真の信心末安心の道
教会長 三宅龍雄 01年3月4日

 今年は、先代恩師親先生が泉尾の地に人助けの道を開かれてから七十四年......。当時は、日本中そして世界中の経済が非常に厳しい時でありましたから、ご承知の通り、先代親先生のご布教は、まず「暮らし向きの上でお陰を受ける。立ちゆかしていただく」ということから始められました。

 昨今の日本は、底なしの不景気の上に、将来の見通しが立たぬということですから、先代親先生が赤手空拳、ただ一人で、しかも二十四歳の青年教会長としてお道を開かれた時のご苦労を偲ばしていただく......。あるいは、単に拝ましていただき、お慕いさせていただくだけでなくて、今、守っていただかなければならない。今だけではなく、これから先、立ちゆかせていただくにはどうしたらよいのかということを願わしていただく......。それがご布教七十五年をお迎えする信心の中身内容になるわけです。信心だけではない。生活・生き方全体がご布教七十五年の中身なんです。そういう点で、各地区でこうして信心奮起をさせていただき、躍進をさしていただこうという願いを込めて、今日、手始めに京阪奈地区の信徒大会を開かしていただいているのです。

 信心結集ということを、おかげをいただいて、来年、心晴ればれとおかげの御礼を申し上げ、さらにいよいよおかげの道を歩ませていただくことをお願いさせていただく。そんな記念大祭をお迎えさせていただきたいことです。そういう願いを込めて「真の信心、末安心の道」ということについて話をさせてほしいと思います。

 真の信心ということは一体どういういうことか?先程、感話を聞かせていただきました。三代にわたって信心のご縁を頂き、子供ながらにその影響を受けて育ってきたけれど、非常に辛い立場にたって不安な状態で泉尾のほうを見て拝ましていただき祈念させていただいた。「神縁まことに不思議にして今この道に出いで会あうを得たり。身の痛み心憂きこと......」と、ずっと繋がっています。「ご神縁は自分の生まれる前から三代続いている。けれども、今、この道にお出会いすることができました」とそうおっしゃる。信心というのはひとりひとり違うし、夫婦・親子・兄弟といえども違うのです。しかも、その時その時、そのことそのことにおいてご信心というものに触れるわけなんです。その中で私どもは、「真の信心」というのはどういうことかを求めます。

 教会では毎ご祈念ごとに『御拝文』というのを上げさせていただいています。参拝する方各々は、それぞれの願いをもってご祈念させていただくのですが、『御拝文』というのは、そのひとつひとつの願いというのをもっと大きく包んだ総祈念――全体の願い――の中の祈念です。全体を包み込んだご祈念の中で、一番最後の最後に、「この上とも、神ながら神がかりくださいまして、教え導かしていただきますよう。また、教信徒一統におきましては、信心の道を間違うことなくますます進めさせていただきまして......」という二つの条件です。それに続いて、「いかなることをお願いいたしましょうとも、即座にみかげ御授け遣わされまして、日々有難く、嬉しく楽しく安心のみかげ、御授け遣わされますよう御願い申し上げ奉ります。四代金光様、三代金光様、二代金光四神様、教祖生神金光大神様、天地金乃神様......。とお名前を揚げて「御願い申し上げ奉ります」という言葉で終わる。 

 「有難く嬉しく楽しく安心」これが金光教で祈っていただいている信心です。信心というのは、どんな信心でも有難いと私は思います。人の目から見て「あんな信心をしている。あれは迷信じゃないか」と言われても、本人は有難いからこそ、拝みもし信心もする。ですから有難くない信心なんてありはしません。けれど、単に有難いだけではなくて、信心させていただくことが嬉しくて、楽しくてしかも、安心。

 安心は、今日ただ今の安心であって、人から「あれは火の車じゃないか。あんなことで、ようじっとしていられることだ」と見られても、本人が「必ずおかげを頂く゜」と言えれば安心していられる。逆に、誰から見ても「経済的にも家庭的にも、今の状況があれほど整っている人はいないぞ」という人でも、本人が「こんなことでは......」と怖がっていたら、それは安心ではないのです。安心ということは、有難く、有難いだけではなくて、ご信心させていただいていることが嬉しいのです。「信心させていただくことが嬉しく楽しくて安心だ」ということを願わしていただき、そのお願いの下に、各個のお願いさせていただくのです。「真の信心」というのはその信心。お祈りしていただいている真の信心。

