泉尾の地は、今でこそ賑やかであるが、
布教当時は違っていた。
ご近所にはまだお百姓さんも住んでいた。
泉尾大根があったほどで、
大阪の
その時から、私の心に願ったことは、
「この泉尾の地を船場、島ノ内
(当時、大阪の中心的な繁華街)
にしていただくのだ」と、そう思い、
神様にも一心にお願いした。
「泉尾教会を丸ごと使うてやる」
との仰せの神様から、
今「思いきって、世の難儀と取組め」と仰せられた。
私の心はいつでも24歳の青年教会長である。
人生の旅路をシッカリと歩みぬくためには、
常に正しい、誤りのない
自らのものとして得ることが大事である。
「彼等は世より取らんとす。
我等は世に与えんと欲す」
新島襄の葬儀に贈った
勝海舟のこの言葉が私の胸を打った。
人が一番の苦手とするのは、
辛抱ということだ。
「廻れ車よ 芯棒(辛抱)は金よ
他は見まいぞ 水車」。
道の道たるおかげは、
少なくとも三代のおかげを頂くことである。
尽くして、尽くして、尽くしぬけ。
尽くすことを生きがいとし、
喜び、喜び、日々を勇み励み、
明るく、楽しく、生き通せ。
そこには一切の愚痴もない、不足もない。
ただ、「御神願有難うございます」しかない。
御用人が、捨て身にさえなれば、
必ず、そこには天地金乃神様が現れなさる。
一新一新というが、
それは「捨てて、捨てて、捨てきって、
死んで、死んで、死にきって」ということだ。
安易な心を捨てよ。
真剣になれ。
お金よりも信心、
なんでもの願いが大事である。
無一物中、無尽蔵。
神一心、真一心になって
真剣に、必死に取り組め。必ずおかげは頂ける。
そこのところに信を持て。
たとえ、何が起きようが、
必ず守っていただく信心をすることだ。
先生の値打ちはお話(教え)ではない。
信者の願いに、直接応えることだ。
能なき私。鈍物の私…。
その私が、こうして人様の助かりを願わんと、
「阿呆でも出来る一生懸命」で、神様に抱きつき、
しがみついて使うていただいてきた。
「わしが」、「おれが」のがになってはならない。
神様を見失ってしまう。
「わしもやれる」と思い、なんでもの願いも、
一心も、みな無くしてしまってはならない。
さらに、人にはもっともっと優しくあらねばならない。
すべては神一心、真一心で、
使うていただかねばならない。
年の初めのお書き下げは、
御神示と頂いてもらいたい。
有り難い神の
助かってもらいたい。神様のお願い、お頼みでもある。
理屈を言っている時代ではない。
実践の時である。
遙かなるわが道、今日今日を大切に。
毎日をさらの心で、一歩また一歩と。
神様と共に歩むのだ。