★★ 教会長三宅歳雄 教話集 ★★


先代恩師親先生教話選集『泉わき出づる』より

『今日を新しく ―「あっての」の生き方で―』

日にちに新しい生き方を生み出してゆく……。そこに「佳(よ)い今日の生き方」がさせていただける。今日こんにちに新しい自分を生み出して行く……。そこに人生の真の意義があると思う。
お互い、日にちに同じようなことを繰り返しているようであっても、そこに、何か新しいものを生み出してゆく……。新しいものを創り出してゆく……。祈り出してゆくのでなければならぬ。
夫婦のあり方……、親子のあり方……、家庭の営み……家業の運び方……、生活の営み……、あらゆる営み、運び方、あり方が……皆、新しいものを生み出してゆくものでなければならぬ。時々刻々、あらゆる動きの中に、新しいものを生み出す。そこに、今日こんにちの生きる――生かされている意義があると思う。

どんな苦難に出遭(であ)うとも、そこに新しく自分へのお育てが頂け、一新した自分が作られてゆく努力を続けるべきである。反対に、嬉しいこと、楽しいこと、めでたいことにしても、ただ、嬉しがり、楽しがり、めでたがっているだけならば、次の良さを生み出すことができぬと思う。
例えば、年齢(とし)をとって七十歳の誕生日を迎え、祝宴を盛大にして、いろいろと祝いごとを聞く。それだけであれば、そのことが本当にめでたいとは言えぬと思う。一段の飛躍への祝宴であってこそ、初めてめでたいことになると思う。
そのことを機会に、新しい自分を生み出し、育てられ、よりよい自分が作られ、皆にも良くなってもらえてこそ、祝宴に意義があると思うが、そのことがなされずに、ただの祝宴の盛大で終わっていることが多い。淋しいことである。

どうして自分を創り出すか。どうして自分が新しく生まれ変わるのか。いったい何を今日に生み出させてもらえるのか。それをどうすればよいのか。そこを祈りつつ、今日に取り組むことが大切である。それが信心生活である。
朝、目を醒ます……。お教会に参拝をする……。神様にご拝し、ご教話を聞いて帰る……。それが、形のごとくされるだけであれば、せっかくの参拝が、有難いもの――力を頂く参拝にならぬと思う。
参拝をされる皆さんも、それを迎え、お取次ぎさせていただく私も、共に祈り合いつつ、いきいきしたもの、有難いものを拝み出し、生み出さねばならぬのであるから、容易でないとも言える。その容易ならぬことが判り、そのことを祈ってのご参拝になっているでしょうか? そのことが日にちになされているでしょうか?

ただ、型のごとく早朝参拝することさえ容易でない……。その上に、「さあ、今日もまた新しくやらせていただこう!」という祈り……。一心になれ! 意気込み、勇み、喜びを頂くのですから、いよいよ容易でないのである。
また、食事を頂くのにしても、「有難うございます。頂きます」だけでは有難さが活きてこぬ。「頂きます」が生活の中身にならぬ。
「この糧(かて)を頂き、いきいきとやらせていただく!」という元気、勇みを全身に頂いてこそ、「有難うございます」が活きてくる。生かされて生きる喜びを頂いてこそ、「頂きます」が活きる。それで、本当に「有難うございました。ご馳走(ちそう)さま」ということになり、「有難うございます。頂きます」が、活きてくるのである。

こんな簡単なことでも、そうた易(やす)くゆくものでない。もし、それがなせても、自分一人だけの有難さ、勇みだけではどうにもならぬのである。自分一人が勇み喜んでも、周囲の者が喜び勇んでくれるものではない。といって、周囲を放ったらかして――周囲がどうでもよいというて――蹴散らしてゆけるものでもない。
難しい……。そこに、実に難しいものがある。しかも、それが皆、朝起きて、「さあ、やろう!」どころか、ボーッと起きて来て、何もせずに過ごしているのだから、そこが大変なことである。どれだけやいやい言うても、皆が動いてくれねばどうにもならぬ実態であるから大変なことである。