 最近、科学が発展してまいりまして、今までは、ヒトとヒト以外の生き物とでは、遺伝子のレベルで大きく隔たっているかと思われていたのが、実はそんなに違わず、ヒトとチンパンジーやゴリラといった類人猿などは紙一重というくらい近いということが判ってきたのです。では、どこが違うかといいますと、神様というものを知っているか知らないかというところが違うのです。人間と違う形ですがコミュニケーションをとれる(言語を有する)動物もいれば、道具を使うものもいるということが判ってきました。人間と動物を分かつ最後の違いというのは、神様を知っているかどうかの一点です。

 事実、旧約聖書には「人間アダムというのは神様の形に似せて造られた」と書いてあるのです。「人間というのは神様というものを知るところから始まっているのだ」と教祖様もおっしゃっています。「神の働きの真似をさせていただくことを有り難い、と心得て信心をしなさい」とおっしゃっています。あるいは「生(いき)神(がみ)」とは「ここに神様が生まれる」ということです。「この方(金光大神)がおかげの受け初め。皆も同じようにおかげを蒙ります」みな生神というものを頂いている。「わが心の中に神がござるから、おかげが受けられる」と......。神様はちゃんと中にいらっしゃるのです。信心していない人も皆、信心というものを持って生まれているのです。その持って生まれた神様に働いてもらう、それを生神というのです。「皆、私のことを生神と言うけれど、この方ばかりが生神ではない。ここに居る方は皆、神の氏子だ」すなわち、神様というものをちゃんと具えている。教祖様の言葉で申せば、わざわざ神様というものを持ってきたりしなくても、それぞれの中にいらっしゃるのです。ただ、働いていらっしゃらないだけです。

 先程の感話で「今、この真の道に目覚めさせていただきました。涙が出て止まらなかった」とおっしゃるのですね。そういう点で、せっかくめいめいの中に神様を持たしてもらっているのに、良く働かしてもらわず、形ばかりのことに走っているとすれば、もったいないことです。私は、真の信心というのは、ただ拝んでいる、大事にしている、参拝しているというのとは違うと思います。その中から「本当に有難いな」ということを授けていただくことです。神(かみ)心(ごころ)というのは、信心をしない人でも、およそ人間であればちゃんと頂いているのですが、神様のお働きを頂き、しかも、十分働いていただいているのかどうか。

 私がこのことを一番しっかり教えていただいたのは、「天地金乃神と申せば、天地一目に見ておるぞ」という御教えです。一目にというのは、上からも下からも右からも左からも、あるいは表からも裏からも一目瞭然......。なぜかというと、天地というものの中に生かされ、天地に包んでいただいているのです。「神は平等に徳を授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。信心が一いち分ぶ違えば、おかげも一分違う」とおっしゃるのです。逆に「おかげは受け得、受け勝ち」とおっしゃるくらいですから、なんぼでも受けることができるのです。

 神の徳を、お働きを十分に受けようと思うのなら、「お任せ」という心にならなければならない。人間にはめいめい思惑もあれば、算段もあります。いろんなものを持っているのです。でも、それを全部放ったらかして「お任せ」とならしていただくためには、神様以外に手がつけられないのです。「どうにもこうにもなりません。ままよ! お任せ!」それが神様の徳を十分に受け、お働きを十分に頂くということなんです。受けものが悪いと「こぼれておるぞ」と。天地一目に見ておられる。何もかも包んでくださるというのはそういうことなんです。

 そのことを気づかせていただくのが真の信心。ただ熱心に信心させていただいていましても、そこへ辿たどり着かなければ熱心なだけで真の信心とは言わない。同時に、真の信心とは末安心の道なのです。真の信心をさせていただいて、その挙あげ句くに末安心の道を頂こうというのではないのです。末安心の道がすなわち真の信心なのです。そのことに昨今、気づかせていただくことが非常に多いのです。

 皆様方、熱心にご信心をなさり、努力されてらっしゃる。これがただの信心でしているのであればもったいない。願わくば、せっかくの骨折りや工夫を真の信心にさせていただくというのが、ご布教七十五年の歩みの大事なところではないかと思います。いつでもどこでもさせていただくことですけれども、自分一人でなくて、皆で勢を揃えて、あえておかげを頂く。先代親先生が七十四年前に開かれたその師願を受け継いで、それを願いもし、誓いもさせていただこうということです。

 朝から心配しましたが、お天気までおかげをくださっている。天地総がかりで祈ってくださっている証拠です。どうぞ、今日を信心の奮起の機会にさせていただいて、「よし、同じお迎えをするならば、晴ればれとお迎えをする。晴ればれと新たな誓いをたてさせていただく記念祭を拝ましていただきたい」という気持ちひとつで、しっかりおかげを蒙(こうむ)ってください。私は本当に嬉しいです。どうぞ、共々におかげを蒙ってまいりましょう。ありがとうございました。

(茨木商工会議所で開催された京阪奈地区信徒大会での講演を収録)