「寿命長久のご神徳のお裾分を頂戴して」 99年1月8日
 
副教会長 三宅龍雄

 おめでとうございます。親先生が満九十六歳というご長寿をお迎えになって、元気にお広前にお出ましくださって、その姿を拝ましてもらうのも誠に有り難いことでございます。 それはもう、当たり前のことじゃない。元気なお姿で、そして今もなお、われわれ皆を祈る行願を続けていらっしゃるということは、ご神縁を頂いているわれわれにとっては「この上ない有り難いことだ」と左様に思わしていただくのであります。 

 どうぞ親先生のそのお徳のお裾分けをしていただいて、われらもまた長命のおかげを頂く。それも、ただ長生きをしているというだけではなくて、有り難い長生き、そして、言葉を変えて申しますと、「信心長生き」、「喜びの長生き」をさせていただいて喜んでもらう。子供や孫を祈り、守っていただく。そういう台人と申しましょうかね、家の信心の土台になるような、そういう長生きを共にさせていただきたいことでございます。

 教祖様のご晩年、亡なられる一年ほど前に、ある若い熱心な信者が「金光教の信心の奥義は、一言で申せばどういうことですか?」と、教祖様にお尋ねしますと、三つずつ九つ挙げて下さいました。その中の二番目におっしゃったのが、「欲徳」「人徳」「神徳」と、そういうふうにおっしゃったそうです。

 「人間にはみな欲というものがある。よく『得をした損をした』というけれども、これは生きていく上には大切なことなんだ。欲のない人間などというのはありえないし、それを粗略に思ってはいけない」と……。だけども、「欲徳だけではいかん。その次には人徳というものを頂けねばいかん」と……。そして、「叶かなうことであれば、神徳を頂いて、その三つが成就して初めて、その人その人の生き方、お徳が頂けるんだ」と、そうおっしゃったそうです。

 その質問をした方はまだお若い方でしたので、ちょっと解りにくかった。「欲徳は解りますが、人徳というのはどういうことでございますか?」という意味で、「よく『あの方には人徳がある』と言われますけれども、今ひとつ解りかねます」と申し上げましたら、「人徳とは、人に用いられることだ。お役に立つということだ。充分自分の良さ、長所を生かしてもらうことだ」と、教祖様はおっしゃった。

 これは、よく世間にある信心抜きの話でもですね、「あの方は人徳がある」という表現がされますね。まあ、町内会でもいろんな団体でもですね、やり手の人もいてなさる。熱心な方もいらっしゃる。けれども、「あの人はよくやるけれども副会長止まりやな」と……。「なぜ?」と聞いたら、「人徳がない」と……。こういうことがありますね。

 一方、会長さんになられる方は、「なんやあの人は今ひとつはっきりせんが、あの人が会長さんをしてくださると、なんや納まりがええ」……。そういうことがあります。それは、用いられているということですね。人様が使うて下さっているということです。で、副会長さんは不満なんです。「あーんな、ぼんやりしたのでも会長が務まるのに、わしみいたいに一生懸命やってるのに、何倍も働いているのに、なんで私、副会長にしか選んでもらえへんねんやろう?」と……。自分の良さをそう思っておるんですね。それが充分生かせてもらっていない。そういことを「用いられていない」と、こう言うんですね。

 それはなぜかといいますと、皆さんからみて「あの人はやり手やし、熱心やし、よくやる。しかし、なんかあの人だと全体が納まらん」という人と、「こちらの人は今ひとつパッとしないんだけれども、あの人だったらなんとなしに押えが効く」という時に、「そういう人を会長さんに……」と、こういうことになるんですね。だから、自分の持っておるものを充分使うてもらえん。そういうことを、「用いられていない」と言うんです。自分も不満なんです。良さを生かしてもらえんということはですね、それはもう残念なことです。一方は、充分に使うてもらっている。「あの方なら納まりがええ」と……。

