春のご大祭を祈りて

教会長 三宅龍雄
平成13年4月25日

春の霊大祭を仕えさせていただいて、霊様ともどもご本部の天地金乃神大祭と春秋ごとにおつかえする墓前祭に参拝のおかげを頂き、ご大祭のご神徳と霊様のお働きを頂いて、春のご大祭を拝ませていただくのでありますが、このたびのご大祭は、来年一月にお迎えする、先代恩師親先生が泉尾の地に人助け世助けの御用に打ち込まれて、七十五年に当たる大御祭であります。この大吉祥(二七七日後)に向かって教会を挙げて願いをこめさせていただき、ともどもに御神願のお働きを拝ませていただくのであります。

泉尾教会にご神縁を頂いているもの――、先代恩師親先生以来の祈りをうけているもの――は、どなたも、だんだんと迫ってくる御布教七十五年記念大祭に向かうあゆみの一ひと節ふしとして今日のご大祭をお迎えし、拝ませていただくのでありますが、その人、その人によって、あと残る日を「もう二七七日しかないのか」とひとしお、ご信心に打ち込まれることでありましょうし、一方「まだ二七七日もあるのか」と、あれこれと願いをこめなさる方もおられると思います。

どちらであっても、ここまで切迫してまいりますと、もう願うておられることを着々と取り進めさせていただかねば間に合わないし、実際に多くの人は取り組んでいらっしゃる。このことは泉尾教会の節ふし年どしを迎えるあゆみであるだけでなく、ごめいめいが、わが家の願い、わが祈りを成就させていただくについても同様であります。このように、お一人おひとりの願いをこめておられることを実らせていただくことが何よりも大切でして、御布教七十五年記念大祭は、その一ひと節ふしと受けて、日ごろ祈りをこめておられる念願成就の祈りとあゆみが、ともすれば慣れてゆるんだり、ぼやけたりするところを、あらためて願い立てし、誓いを新たにさせていただきたいと存じます。そのことは、とりもなおさず、「わが人生のあゆみの実情・実体を見直し、問い正すように」と、授けていただいた機会でもあります。

先代恩師親先生が頂かれた『神様のお言葉』の一いっ節せつに「今月今日のおかげを受け、代まさりのおかげの種をまけ」と教えていただいておりますが、お互いのもつ、いよいよの念願は「代まさりのおかげの種をまかせていただく」土台づくりでありますが、そのことを実際にとり進めさせていただく道は「今月今日のおかげ」を頂く

ことと受けとめて、その日その日の暮らしの中でおかげを頂き通していくあゆみ以外にはないのであります。それがその日その日をしのばせていただくだけにとどまっているのでは不十分で、「日々に守られてのあゆみが、そのまま、代まさりへの道あゆみであるように」お祈りをさせていただいているのであります。

「金光教は、どういうご信心か。一言でいうて下さい」と聞かれますが、なかなか適切に答え難い。相手が老若男女という立場の違いによって理解の度合いも違いますし、求道のご信心をしている人は勿論、他宗教の方でも、現在信心しておられる方と、信心の喜びを全然ご存じない人では、分かって貰い方も違って、なかなか一言でいい尽くすことは難しい――。ずっと以前に先代恩師親先生におたずねしたときに一言でおっしゃったのは「生き甲斐を頂く信心」と教えて下さいました。明瞭と申しますか、スカッとしたおっしゃり方で分かりやすく、私は今ではそのようにいうております。

今日では毎日のご祈念させていただいている神前拝詞でも『深く厚き神みかげ悟りては喜びを深くし、痛みある人いたわりては道に誘い、迷いある人導きては甲斐ある生命いのちに目覚めしめ――』と唱えさせていただいておりますが、当時は、他の方は、あまり「生き甲斐」とおっしゃらないで「取次の道」とか「あいよかけよ」の信心というあらわしかたをしておられました。

甲斐あるという言葉は「し甲斐がある」、「やり甲斐があった」というように、骨を折り、汗をかいた分、報われる――。神様はチャンとご覧下さり、自分自身にも手応えがあって無駄骨でなかったという、「有り難いお道」を歩ませていただいておりますが、何ひとつ取り組ませて貰ってないものでも、この道にご縁といただいているだけでも、生き甲斐を授けていただいており、誰しも願うている「満足感のある充実した生き方」を与えて下さるご信心と申せましょう。

甲斐ということは値打ちという意味でしょうが、分かりやすい例として、お金について申しますと、人の働きを計る人件費や、土地建物を価格ということでいいあらわして、「上がった」、「下がった」と申します。勿論、由緒や思い出――。働きで申しますと、気に入ったとか、ボランティアという、お金で計れないこともありますが、一応、価格や相場といった値打ちの目安になり、少なくとも値打ちを計るしるべとして用いられております。これは、多少の変動はあっても、大きくは変動しないという信頼に支えられてきたからであります。

ところが昨今はデフレーションと申して、どんどん物の価値が落ちこんできています。建物は古びて値が下がりますが、土地は大地であるから、ここまでグラグラするとは思っていないことでしたが、各所に群発する地震のマグニチュード7や6という地殻変動が続く有様で、到底、値打ちの目安にならない。とにもかくにも、今までの値打ちの土台が動き出して、今まであまり心に掛けていなかった事や物に値打ちを見出す時代になってまいりました。

そこで甲斐ある生命いのち、生き方が、重くなり、それを生み出し、授かる生き方を、あらためてお誓いし、お願い申し、授けていただき、そのよろこびを語り、伝え、残すという機会を、あらためていただく吉祥として、このご大祭を拝ませていただきたいと思うと共に、先代恩師親先生が、人に先んじて「生き甲斐を頂く信心」と、祈りをこめて下さった泉尾教会広前の御神願のお働きをいただいて、愈々のおかげを蒙ってまいりたいと念願をこめさせていただき、共々におかげを蒙ってまいりましょう。