「生かされ守られていることを大切に」 99年2月27日

副教会長 三宅龍雄

おはようございます。この二日ほど前から、高知県で脳死状態になった女性が、元気な時から「もし自分が脳死状態になったら、自分の臓器を困ってらっしゃる人に差し上げたい」とドナーカードっていうものにちゃんと書き込んで意思表示なさっていた方の「臓器移植を前提とする脳死判定が行われた」ということで報道されております。

四十歳代のご婦人がクモ膜下出血で脳死状態になったということが報道されておりまして、いつかこういう人が現れてくると思っておりましたが、臓器移植法施行後初めてのことでございますから、報道関係者などが非常に大きく取り上げておるんでございます。この二十二日に入院なさって、二十五日に、主治医が本人自身を調べた結果「臨床的には脳死である」という診断が出まして、ご本人は元気な時から臓器提供の意思があることを申し出ておられてましたので、家族の方に「してもよろしいか?」ということを尋ねたら、「構わない」ということで、今度の騒ぎが始まりました。

この病気の成り行きは決して珍しくなくて、よくあることなんですね。先日も総会が開かれました大阪国際宗教同志会の会員を長年なさった曹洞宗の桑原亮三先生がごく最近お亡くなりになった。この方、亡くなる直前まで非常に元気だった。外へ出て、お友達とお酒を飲んだりと、非常に朗らかになさっていましたが、家にお帰りになってものの三十分もしないうちに「ちょっと頭が痛いな。飲みすぎたんかな」っとおっしゃった。で、「休む」ということで、お休みになられたんですが、熱が高くなってお医者さんに来てもらったら、「これは早速、入院されなければいけません」ということで、救急車で運ばれて入院されてから二、三時間の内に亡くなられた。これが今回の高知の方と同じクモ膜下出血でございまして、ご本人は「頭がちょっと痛いな。飲みすぎかな」ということで、死ぬなんてことはぜんぜん思ってもいなくて、家族の人もことの進み具合が速いので、しかも、こんなことになろうとは夢にも思っていなかった。

こういうことは、突然起こることで、たまたまこの先生は、「自分の角膜を死んだ後、困っていらっしゃる方に差し上げたい」ということをおっしゃっていた。それで、亡くなった病院の先生が、「こういうこと(アイバンクに登録されている)ですが?」と......。本人(故人)が生前そう言っておりましたから、献眼してくださるのですが、やっぱり家族の同意がほしい。それで医者が二つのことを言われたそうです。「眼の角膜を差し上げるというお約束ですから、両方とも眼球全体を摘とる」と......。それで遺族はびっくりした。もちろん亡くなった後ですから、眼が無くても何ら不自由ではないのですが、角膜だけだと思っていたのが眼球全部となると、死に顔も変わりますから......。

その上、たとえ摘出しても、その眼球が移植に使えるかどうかは検査をするそうです。提供者がエイズや肝炎などの感染症をもっていらっしゃったかどうか?それから、生前、抗癌剤などのお薬をどんどん使っていなかったかどうか?を調べるそうです。たくさん使っておった人の眼球は、移植に向かないそうなんですな。だから、「せっかく頂いたけれども使えるかどうか判らない。という二つの点を予めご理解してほしい」と念を押されたそうです。「本人が生前中に申したことですから、ぜひそうして下さい」と遺族の方も言われて、幸い感染症や抗癌剤も耐性ができていなくて、困っている人に角膜を差し上げた。先だっても二人の方から「ありがとうございました」というお手紙をいただき、未亡人になられた奥様も息子さんも、「そんなにお役に立ててありがたいことだ」と、いうことをおっしゃっておられまして、なかなか、死後とはいえ、自分の体の一部を人に差し上げるということは、尊いお気持ちでございますが、できがたいことでございますね。

