『イラク人質事件に見る親の心情』 イラクで人質になっていた日本人(民間人)の方々が、皆さん無事に解放されました。この一週間ほどの間に、日本国中の人々が、これまで見ず知らずの縁もゆかりもなかった方々の安否を、家族の方々同様に気遣い、また、社会全体を通して「人道支援」という問題がどれほど深い根を持った問題であるかということを考える機会となりました。大勢の方々が自発的に署名活動をしたり、そして、日本国政府の努力はいうまでもなく、私どもの目には見えませんが、背後で動いたであろう関係各国の協力、あるいは宗教界のネットワークが、相互作用的にうまく働いて、自らの意志で危険なイラクに行き、人道支援活動どころか、かえって人々の手を煩(わずら)わせることになった三人を助けるために、惜しみないエネルギーを注ぎました。無事に解放されたから良かったものの、ひとつ間違っておれば、本当に大変なことになっていたと思いますね。 今回の事件が起きたきっかけは、地元住民と占領軍である米軍との間でトラブルの絶えなかったファルージャという町で、三月の末に、アメリカ人たち――といっても、元米軍特殊部隊の兵士たちで、退役した後、民間の危機管理会社に勤めていた、いわば戦争のプロ――が、昨年四月末の事件以来、反米感情が強かったファルージャで工作活動中に捕まり、住民にリンチ(死体を陵辱)されたことに端を発しているのです。 そもそも、一国の政府というものは、面と向かって正規軍を出撃させたり(戦争)、あるいは、CIAやKGBといった国家機関直属の特殊工作組織を用いるだけでなく、工作員(スパイ)が敵方に捕まったりした時に、政府は「知らぬ。存ぜぬ」を通すために、金で民間の工作員を雇うということがよくあります。近頃流行(はやり)の言い方をすれば業務のアウトソーシング(外部委託)ということですね。三十年ほど前に、日本でも人気を博した米国製テレビドラマ『スパイ大作戦(Mission Impossible)』の名台詞(ぜりふ)ではありませんが、工作員に政府から指示が下される時には必ず、「……例によって、君もしくは君のメンバーが捕えられ、あるいは殺されても、当局は一切関知しないから、そのつもりで……」というふうになっているのですね。国際政治のいわばダーティな部分です。 ですから、イラクの各地において各国のスパイが暗躍していることは容易に想像がつくのですが、この民間人になりすました「戦争のプロ」である米国人四人がファルージャで捕まり、見せしめに惨殺されたわけですが、本来ならば「知らぬふり」をしなければならないアメリカ政府は激昂して、ファルージャの街を包囲して女子供を含む600名も虐殺してしまったわけですね。これがテレビ時代の恐ろしいところです。 今回の日本人人質事件でも、アルカイダのようなプロの国際テロ組織とは何の関係もないイラクの片田舎で自然発生的に起こった物取りに毛の生えたような、いわばアマチュアの犯人グループでも、衛星放送を用いて国際的にニュースを発信しているアル・ジャジーラに犯行声明が収録されたCDを送りつけるという時代なわけですから、政府も個人もみな、お互いにテレビの映像がもつインパクトというものを意識して行動しているということです。犯人たちの思惑どおり、三人の民間人が人質になった映像がテレビで流れ、日本国内にも大きな衝撃が走ったわけですね。 しかも、今回のイラク戦争は、国連決議なしに米英両国が「フセイン政権が大量破壊兵器を隠匿している」という罪状をでっち上げてまでしてイラクへの戦争を始め、これも小泉首相なりの計算があったのでしょうが、米英に付和雷同する形で、日本も戦後初めて実質戦闘地域に自衛隊を派遣するということに踏み切ったのです。このことの是非は別としても、そのことによって日本の民間人が人質に取られ、犯人からは「自衛隊のイラクからの即時撤退」という要求が突きつけられたのであります。もちろん、小泉首相は犯人たちをテロリストと決めつけ、彼らからの要求を即刻拒否しました。 このことには、過去四半世紀における日本の国際政治上の二つの出来事が引き起こした結果が大きなトラウマになっているのです。ひとつは、湾岸戦争(1991年)の時に――今回と同じくイラクが絡んでいる戦争には違いありませんが、こちらは安保理全会一致の決議のもとに多国籍軍が結成され、隣国クウェートを侵略したイラク軍を武力でもって排除するという形で闘われたわけですが――時の海部政権は、国民に増税までして、二兆円という大金を多国籍軍に対して支援した訳ですが、日本の国が人(自衛隊)を出さなかったことから、戦後の論功行賞でも評価してもらえず、かえって「なんでも金で済まそうとする狡(ずる)い国」という烙印を国際社会から押されてしまったのです。