「精一杯して人は伸びる」 99年5月4日

副教会長 三宅龍雄

おはようございます。只今お聞きになりましたように、親先生は皆さん方の真まことのご祈念を頂かれて、本当に「どうにもならん」というところをおかげをいただかれて、まだこれからご療養がいることですけれども、本当に、ようもおかげを頂かれたことだと......。一時は、どうなることかと思いました。お齢としも召していらっしゃいますから、心配をしたんですけれども、なんとか「最悪のところは乗り越えさせていただいた」と、そういうふうに聞かしていただいて、有り難いことだと思わしていただきました。この間に、皆さんの精一杯のお祈りを結集していただきまして、おかげいただき、ありがたいことでございます。

精一杯というのは、あれだけのこと(註=泉尾教会や全国の出社の広前で、一週間にわたって毎日十二時間の「平癒祈願の特別信行」をしたこと)をさしてもらうということでございますが、そりゃ中には、「無理でっせ。途中で息切れしますよ」と、そういうことを思ったり、言ったりなさる方もいらしたそうですけれども、いや、「親先生あっての私。親先生あっての泉尾教会」だというご信者の皆さん方の止やむに止まれん真心が、ああいう特別のご祈念をここまで続けさしていただいた。

それではもう、精一杯のご祈念をされた方以外の人は、何もなさらなかったかと言いますと、その人もどの人も、親先生からご恩を頂き、あるいは、ご神縁を頂いているものは、それぞれ皆お祈りくださったに違いない。けれども、そこにそれだけの違いがありますね。とっても......。

例えば、滝のように流れている激流の中でも、ど真ん中におる人と、それから、ほとんど岸辺におる人とでは、同じ「流れの中」といっても違いますからね。岸辺のほうも一応は流れておるんですよ。だけど、激流中の激流とでは、やはり違いますね。「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢あはむとぞ思ふ」流れの真ん中にある岩でむりやり裂かれてもいつの日か必ず一緒になるんだという歌がありますが、その一方で、それはもう岸辺のほうは、流れてるは一応流れているけれども、お付き合いで流れているだけですね。逆に、まだ渦を巻いて、流れの反対を向いているかもしれません。

それでも、川の中にいれば、速度の違いはあっても、全体としては流れていますが、岸辺でその流れを見ておるだけの人は、足を濡ぬらすこともなければ、ただもう「見てるだけ」の傍観者です。同じ激しい流れの中でも、その人の立っておる、置かれておる場所でまったく違う。その中で、もう激流のど真ん中におるaaそれを精一杯というのでございましょうね。それだけに、このたびの特別信行に打ち込まれた方は、自ら祈って感銘を受け、自ら祈りの実体感というものを味わったことでしょうね。「お付き合いで私もちょっとは参加しよう」という人と、もう「死にもの狂い」という人とでは、おかげが違います。その実際に取組まれた方は、「自分にはこれだけのことしかできなかったか」ということも思われたことでしょうし、同時に、「ささやかなものだけども精一杯やらせていただいた」という充実感というのでしょうかね、そういうことも頂かれたことだと私は思います。

このようなことは、実際に取り組ましていただいた人だけが頂くおかげであります。実は、泉尾教会そのものが御用人が少ない上に、次から次からとことが起こって来てといいますか、言い方は適切かどうか知りませんけれども、やり繰り算段、かろうじて凌しのいできたという中で、こういう特別ご祈念ということが加わって来たんですからね。もう筒一杯でしてね。「どないしてやっていこうか?」だけども、ご信者さん方が熱心に取組んでいらっしゃるのに、教会の者が「(信者さんに)お任せ」というわけにはいかん。そうでなくっても、息切れしそうな中をやらせていただいた。

もちろん、教会の者にとっては、親先生なしには成り立たないんですからね。やらしていただいて当然ですけれども......。それでも、「絶対このことをおかげいただこう」と思っておりましても、体の具合が悪くて休まないかんというようなことまで起ってくる。あるいは、そういうどうにもならんことだけでなく、算段といいますか「こっちの方がg、あっちの方が......」というような、言葉でどういうふうに言ったらいいのか判りませんが、そんな余計なことも湧いてくる。もう「精一杯」、「筒一杯」で、そのようなもの(邪念)が湧いてくるはずがないところでも、そういうものさえ出てくるんですからね、人間というのは......。