 「用いられていて、お役に立っているという意味ですな」(そのような説明を教祖様から受けて)「ああ、よく解りました。それでは、三番目の神徳とはどういうことでしょうか?」と教祖様にお尋ねしたら、「神徳とは『寿命長久』のことなり」と、おっしゃられたそうです。人間が長生きをするということはですね、養生もあればいろんなこともありますけれども、いよいよ突き詰めれば、これはお徳を頂かなければ長生きはできない。それがまた、ちょっと解りにくかった。で、そのご信者が「そこがちょっと解りません」と言いますと、「神徳、人徳、兼ね備う」という。「神徳には人徳もちゃんと含まれておるんじゃ」と……。

 教祖様のお言葉は短こうございますが、なかなかうがったことを申されます。だから、神徳というのは寿命長久のことだけれども、ただ、長生きしていることではないんです。お役に立つ長生き……。何も体を動かしてどうのこうのというのではなく、「あの人がいてるから納まりがええ。家の真柱である」と……。それで、欲徳人徳神徳と三つ挙げられたそうです。やっと若いご信者が「解りました」とそう申し上げたそうです……。

長生さしていただくというのは、ただ「寿命が長い」ということだけではなくて、お役に立つことです。誰だって「ご苦労さん」といわれたら嬉しい。喜んでもらったら嬉しい。仏教では、特に日蓮宗では「顔布施」という言葉があるんですね。「布施」というのは一般に、皆に(金品を)施すことですね。ところが、「ニコニコ笑うんでも、これも施しや」と……。みんながもう気まずい思いをしたり、辛い思いをして難しい顔をしている時に、一人の年寄りがニコニコ笑っている……。そのニコニコ笑っているだけでも、人様のお役に立っているんです。人を励ましているんです。

それを、年寄りの方が不満ばっかり言ってぐちゃぐちゃ言うていますと、いよいよ暗くなってくるわけですが、ニコニコして笑って、何にも言わんけれども励ましておると、さらに言えば、自分が長生きをしていることを通して、真まことの信心、真の喜びというのを子供や孫やみんなに伝えるんです。遺のこす。自分の長生きの仕方によってですよ。また、自分が長生きをさせていただくことによって、家の中にそういうことを植え付けていくというような信心長生きが大事でございますね。

だから、大きなお役前を持って、大きなお仕事をしておる。ごちゃごちゃしたことを手伝うたりするんじゃないんです。みんなを生かすという長生きが非常に大切ですね。ですから、子供や孫の中で、まだ信心をしておらんものがおれば不十分なんです。まだまだ死ねん。そのおかげを頂いてですよ、「おばあさんのおかげで、家のものがみな信心させてもらって有難い」と、そういう具合に、細かいことをごじゃごじゃ言うんではなくて、「有難い。有難い。嬉しい」とそういことが満ち満ちるような、そういう長生きをさせていただきたいものですね。

そうでございますから、親先生がそのお徳を頂かれて、それも大変なご修行によって行願のお徳を頂かれた。それをですね、その親先生のお徳をもって皆さん生かされておるわけですが、そのお徳を皆さんにお裾分けをしてあげようというお話を今しておられた。

そのお裾分けしていただいたお徳を頂いて、そして、私も「わが家の中の親先生」、めいめいのお家の親先生になって、みなにご信心を受けてもらう。あるいは親先生のご祈念をただ単に頂くだけではなくって、現していく。わが身に、わが家に、それを頂かしていただくという大きなお役目を承っているということですから、どうぞそういう点で、元気な、有り難い長生き、さらにいえば「信心長生き」、「徳積み長生き」をさしていただいてですね、いよいよ家中の者がおかげを頂いて参られれば、これは本当に「真の長生き」と申すんじゃないかと思わせていただいた次第でございます。

何にいたしましても、親先生が元気にお出まし下さった。いらっしゃったことが励ましなんです。私たちに「これを見よ」と、「こいうおかげをいただくように」と、励ましていただいている。お祈りそのものに他ならんのであります。どうぞそういう点で、私どもこのように、いよいよ元気な、いよいよ有り難い、いよいよ嬉しい、そういう今年を送らせていただきたいと思います。私もそうです。皆さん方もご同様、どうぞ共々におかげを蒙こうむってまいりたいと思います。ありがとうございました。