今度の場合はですね、そういう死後に眼球だけというようなことではなくって、どう申しますか「脳死状態の段階」で、心臓と肝臓と腎臓ですか、それを差し上げるというのですから、まだ血が通ようている間に摘とり出さないと、一〇分、二〇分、三〇分と時間が経つと、もう差し上げることができなくなってしまう。ですから、心臓が動いている−−まあ、いろんな補助装置を付けてですけれどね−−その中で摘とり出すんですね。だから、「脳死状態」かどうかということを判定する必要がある訳です。見た目にはですね、ものも言いませんし、意識もなくなっておるんですけれども、心臓が動いていれば体も温かい。だけども、脳の一番中心部分(脳幹)がもう働きを止めているんですね。人工的に生かしているだけで、こういう、以前だったら「死んで」しまっているものが、状態としては「生きている」という現象が現れてきたので、「脳死」ということを判定する必要が出てまいったもんですが、臓器移植法施行後、初めてのことでありましたので、いろいろ難しいことが出てきた。

外国では、本人さえ元気な間にドナーカードを書いておって、それを所持しておれば、それでいい(移植ができる)。という考え方が一般的ですが−−そうでないと、交通事故であったり、旅先で亡くなったりした場合に、いちいち、家族に聞いておったのでは間に合いませんからね。また、そういう運用上のことだけでなく、ものの考え方として、本人の「自分の責任でする」ことなのだから、家族に意見を必ずしも求めない。日本の場合は、本人(故人)の意思だけではなく、家族の同意を得るということが必要です。もうひとつは、「自分の体の一部を使うて下さい」ということが、なかなか奇特な方でなければできない。日本国内では、臓器提供の登録者数が決定的に不足しているということですから、実際に、心臓なら心臓を貰もらわないと命がどうにもおさまらないという方が、オーストラリアやアメリカなどに行くわけですね。そちらに行って、そちらの人の臓器をもらう。日本ではまだ、脳死で臓器を提供する人が少ないということで......。しかし、それは非常に評判が悪い。お金でよその国の人の臓器を貰いに行くというのですから......。赤ちゃんでもいらっしゃいますしね。「なぜ、自 分の国の人から貰わないのか?」という......。

一方、妊娠している子供を人工中絶をするということは外国では厳しい。日本は割りと緩やか。戦後ですがね。戦前は「嬰児殺し」というて非常に犯罪であったのですが、戦後、いろいろな事情があって、割りと緩やかになりました。アメリカでも、クリントン政権になってからは緩くなりましたが、レーガンさんの時代までは非常にやかましかった。それで、アメリカだけでなくヨーロッパの方も、日本はそういう点が甘いっていうことですから、わざわざ飛行機に乗って日本へ来て、保健の効かない中絶手術の費用を出して、術後の保養の期間の滞在費用も出して、飛行機で帰る。それでも、アメリカで中絶するよりも安く、しかも割りと難なくできる。一時そういう時があった。カトリックの国などはとってもやかましいことでございますが、日本では妊娠をしている子供を堕ろすということが甘いわけで......。その代わり、死体を差し上げるということに関しては、日本はなかなか難しい国で、これは考え方が違うというか、宗教観が根本的に異なるからです。

日本では、御み霊たまというのは、死んだ後も、いや死後のほうがより一層、働く訳で、「生きても死にても天と地とはわが住家と思えよ。天に任せよ、地にすがれよ」という教祖様のお言葉もありますが、生きているあいだも御霊の働きがある。それは一人の人間の生き方に現われる。生いき御霊。亡くなったら、体はなくなって−−欧米は土葬が多うございますが、日本では「荼だ毘びに付す(火葬する)」というのですが−−御霊は残っておると考える。その御霊というのは、生きていらっしゃる間中の全部の生きざまが反映する。そして、死体は向こうのように土葬で埋めるのではなく火葬にする(無くなる)んだけども、これを誰かに全部差し上げるということが、考え方としてできにくい。

一方、中絶については、あちらの方は、「お腹の中にいる子供にも人権というのがある」という考え方ですね。日本は、そういう御霊の生きざまということ以前の状態でございましょ。日本の法律には、「人権は出生とともに始まる」と、この世にオギャーと「生まれた時から人権がある」んだと書かれてあるということは、「生まれる前には人権がない」んだというのと同じでございましょ。法律にそう書いてある。ところが、あちらの方は「妊娠している子供にも人権がある」という考え方ですから、日本と欧米では考え方が違いますね。

