常に幅広く活動されていると思います。それをひとつひとつ取り上げて紹介していくことはできませんが、多様な活動があります。しかし、それがなかなか世間一般に理解されません。メディアも年中行事の場合は取り上げますが、東日本大震災までは、宗教界の社会貢献といった目に見える活動としてはあまり積極的に取り上げてきませんでした。それからNGO(非政府組織)として、国際的にさまざまな活動を行っているものがあります。

宗教団体のボランティア活動が高度に組織化され世界的に活動しているものを、私は「宗教NGO」と呼んでいるのですが、国連が公認しているNGOの中で日本の宗教団体が母体となっているものですと、皆様方もご存知だと思いますが、オイスカ、神道国際学会、WCRP、SGI、ありがとうインターナショナル等といった組織が挙げられます。世界的に見れば、宗教が母体となっているNGOは、本当に大きな力を持って社会のさまざまな問題に関わっています。これは今に始まったものではなく、カンボジア支援など日本の宗教NGOにも歴史がある訳ですが、それが時代と共に変わってきた面があります。最初はカンボジア、ラオス、東南アジアといった一地域に対する貢献から、だんだんと途上国支援、災害救援、平和運動、国連関係運動へと広まっていき、その中でネットワークを組んでいく……。今の支援活動のあり方は「トランスナショナル」、「多文化主義」と言われますが、そういった中で私自身は3つの型があると思います。

1つ目は教団主導型、2つ目が行政も含めてさまざまな市民セクターが協働していく協働型、そして3つ目が宗教組織から始まったけれども、そこから独立していく分離型です。こういった中でさまざまな宗教NGOが市民社会の中で貢献しています。こういった宗教NGOも含めて、実際にどういった領域で関わっているのか。これは私よりもここにお集まりの宗教者の皆様のほうが、日頃から耳にし目にし、また実践として関わっている領域だと思います。例えば、新宗連の先生方は釜ヶ崎で活動されていますし、あるいは人道平和支援、医療介護、災害支援の場においても活動されています。ところが、こういった領域で活動していても陰徳で、自分からあまり「こういう活動をやっている」ということを出さないというのが一種の美徳として考えられる傾向があります。

これ(自教団が行っている社会貢献活動についてあまり宣伝しないこと)は、とりわけ日本の宗教界の奥ゆかしさなのだろうと見ていますが、今の時代は、あらゆる活動において説明責任が問われている時代です。その活動に教団の人材や浄財が使われているのであれば、やはり「良いことをやっているのだから…」というだけでは不十分で、キチッと活動報告をしてゆく必要があります。その一方で、穿(うが)った見方として「それは布教戦略ではないのか?」と見る向きもあります。しかし多くの宗教者は、苦の現場―特に災害支援の現場―において、自教団の布教を一切行わないという考え方の下で、本当に目の前にいる困った人に対応するという姿勢で臨んでいると思います。後ほどお話ししますけれど、私もそういう現場を見てきまして、布教を目的として来ている宗教者の方はほとんど居られませんでした。


宗教に対する間違った認識を改めるチャンス

東日本大震災の時に、海外から来られた一部の宗教者の方々が避難所に入り、布教活動されたことで大変なトラブルになったことがありましたが、一方で、宗教者が社会と関わっていく活動で、政教分離、公共・公益性が問題になってきます。ひとつには皆様もよくご存知の政教分離に対する間違った認識が、メディア、役所・行政側にあり、それをひとつひとつ正していかなければならないというのが、今の日本社会のあり方です。言うまでもなく、政教分離とは、「信教の自由、そして権力者がひとつの宗教を擁護して他の宗教を弾圧することのないよう」にという意味で、逆に言えば、むしろ「信教の自由、宗教を守っていくような観点」が重要であるにもかかわらず、何か宗教者が公の場で活動すること、あるいは行政と連携して活動することを禁止していると勘違いしている行政の方が多いです。

