秋の霊大祭 教話 

教会長 三宅光雄     07年9月23日

只今は共々に、平成19年秋の霊様の大御祭のお蔭を頂きました。お天気に恵まれまして、先程も祈りの塔でのお祭を仕えさせていただいたのですが、今日などはもう屋外でのお祭をさせてもらうのが当たり前のように思っておられますが、本当は違うのですよ。もう大阪は10日ほど雨が降っていませんね。また週間予報を見ましても、これから1週間、ひとつも雨のマークがない、ずっと晴れですね。さらに何と9月に入って最高気温が30度を切った日がたった1日だったそうです。こんなことは今までになかったですね。

そしてどうでしょう。クーラーを入れての秋の霊大祭。私には今までに記憶がありません。その中を有り難いですね。今日もお供え。献饌(けんせん)と言いまして、お祭の中で祭員の先生が、手長(てなが)と言うのですが、その手長に番号がついている。手長一、手長二、手長三とあって、その先頭にさらに献饌長(けんせんちょう)が居るのですね。そのお供えを、教会には献饌係という御用をされる方がおられる。この献饌係という人は、それぞれのお祭の10日ほど前からいろんな準備に入るのです。その方が何日か前に私の所へ、「親先生、天気予報を見ておりますと、当日も非常に暑く、30度を超えるような予報が出ていますが…」。私は何をおっしゃるのかなと思っていたのですね。「お供えのお魚をどうさせてもらいましょうか」。なるほどなと思いました。お魚は生(なま)ものですからね。ただ「お供えを止めるという訳にはいきませんよ…」。そうして翌日、また何人かで話し合いをされたのでしょうね。「親先生こうさせていただきたいのですが…」。ご信者さんは有り難いですね。本当なら私の方が気が付いて、こうしてくださいとお願いをしなければならないのに、ご信者さんの方からこうさせてもらったら如何でしょうか…。しかも「こうしたい」のではない。「こうさせてもらって宜しいでしょうか…」。

いつもお供えは、魚屋さんが午前中に持って来られ、そして12時前には三宝の上に乗せて献饌室に準備されるのですね。「当日は魚屋さんから1時半に持って来てもらいます」。時間指定ですね。1時半に祈りの塔のお祭が始まる直前に…。そして2時までかかって鯛、鰤、鰆。あれは簡単に見えるかも分かりませんが、献饌の方は「吊(つ)る」と言うのですね。あの様にお供えをするのは、そんなに簡単ではないのですよ。それを30分間で吊らせてもらいたい…。そして「2時には御献具ができあがるようにさせてもらいますので、それで宜しいでしょうか…」。と聞いてくださった。これは一例です。雨が降ったら降ったで、例えば祈りの塔の係の方、傘係の方や、いろんな方が御用をくださるのですね。また暑ければ暑いで。しかしこんなに暑い日は私も初めてですが、御献具の方までもが、その献饌の時間まで考えてくださる。

これはほんの一例です。ほんの一例ですが、今日のお祭は神様・霊様がお仕えくださるだけでなくて、信者総掛かりで、一人ひとりの願いが今日のお祭をお祭たらしめている。私はそう思わせてもらいまして、今も献饌を見ながら、他の先生方はその事をご存知ない、ですから私だけがそのことを、「なるほどな、今吊り上がったばかりのお魚をお供えさせてもらって有り難いことだな」と、思わせてもらっていたのですね。

今も申しましたが、一番先頭の先生が献饌長。その次の先生が手長一、そして手長二、手長三。ずーっと手長八まである。この中で一番体力的にも大変なのが手長一というお役なのですね。あの手長一は大変な御用なのですね。何故かと言うと、座って受けて座って渡す。殆どの先生は、立って受けて移動して、立って渡すでしょう。それが手長一は、座って受けて90度身体を回して、そして膝行(しっこう)(座ったまま前へ進む)。そしてそのままで渡して、膝退して戻る。それを18台繰り返すのですね。これは体力的に大変。今日は仮屋浦教会の木村先生がその御用を頂いてくださった。有り難かったですね。何年か前の木村先生なら想像できない健康を今は頂いておられる。祭員の御用さえ難しいというところを通られたのに、今日こうしてあの一番大変な御用をされている。

そもそも私自身が祭式(さいしき)と言いまして、ご祭典での動作ですね。私は木村先生のお父さん、前の教会長先生・徳三郎先生にも教えていただいたのですね。その事を思い出しながら、手長一の御用をされている姿を見ながら、お父さんの霊様にお礼を申し上げたのですね。そしてそれは、それぞれに皆にあるのですよ…。

19日の晩に個人遷霊(せんれい)。また20日の晩には改式(かいしき)遷霊をさせてもらった。そして昨日22日にはお呼び出し。11時からお祭が始まり、終わったのが6時。7時間に及ぶお祭。昭和2年から今年の秋までの霊様。今秋の改式までの霊様のお名前をお呼びする。ですから今日の参拝は、皆さん方は家族揃って参拝をされている。勿論そうなのですよ。けれどもそれだけでない。皆さん方と一緒になって皆さん方を祈ってくださっている霊様も共に参拝をしてくださっている。霊様にお礼を申し上げるお祭を、共に霊様が参拝してくださっている。私はこのことがなかなか分からなかった。本当に分かってきたのは、二代親先生が亡くなって1年半ですが、ついこの間の、9月1日の「大恩師親先生八年祭」の時に、それを感じたのですね。

