神・霊・人一体・・真の助かり 教会長 三宅龍雄 00年9月23日 ただ今、秋のご霊祭を仕えさせていただきました。ここ最近、泉尾教会でのお祭りや行事の度に、お天気のお繰合せを頂いてまいりました。しかし、今日は、晴れという予報であったにも関わらず、雨となってしまい、「どういうことか」と思っておりました。求道会会長が納骨祭を、「予定通り祈りの塔の前で仕えていただきますか? 会堂ロビーで遥拝してお仕えしていただきますか?」と、お天気の具合を見つつ、最後までご心労しておられました。と申しますのも、この度のご霊祭に先立って、各係になられた方々が「どの点を改善すれば良いか」と、ずいぶん話し合われた席で、私は、今、思い返すと、手厳(てきび)しいことを申しました。その話し合いの中で、「ご霊祭に参拝される皆さん方に対する祈りと配慮が足りないことを申し訳なく思うている」と、納骨祭の世話を担当した求道会長が、お天気のことを気にして、晴雨とも備えて下さり、有り難かった。 今日のお天気について、よく考えてみますと、神様は、今朝からお昼まで雨を降らせて、お叱(しか)りと申しますか、「しっかりせい!」とおっしゃっておられたように思う。と同時に、お昼から後は、「せっかくお参りするのだから......」と、お恵みを下さって、晴れにして下さったと思う。 この六月の教団独立百年記念祭の団参にしましても、そのほか諸々(もろもろ)の教会の行事も、私が至らぬと申しますか、不十分でありますのに、神様は、いつでもお計(はか)らい下さって、庇(かば)うていただいていたのに......。この度は半分お叱り、半分お恵みを下さるという、お教えをいただいたご霊祭でございました。朝からそのことを思い思い、この神様のお計らいを「どのように受け止めさせていただけばよいのか」と思っておりました。 ここに(ご霊舎脇のパネルを指して)先代親先生御布教75年をお迎えするに当たっての祈りの言葉「神霊人一体」が掲げてあります。これは先代親先生がよく口にされたお言葉で、私どもの全ては、神様のお徳に包まれている。霊様が見守っていらっしゃる思いも、神様のお徳の中でなさっておられるのであります。私たちは皆、霊様を背負っているのです。そういう自覚の有無(あるなし)に関わらず、この世に生まれた限りは親の血を受けて生まれてきたのですから、めいめい自分の血の中に霊様の思いや祈りが流れているのです。 けれども、神様の見守って下さっている御神願のお働きといい、霊様が思っていらっしゃる我家(わがや)の願いといい、それを実際に現すのは人なのです。「神、霊、人」と書いてありますが、人がそれを現すのです。中身は神徳に包まれて、霊様の願いを受けてのことですが、それが目に見えて現されるのは、人によってであります。その三つのことがバラバラでなく、「一体」と書いてあります。一体であるけれども、それが現れてくるのは、お互いなのです。私なのです。皆さん方なのです。その中に神様のお徳がこもっている。霊様の願っておられることもこもっている。けれども、あくまでも、それを現すのは、私......。その現れの実際は、どういういうことかと申しますと、「真実の信心。真(まこと)のおかげ」です。 「しんじん」は、誰でも「信ずる心」と書きますが、教祖様は「信心する人は何事にも真心になれよ」(『神訓・信心の心得』)」と教えておられます。「真(まこと)の人」と書いて「しんじん」と読む。 また、「しんじんは神人と書く」ともおっしゃった。いろいろと教えて下さった中で、にわかに解りにくいところを、解り易くなさるために、そのようにおっしゃった。その時々で「真人」とお教えになったり、「神人」とお教えになったりされているのです。 そうしますと、「真実の信心」というのは「真(まこと)の信心」を自分が現していく......、「現したい」と願うことなのです。と共に、一方では「真のおかげ」即ち、皆さん、とくとご承知の通りおかげを頂いているからこそ、ご信心を続けさせていただいているのですが、その場、その場が「都合よくいった」とか、「ありがたかった」というだけでは真のおかげとは申しません。「真のおかげ」とは、末為(すえため)のよい、末安心のあゆみをさせていただくことです。今月今日のおかげを受けることに違いないのですが、それはただ、今月今日をしのぐということだけではなく、代勝(まさ)りのおかげの種を蒔(ま)かせていただくような今月今日のおかげをいただく。泉尾教会で、いつも唱えさせていただく『神様のお言葉』は、先代親先生が神様から頂かれたお言葉で、その一部に、『今月今日のおかげを受け、代勝りのおかげの種を蒔け』と申しております。昭和54年8月に、中之島のフェスティバルホールで大阪布教百年記念講演会の講師をなさった親先生が「神様のお声が聞こえませんか?」とおっしゃった中での一節です。ですから、代勝りのおかげの種――あるいは、おかげそのもの――になっていくような今月今日であるように、と祈っていただいており、そう祈らせていただいているのであります。 「神霊人一体」の人が受け持つところに、神様・霊様が現れなさる私どもの歩みというのは、一言で申しますと、教祖様が「真人」とも「神人」ともおっしゃった真実の信心......。そして、先代親先生がおっしゃった真のおかげを現させていただく。しかも、「この三つが一体だ」という祈りの言葉をここへ掲(かか)げさせていただいているのです。 今日の霊祭のおかげは、そういう点で、500日を迎えるための祈りの歩みをさせていただいているのです。一日一日と、残りの日数は少なくなってきますが、同じお迎えをさせていただくのならば、布教75年というお年を「ようもようも、ありがたいご信心をいただいて、自分だけではなく、子ども孫まで、そのおかげの歩みをさせていただきます」と喜びのお礼の火柱が立つような、お祭を迎えさせていただくご信心を、共にさせていただきたいと思います。 今日は皆さん。特に遠いところからいらっしゃった方は、お足許(もと)の悪い中をいらっしゃった。けれども全(すべ)て、このおかげをいただくためのご参拝ですから、「ありがたい御祭だった」と、それをみやげに持って帰っていただいて、いよいよおかげを蒙(こうむ)っていただきたいと思います。ありがとうございました。 |