東日本大震災でも、公民館や小学校といった公的な場に宗教者が入って、お経を上げたり弔いをする。あるいは何らかの活動をする時にストップがかかるといったことが実際に起きています。これは本当に大きな問題で、そういった認識は戦後創られてきたものです。しかし、日本のとりわけ地方に行けば、いわゆる近代的な福祉制度の下で公民館が整備される前は、地域のお寺や神社が人が困った時に駆け込める場だった訳です。私も全国いろんなところに調査に行っていますが、昭和40年代までは「台風が来たら、あるいは地震が起きたら、お寺・神社に逃げる」といった風に、避難所になっていた訳です。それがずっと覚え書きのような形で、現在でも避難所指定されているところがあります。

ところが、役所の方がそういった伝統をよく知らず、「公民館やコミュニティセンターが災害時の避難所であって、宗教施設はそういう場所になれない。あるいは、なってはいけない」と判断してしまうことがあります。それは行政に限った話ではなく、防災の専門家も間違った認識で「そういうことはできない」と思っておられる方が少なからず居られます。そういう方は、東日本大震災で例外的にそういう宗教施設を避難所として開放することが起きたから、日本社会が変わってきていると思っておられますが、実際はそうではありません。はるか昔から宗教は地域の中で困っている人の拠り所であり、今はそれを再認識する時代になっているのだと思います。今、政教分離、公益性、公共性の問題で宗教が槍玉に挙がったり、心のケアや臨床宗教師がNHKで取り上げられたり、ネット上でもいろいろ書かれていますが、そういったいろんな批判が来た時こそ実はチャンスであり、そういった間違った認識というものに対して答えていくことが、今の時代の流れかと思います。

少し、東日本大震災からの話をしたいと思います。これも先ほど紹介させていただいた本に詳細に書かれています。本当に多くの宗教者の方々が被災地に駆け付けました。ここに挙げたものは全て、宗教者による活動です。下の画像は福島から逃げてきた方々を受け入れたお寺。右の画像は阪神淡路大震災の時に助けてもらった神戸のYMCAの人たちが東北の人々のために募金活動をしていたり、上の画像は天理教のひのきしん隊の方たちが募金活動をしていたり、右下は東京のモスクのイスラム教徒の人たちが被災地に緊急支援でおにぎりを届けているところです。ちなみに、実際におにぎりを作ったのは商店街のお母さん方です。私自身、こういった研究をしていましたので、いろんな情報が入ってきましたが、それに留まらず、自らも情報収集を行ったり、後方支援として、さまざまな宗教者の活動に同行させていただき緊急避難所になっているお寺や神社に赴いたり、グリーンホープ(註:アジアの平和と友好を促進するために各国で人道支援を行っているNPO)さんからご提供いただいた物資を届けたりといった活動を行いました。また、福島で僧侶の方々と共に、除染作業もさせていただきました。


場の力としての宗教施設

本当に多くの活動に宗教者が関わりましたが、一番の力は、場の力だと思います。東日本大震災の被災地でも、100カ所以上のお寺、神社、教会、新宗教系の宗教施設が緊急避難所になりました。大きな所は300名から400名。小さい所でも十数名の被災者を受け入れました。一方で、残念ながら、地震発生時にたまたま住職が不在で判断できなかったのだろうと思うのですが、山門を閉ざしてしまったお寺がありました。日頃から、ご先祖様に感謝して共に支え合って生きていく思いやりや慈悲を説いているお寺に、被災して自分の家も何もかも流されていのちからがら逃げてきたその時に、お寺の門を閉ざされたらどんな気持ちになるでしょうか…。私は東日本大震災が発生してからずっと被災地に通い続けていますが、5年経っても6年経っても、その最初の時に門を閉ざして拒絶されたことは、一生忘れない出来事のようです。中には「一生恨んでやる」と言っている方もいらっしゃいます。それ故に今、地域の中で非常に辛い立場のお寺もあります。地震発生直後は門を閉ざしたものの、その後にお寺を開放されて、そこでたくさんの方が避難生活を送られたのですが、そのうちの何名かの方はその最初に拒絶されたことを根に持ち、「あそこのお寺は信用できない」と、地域の中でずっと言い続けています。