だから、そのような中を押して、「私が脳死になったら、心臓、肝臓、腎臓、肺、そういうものを差し上げましょう」と表明する。現在、日本にはそれ(心臓)を一日も早く欲しいという方が、五十数人いらっしゃるそうです。その中には、とても辛抱しきれず、外国まで行って臓器移植手術をされる方がいらっしゃる。莫大な費用がかかりますし、何ヶ月も向こうで暮らさないといけませんからね、本人だけでなく誰か付いておかなければいけません。しかも、評判も悪い。「なんで、日本人の臓器を使わんのや」と......。まあ、そんなご時世でございます。

どうして脳死判定ということが、こんなに厳密に、そして公明正大にせよとやかましいかと言いますと、今から三十一年前に、札幌医科大学の和田という教授が、交通事故で亡くなった若い人の心臓を摘とり出して、どなたかに移植した。もちろん、当時は拒絶反応を抑制するいい薬がありませんでしたから、貰もらった人もうまくいかずに、何十日間かで亡くなるんですけれども。「活きた」心臓は脳死状態で摘り出さないといけない。そのドナーの脳死の判定を、移植をする和田教授自身がしているんですね。その心臓が欲しい。手術がしたいと思うている人が、自分一人でドナーの脳死判定をして−−側におったのは自分の部下ばっかりですから、反対もできない訳ですが−−後から部下の人の言葉を聞いても、確かにドナーが脳死状態であったかどうかという判定が、厳密さも足らず、公明正大さも足らないということが問題になって、後で、殺人罪で告発されたという出来事があるので、余計に厳密にということを求める。

今回のケースでも、主治医がいっぺん「脳死だ」と診断した後で、別の判定医が調べ直したら、「脳死じゃない」と......。微妙なことでして、その上、報道陣の人たちが、「まだか。まだか」と騒ぐもので、非常に判定が難しいでしょね。生命維持装置とかがなかった時代は−−私らが若い時分は−−「人間の死」は結構はっきりしていた。なぜかといいますと、まあ普通は、息をせんようになると、脈拍を打たんようになると、目を開けてみると瞳孔が開いておる。体温が下がる。その中で素人がみても、「ああ冷とうなってはる」と、こうなりますわね。だから、いよいよは医学のなんにも判らん者でも、生きてるか死んでるかは一目みたら判るんですが、厳密に何時何分に死亡したかとなると、そんなに簡単ではないんですね。同じ時間に全ての機能がパタンと止まるんではなくてですね、息はせんけれども、まだ口が動いている。心臓が止まっておるか脈拍をとっただけでは判らん。脈拍が止まってからでも、心臓は緩くでも動いてますからね。難しい......。

この大正区には沢山の運河がございまして、お教会を出たところにも、今ではマンションが建ってますが、昔、あそこには運河があって、木材が浮かんでおりました。それを子供さんが筏いかだにして遊んでおって、木材がくるっと回って、どぼーんとはまった。必死に泳いで浮かんできたんですが、筏の下に浮いてきたもんだから、息ができずに亡くなった子供さんがいらっしゃった。しばらくすると警察が来まして「ちょっと見さしてくれ」と......。警官が目を開けてみると、白目。ひっくりかえして、お尻を見て、「もう肛門も開いておるじゃないか。死んでしもてるやないか」と、警察の人は言いますが、だけど、救命のご祈念に行った教会の先生は、「ああそうでっか」と言って辞めることはできませんから、ともかく、一生懸命助けないかんと、ご祈念を上げていると、親が「先生もう充分していただきました。私も納得しております」と、親が「辞めてくれ」と言ったので辞めた。ということがございました。

