御布教75年記念祭迎え 第一回信徳殿親先生ご講話 教会長 三宅龍雄 00年11月05日 *『親先生と御取次』 お早うございます。今朝もお話(教話)をさせてもらったのですが、「解らなかったことが解る、目から鱗が落ちた感じがする。ああ、こんなことだったのか」ということがままありますね。しかも、それが、その場で解るのでなく、後になって、「ああ、おっしゃっていたことはそういうことだったんだ」と気付かせていただくことが、ままございます。 私の若い頃に、先代親先生が嫌いなさった、あるいはご機嫌が悪かったことが二、三ありました。先代親先生はご親切な方でしたから、噛んで含んだように教えていただいたんですが、それでも解らんことがたくさんありました。 当然、レベルが違うといいますか、立場が違うというところがありまして、チンプンカンプンという訳ではなくて、一通りは解るんですが、「どうしてそういうことをやかましくおっしゃるのかな?」と思うことが多々ありました。今ごろになってから、「ああ」と思うことがありましてね……。 いちばんよくおっしゃったのは、お伺い。皆さんお結界でお伺いなさるでしょう。最初に親先生の所へ行って「どうしましょうか?」とお伺いして、お言葉を頂いてから、今度は向かい側に座っている私の所へ来て、また同じお伺いをするんです。そうすると、私は答えようがないでしょう。もう親先生が答えを出していらっしゃる。そこを信者がまた聞くので、どっちかというと、当たり障さわりのないことを言いますわね。まあ、当たり障りがないということは、取りようがいくつもあるでしょう。で、また、そのご信者はもう一度列の後ろに並んで、親先生の所に行きなさるわけです。 しかし、私の所へそっと来て、お伺いしているところを親先生は聞いていらっしゃる。そして、その人からしたら三度目――親先生の所には二度目になるんですが――お伺いしたら、「龍雄の言ってることは間違っておる」とはおっしゃらないですね。ですからまた、どっちでもないようなことをおっしゃいます。そうすると、だんだんだんだん、一番はじめにお伺いしたことと違ってきます。違ってくるというか、その方にしたら聞き良い言葉を選よりますからね、だんだんと的まとから外れていくわけです。 話は違いますが、丹波に軍勢を置いていた明智光秀が信長に「すぐ来い!」と……。明らかに(備中で交戦中の)羽柴秀吉の手伝いに行けと……。もともと、光秀は北側(山陰筋)から毛利を攻めることになっていたのに、急遽「中国筋(山陽側)から行け」ということを言われるわけです。それで、丹波からずーっと(京都盆地まで)下りてきまして、妙心寺という所があります。あそこがちょうど(西国街道と洛中への道との)分かれ道になっている。そこで、「どうしようか(信長に反旗を翻すこと)」とおみくじを引くのです。そうしたら「凶」が出た。謀む反ほんは成功しないと……。(腹が立つので)二度引いた。そうしたら、二度とも「凶」を引いた。三度目を引いたらやっと「吉」が出た。それで、どっと本能寺を攻めて行くんですね。そりゃ何度も引いたら、しまいには「吉」が出ますわな……。 有名な逸話ですね。それはおみくじを引いている(神意を伺ってる)のではない。「吉」を引こうとしているのです。何度も引いていると、しまいには出てきます。これは作り話でしょうが、くじというのは、何度も何度も引くものではないということを現しているんです。同様に、「お伺い」というのは、たゆらかな気持ちで、たとえお言葉がどちらであろうとも、それは「お図はかり」じゃと受けとめる。それが「お伺い」でしょう。 ところが、「お伺い」をする時に、予め「こういう答えが欲しいなあ」と自分の欲しい答えを頂きにお伺いしたら、それは「お伺い」にならん。そういうような意味で、「お伺い」というのは、自分の思うことのお墨付きが欲しいと……。自分が思うだけでなく「えいっ」とふんぎるために……。それで、お伺いを二度することを、先代親先生はいいようには思われなかった。お伺いというものの頂き方というものを教えてくださったのですが、それだけ、親先生は真剣といいますか、一生懸命であられたので、「お伺い」の二度聞きがお嫌いなんだなということくらいしか解らなかったですね。それも、後になって真意が解るようになりました。 *親先生は固有名詞でない もうひとつ先代親先生がお嫌いなさったことは、信者さんが感話をする時「親先生、二代先生のお祈りを頂いて……」と、よく言われますが、そういう具合におっしゃるのを非常に嫌がられた。それも、どうして嫌がられたかというのが、なかなか解りにくかった。 ある時、ご教話で、「親先生というのは固有名詞じゃない。