『報恩生涯』 もともと同じ和歌山のご出身である湯川大先生は、明治38年(1905年)に大阪へ出て来られて玉水教会のお道開きをされたので、先代恩師親先生が玉水教会で大先生の内弟子として教会修行を始められた時は、玉水教会の布教13年目のことでありました。皆さんご存知のように、大阪の中心部は、教祖様ご在世当時(明治の初期)から大阪教会の白神新一郎先生や難波教会の近藤藤守先生といった直信の先生方が熱心な布教活動を行われ、日本全国で最も金光教がその信者を獲得していた地域ですが、それから20年以上も遅れて大先生がその布教を開始されたのであります。 大先生は、あのようにお徳の高い先生でありましたから、そのような金光教が既に飽和状態と思える地域においてですら、ご比礼(ひれい)(註=教勢の伸張)を頂かれたのでありますが、「ご比礼を頂く」ということは「信者が増える」ということでありますから、自らの手助けをする修行者(弟子)を一人でも多く欲しておられたのだと思います。そこで、甥である歳雄少年すなわち先代恩師親先生を同じ郷里から呼ばれたのであります。 といっても、当時、先代恩師親先生はまだ15歳の少年でしたから、いかに先代恩師親先生といえども、すぐにお道の教師として御用ができるわけではなく、最初、ご本部にある(旧制)金光中学へ入られ、さらに、教師養成機関である教義講究所(現在の金光教学院)に進まれて、教師としての資格を取られたのであります。その間、大正12年(1923年)には、帝都東京への布教展開を目指された大先生は、娘婿の湯川誠一先生を派遣して木挽(こびき)町で銀座教会を開教されたのですが、その手助けとして20歳の歳雄青年を遣(つか)わされたのであります。皆さんご承知のように、その年の9月に関東大震災が起こりましたので、銀座の先生ご夫婦は、歳雄青年を残して大阪へ戻られ、銀座での布教は一時中断するわけでございますが、続いて昭和2年(1927年)に、今度は24歳の先代恩師親先生を泉尾の地に布教させられたのであります。 こうしてみると、初代玉水大先生は、ご自身のご長男であられ二代玉水教会長となられた湯川茂大先生を周囲からお守りするように、娘婿の湯川誠一先生と甥の先代恩師親先生を教会長にされたのだと思います。そして、昭和2年以後、この泉尾の地で先代恩師親先生が素晴らしいご比礼を頂かれたことは今さら申し上げるまでもございません。泉尾の地にご布教され、一国一城の主となられても、先代恩師親先生は、昭和19年(1944年)に大先生が亡くなられるまで、玉水教会までことある毎に足運びされました。そして、ご自身が平成11年(1999年)に御齢96歳という天寿を全うされてご帰幽になられるまで、日にちのご教話でも、ことある毎に「恩師大先生いませばこそわれあり」と繰り返し繰り返し強調されました。 しかし、よく考えてみれば、15歳で大阪に出て来られて、玉水教会で内弟子修行をされ、24歳で泉尾に布教されたのですから、その間「足かけ10年」ということになりますが、実際には、ご本部の金光中学や教義講究所におられた期間が約4年、そして、短い期間でありますが、東京の銀座教会において教会を立ち上げるお手伝いをされた期間もあるわけですから、正味、大先生の下で直々お仕込みを頂いたのは、わずか数年足らずのことでございます。そのわずか数年足らずのご薫陶へのご恩を、96歳で神上がられるまで、生涯「ご恩報じ」ということを強調されたのでございます。 したがって、この2月1日にお迎えする初代玉水教会長六十年祭にも、泉尾教会から団体でお参りさせていただくわけでございます。今、泉尾教会で信心させていただいている者の中で、ご在世当時の初代玉水大先生のことをちらっとでも見たことのある人は、私を含めごくわずかであります。しかし、先代恩師親先生がお受けになられたご恩に連なる者として、ご恩報謝させていただくことが大切なのであります。 翻(ひるがえ)って、本年8月29日、泉尾教会では先代恩師親先生の五年祭が仕えられます。現在泉尾教会の信心の列に連なっている99パーセントの人は、ご在世中の先代恩師親先生から無いいのちを継いでいただいたり、あるいは、日にちお祈りを頂いた者ばかりであります。その先代恩師親先生は、若い頃にわずか数年間しか直接ご薫陶いただかなかった湯川大先生のことを、96年間にわたるその長いご生涯の中で、一度も忘れることなく、その「ご恩報じ」ということをおっしゃり続けられたのであります。 ところが、昨今の泉尾教会の信心の様子を顧(かえり)みますと、先代恩師親先生の神霊様にご安心いただくどころか、「師願継承」は単なるスローガンとなってしまい、本当に真剣に命懸けで、ご恩報じ――すなわち、先代恩師親先生は「人が助かりすればよい」とおっしゃってくださったのですから、「師願に報いる」とは、すなわち、「それぞれが助かっていく」ということでありますが――そのことひとつを以(もっ)てしても、十分できていない恥ずかしい現状が目の前にあるのであります。 この初代玉水教会長六十年祭をラストスパートとして、今から7カ月間、先代恩師親先生五年祭を目指して、お互い命懸けの報恩信心に邁進(まいしん)していきたいものだと、共々におかげを蒙(こうむ)ってまいりたいと思います。 |