日本国内では「顔の見えない日本」と盛んに言われたものでした。そのことが大きなトラウマとなって、「次にこのようなことが起きた時には、何がなんでも人(自衛隊)を出そう」ということが政治家の頭に刷り込まれてしまったのですね。 それから、もうひとつの出来事は、さらに時代が遡るわけですが、日本赤軍がダッカ空港でハイジャック事件(1977年)を起こした際に、時の福田赳夫首相は「(人質の)人命は地球よりも重い」という迷台詞(めいぜりふ)(?)とともに、テロリストの要求に屈して「超法規的措置」と称して、刑務所に収監されていた過激派(=殺人犯)を釈放し、犯人グループに16億円という手土産(てみやげ)まで付けて、これを解放したわけですね。そのことによって、国際社会から日本が大いなるブーイングを受けたわけです。 この二つの出来事が日本政府の大きなトラウマとなっており、今回の自衛隊のイラクへの詭弁(きべん)を弄(ろう)しての派遣、そして人質事件が起きても、小泉首相をして即座に「自衛隊は撤退させません」と言わせしめた訳ですね。もちろん、以前よりも日本国内の世論も、いわゆる「普通の国」へと近づいてきたような気がしますが、とはいっても、実際に自分の家族が外国でテロリストたちの人質に取られ、しかもあのような形でテレビでその映像が流され、「指定された期日までに(犯人の)要求を呑まなければ、人質を殺す」と脅迫されたのでは、家族の人々の心中は察してあまりあるものがあると思いますね。 例えば、自分の子供が誘拐(ゆうかい)されて身代金を要求されたのならば、自分がなんとか金策をして、その身代金を集めて犯人にこれを渡して人質の身の安全を確保するということも可能ですが、なにせ今回の相手方の主張は「(日本政府に)自衛隊を撤退させろ」という訳ですからね。そんなこと人質の家族がしようと思っても叶(かな)うわけではありません。犯人も、小泉首相の子息を人質にしたのならいざ知らず、総理大臣とは何の関係もない一民間人ですから、家族の人たちにとっては、自力ではどうすることもできない、ただお願いする。また思いつくままに、外務省や有力政治家あるいはマスコミ関係者にお願いする以外にない訳ですよね。 といっても、政府としても、突然降って湧いたような問題ですし、実行犯がどのような背景を持った人々なのかは想像すらできないわけですから、なんとも解決の仕様がありません。そこで、返答に窮した担当の役人たちは、どうしても「役所的な答弁」をする他ないのです。その態度が当事者たちからすれば、まことに誠意のない言葉に映り、役人に食ってかかるような表現になったのも、これもまた身内の情としては当たり前のことであります。テレビを視ている人々は、全くの第三者でありますから「そんな危ないところへ行った本人が悪い」とか、「(この問題で)政府の政策を批判するのは筋違い」と言ったような、人質の身内の人たちに対しても酷い表現をする人たちが出てくるのも、哀しいことですが現実であります。 そのような日々が何日か続いて、人質になられた方の弟妹の方たちが東京でメディアに晒(さら)されていたのですが、あの時、地元の北海道におられた年老いた親御さんがテレビの画面に出られ、姉を救いたい一心で、かなり過激な発言をしていた息子や娘たちの行為を詫びるという出来事がありましたが、あの場面を視ていて、本当に思いました。やはり、親子と兄弟姉妹とでは、その人間関係の親密度が違うのでしょうね。もちろん、母親にとってみれば、自分の腹を痛めて産んだ子供ですから、東京に行っていた弟妹のほうよりも、わが子を思う気持ちは強かったことでしょう。しかし、そのことをさらに乗り越えて、より大きなより高いところから、イラクで人質になっている姉を助けたいばかりで、多少表現の荒っぽくなった弟(=息子)をも含めて、その無礼を詫びられたという親御さんの気持ちというのが、私には痛いほど解りました。 この道の神様もそういう神様なんですね。天地金乃神というのは親神ですから、その属性は「親」ということでありますね。この世におけるあらゆる事象の原因も結果も含めてわがこととし、自らお詫びして子供たちの立ちゆきというものを願われるのであります。今回の事件で言えば、日本政府にもまたファルージャの人々にも、あるいは人質になられた方々にも、それぞれにそれぞれの言い前があると思います。また、それぞれの言い前はそれぞれに、それなりの妥当性を持っている訳ですが、親というものは、そのような妥当性や言い前を超越して、「子供が助かりさえすれば、わが身はどうなってもいいんだ」というその気持ちを持つものが親であるということを、あらためて今回の事件を通して教えられた次第です。 |