親先生のご長寿祈願というのは、何カ月も続いていることですけれどもね、今日からは時間的にもこれまでどおり「八時まで」というのは、こういう特別な「今日か、明日か」というところを乗り越えられたにしても、依然としてまだご入院中でいらっしゃいますし、ここで(五月四日の段階で)従前のところに戻ってさしていただけるのも......。

だけど、この日がこんなに早く来るとは思いませんでした。ご信者の皆さんも「特願いつまで続くんだろうか?」と......。そういう大変な中で取り組んで下さった方は、それはもう、みんなかなぐり捨ててですね、とにかくやらしていただくしかないとg。そんな算段というようなことは念頭にないということでなさった方には、それだけ「(自分も)やらしていただけるんやな」ということを自ら......。そういうことを精一杯さしてもらったということを大事に持ちつづけて欲しいと思います。止むに止まれん時には、忙しい中でこれだけのことをさしていただけたんやな......。

それはもう、自分でこのあれこれ算段ということを超えたですね、「かくすればかくなるものと知りながら止むに止まれん大和魂」という歌がございますが、「どうなっていくか?」という結果など思っておらん。止むに止まれんというようなものを自分も持っておったんやな、ということを発見できたことが大きな宝ですね。実際にやってみないと、それだけの実感というものは頂けませんからね。おかげを頂いた方は、それをどうぞ大事に持っていてください。「まだ泉尾教会には、まだそれだけの信心の底力があった」ということが、私は有り難かったと思います。

その日暮らしのようなことをしておる泉尾教会にですね、「親先生にことがあったら、私は......」というご信者、親先生を慕う者、親先生に頂いたご恩を忘れないという方がまだまだたくさんいらっしゃったことをありがたく思います。青息吐息の泉尾教会で、これだけのことが湧き出てくるというのは、親先生の七十二年間に伏せ込んでこられた祈りがまだまだ尽きないということです。今回、その伏せ込みが湧き出てきたような感じで、私はそれを拝ましていただいているだけでも、「あぁ親先生は命懸けで教会におってくださったんだな。ご指導して下さったんだなぁ」と思わずにおれませんですね。

この精一杯というのは大事なこと。精一杯のところから......、それはただ口で言うたり、頭で考えたりするのではなく、実際にさしてもらった者だけが頂くことができることなんですけれども......。精一杯なさった方は、それを自分の財産になさって下さい。

実は、伸びるとか進むというのは、精一杯を抜きにしてはできないのです。昔、ある教会の先生が巡教ご教話に来て下さったことがあるのですが、その先生は、泉尾教会にも再三来てくださって、私がまだ子供の頃のことですから、お説教台の後ろから聞かしてもらっていて、感心したことがあります。その先生は、今日のお話の中身(講題)を先にちゃんとおっしゃる。それからお話をされる。教祖様の教えを中身としてお話なさる。それがもう、始めから終わりまで爪先立って......。その当時は一時間ぐらいの教話でしたが、一時間のお話中、始めから終わりまで爪先立っておられました。子供心に、「この先生ようこんな長い時間爪先立っておられるな」と思ったものです。で、非常に印象が強うございまして、お道(金光教)の教師にならしていただいてから、何かの際に、その先生とお話する機会があり、「私は子供心にこうでした」と話をしたら、その先生は「どこの教会に行ってもそうでした」とおっしゃった。

バレエという踊りも爪先立って踊りますが、ときどきそうでない時もありますよね。その先生は、始めから終わりまでずっと一時間であろうとそれ以上であろうと爪先だってお話をされたのです。御教えの中身を少しでも大きく見てもらおうというお気持ちがあるんでしょうか、終始、背伸びされてのお話でした。

これはひとつの目に見えた形でしょうが、「あの人だいぶ背伸びしているな」という表現がありますが、背伸びは実際以上に大きく見せるということです。けれども、伸びる時というのは、人間は背伸びしている時に伸びるんですからね。背伸びをせずに、「私の実際はこれだけなんです。これが一番確かなんです。安心なんです」と言っていると伸びん。外から見てて「あぁ危ないな」と言われるような時に、人間は伸びるものです。