大恩師親先生八年祭では、私は教会長ですが同時に願い主でもありますね。ですからお装束を着けずに、紋付き羽織袴でお広前の一番前で参拝させてもらったのです。そうしますと、私が玉串をあげさせてもらう時に、ふっと私の横に二代親先生が一緒に玉串をあげてくださっている。大恩師親先生のお祭に私が玉串をあげさせてもらっているのですが、一緒になって二代親先生が玉串をあげてくださっている。霊様が霊様に…。実は私共は毎日その中にあるのです。

だから今日のお祭は、特にそのこととして…。今年は9月1日から、例年はしないのですが、私としてはどうしてもという気持ちになりまして、9月1日から祈りの塔で特別信行をさせてもらっているのですね。霊大祭前は、例年は9月15日から特別信行が始まる。ですから例年より15日も早く祈りの塔の中へ入らせてもらって…。そうしますと霊様が待ってくださっているのです。そして勿論、祈りの塔の真ん中には大恩師親先生のご神像がありますね。今日も祈りの塔のお祭の時に。どうですか、ご神像の前にお供えものがあったので一寸見にくかったかも分かりませんが、あのお供え物の位置に、私が毎朝5時前から座らせてもらっているのです。半時間です。5時35分まであのお扉が開いていますね。お扉が開いて、あの場所に座らせてもらってご祈念をさせてもらうのですよ。

毎日大恩師親先生の、「しっかり頼む」「しっかりとせよ」とのお声を頂く。そのお声そのものが、実はこれは4月の「二代親先生一年祭」でもお話をさせてもらいましたが、二代親先生が私に最後にくださったお言葉。「頼むよ」「しっかりと」というお言葉ですね。そのお言葉が、今度は大恩師親先生のお言葉として聞こえてくる。「しっかりとせよ」「頼むよ」と…。

実はこれは私だけではないのですよ。皆さん方も同じ。お一人お一人が大恩師親先生の神霊様。申すまでもなく皆さん方お一人お一人の親先祖の霊様に「頼むよ、頼むよ」と願われているのです。ただ願われているのではないのですよ。願われていると言っても頼まれているのです。祈られていると言っても頼まれているのですね。頼まれている自分が、頼まれ甲斐のある自分にならなければならないのですね。「頼まれました」。「そうですか」。そういう訳にはいかない。願われ祈られているのその元には、頼まれているということがある。その頼まれている自分ですから、これはよっぽどしっかりと親先祖のご信心を頂き、そして大恩師親先生の…。8年前からは特にそうですよ、この霊大祭の意味が違ってきた。

ですから祭典中に「大恩師親先生報徳拝詞」を唱げさせてもらうでしょう。他のお教会でそんなことはないのです。それは二代親先生のご信心。霊大祭に、二代親先生は大恩師親先生にお礼を申し上げる。同じ霊舎に神霊様がお鎮まりになっておられる。そういう意味でこの報徳拝詞を唱げさせてもらいましょうとおっしゃって。それからずーっとこのように報徳祭詞のお蔭を頂いている。ですから霊大祭の意味が変わってきたのですね。ただ親先祖の霊様だけの御祭だけでなしに、あらためて大恩師親先生にお礼を申し上げる、そのお祭であるのですね。私は本当にそういう意味で、今日のお祭が私自身、「しっかりせよ」「頼むよ」と、こう頂かせてもらう御祭。そう思わせてもらうのですね。

そして今日の朝の祈りの塔では、「我(が)を出さぬ事、我を取るように」というお言葉を頂きました。「我(が)」。分かりますか。我が出る。どうしても我が出ますね。我というのは、もうこれで良しとしてしまっている自分なのです。そして言い訳をしてしまっている自分なのです。そして諦めている自分。みな我なのです。勿論、自分さえ良ければ、私がしたのに…。それもみな我ですね。ですから折角お蔭を頂いているのに、そのお蔭をお蔭たらしめていないのですね。「我を取るように、我を出さないように」。今朝、頂いたのですよ。

それは、私自身が、そして泉尾教会全体が、どうぞ世のお役に立てる者にならせてください。他人(ひと)様に喜んでもらえる者にならせてくださいと、日々に祈らせてもらうこと。そのためには先ず我(が)を取ることです。我を取って徳を積む事です。徳を積むということは、世のお役に立つという事ですから。徳積みをさせてもらう事こそ、神様がそして霊様が喜んでくださる事だと私は思わせていただきます。

本当に日々に感謝をさせていただき、そしていよいよと今日の霊様のお祭を頂けば、1カ月後にはご大祭ですからね。これにも私は意味があると思う。霊様に先ずお礼を申し上げ、そして神様にお礼を申し上げる。だからこの9月と10月とは、そういう繋がりなのですよ。同じ大祭と言っても、その一番最初にはご本部のご大祭。そして親教会があり、それぞれの教会があり、さらに出社の教会がある。1,600あるどちらのお教会でも皆そう。どうしても日の関係で出社と逆になるところもありますが、けれども流れは皆そうですね。そしてそのご本部のご大祭の前に、各教会で先ず霊様に報告とお礼。もう流れが始まっている。その最初の御祭に、こうして御用をさせてもらえた事。このことも決して当たり前ではないのですよ。

昨日は前日祭が始まるまでの数時間、ずっとお詫びばかりしていました。それは、健康が当たり前、御用をさせてもらうが当たり前と、決して思わないように。勿論健康で御用をさせてもらわなければいけません。けれどもそのことに対してのお礼が足りないという事です。当たり前と思っている事へのお礼が足らない自分という事。それが今日の「我(が)を取れ」というお言葉なのだと、私は思わせてもらうのですね。

どうぞお一人お一人があらためて霊様にお礼を申されまして、共々にお蔭を蒙られますようにお願いを申します。有難うございました。