『舟にも車にも積みきれぬ神徳』 何よりも、このお天気をお繰り合わせいただいた。こういうようなお天気……。説明とか、不足とか、言い訳とかなしのまんまのお天気なんです。なんということでしょう。天気予報では、一週間ほど前から、「4月25日は日本全国雨」ということが報じられてましたね。また、昨晩の天気予報でも、「明日(25日)は一日中雨が降るでしょう」と、そんなふうに報じられていたのに……。「いったい、あの天気予報は何だったんだ?」と思うくらいお天気に恵まれて、私は感動しております。 なんというお計らいを頂いているのだろうか……。お道引きに骨を折られた方がいらっしゃる。御用にも取り組んでこられた人がいらっしゃる。それだけでなく、お参りするおひとりおひとりが、たいへんなお繰り合わせを祈ってお参りしてくださる。それを十分受け入れるというか、「全部抱え込むことができなければ、神じゃない」というような、そういう神様の心意気をお示しなのでしょう。 同時に、包み込んでくださるような思し召し。それは、そういうことだけじゃないんですね。「ご大祭にお参りする気だったけれど、足許が悪うてようお参りできません」とか、「都合の繰り合わせがつかないのでお参りできません」というような、「言い訳とか説明などはさせんぞ!」というような、神様の強いお気持ちというものをひしひしと感じましたから、祭詞(のりと)を上げている最中も、もう胸が詰まるような思いでしたね。 なんという思し召しでしょうか……。金光教では、天地金乃神様のことを親神様とお呼びしている。いろんな問題を抱えた氏子に「よっしゃ、来い。なんでも聞いてやる」という親様でいらっしゃる。本当に身の引き締まる思いでいます。 本日のご大祭を迎えさせていただいて、たいへん感動いたしました。感動というのは、「感じる」ということと「動く」こと。感じなきゃ、なんにもならん。そこに、どれほどのことが込められているかということが、ピーンと感じなきゃ本物ではありません。同時に、そのことに気がついても、「解りました」言うだけでは充分でない。動いていかなきゃ……。感動ということは、感じて動き出すということが揃(そろ)って感動です。私は胸に迫っているのですが、その気持ちをそのままお伝え申し上げた。神様が「決して疎(おろそ)かにはせん」という目に見える証拠を見せて下さっているお祭を、皆さんと共におかげをいただきましょう。 今日は、会う人、会う人「親先生、お天気になって良かったですね」と、皆さんおっしゃる。「さすがに親先生のお祈りとお徳ですね」ともおっしゃって下さる。しかし、それは違う。親神様が「見捨てておけん」と……。「皆がそれだけ祈りを込めてるものが、雨に降られたら辛かろう」というお思いです。こんなもの、初めから人間の手に負えることじゃないんです。それをお計らいくださったのに、皆さんは「お天気になってよかった」と思っていらっしゃるだけです。決して、それだけじゃない。けれども、それを受ける受け方というのは、おひとりおひとりみんな違う。どれほど、今日のご大祭の中身になって、内容になって、心得になって、「それを伝えることができれば有難いことだ」と思わせてくれたかということですね。 『金光教祖御理解』第二十二節のお言葉に、「天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ」という御教えがあります。「いろんなことも一瞬にして見てやるぞ」と、そういうことをおっしゃりながら、「神は平等におかげを授けるが(全部の人に授けるけれど、しかも、そのおかげは決して減るとか、無くなるということはないけれども)、受け物が悪ければおかげが漏(も)るぞ」とおっしゃっておられます。だから、「信仰は受ける者の、受け物次第じゃ」と、こういうことをおっしゃるのですね。 今日のご大祭にご参拝になっておられる方の中には、熱心な人もいらっしゃる。また、人に誘われて、しょうがなしに来ている方もいらっしゃる。だけど、皆さんにこのお天気……。「あんたは傘いらん。あんたは土砂降り」ではなく、みんな同じものを与えて下さっている。だから、神様のおかげはみんな頂くんですが、「受け物が悪ければ、漏るぞ」と……。また、別のところで、「信心が一分(いちぶ)違えば、おかげも一分違うぞ」とおっしゃっています。これはちょっと手厳しいですね。そういうことを教えていただいているのでございます。 もうひとつは、「神の言うことをそのまま聞いて、持って帰る」そうしたら、お土産は「舟にも車にも積めぬほどの神徳を授けてやる」という趣旨のお言葉(『金光教祖御理解』第34節)があります。本日は、皆さん『大祭のしおり』を頂いて帰られるんですね。形に見えたものとしてはそうだけど、今日のご大祭の神徳というか、ご比礼(ひれい)は、それはその人その人次第。そのまま真受(まう)けに受けたら、「舟にも車にも積みきれぬほどのおかげを授けてやる」というのです。 しかも、そこまで言いきりなさっていながら、そのご理解の一番結びの部分では、その挙句に「心の内を改めることが第一なり」と結ばれたのですね。これは凄いことですね。「心の内を改めた」とは、お悟りとかではないんです。この自分の一番芯にあるものを改めることが大事だと……。それが今日のご大祭のお直会(のうらい)です。「舟にも車にも積めぬほどの神徳を授けてやる」実にすばらしいお言葉です。そのご神徳は「心の内を改めることが大事だ」と……。 皆さん、それぞれお家(うち)に帰って、『金光教教典』をお持ちの方は読み返してください。この本日のご大祭だけでなく、創立75周年の婦人大会が目の前に迫っておる。その前に青年大会もあります。そして、秋には教祖様120年のご盛儀を拝ましてもらおう。と、みんな思っておるんですが、それにはしんどい思いをするというだけで、頂くものは計りしれないものを頂戴するんですね。有難く嬉しく、楽しく安心というような道を歩んでくだされれば、私は本望でございます。しっかり、おかげを蒙(こうむ)ってください。有難うございました。 (春の大祭での教話 4月25日) |