金光教そのものがそういう時期をもっておったんです。金光教では「ご比ひ礼れい」という言葉をよく用いますが、ご比礼というのは、教祖様がおっしゃるには、「ご比礼とは魚の鰭ひれと同じようなもの」ということです。お魚でも、「目の下何寸」といいながら、大きさを測る時は、頭の端から尾っぽの端までを何尺何寸と言うでしょう。それは、尾っぽみたいなもの食べようがない。だけども、魚の大きさを言う時には、背鰭、胸鰭、尻尾等を全部を含めた大きさですね。また、そこ(外見)だけ大きいというのではなく、外見は必ず実態(中身=食べられる部分)の上に乗っておるんです。鰭も尻尾も全部含めた丸ごと一匹を「魚」というのであって、ご比礼というのは中身だけではなくて、そこに加わったもの神様のお働きの部分まで含めて、その人の評価になるというものが金光教の中にあるんですね。

ご比礼を拝まして頂く。ご比礼といのは、実態外のことだけれども、それも含めてそのものの価値ということになります。他の宗教には「ご比礼」という言葉がありませんから、金光教だけで使われる言葉だけれども、教祖様が説かれた「神の比礼」というやつは、神様がそこまで勢いを見せてくださるのであれば、その精一杯、筒一杯背伸びした分だけ実力を伸ばしていただくんですからね。

ですから、私はそういう点では、泉尾教会も、あれだけの特願をさせていただいたといいますか、続けさせていただいたのですから......。その心の中はですね、「親先生がお元気でお帰りになりますようにぜひともおかげを頂いていただきたい」という、止むに止まれん心情といいますか、情のことから言ってるんですけれども......。あれだけのもの(情熱)がまだ泉尾教会にはあったのだな。もちろん、そのことがなされるためには、そこに親先生が前々から祈りを込めていらっしゃるものがあったんだなと、それは有り難いことだと思いました。

なんども申し上げますけれども、それは、実際、頑張られた方だけしか味わうことができないことですよ。それを大切にしてほしいと思いますね。中には、長年の間に信心の芯が呆けてしまい、形だけの参拝になっていた人がいるかもしれませんが、それでも、何ごとが起こるか判らない中で、「あれだけのことをさしていただけるんだ。私にはまだ(信心の)脈が残っておるんだ」という再確認と、そして、「精一杯のことをさしていただいた。有り難いことだ」という、そういう実感というのでしょうかね、充実......。それは、したものだけが頂けるおかげなんですね。実際に、取り組んだ者だけに神様が授けてくださる。「これを大事にせい」と、そんなことをおっしゃっていただくんですね。

だから、「一応、格好だけ」とか、「お付き合いだけ」とかいうそういう人には授からん。もちろん、そのお繰り合わせいただき、ご都合いただいてのことですよ。わが努力、わが思いだけではない。けれども、その一番元になるのは止むに止まれん真の心というものを粗末にしてはいけません。真心は、自分のことだから、自分の持ちものだから、「いつでもいただけるんだ」と、放ったらかしたら勿体ないです。「精一杯やらしていただいた。これをどうぞ頂いてください。私にもまだこういうものがちゃんと備わっている。生きておる。残っておる」ということは尊いことだと思います。

自分がしたことを自分で尊いというのは、おこがましいと思うかもしれませんけれども、そうじゃないんです。大事に大事にさしていただいている。これを「さらに新しい歩みの土台にさしていただきますように」と、さようにお願いして下されば、このうえないことでございましてね。形として「特願」は、元々ずうっと続けさせていただいていた。今後も、親先生ご長寿の特願として続けさしていただくんですけれども、先ほども、係の人がおっしゃっておられましたように、親先生は、もうひとつの大きなところを乗り越えなさったんだから、私らは、また、実際はこのことだけしてるんじゃないんですから、それぞれのお立場で、それぞれの責任を持って、それぞれのことをなしていただかなければ、この非常事態を、ずうっと何事が起こるかわからん時に、いざ、ことのあった時には、神様が拝ましてくださる。拝ましてくださったということはですね、ただ教会としてそれだけのことができたということじゃなくて、私にもそれだけのものを授けていただいておる、身につけさしていただいておることがありがたいことだ。と、そう、大事に大事にしていただいて、その勢い、そのまだ残っている底 力を実生活、実際の中で生かしていただければ、これはこんなにありがたいことはない。

どうぞ、お祈りくださって本当にありがとうございました。いよいよ、おかげを蒙こうむって下さいますように、切にお祈り申し上げることで、皆さん方も私もみんな、共々におかげを蒙ってまいりましょう。ありがとうございました。