★★ 教会長三宅歳雄 教話集 ★★


先代恩師親先生教話選集『泉わき出づる』より

『「人が助かりさえすればよい」のご神意を頂けよ』

 どなたさまもおめでとうございます。

 ただ今、天地金乃神様のご大祭を仕えさせていただいたのでありますが、これは、皆さんたちのお願いをシッカリと受け止めさせていただいたということであります。
世の中で一番尊いものは何であるか? それは人間です。普通はよく「一番尊いお方は神(仏)様なのだ。宗教も、そこに成り立っている」というように言われております。むろん、そうには違いないのですけれども、そのことをずっと掘り下げてゆくと、「人間が一番尊い」ということが出てくるのであります。

 人間が助かる、幸せになるという営みなしに、神様もあり得んと思うのです。神様とは、それほどに、人間のために祈られていると申しますか、人間を助けようとしていなさるというのか、そういう神様であらせられると思うのです。こういう関係が神様と人間の間にあると思います。

神様は尊い。実に尊い。神様なしでは天地の万物があり得ぬ。人間もあり得んと申し上げてもよい。けれども、その神様を、本当に尊いお方、有難いお方と拝し頂くのは、他でもないわれわれ人間であります。人間が、神様を「実に尊いお方。神様なしには何者もあり得ぬ。人間もあり得ぬ」と思い、頂き、奉(たてまつ)るのであります。

 その尊い神様が、お互い人間の中におられる。そして「幸せであれ」と祈って下されている。こういう意味で、人間が一番尊いと申したのであります。「神様あっての人間、人間あっての神様」ということも、こういうところから理解させてもらわねばなりますまい。もっと率直に申しますと、「お互い人間が神様である。皆さんが神様である」と申しても差し支えないのであります。

ただ今、御祭(みまつり)が終わったのでなくて、これからがいよいよ御祭本番なのです。皆さんをどう拝み、そこからどうして、良いものを生み出しておかげにするかということが、これから始まるのです。今までの御祭はあちら(神殿のほう)向きの、即ち、神様の方を向いての御祭であったのでありますが、今度はこちら向きに、即ち、皆さんたちの方を向いて、御祭を仕えさせてもらうのです。
そういう御祭を仕えさせてもらうことによって、皆さんたちに各々の問題を難儀を解きほぐし、助かってもらわねばならぬ祈りを受け止めていただかねばならないのであります。

今までの宗教では――今の宗教でもそうでありますが――道(教え)が尊いのだと言う。道も尊いのですけれども、道よりも人間の方がもっと尊いのであります。道のために人間があるのじゃない。そんな道なら、私は信じぬ。人間が幸せになるために道がある。私はそういう道を道と申し、そういう道を信じているのであります。
法律でも、同じことです。法律のために人間があるのではなく、人間の幸せのために法律が施されているのであります。それは、たとえどのように筋の通った立派なものであろうとも、真の法律とは言えぬ。法律というものは、人間のためのもの、人間の幸せを守り、創り出すためのものであって、法律のための法律であってはならぬのであります。

私どもは、よく、「教えをする」などと申すのでございますが、これは、実際には誤りです。学校で「教える」と言えば、解らぬことを解るようにすることであります。「教える」ということをこう解釈いたしますと、お互いの生活を幸せにしてゆくということは、教えられることではなくて、実行するということ、皆さんたちが既に知っておられることを実行することが幸福な生活への途(みち)であります。ですから、教会というところは、教えるところでなくて、行(おこの)うてもらう力を生み出すところです。行うことができるような作用の出てくるところが教会であります。

教えの御祭の最中に、既に、皆さんたちの心の中に実行への力が出てくるように、神様へのお取次を、また神様からのお取次を、私がどうさせていただくかということが、今日の御祭の眼目であります。もっと判りやすく申せば、今日の御祭とは、人が助かりさえすれば良い大祭のことであります。

