性根をすえて信心奮起を 00年4月8日 教会長 三宅龍雄 大変な時代に、生活をしていくのは大変でしょう。厳しいことと思います。生なま易やさしくはありませんし、その中を日にち、ご参拝に骨折っていらっしゃる……。今の時代は、世の転換期と申しますか、移り変わりの時期にあたっており、わが泉尾教会でも、ようも、このように次々とことが起こる―と思わずにおれません。 私はこの大変な中での助かりを祈らせていただいており、皆さん方にも取り組まれることを通して真まことの助かりのあゆみをなさるよう、お祈り申しているのです。私はこのことを御用にさせていただいておりますが、皆さん方はそれぞれに、お仕事を持っていらっしゃったり、家庭を守っておられたり、決して生なま易やさしいこととは思いませんけれども、そのひとつひとつが信心の足どりを確かにしていくためと受け取って、受け入れて下さい。 人間は、ずるいと申しますか、情ないというか、よほど切羽詰まらないと、シャンとすることができない……。勿論、実際の現実は切羽詰まっており、決してゆとりはないのです。 北海道の有珠山でも、目の前で自分の家が焼けている……。「ともかくいのちだけは」と何もかも置いて逃げる人の中で、目の前でわが家が焼けている……。戻って中にあるものを取り出したいという気持ちが起こるでしょう。そういう抜き差しならない場になりませんと、本当に性根のすわったことはできない。お互いの現状も同じです。けれども「まあ、なんとかなる」と思い、実際、なんとかなっているわけですから、なかなか性根のすわったことができないのです。愚かしいことです。 いろいろな問題の根の大半は、自分の抜かりであったり、足りなさであったりですが、世間中がだらけてきていますから、「自分のせいばかりでない」と、ご時勢のせいにしたり、自分の置かれている場や境遇のせいにしたりして「私も悪いけれども事情もよくなかった」ということを口走ります。これは自分自身に対する言い訳に過ぎません。自分で自分をだましているようなものです。そのようなことをしてもなんの足しにもならないのですが、せめて自分で自分を慰めている。 それを無理にでも押して気張っている人は、よほど目先が緊迫して切羽詰まっている人でしょう。それも目先だけをこなすと、終わってしまう。 しかし、今、間近でなくても、すぐに目の前になってくる。いずれまた迫ってくると判っていても、「いずれそのうちに……」とか「明日がある……、明後日がある……」と思っていても、一月、二月は、あっというまに来ますから、何もかも皆、目の前のことですが、人間はいよいよ差し迫ってこないと本気に取り組みません。 そういうことのために教会は、いろんな機会を与えて下さって、それが教会のためでなく、実は「皆さん方が、ご自分の大切なことに十分、取り組まなければ……」と気付く機会を授けていただいているのです。教会の行事ですから、その間に気付かれていただいたら大きなプレゼントを授けていただいたと思って、「次から次から、ようもこのようなことがある」と思わずに、その一回、一回をおかげにして下さい。 先日も婦人会の会合でお話したのですが、「真のお道引をさせていただきましょう」と申しました。相手のためでもありますが、自分自身が、ご神縁の喜びをかみしめさせていただくためでもあります。家庭でも、身内でも、わが子でも、本当のお道引きをなさったら、この時期に、ひとりをお道引させていただくことが適かなえられたら三つも四つものお手引として現われてまいります。ご大祭にも、教団独立百年祭のご本部参拝にも、婦人大会にも、先代親先生一年祭と、四度も参拝してもらえる……。 ご縁をいただいていながら、信心から遠ざかっておられる方に信心の復活をしてもらえますと、四回も足を運んで下さるのですから、同じ骨折りで、三倍も四倍もの値打がある。どれほどの手間ひまをかけても、この骨折りにお釣が出ると思います。 ですから、「親先生、あの人には言うてもあきません」と思うかも知れませんが、あなたの手で神様の綱を切るようなことをなさらずに、神様はチャンとして下さっていることを分らせていただきましょう。中には「もう二度と足を運びません」と本人は神様から遠ざかっているつもりでも、神様は、いつでも戻ってきやすいように、どんどんと、ご神縁の綱を伸ばして下さっておられる。 本人は、「これでもう、ご縁が切れた」と思い、仲に立つ者も「あの人はあきません」と思いこむが、あかんと誰が決めるのか。 「ご無礼しました。敷居が高くて戻りづらいんですが…」と言いながら戻って来る人に、「神様は、どうして、あのように手間ひまかかる人の綱を解かれないんでしょう?」と思いますが、神様は離れていけば離れるだけ、綱を伸ばして下さる。神様のロープは長いのです。 人間には怪しいところがあります。以前に、「先生、一時も目を離せない親がいて、参拝できません」、「そんなに、そばに付いていなければいけないのですか?」、「いえ、付いていなくてもいいんですが、ちょっと姿を見せなかっただけで、『どこに行っていたんだ』と、やかましく言われるのです」と言われるので、「私が代ってご祈念させていただきますから、あなたは家から拝みなさい」と申しました。その後、その親御さんが亡くなられ、前の言い訳の通りならば、これからは思うままに参拝できるはずですのに、一向に参拝しません。まだ、「親がやかましいので、参拝できません」と言っていた頃のほうが参拝しておられた。 つまり、教会に来られることが息抜きになっていたのでしょう。親御さんが亡くなられてから、息抜きの必要もなくなったから、かえってお参りなさらないので、「どうなったんですか?」と尋ねてもらいますと、「親が亡くなってから急に、いろいろと用事ができまして……」と申していたと聞きました。そうすると、前の「親がいるから…」というのは、嘘だったのか、思い違いだったのか……、人間は、浅はかなことを思い込みます。 人が全速力で神様から遠ざかろうとしていても、神様がちゃんと、広い心で、大きな思いで、深い祈りで、導いてくださっておられる。お道引きと申しますのは、そういう、とんでもない人のためにではなく、自分自身がそうなのです。お道引きと申しますと、他人を導くことのように思うけれど、そうではなく、自分をお導きするのです。「たった今、この有り難いご信心を自覚させていただきました」と、毎日、お参りさせていただくのです。 信心奮起の機会にさせていただいて、信心目覚めの機会というのでしょうか、あるいは、「わが運命の扉を開く」という気持ちで、大げさなことを言うと思われるかもしれませんが、「今、天地の開ける音を聞いて目を覚ませ」……。 「今、目を覚ませ。地響きをたて、天地が開かれているぞ」と、教祖様はお教えになったと伝えられております。ご大祭を迎えて、そういう機会にしていただければ、ありがたいと思います。もう一度、信心の若返り、運命の若返りを願わしていただくよう、しっかり、おかげを蒙ってください。 |