俗に言えば、普通名詞であって固有名詞でない」ということをお話になったことがあって、つまり、「親先生イコール三宅歳雄」ではないと……。その時に、「私(先代親先生)も、・親先生・を頂いているのだ」という話をされました。つまり、三宅歳雄も・親先生・というお働きのもとで、・親先生・の御用をさせてもらっているということですね。理屈というか、筋としても、まったくその通りだと思います。 けれどもその時、その真意が、真の底まで私には汲み取れなかったんですね。そりゃ、「親先生、二代先生のお祈りを頂いて……」と、こう一言葉で言いますが、それが「三宅歳雄、三宅龍雄という二人の御用をしている人のお祈りを受けてという意味合いだったら、それは違っている」と、そういう意味なんでしょうね。本当に、御取次のお働きというものをちゃんとわきまえておらんということです。「神様、親先生、ありがとうございます」ということは、「天地金乃神様、生神金光大神様、ありがとうございます」という意味です。生神金光大神のお働きを取次いでいる親先生がしてくださっている。そうしますと、「その生神金光大神のお働きというものの中で、私も御用させてもらっているのだ」という気合いというのか、意気込みというものが、お祈りとして籠こもっている。 今日、資料としてお渡ししているものがありますが、特に、教祖様のご伝記(『御伝記金光大神』)を読ませてもらうと、おもしろいなと思った所なんですが、近藤藤守(後の初代難波教会長)という方がお参りなさった時に、これは、お結界での言葉(ご理解)と、ご神前で後ろ(信者の側)を向いておっしゃった言葉(ご裁伝)が、互い違いに出ている。ですから、半分はご裁伝――神様のお言葉。しかし、いずれにしても教祖様の口から出ている。その場面の描写の後半にある話がまたおもしろい。教祖様は、生神金光大神のお働きをなさっただけでないということが、そこに書かれてありますね。 そうすると、一方では、御取次のお働き(生神金光大神)をなさりながら、一方では、「この方(私=教祖様ご本人)が」というところがある。そこに書かれているのは、一子大神様(教祖様の奥様)が、近藤藤守先生に「今度はこうなさい」ということを言っていらっしゃるんですね。それは教祖様と奥さまと二人がかりでお気持ちをお伝えなさる。その時の教祖様は、「この方」という一念がありますね。ところが、藤守先生は「いやそうではございません。私は……」と奥様に申しあげた。そうすると奥様はあらためて取次者として答えて「金光大神が喜ぶぞ」とおっしゃるんですね。 だから、取次者だけのお働きではないということが、しっかり読むと出てくるんですね。つまり、教祖様も生神金光大神を頂かれたということが、しっかり読むと出てまいりますね。ですから、親先生が、「親先生というのは三宅歳雄のことではない。三宅歳雄も親先生を頂いているのだ」というのはこういうことです。話としては、そこまで親切に解りやすく言って下さっているので解りました。 ところが、だんだんだんだん、「解りました」というその時に、親先生が何をそこまで強調なさってらっしゃるかというのは、ずっと後になるまで、私はよう理解できませんでした。つまり、物事というのは、「話で聞かせてもらったから解った」というものではないのです。やっぱりその中で、いちいち事に当たってから、「ああ、おっしゃっていたのはこのことか」と、後で気が付くことが多々ございます。 *代行と代務者は違う ですから、せっかくこうして入殿なさいましたから、今すぐに答えが出なくても、後で気が付く種を仕入れているようなものです。仕込んでいるといいますかね。この二十何時間かだけではない。そういうお祈りを頂いているのが信徳殿でございます。先代親先生は、その点では、それが実際、布教の現場に当たってきた人の、尋常でないところがあったんでしょうね。 もう10年程前になりますが……。金光教の教主様は、5年ごとにあらためて推戴する制度になっているんです。全教の教会長の選挙によって選ばれる。選挙といいましても、99パーセントまでは同じ方に投票されます。しかし、あとの1パーセントは違う人の名前が出るんですよ。ですから、選挙といっても儀式のようなものですね。しかし、あらためて5年ごとに戴きなおすという制度があるんです。 たまたま、四代金光様、すなわち金光鑑太郎先生のご晩年に、さらにもう一期続けて教主の御用をお願いするということが決まって、そのお礼というかお願いに、教監がお結界へ行かれました。ところが、金光様(鑑太郎先生)のご体調が悪く、ご入院してらっしゃった。それで、現在の教主様(五代金光様)である金光平輝先生がお結界へお座りになっていた。