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2006年8月

われに能なし。何ひとつ取柄なし。
あるのは、「なんでもの願い」ただひとつ。
一心に神様に祈り、(すが)って、
「ご存分にお使いください」と、願うことのみ。

この足らぬ私に、ようもようも、
こんな大きい、おかげをくださる。
それが、教祖様のお徳を皆、
この私が盗んでいる。私は徳盗人(とくぬすっと)だ。
「おかげの横領者」と、
泣いてお詫びを申している。

私の毎日は、すべて神様にお任せである。
一切を、神様の御心(みこころ)のままで、
私自身は無心。無我。
ただ、「わが身どうなりましょうとも、
人が助かりさえすればよし」の心境である。

何があっても、われに悔いなし。
ただ、一心願に生きとおす。

神様には、
毎日、ご祝福を頂く。
「おめでとう。
今日は、信心元旦である。
めでたい。シッカリと御用せい」
と仰せくださる。
有り難い。勿体ない。

われ神様の一粒の種。
シッカリと土地に根をおろし、
そこから芽を吹き出せ。
一粒万倍のあかし立てよ。

心に光を持て。
心の明るさを失ってはならぬ。
何をするにも、(が)を出さず、
人の幸いを祈り、人と力を合わせ、
世のためになるのだ。

耳を澄まして聴けば、
必ず「助けてくれよ」との絶叫が
わが耳をつんざく。

生かされて生きる。
生かされてこそ、生きられる。

どれだけ詫びても、詫びても、
詫び足らない。そんなわれの詫び・・・・・・。
詫びにならないわれだ。

まず自分が低い心になって、どなたからも、
聞かせてもらい、教えてもらえよ。
私の今日までの歩みは、
そんな歩みばかりだ。

大事業の完成の道には
初心の場に立ち切っての努力がいる。

信心には理屈は不要。
障子(しょうじ)一重(ひとえ)がままならぬ。
もっともっと願い、頼み、
縋り、打ち込め。
神の(ふところ)に飛び込むのである。

尽くしには、耐えがいる。
尽くしには、苦労がいる。
尽くしには、いのちがけがいる。

人を困らせたり、
人を泣かせたりしていては、
決して徳は頂けない。
人を喜ばせ、人を元気にならせて、
(あまね)く人を助けさせていただき、
その祈りに生きてこそ、徳は授かる。

わが心に温かみを頂くために、ぜひ欲しいもの。
真実、親味、愛情……。
それがないと、人は寄りついてくれない。
幸せにもなれない。

楽に着こうとは思うな。
しんどいことを買ってでもせよ。
難しさを、わが友として生きよ。

信心は、理屈や筋道で解る世界でない。
肌で感じ取るもの。体感するもの。
考えや思案でなく、
「事実」で体得していくのが基盤だ。
信心するものは、日々の「事実」を教えとして、
教わることが要りとおす。