それは、親の願いからみれば、また救命のご祈念に行った人からみれば、死んでるとみなしておらん。ところが、警察は医者じゃないけれども、いつもそういうことをしている人だから、目をちょっとみて、お尻をみて、「ああこれはもう死んでますがな」と言ったわけで、死の判定というのは、それほど、特にいろんなことが絡んでくると、単純ではありません。それで、今度もですね、人工呼吸装置を使ってたけれども脳死患者の心臓は動いているわけで、呼吸もしているわけで、体も温かい。その中で、「この人はもう死んでいます」とは、なかなか言い難い。まあ昔でしたらね、お葬式をしている最中に(死んだと思っていた人が)ふうっと起き上がってきたということは、ないわけではないですが......。ですから、死の瞬間を決めるっていうことは、難しいところがあります。この度の場合は、主治医が「脳死だ」といっぺん調べて、もう一度別の判定医が調べ直したら、脳波測定装置の線がフラット(平坦)でなくて時々動いている。その間にドナーの家族の人の気持ちは揺れに揺れるでしょうね。一度、締めたものが、また望みができる訳ですから......。

で、なによりもプライバシーの問題が今度挙げられた。何歳か、男か女か、どういう病気で死亡したのか、全部報道された。「臓器を全部さしあげましょう」というのは大変な決心ですよ。できれば、家族の人も誰にも知られずにいたいであろうに、全部新聞に出ている。最初は四十六歳っていってましたよね。今では「四十代の女性」と変わってますが、いずれお葬式をなさるとき、参列者は「あの人が提供者や」と皆知っている。遺族の人の気持ちを......察するに余りあります。

今朝の新聞にも出ておりましたね。「病院は数値を明らかにせよ」と。しかし、明らかにする必要はない。今は何でも情報公開といいますが、何歳という必要もない。それをまあ、テレビを視てたら、マスコミ関係者が大勢集まって、それを家族の人の気持ちからみれば、こんなに騒がれたら嫌でしょうし、そのたんびに「やはり提供されますか?」と、聞かれるんですね。医者もですね、「こんなに大騒ぎにしたら、次の提供者の家族は嫌だと言うに違いない」と、言ってました。プライバシーの問題までいろいろ出てきてですね、ほんとうに大変。臓器移植そのものが大変な上にですね、そういう(プライバシー)問題までですね......。

まあ、初めてのことですから、これが二例目、三例目となると、だんだん大騒ぎはなくなるでしょうけれども......。ご本人(ドナー)は意識もなくなっていらっしゃいますが、家族の人たちからみれば、「臓器を提供をする」というだけで、こんなに根掘り葉掘り調べられてしまうのかと......。非常にお辛いことでしょうね。だから、問題がたくさんある。

けれども、あくまでも脳死判定は厳密に検査をしなければいけませんし、公明正大に、縦から見ても横から見ても間違いないということになりますね。人の命ですからね。しかし、家族の者からしたらたまらんでしょう。同時にですね、「家族の同意」というのがどこまでいるのか、そういうことはちゃんと押さえてきて、そして一番大事なことは、人間の命は尊い。その人間の尊い命の中からですね、「人様のために」ということは、さらに尊いことでございましてね......。

いろんなことを申し上げましたが、この報道ひとつを観さしていただきましても、今日今日元気で、こういうふうに生かしていただいていることを、これはもう、何から何まで守っていただいていることにちがいありませんね。守られているということの喜びをもっともっと大切に生きていかないかんなと思いました。こういうことのひとつひとつを乗り越え乗り越え、問題はたくさんある。それが今回ははからずも表に出ただけのことですが、このようなことは、どれほどあるか判りませんね。それにもかかわらず、神様は大きく広く深く包みこんでいただいていることを、もっと喜ばしていただかなと......。

こんなことを思わしていただいたようなことでございまして、どうぞ、喜び喜び祈り祈り、喜びも通り一遍の喜びではなくて、そこまで深く、そこまでお働きして下さっているのかと、それに比べて、われわれはどうして、こういういろいろなことで大騒ぎをしているのかと思いますと、申し訳なくもあり、有り難いことでもあり、そういう守られる道というのでしょうか、生かされる道をですね、ただ喜ぶのだけではなく、大切にしていかなければいけませんね。一日一日を大切に過ごさせていただく。それが、せめてものお礼とでもいいましょうか、それがご信心じゃなかろうかと、そんなことを思わしていただいて、どうぞ、いよいよ守られる道ひと筋でしっかりおかげを蒙こうむっていきたいと思います。ありがとうございました。