大災害時に実際に自分のお寺や神社が避難場所になるかどうかということを考えると、結構大変だと思います。例えば、私は全国で調査を行い、講演で呼んでいただくこともあるのですが、中には「ウチのお寺は狭いし、私(住職)はもう高齢だし、私1人だけではそんな大それたことはできない。むしろ人から助けてもらわないと、お寺も本堂も倒れるかもしれない」とおっしゃる方も居ます。しかし、そういったお寺や神社こそ、災害時には開放したほうが良いのです。日頃から人が来る、地域に開かれた場所として繋がりを保ちつつ、「いざという時は駐車場でも境内でも使っていただいて構わないけれども、本堂は古いので危ないかもしれない」といったことを日頃から言っておく。そして、災害時は住職や神主さんが自ら動くのではなく、地域の人にやってもらうんです。そういう準備や連絡をしておくと、いざという時、逆に助けてもらえるかもしれません。

一般家庭も緊急避難所になることがあります。例えば地震が発生した時に家が倒壊した人は、倒壊を免れてた近所の家に逃げてきます。一般の人でもそうやって助け合うのですから、日頃から慈悲や思いやりや支え合いや利他を説いている宗教施設は、災害時に門を閉ざすという選択肢はないと私は思っています。閉ざそうと思っても人は来ます。いのちからがらで逃げて来た人に向かって「ウチは公的な避難所ではないので無理です」と言うと、先ほど申し上げたように、人は「拒絶された」と感じます。公的避難所ではない一般の家でも避難所になり得るのですから、お寺、神社といった宗教施設が避難施設になるのは言うまでもありません。

先ほど申し上げたように、お寺や神社がすべて運営するのではなく、地域の人自身にやってもらうのです。実際、東日本大震災の時に巧く運営されていた所は、住職や神主の方はそれほど動きません。地域の人たちが、水汲みやトイレ、炊き出しをどうするのかを考えて役割を分担します。仮に逃げてきた人たちをお客さんとして受け入れてしまうと、住職や神主が倒れてしまいます。その一方で、逃げてきた人たちは「どうしてこのような対応しかしてくれないのか」と、不満が溜まります。しかし、逃げてきた人たち自身でやってもらえれば、そういった不満は出てきません。自分たちで今借りているお寺の駐車場、境内の一角、あるいは本堂の片隅をどのように使いながら生き延びていくのかを考えながら、掃除をして、水を汲み、炊き出しをします。日頃からそういうことを考えていければと思います。


宗教に期待するもの

東日本大震災で、社会が大きく変わったと思います。それまでは「無縁社会」、「孤独死」、「自死」といったように、自分本位の社会と言われていました。ところが電通の意識調査によると、「震災で目覚めた」、「大きく価値観が変わった」といったように、「当たり前」から「感謝」や「神様や仏様によって生かされている」へと意識が変化している様が見えてきます。自分本位の時には、なかなかこういう気持ちは出てきません。もちろん、全員が変わった訳ではありませんが、社会にこういった意識が芽生えてきた。私はこれを、縁がない無縁社会において、血が繋がっている訳でもなく、家族でもなく、友だちでもないけれど、困っている人を心配する共感の心、共感に基づいた縁というものが誕生したのではないかと考え、「共感縁」という言葉を使っています。