そこへ、教監が「またお骨折りいただきます。このたびは有り難いことでございます」とお礼のご挨拶を申し上げた。すると、ご代行としてお結界に座っておられた平輝先生が「なんとお答えしたらよいやら判りませんが、金光様にお伝えいたします」とおっしゃったそうです。 そのお言葉が掲載されている『教報』をご覧になった先代親先生が、「あんた(私のこと)、これどう思う?おかしいと思わんか?」と聞かれました。なぜかというと、平輝先生という方は鑑太郎先生の跡を継がれるご長男であるし、これを「代わって座ってられる」からご代行と呼んでいます。当然、教監がご挨拶申し上げ、お答えなさる。しかし、そのやりとりの内容が『教報』に掲載されるというのは、先代親先生のセンスからいうと、おかしい。 私もそう思いましたので、次にお国参り(本部団参)に行った時に、そのことを問題に出したんです。「うちの教会長がこない言うんです」と……。そしたら、(『教報』の発行責任者である)布教部長が、「なるほどなあ」と……。同時に、鑑太郎先生の秘書をしておられた先生がおりまして「実は、うちの教会長がこんなことを言っています」と言うと、「これは明らかにミスです。本部教庁の側の間違いです」と言いました。「どういう具合にミスかというのをだいたいは解るのですが、はっきりと解らないので教えて下さい」と言うと、「ご代行というのは・無意志・なんだ」と……。「意志がないんだ」と……。自分の判断や計らいはない。そして・無位置・。そういう位置付けではないと……。この『教報』の記載は、この原則から外れていると……。 つまり、「意志がない」といったって、ものはおっしゃるんですね。でも、それを公に印刷されるというのは、意志がないものは載せられるわけはないんですね。だから『教報』の記載の仕方は「教監がお礼の挨拶を申しあげた。金光様がお受けになった」でいいのに、「どう言っていいやら判りませんが」と……。「判らんけど」とおっしゃっているんですからね。『教報』の記述は、間違っている。で、現在でも、お国参りに行きますと、お結界に並んでお届け申しあげる。教主様の時と、教主様のご代行の方が座っている時もありますが、どなたの時でも「金光様」と申し上げ、頂戴するご神米にも「御神米三宅氏」と書いてある。それは何かというと、あくまでも「代行として受け取る」と、そういうことです。 ところが、規則上は、・代務者・という制度があるんです。これは宗教法人法によって、教会長でもそうですが、その人が決まったお役前ができない時には、代務者を置くことになっている。代務者というのは、全権を持つんですよ。三代金光様はご晩年に代務者を置かれました。お亡くなりになられる一週間くらい前ですかね。先代親先生がその時に、教監推薦委員でありましたから、妙にそこらへんのあやちに詳しかったですけれども、四代金光様は、とうとう代務者を置かれないままで亡くなられました。金光病院に入院しておられて、良くなったといって、お家へ帰る自動車の中で亡くなったんですからね。だから、宗教法人法上の「代務者を置く」という前に亡くなられたので、代務者なしです。もちろん亡くなられたのですから、急遽代務者に、奥様がなられました。 *日本国首相と合衆国大統領 ご代行と代務者は違う。森内閣ができるときに、小渕首相から「(総理大臣臨時代理就任を)よろしく頼む」と言われたということで、青木官房長官が首相臨時代理になったんでしょ。その時に、脳梗塞で倒れた小渕首相が本当に「万事よろしく頼む」と言ったか言わんかというので未だにやってますね。本当は「うーうー」言っただけで、それを「万事よろしく頼む」と言ったことに拡大解釈した。 ところが、こんな緊急事態でない時は、総理大臣が国を空けて外国に行く時など、首相臨時代理というのを必ず置くんです。決まりになっているんです。その代わり、その人は決裁しなければならないことを首相に代わってします。もちろん、首相が帰って来たら、引き継いで首相に戻るんですけれども、毎回毎回、総理大臣だけでなく、外務大臣などでも、とかく責任のあるものは、自分の仕事が執行できない時には必ず臨時代理を置くことになっている。ところが、ずっと小渕さんは置いてなかった。一般的には、たいがい官房長官がなるんですが、腹心ですからね。そこで、この政権交代劇は、いささか怪しい。 アメリカなんかはすごいんですよ。大統領がどこに行く時でも、必ず一人カバンを持って追ついて行く。そのカバンも、手錠でカバンと自分の腕を結びつけたまま持って行く。それは何のカバンかというと、アメリカが敵国から核攻撃を受けた時に、即座に打ち返さないといけない訳でしょ。