信心とは、今日こんにち新しいものを生み出してゆくことであり、皆にも新しい勇み、喜びを生み出していただくことである。だから、信心とは、新人とも書く。シンジン……。今日、新人になる。昨日の私と今日の私とは違う。その営み――あり方――が信心であると思う。新しく生まれ変わろうとする自分に、いろいろの問題が待ち構えている。それは複雑にして、厳しいものである……。
たとえ、今ちょっと良いからといって、人の世は一寸先が闇……。その後がどうなるやら判らぬという怪しい基盤の上に立っているお互い……。
しかし、実際には、そこに安座し、もはや大丈夫であるという場に立っている。いつ何時、空中分解するやら判らぬお互い……。そこのところを本当に分からねばならぬ。
極端に言えば、一刻一刻を新しくいきいきさせてもらい、一刻一刻よいものを拝み出し、生み出してゆく……。それより他にない! 一刻も放っておけぬ場である。容易でない難しいことではあるが、いよいよそのことに取り組み、なしきってゆくより他にない。
今日、われ新しく生かされ生きるということ。今日、新しくお教えを頂き、われに生かし、新しい祈りに生きるということ。今日、新しい喜びに生きるということ。今日、新しい勇みを頂き、新しい心で仕事に取り組む……。
今日、新しい苦難にぶつかる。「難しい」、「困った」、「なんぼやってもどうにもならぬ……、いかぬ……」というのでなしに、「今日こそは!」と、それに取り組むことが信心の営みである。

何年もやり続けて来た仕事であっても、「慣れた仕事である」というのでなしに、「今日、初めて頂いた仕事」として、確(しっか)と取り組む! 新しいノミを打ち込むのでなければならぬ。それが信心だと思う。そこに、日勝(まさ)り月勝(まさ)り年勝(まさ)り代勝(まさ)りの繁栄への道が約束されると思う。
その道歩みなしに、神様のお恵みを十分に頂き生かすことはできぬと思う。難しいところである。そこは、とても難しいと言える。
人間、ちょっと苦労すると、一生懸命やると、神様より上になってしまう。「わしがやった。こうした」と思い上がってしまう。危ないところである。百人が百人とも陥ってしまうところである。
あなたあっての私。その私は、大変な苦労のある容易ならぬ有難い私であることを判っていただきたい。
「うちは家内がようやってくれるので有難い……」、「うちの主人は良くなってくだされて有難い……」というあってのの場の有難さの中で、いよいよ勇み、勇み合うこと、頼み、頼み合うことが、この道の歩み方である。
主人が一生懸命にやって、素晴らしい人であるからこそ、「家内あっての私です……」と言える主人になれるのである。家内もそうである……。「うちが一生懸命やっていられるのは、主人が立派だからです。主人一人が苦労してくだされて勿体(もったい)ない……」と、主人を拝める家内であってこそ、主人あっての私と言えるのである。
そのことが、日にちに新しく展開されてゆかねばならぬ。その作用が、昨日より今日、今日より明日へと続けられてゆかねばならぬ。
社長と社員の間でもそうである。社長あっての社員、社員あっての社長。それが両方共に、力一杯やっておいて、「いや、私ではございません……。貴方あっての私でございます……」と、こう言えるのである。
その気合いが、また、新しく今日を生み出す。いよいよ新しい、力強い馬力がかかってくる。そうなれば会社もぐんぐんと伸びてくると思う。このような社会になってこそ、労使の争いのなくなるよい社会、対立のない共栄の社会になれると思う。

だが、本当は自分一人だけでも、今日新しく生まれ変わり、良いものを拝み出していくということは難しい……。それを相手にも、そうなっていただいて、というのですから、容易でない難しさがある。そのことが容易ならぬ難しさであればあるほど、本当にご参拝でき、祈れ、御教(みおし)えを聴かせていただけることになるのである。
だから、「明日から」と言えぬ。「今日から、たった今から」いよいよ祈らねばならぬ。祈らずにはいられぬ。祈って自分も改まり、人にもそうなってもらう運びをせねばならぬ。そのお恵みを頂かねばならぬのである。そのおかげを頂く自分にならせてもらわねばならぬのである。
どうぞ皆さん、そこのところを十分に解ってくだされて「あっての」の道歩み……、あいよかけよで立ち行く道の道たるところを実践してくださるように……。そのために、今日を新しい日として頂いてくださいませ。新しい家庭、新しい自分として、いきいきとおかげを蒙ってくださいませ。
(ある日の教話・昭和三十七年二月)        

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