そう言いますと、中には「いや、それは一過性のもので、また数年経てば再び冷たい社会に戻ってしまうのだ」とおっしゃる方も居られるかもしれません。私も社会学者の端くれですから、将来を予測して冷たくクールに批評することもできます。しかし、常々学生にも言っているのですが、社会に対してそういう冷めた目でコメントを発信しても社会は変わらない。将来、学生たちも社会に出て家族を持つかもしれない。子どもが生まれるかもしれない。そして次の世代へバトンタッチする時に、どういう社会を引き継いでいくのか…? 批評家のように一定の距離を置いて「世の中はそんなに容易く良くならないよ」と言うだけで終わりにするのではなく、自分たちが良い社会を創って次の世代へ伝えていこうという思いが必要ではないか。学生たちにはそう話しています。「宗教離れ」と言われる中で、今、こういう感覚が戻ってきている。やはり、支え合いや思い遣りやお陰様で生かされているということを、宗教者がストレートに言っていく。そしてその生きる姿勢によって、社会も、そして次の世代も良い影響を受けていくのではないか…。そういう風にしていかなければ、また元の無縁社会、生きづらい社会に戻ってしまう…。繰り返しになりますが、これらの内容は先ほどご紹介した本の中で私自身の研究に基づいて論じています。

しかし、そもそも「宗教離れ」という見方がありますが、実際、災害時に宗教や宗教者に対する期待はあるのでしょうか? これは2013年に行われた学生宗教意識調査ですが、全国の6,000人以上の学生を対象に意識調査を行いました。國學院大学の井上順孝先生を中心に、賛同する学者がそれぞれの大学で調査を行いました。「災害時に宗教や宗教家の役割はあるのか?」という問いに対し、「必ずある」が20%、「いくらかある」が46.6%。この2つを合わせるだけでも、7割近くが宗教に期待しているのです。「日本社会は七十数パーセントが無宗教」と言われているにもかかわらず、宗教に対して期待している…。

では、どういったことを期待しているかと申しますと、「避難所になるスペース」が六割程度です。これは東日本大震災の時にメディアが取り上げましたが、当時は私もずっと現地に入っていたため、NHK、日経、朝日、産経、読売といったさまざまなメディアから「本当にそんなことが起きているのか? 何処へ取材に行ったら良いのか?」といった問い合わせを受けて紹介したり、私自身もコメントしたりしました。メディアでそういった寺や神社や教会といった宗教施設が避難所として活用されていることが伝えられる中で、「宗教に期待する」といった認識が広がったのかもしれません。供養や慰霊は一番大きな宗教行為と言えますが、これに対しても40%の期待が集まっています。こういう風に見ると、昔と比べると宗教に対する若い学生たちの意識はポジティブであると言えます。オウム真理教の事件が起こった1995年から既に27年が経ちましたけれど、人々の宗教に対するネガティブな意識がずいぶんなくなってきたと感じますし、そういった中で災害時に宗教に対する期待がある訳です。

では、実際に宗教はどうやって関わっていけるでしょうか? 政教分離の原則がある以上、行政と連携しての活動は難しいのではないか…? これは新聞にも取り上げていただきましたが、文部科学省から科研費を頂いて、私の研究室が全国の自治体を対象に全数調査を行いました。回答率は7割弱でしたが、今から2年以上前の段階で、全国で300以上の市町村と2,400カ所以上の宗教施設が、災害時の協力機関として指定避難所になっているところもありました。これを見せると防災の専門家がビックリするのですが、実は避難所指定されている宗教施設はいっぱいありますし、自治体と協定を結ぶ宗教施設や、協定を結ぶまでには至らなくても協力関係にある宗教施設が現在も増えつつあります。