ただ、皆さんたちに申したいことは、「今日は珍しいことを聴かしてもらった」と言われるようなことではありませぬ。私の話の芯は皆さん方ひとりひとりの手を握らしてもらって、「いきいきとした力を頂いて下さい」と言うことに尽きるのであります。
先ほども、祝詞(のりと)で申し上げましたが、「いかなることに出遭うとも――信心しているからといっても何も出遭わないということはないのですよ――いきいきと生き抜いてゆける力……、どのような出来事をも幸せの階段として受け取り、それを克服してゆく力を皆さんたちに、この御祭で頂いてもらう」ということが大切なことであります。しかし、これは誠に容易なことではありません。

昨晩、夢を見ましてねぇ……。御祭(春の大祭)が終わって、皆、「やれやれ」と言っているのです。ところが、私だけが肩に食い込むような重い荷物を担って、杖をついて山を登っている。そして、その時、初めて杖というものの有難さに気付いて……、「有難うございます」と杖に御礼を申して目を醒ましました。
これが夢のひとこまでありますが、ことが済んでも、それでお仕舞いではないのです。いよいよ容易ならぬ坂道を登るというか……。いよいよ容易でない歩みを祈り続け、行い続けてゆく……。いよいよ助けられていかねばならないのです。夢に見たドッシと肩に食い込む荷物の重さ……。いよいよ、これからが大変であるとの自覚……。その時の杖の有難さ――祈り守られる有難さ……。済んだのではない。これからが、いよいよ一新していくべきであることを判らせていただいたのである。

しかも、困難であればあるほど、その杖が、いきいきと生きてくるのではありますまいか……。「もう駄目だ」、「それは難しい」、「そんなことはできん」とよく言われます。私もそんなことはないとは申しませぬ。しかし、だからこそ、やらせてもらう、やりがいがあるのではありますまいか……。

 追い風に帆かけて、思いのままに舟を進めている時には、鼻歌を歌っていても良いわけですが、突然に竜巻が起こって、帆も舵も飛んでしまった時には、そういうわけにもまいりませぬ。しかし、人間というものは、本当に困らなければ一人前にはなれないものであります。

この世の中で一番尊いと考えられる人間の世界にも、いろいろな問題が山積しております。病気や災難の問題、経済の問題、人間関係の問題など、数え切れないほどであります。

皆さん方は、今このように、安心して座っていらっしゃる。一心になっていらっしゃる。「おかげを頂こう、有難いことだ」と思って、ひとつになっていらっしゃる。これだけ大勢の人がひとつだと言っても良いくらいに、心が合っていらっしゃる。しかし、その皆さん方の間にも問題があるのですよ。

 「この人なんや、押して来やはる。けったいな人」、「あの人、居眠ってはる。もっとしっかりと聴けば良いのに……」、「あの前で座ってはる大きい人、もっと小さくなってくれたらよいのに……」などいくらでも問題があります。ですから、多くの人々によって営まれている生活の中には、無数の問題があるわけであります。

 「有難い。今日を吉祥(きっしょ)に生まれ変わった人間にならせてもらった」というような場合でも、人間は問題の多いこの世の中から離れられんのです。
欲と金の世の中、色と金の世の中におるということが、生きているということです。世渡りしているということです。信心すれば、そういう世の中から離れることができるというのではない。信心していても、そういう世の中におるのです。そういう世の中を離れて、別に生活というものがあるのではない。

例えば、ここにいるわれわれだけで世の中とは別に生活しようとしても、そんなことができるものではない。とすれば、そういう世の中を認めねばいかん。そういう世の中で生きぬく肚(はら)を決めねばならぬと思う。そういう世の中も神様の造られたものであり、世の中の信心する人も信心せぬ人も全て神様の氏子であります。

今日の御祭は、祝詞(のりと)にありましたように、「差し支えのために、参拝しておりませぬ氏子にも、『人が助かりさえすれば良い』という大祭の徳を洩れなく頂いてもらう」御祭です。もしも、頂いてもらわなかったら、この私が足りぬのです。
「参拝せんから、こんなになったのだ」などとよく言われますが、そう言う人は間違っている。信心せぬ人も、「金光さん嫌いじゃ」と言われる人も、他宗教の人でも、今日という今日は、皆おかげを蒙(こうむ)ってもらうのだ。どうすれば、この祈りを世間の真只中へ浸透させてゆくことができるのでしょうか。

