『霊祭は単なる先祖供養ではない』 

教会長 三宅龍雄       04年03月20日

ただ今は、春の霊様(みたまさま)の大祭(おおまつり)を仕えさせていただきました。本来でしたら、祈りの塔で納骨祭も仕えさせていただくべきところですが、このお天気の様子では叶(かな)いませんので、こちら(会堂広前)で遙拝(ようはい)式を仕えさせていただきました。私は、たとえ雨天になりましても、「お天気までお恵みいただいた」とお礼を申し上げております。本当に、何から何まで、ご都合お繰り合わせのお働きをいただいているのですから……。

そういうことで申しますと、今日の霊様のお祭りも、あらためて、このお祭りに込めていただいている「祈り」ということを思わせていただくだけではありません。金光教では、ただ「(先祖の)霊様にお礼を申し上げ、これから先もどうぞ見守って下さい」とお願い申し上げるだけじゃないんです。仏教のことは詳しくは存じませんが、一般には「供養をさせてもらう」というような形をとるのですね。つまり、ご先祖様にお礼を申し上げるだけではなくて、「この上とも見守ってください。お働き下さい」という現世に生きている人間の側からの願いをするということでしょう。

だけど、このお道の霊祭(みたままつり)は違う。私共が霊様をお偲びしたり、お礼を申し上げるというだけではなくて、霊様も私たちに対して「ようお参りしてくれておるな。よう祀(まつ)ってくれておるな」ということです。「日々この霊の祈りをようもようも受け止めてくれているな」というようにですね。あちら(霊様の側)からも、祈って下さっている。生きている人間の側だけでなく、霊様の側からも祈って下さっている。

この働き合いこそが、このお道で言う「霊様を祀る」ということです。だから、そこが仏教とは全然違う。今日の霊大祭にこうして皆さんお参り下さったけれど、霊様の側から申しますと、「ようも参ってくれたな」ということになります。その中には、「日頃から(この霊を)頂いてくれておるんじゃな。嬉しく思う」ということですね。

ですから、単なる先祖供養のお祭りじゃないんです。お祭詞(のりと)でも「これもこれも」と、いろいろと申し上げましたけれど、ひっくるめて申しますと、要は「一家信心をさせてください」ということです。それも、単に信心相続というだけではない。信心相続と言えば、まず、自分が、「霊様方の信心を受け継ごう」と誓うと同時に、「自分の受け継いだ信心を、子供や孫にも受け継いでもらいたい」ということですね。
だから、一家信心にならざるを得ないんですね。実際には、時代も変わってきますし、信心の程度に凸凹ができますよ。しかし、助かりの根の底になるのは、そのことでございます。そして、そのことによって、総助かりの御神願ご成就のお役に立たせていただくことができれば、これに勝るものはないとそういうふうに願わせていただくのでございます。

そういうことから申しますと、信心とは、ただ、その時その時、「こんなふうに思った。こういうふうでありたい」というようなものじゃない。いつもいつも、そうであるように……。だから、一家信心と申しますが、いよいよのことを申しましたら「わが信心」の問題になってきます。今も『祖先賛詞』を奏(あ)げさせてもらいましたが、その中で「代々(よよ)の祖(おや)は、わが家の神わが神と、心尽くして斎(いつ)き奉(まつ)らな……」と、唱えさせていただきましたように、霊様というのは、わが家の霊様であると同時に、私の霊様でもある。そういう具合に、毎々お祈りするたびに、そういうふうに思わせていただいておるのでございます。

だから、「どうぞして、霊様の思いを頂き通したい」というこの願いが、今日のご参拝の意味でございますね。そして、そのことは、とりもなおさず、霊様も「ありがとう。ありがとう」と喜んで下さっている。われわれの喜びだけではない。霊様も「ようお参りしてくれたな」と、左様なことでございますね。ですから、皆さん。しっかりおかげを頂かれてですね。「ようもようもご信心させてもらっておる」そういうことになりますように、喜びもし、祈りもし、誓いもしながら、しっかり、先代恩師親先生の祈りを受け継がせていただいて、ここに、有難さが、このお広前から出社各会はじめ、それぞれのわが家の中にも行き届くことができたら、これに過ぎたことはございません。

  今のままで、ただ単に、世間の墓参りや先祖供養のように、格好だけお参りをするのでは、あまりに淋しうございますね。だから、しっかり、おかげをいただいて、それを、今日のお直会(のうらい)にしていただいて、いよいよもっておかげを蒙(こうむ)ってください。ありがとうございました。

(3月20日 春の霊大祭でのご教話)