宗教者が活躍した熊本地震

こういった状況下で、昨年(2016年)の4月14日と16日に熊本地震が発生しました。私はこの時もすぐに駆け付けました。この写真は益城町の総合体育館で、本震(16日)があった日の昼の様子です。私も既に現地に入っていましたが、本当に大変な状況でした。14日の地震(前震)の時はまだ大丈夫だったのですが、1時30分にもう一度大きな地震が発生した後、熊本市内はコンビニに至るまで、店頭から一切の食べ物が消えました。大きな揺れが2発連続で来たため、人々も「これは大変だ」と皆が買い占めに走ったのです。この本震があった日の昼過ぎ、私が総合体育館に辿り着いた時は、食べ物は一切なく、皆、殺伐とした雰囲気の中で物資が来るのを待っていました。東日本大震災の後、「それぞれの地域で拠点を設けて備蓄をしましょう」と呼び掛けを行ったのですが、実際、蓋を開けてみると「そうは言っても地震は来ないだろう」という思い込みから、食糧の備蓄などの震災対応に取り組んでいなかったのです。そのため大変な状況でした。

そういった状況下で、東日本大震災から教訓を得て、既にいろんな宗教施設が緊急避難所になっていました。この写真は本震があった日(16日)にJR熊本駅の近くにある北岡神社に行った時の写真ですが、既に「緊急避難所」の看板が出ていました。真ん中の写真が立正佼成会、右の写真が熊本真如苑、下の写真が浄土真宗のお寺です。これ以外にも本当に多くの宗教施設が緊急避難所になっていましたが、これは東日本大震災の経験に基づいた対応ですね。

それから、今回特に象徴的だったのが、各地の社会福祉協議会との連携がかなり進んだことです。左上の写真が、天理教のひのきしん隊ですが、ブルーのヘルメットを被って自分たちで重機も持ち込み、益城町のボランティアセンターで自立的に活動していました。それから、これも今までなかったことですが、社会福祉協議会がどこかにボランティアセンターを立ち上げるにあたって、NHK熊本放送局の隣の花畑公園の他にサテライト(支局)のセンターを立ち上げる場所を探していたのですが、かなり大きな駐車場スペースを持つ真如苑熊本支部にご相談したところ、宗教施設の中にボランティアセンターができました。宗教施設内に公のボランティアセンターが設置されたのは初めてのことです。

それから西原村では、新宗連の方々がWCRPと連携しながらボランティアセンターに入りました。金光教大阪災害救援隊も、ずっと熊本に支援に入ってくださいました。実はこちらの教会長様もお嬢さんの薫さんも現場で炊き出しをされたのですが、現場では普段着で活動しておられたので、その写真を紹介するのは失礼かと思い今日は控えました。左下の写真が金光教大阪災害救援隊の竹内さんです。私も大阪大学の学生や院生と共にお世話になり、仮設住宅での支援活動に参加させていただきました。隣に保育園がありましたので、そこの子どもたちにお菓子を持っていきました。この金光教災害救援隊の皆様は北九州の豪雨の際にも活動されました。

東日本大震災を機に東北大学で臨床宗教師を養成する取り組みが始まり、全国に広まりつつありますが、九州にも臨床宗教師の方々が居られます。熊本地震が起きた時は、日本福音ルーテル大江教会で、まずは被災者の話に耳を傾ける無料の喫茶「カフェ・デ・モンク」―お茶を飲みながら文句を言える場所とモンク(=僧侶)を引っかけた言葉ですが―で、小さな子どもを持つお母さんを受け入れました。さらに炊き出しをしたり、1年後には阿蘇の麓で超宗派で熊本地震の犠牲者を追悼する祈りの場を持ちました。私も避難所や仮設住宅での傾聴ボランティアに同行させてもらったりしました。ただ私自身は学者であり臨床宗教師ではありませんから、参与観察の一環としてそういった宗教者の活動を客観的に拝見します。けれども単に取材を行うのではなく、炊き出しなどの活動を一緒に行い、汗を流して、学生も連れて行きます。