皆さんたちが家に帰られて、「今日は清々(すがすが)しいおかげを頂いたのだから、嫌なことはもう聞かしてくれるな」と言うのではなしに、家族のごちゃごちゃ言うのを聞かれて、「聞こうじゃないか」、「何か難しい問題があるのなら、私にやらせてもらおう」と言えるような生き力を、この御祭によって頂いてもらいたいものであります。

  家へ帰って、いよいよ御祭が行われねばならぬのです。そして、この御祭が明日へ、明後日へと続いてゆかねばいかんのです。これが今日の大祭の本当の意味であります。

さきほども申しましたが、肩に食い込んでくる重荷を通じて、「有難うございます」と杖に御礼申し、同時に、杖も「有難う」とおっしゃって下さる。このような関係が神様と氏子の間柄です。有難い神様ですねぇ。

「有難う。あなた(杖)のお力なしにはこの山道は越えられませんでした」と言うて、涙を流せば、「ようこの杖を使って下さった。済まぬも済まぬも、杖なしには生きられんと、よう言うて下さった」と杖も涙を流してくれる。これが神様と氏子の間柄なのですよ。「神様なしでは、もう生きられん」と言えば、神様も「それでこそ、わしにもいきがいがある」とおっしゃって下さる。

神様にいきがいを感じていただけるように、たった今から、私と皆さんたちが一体となって、「助かり祭」の真(まこと)の意味を行じてゆこうではありませんか……。
「このお道は自分のためのお道じゃ。この教会は自分のための教会じゃ。この今、頂いたご大祭も自分のためのご大祭じゃ」というほどの気力、生き力を頂いての今日であってもらいたい。明日であってもらいたい。「どうなるか判らん」とよく言われますが、そうではない。助かるのです。この道の信心は、今月今日の助かりを引き続いて頂く信心であります。

皆さんたちが、それぞれに抱いている問題の解決が、皆さんの助かりであり、皆さんの生きてゆく途(みち)であります。問題の起こった場合には、「親先生」と言うて下さい。私は常に皆さんたちと一緒にいる。教会にいるのではないのです。
神様も教会に祀(まつ)られていなさるのではない。皆様たちの問題の中におられるのです。確(しっか)と、神様という杖をついて下さい。神様という杖をしっかりとつけばつくほど、「親先生!」としがみついて下されば下さるほど、不思議や、そこにおかげが頂ける。奇跡でない奇跡です。それが、日にちに展開されてゆくのであります。

そのスタートを、「さあ、今日からお前と共に」と神様がおっしゃる。「助かってくれ」という神様のお祈り、「助かってくれ」という神様のお働きの中に、私も皆さんたちと共に包まれておかげを頂いているのです。

  おかげを頂いていると申しましたが、私共が何もしないのに、おかげが頂けるという意味ではありませぬ。私共のおかげは、ちょうど、大きな石を割る場合と同じように、お互いの日々の信心の、いわば結実であります。

 「今度のおかげはこの信心で頂いたのだ」とよく言われますけれども、そうではなくて、日常の信心全体が集まっておかげになるのですよ。

  泉尾教会信徒の助かりと世界平和の実現。これが私の毎日の願い、祈りの根幹でありますが、皆さんたちも、それぞれの中に、今日の御祭の真義をしっかりと掴み、受け止めていただいて、皆さんたちひとりひとりが斎主(さいしゅ)(註=祭事の主宰者)として、お家(うち)へ堂々とお帰り下さい。「今日の私は昨日までの私とは違う。どんな問題もおかげにさせてもらう」という祈りに徹し切っていただきたい。

  たった今から、そうなっていただきたい。皆さんたちが明るい力強い歩みを踏み出すことができますように、祈りに祈って、私の話を終わらせていただきます。


                    (春の大祭での教話・昭和37年4月25日)

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