その「ミサイルを発射してもいい」ということを基地に知らすボタンがその中に入っているんですね。大統領の行く所には必ず追ついて行く、ということが決まりになっている。 ところが、その大統領そのものが乗っている飛行機が落ちたりしたら、たちまち「敵のミサイルが飛んで来た」といって即応できない。だから、大統領にことがあったときには、誰が代行するかということが、予めちゃんと決まっているんです。核ミサイル発射にゴーサインを出す役はねえ……。日本では、核兵器もなければ交戦権もないから、たかが判子をつくのか、つかないのかといった程度が問題なんですから軽いもんですが、アメリカの場合は、もしも大統領の飛行機が墜落したら、自動的に上院の議長、すなわち副大統領が即座に大統領に代わる。副大統領に事故が起こった時には、下院議長に全権が移譲されるようになっています。 とにかく、代務者というのは全権を持つわけですね。アメリカの場合は決まっている。日本の場合は……この前のように、よく判らない。判らないけれども、まあ大勢のおもむくところ、森さんが跡を継いだんです。だから、代務者とご代行とは違う。ご代行というのは、あくまでも手替わり。先代親先生は、その違いを解っていない『教報』を、もう90歳というご高齢になってからでも、ちゃんとお気付きになられた。ああいう『教報』のような公式の刊行物には、必ず、記述の内容や表現をチェックする担当者がいるけど、誰もちっとも気付かなかった。「実際の現場というのはそういうことがあるんでしょうなあ」とご本部で褒ほめてもらいました。 日本の国などは、昔は、天皇陛下が行幸(ご旅行)なさる時には、「三種の神器」の剣と玉とは随行して行ったものです。鏡はご神体として伊勢神宮にあるんですよ。お手元(皇居の賢所)にはレプリカがあるんです。本物といっても、どこまで本物か分かりませんが、剣と玉は一応、本物といわれるものは、持って行かれます。今から十何年か前に、今の天皇様になられた時の大嘗祭で……。それは、一代の天皇の間に一回しかないんですが、大嘗祭で伊勢神宮へ勅使を派遣なさる。長い歴史の中には大嘗祭をされなかった天皇様もおられるのですよ。皇位を継がれたのに、大嘗祭の前に亡くなられて……。そういう方を、「半帝」というんです。半分の天皇です。大嘗祭を仕えられて初めて本物の天皇となられるんです。歴史上2600年の間で二人いらっしゃる。 *代理は本人と同格 ともかく、大嘗祭の時に勅使をお出しになるんですね。その勅使が、後ろに剣と玉とを連れて行くんです。天皇の代わりですからね。私がテレビで見ていて、「すごいなあ」と思ったのは、侍従などのいわば家来がお使いに行くのに「神器」である剣と玉とをお供に持たせるんです。つまり、その家来がご自分なんです。だから天皇陛下は、その者が部屋から出るまで、じーっと立ったままでいらっしゃるんです。普通だったら、天皇陛下は後から来られて、先に帰られますね。当然そうです。偉い方は待たない。しかし、天皇陛下は、お使いの者が部屋から出るまでじっと見てなさる。その者に自分のお使いをさせなさったんだから、ご自分ご自身を見送りなさる。ところが、陛下の御前ですから、お使いの者も後ろを向いて「行ってきまっさ」というわけにはいかないでしょ。勅使は後ずさりに部屋を出るんですね。天皇陛下にお尻を向けて出て行く訳にいかん。後ろ向きに出て行くんです。お装束つけているんですよ。テレビを見ていて「あんなん着て後ろ向きに出て行くなんて大変や。危ないことするなあ。ひっくり返ったらどうなるんやろ」と思いました。 昔は、京都御所の壁なんかもなかった時代、御所からお使いを出しなさる時には、三条か五条の橋を越えるまで(洛外に出る)、天皇陛下は座って見送られたそうです。つまり、お使いというのは、今言ったように代行ではない代務なんです。 私がこんな話をするのは、祖母や先代親先生によく言われたからなんです。(幼少時代の先代親先生が)和歌山教会へ代わって参拝する時、(在所である)中之島からわりと道程がありますね。十五町ですかね。往復で一里ほどあるんですかね。それで、代参に行きまして、お剣先(ご神米)を頂いて家に帰ってくるでしょ。そうしたら、その足でさっとご神殿に行って、頂いたお剣先をお供えして、後ろを振り向いてはじめて「お帰り」とおばあさん(註=三宅音枝)。「ただ今、戻りました」と少年が挨拶する。 お使いに出て、代わって参拝させていただいたんですから、お剣先を持って和歌山教会から帰って、ご神殿にちゃんとお供えして拝むまでは、まだ代参。全て済まして、そして後ろ振り向いてから「ただ今、戻りました」「ああ、お疲れでした」と……。