宗教と行政の積極的関わり

この写真は九州北部豪雨の被災地ですが、この時も私は学生を連れて現地へ向かいました。この時は浄土宗の僧侶の方と一緒に現地に入りましたが、本当にいろんな現場で宗教者の皆さんが活動されていました。こういった活動をNHKも取り上げてくれました。こちらの写真は私がNHKで早朝4時半からやっている『おはよう日本』に出演した時のものです。お寺が率先して避難拠点になろうということで、群馬県の曹洞宗の仁叟寺が耐震補強を行い、井戸水を災害時に使ってもらおうということで行政と協力関係を結びました。協力関係を結んだところ、まず地場産業が「お寺が災害時に支援を提供してくれるならば」と、自家発電機を寄付されました。また、災害時は中にある商品が無料で出てくる仕組みの自販機を伊藤園が寄付しました。その他にも簡易トイレの寄付などがありましたが、これは宗教施設が地域に向かってドアを開くと、良い循環が生まれるという好例です。

これはつい先日、NHKも取り上げたのでご覧になった方もいらっしゃると思いますが、九月に東京都庁において東京都宗教連盟が小池百合子知事に「災害時に協力関係を持ちましょう」という要望書を出しました。私も顧問役で同席しましたが、この後に何回か協議が行われ、来年から都庁で年4回、災害時の対応に関する協議を重ね、都庁と都宗連が災害時に連携することが決まりました。政教分離は一切関係ありません。もちろん、政教分離自体の考え方が今まで間違っていた訳ですが、小池知事や危機管理官からも「こういう取り組みは有り難い」と伺っています。都の職員7名と、私も含めた都宗連の役員6~7名が、今後継続的に連携をしていくことになっています。

何故このような状況になっているかと申しますと、東京都は多くの人口に加え、移動人口がありますので、住んでいる人やホテルに滞在している人だけでなく、出張など日帰りで東京都心部にやって来ている人口が、毎日かなりあります。そういった人たちが帰宅困難になった場合、行き場所を失う人数が4年前のシミュレーションで92万人でした。これは大変なことです。公共交通機関がストップしてしまう災害時に移動する5、600万人の内、92万人の行き場所がない…。そこで、企業ビルやタワーマンションに「一時的な避難所になってください」とお願いしました。どうにか30万人分は確保しましたが、まだ60万人分の居場所がありません。しかし、ほとんどの企業やタワーマンションは「機密文書もあるし治安の問題もあるから、知らない人が来るのは困る」という理由で拒否してます。

災害時に「人のいのちを守るために自らの場所を提供するのは嫌だ」という声がある一方で、「宗教界の方々は協力してくれるのではないか?」という考えが都のほうにはあります。実際にそういう形で少しずつ連携が拡がっています。ただ、やはり宗教施設には聖なる空間がありますし、勝手に入ってもらっては困る場所もあります。また文化財もありますから、なんでもかんでも開けば良いということではありません。そこをキチッと協定書などで「駐車場のこの区画は使ってもらっていいです」とか「本堂はご遠慮ください」あるいは「井戸水は使えます」といったように、ひとつひとつ相談して決めていくことが必要です。そのためにも、ひとつのお寺、ひとつの神社、ひとつの宗教施設が個別に折衝するよりも、連絡会毎にやったほうが良いのではないか。現在はそういったことを進めています。

日頃から連携するということが大切です。私の研究室では文科省の科研費を頂いて、全国にある指定避難所、それからお寺や神社をデータベース化して無償公開しています。これはiPhoneでもアンドロイドでも災害救援マップを検索していただいたらダウンロードできます。ダウンロードすると、GPSで自分が居る場所の周辺のお寺や神社といった宗教施設や、避難所である小学校や公民館が判ります。このアプリは一度ダウンロードすれば、全国何処へ行っても見ることができます。泉大津市では、これを実際に使って防災町歩きを行いました。あるお寺のお坊さんが中心になって、役所の危機管理課の方、自主防災組織、議員さんや地域の高齢者などに呼び掛けて、スマホのアプリを持って街を歩きました。高齢者の中にはスマホを使えない人も居ますから、ウチの学生や地域の若い方が高齢者とチームになって一緒に歩きます。そうすると防災の取り組みというよりも町歩きしているようで楽しいという声がありました。高齢者の方々は地域の歴史を知っているので「昔はこうだった」といった話ができます。学生は知らないので、そこにコミュニケーションが生まれる。中には「あそこの定食屋は美味しいから寄り道していこう」というチームもあり、帰りがずいぶん遅いと思ったら、ある高齢者の方が学生にご馳走してくださってたことがありました。


