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2007年8月

私の布教当初は、いつも孤立無援……。
先輩たちに馬鹿にもされた。阿呆扱いもされた。
そんな中で、天地金乃神様が、
われについてくださった。
恩師大先生のご薫陶を活かさんと、
常に死にものぐるいで、
そこを乗り越えさせていただいた。

人に真実にしてみて、解っていただけぬ時、
その時こそ、わが真実の足らぬ時。

お広前は、私の死に場所である。
必死の思いで、私はご神殿に座って
ご祈念させてもらった。

人生の旅路をしっかりと歩みぬくため、
常に、正しい、誤りのない道標(みちしるべ)を、
自らのものとして得ることが大事である。

「私は誰のお世話にもならず
自分一人でやれた」という人があれば、
それは違う。皆、神様がついていてくだされてのこと。
神様のお祈りがあったればこそ。

ただ、勿体(もったい)なさに感謝、感激。
今日今日を、わが今生(こんじょう)の今日今日と祈り、
打ち込ませていただき、今日まで、
生かせていただいてきた。

ただ、人の助かり一心願。
それをいのちの限りと
打ち込ませていただき、
神の使い人のわれ。祈りの旅に
わがいのちを懸けて歩く。
「わが身どうなってもよい」と……。

わが心は、天地日月の心。
ただ御神願、ご神徳の中に、
このわれを捧げきりたい。

能なきわれ、(どん)者のわれ。
そのわれが、人さまの助かりを頂かんと、
「阿呆でもできる一生懸命」で、
神様に抱きつき、しがみついて、使うていただいてきた。

未熟、不徳、相済まぬ。
その自覚の中から、いよいよ、なんでもの願いが
強められ、わが身の中に、
いよいよ完全燃焼する。

人は皆、おかげの上に安座している。
もはや、「これでよし」と甘えている。
安心しきっている。これが危ない。

神がついている。
世助け人助けに、
いよいよ励め。真一心であれ。

信者の皆が、
おかげの中に、慣れきって、甘えている。
感謝もない。祈りもない。

一日をわが生涯の一日として頂き、
その一日に心魂を込めさせていただいてきた。

神様いませばこそ、われあり、
祈られて祈る。
神様にご存分に使うていただく
われは幸い。

木は実に素直である。
パチパチと鋏を入れれば、良いものになる。
切られたそこから新しく芽が出る。