なかなかその点しっかりした人でしたからね。 結納なんかでも、そうではないでしょうか。この中で仲人したことのある人、何人くらいいらっしゃいます? 結納、納めに行くときに、相手の家に着いても、「こんにちは」なんて言わない。黙ってさーっと入って行って、床の間に結納をちゃんと納めてから、向き返って、「本日は、お日柄もよろしく……」なんて言うんでしょ。何故かというと、お使いなんです。男の側から納めるまで、お使いですから一切話さない。納めて、向き返って、「幾久しく」なんてやるんです。 若先生の結納の時に、仲人の方が結納を持って、三宅家から宮脇家に行った時のことです。「宰領」という結納の行事を取り仕切る役の人がおりましてね、結納を載せた車が、通行止めで道の電信柱の上でちょうど工事をしていた。宰領が、下から「はしごを退けてくれ」と言うと、工事している人が、「たいそうなこと(工事)をしているのに退けられない。回り道してくれ」と言うんです。ところが、その工事現場にベテランの人がいて、「ご結納ですか。退かせます」と……。グループの長だったんでしょう。退けてくれました。「お待たせしました。めでとうお納めください」と。何故かというと、結納を持って行く時に引き返すとか戻るということを避ける習慣があるんですね。 しかし、別の道を行くためには、一旦、ちょっとでも引き返さないといけない。引き返すとか、戻るとか、戻すということを、結納の時には昔から嫌がるんですね。工事現場の若い人は「そんなバカなこと」と思ったのですが、ちょっと年配の人は察して退いてくれました。仲人をした人は「私は三宅家の代理だから、代わってお使いさせていただいているのだから、そんな所で引き返したのでは、お役目にならん」と、そう言った。まあ向こうが聞いてくれたから良かったんですけどね。お使いとか代理というのは、そういったものなんです。その一番きつい例が、私の祖母ですね。自分の代わりに行ってもらったのだけれども、けじめというのは、非常に厳しくしていなさったですね。 *親先生の御用を頂く 話があちこち飛びましたが、ご代行と代理というのは違うんです。代理というのは代務者。先代親先生の最晩年の三カ月か四カ月、ご病状の厳しい中でも、教会長の代務者を置かなかったんですよ。「いらっしゃる限りは親先生のお働きで通じる」と私は思ってましたからね。文化庁で、「あなたの教会は、代務者を置かないで……」と言われた時にも「はい、亡くなる寸前までちゃんと教会長の働きをしておりました」と答えました。まあ、文化庁の役人は、「にわかに信じられへん」と言うけれども、「現に私が言ってるんだから」と言ったら、「そうですか、普通だったら置くんですけどなあ」と言いました。「最期の最期まで、お見舞いに来た者に対しても、ものはおっしゃいませんけれど、目つきなんか見ていたら、ちゃんとしていらっしゃった。教会長の働きしてましたよ」と言ったら、「そうですか」と……。『宗教法人金光教泉尾教会規則』という、定款のようなものがありますが、それにはちゃんと「代務者を置く」ということが書いてあります。しかし、現実には、亡くなる本当に一時間くらい前までは、ちゃんとした反応をしてらっしゃいましたね。 代行というのはしょっちゅうあることです。代わって御用をさせていただく。四代金光様の秘書をなさった先生が「無意志、意志無し、意志が無いということは原則や」と言ってましたが、先代親先生のことは、「やっぱり、実地の人は違いますなあ」と言って感心していました。先代親先生は、やかましくそのことをおっしゃっていた。「親先生というのは三宅歳雄ではない」と……。「たまたま、三宅歳雄が親先生の御用をさせてもらっているけれども、私も親先生を頂いているのだ」と……。 その点、先代親先生となれば、これは三宅歳雄。だから、『先代恩師親先生報徳拝詞』にね、「先代恩師親先生三宅歳雄大人と御名を唱えて拝みまつる」と言うでしょ。そこでいう先代恩師親先生とは三宅歳雄大人以外の何者でもない。イコールです。だけど、親先生というのは、たとえば私、三宅龍雄。たまたま三宅龍雄が、御用をさせていただいているだけであって、私も先代の親先生に倣うならば、親先生を頂いておる。 お配りした資料にいろいろ書いてございますので、じっくり読まないとなかなかそこまでご理解いただけないかもしれません。ご教祖様自身がね、一子大神様とご一緒に近藤先生に思召しを伝えようとなさる、それはあくまでも教祖様とされてのことで、最後には、やはり金光大神様として「それは良かろう」とおっしゃってらっしゃいますね。 話が、あちこち飛び飛びになりましたが、これで、講話を終わります。 |