拡がりつつある防災の輪

今、全国で自助、共助、公助といった防災の輪が拡がりつつあります。しかし、いつ来るか判らないことのために準備をし続けるのは、誰にとっても面倒臭いことですから、防災だけではなかなか拡がりません。そこで今取り組んでいるのが、ITを利用した防災だけでなく認知症の高齢者の見守りや子どもの誘拐防止のための見守り、さらには観光に対するニーズも踏まえ、先ほどのアプリにそういった機能を加え、さらに独立点検の機能を持ったロボット等の開発に向けて、大阪大学、ソフトバンク、そしてベアリングや風車や基軸を造っているNTN株式会社が連携して実験を始めたばかりです。これは風車と太陽光パネルが付いていて、さらにカメラが付いています。また、まだ実験段階ですがWiFi基地機能も付いています。つまり、これが全国の自治体組織、あるいは駐車場などに設置されれば、大災害時に大手のキャリアの基地局がダウンしても、これで連携して外に連絡を取ることができます。さらに電力が供給されるのでライトが付きます。

また先日新聞に載りましたが、カメラがありますので、平常時は人の動きや歩き方などの癖などで96%人を認識できる(見分けることができる)AIによっての機能を活かすことができます。例えば自治会で認知症の方を登録することで、行方不明になった時にこの近くを通りかかったら判るようにすることも可能になるでしょう。また、AIを用いて犯罪を起こす人の動きを認識する研究も進んでいますので、子どもの見守りにも使えます。さらにカラスによるゴミ荒らしや、サル、イノシシ、クマの被害といった鳥獣被害もカメラで認識して警告を発するといった実験を行いつつ、最終的には社会に拡げていきたいと思っています。防災だけでは波及効果が弱いということで、ロボットには観光アプリも入れてゆくことも検討しています。

最後に、手前味噌ですが、気仙沼の被災地で『コンポジウム気仙沼』というイベントを、お寺や神社や地域の方々と進めています。金光教泉尾教会様には毎年協賛金でご協力をいただいています。今年(2017年)は東日本大震災の7回忌ですが、気仙沼仏教会が設立されましたので、会場中央に曼荼羅を据えて、同仏教会から集まってくださった15名の僧侶の方々による7回忌法要が執り行われました。この復興イベントは気仙沼市民会館で行われましたが、市長も挨拶に来てくださり、郷土芸能なども披露されました。この絵は「平成の広重」と呼ばれる宮城県出身の画家である加川広重さんが描かれたもので、24枚のパネルで構成され、横幅が16.5メートル、高さが5.4メートルの大作です。来年は秋口に気仙沼の漁船である第18共徳丸の絵が出来上がる予定なので、これを基にやろうと計画しています。

こういった防災と宗教の取り組みに、宗教界もかなり協力してくださっています。自治体との連携や帰宅困難者の対策も進んでいます。とにかく日頃から地域に開かれた宗教施設のあり方が大切ではないかと思います。さまざまな場面で目に見える関係性が問われている時代です。私はさまざまな所で調査を行い、人々の意識を確認していますが、その中で宗教界に対する期待や、とりわけ若い人たちが宗教に対して非常に良いイメージを持っていることを実感しています。こういってはなんですが、災害がいろいろあって、日本社会が大変な状況か立ち上がっていく今こそが、むしろチャンスかもしれないと感じています。少し時間がオーバーしてしまいましたが、ご清聴有り難うございました。

(連載おわり 文責編集部)