歴代金光様報徳祭 教話 

教会長 三宅光雄      07年12月9日


皆さんおめでとうございます。只今は共々に歴代金光様報徳祭のお蔭を頂きました。

歴代金光様の報徳祭とこう申しますが、このお祭は本当に大切なお祭ですね。私の中では去年から、それまでとは一寸意味が違うのですね。と申しますのは、実はご本部ではこのお祭は、教祖様以外の金光家のお祭と同時に布教功労者のお祭なのですね。このお道に功労のあった先生方をお祀りしてくださる。8年前には大恩師親先生もお祀りくだされた。大恩師親先生こそ布教功労者であるということは誰しもが認めることですね。そして昨年、二代親先生も布教功労者としてお祀りいただいた。泉尾教会の広前は、ご本部広前の延長ですから、今日のお祭は、大恩師親先生にも二代親先生にもお礼を申すお祭。そういう意味で私の中で今日のお祭の意味が今までとは違って来ている訳ですね。本当に有り難いですね。

そして昨年から玉串を最初に各機関代表。機関というのは信徒会・求道会・婦人会・若婦人会・青年会の各機関。今までは次いで参拝者代表の玉串だけであったのですが、昨年からは出社各会代表の玉串を上げさせていただいていますね。そういう意味でも、私にとってこの大祭の意味が変わってきたというのと同じように、皆さん方もまたこのお祭の意味が変わっていただかなくてはなりませんね。1年間のお礼を神様に申し上げるだけでなく、大恩師親先生に、二代親先生にお礼を申すお祭として、さらには泉尾教会手続きの出社関係教会の御礼のお祭。1年を締めくくるお祭。そして大祭式でのお祭といって、神様のお扉が開いていますでしょう。開扉のあるお祭を大祭式のお祭と言うのですが、それが今日のお祭…。本来は春秋のご大祭に匹敵するお祭なのですね。

そして何というお天気。本当に今年1年を振り返りますと。1月28日、あの『御布教八十年記念大祭』を仕えさせて頂いた。そして今年はさらに4月1日に『二代親先生一年祭』を仕えさせて頂いたのですね。

一昨年の9月15日に、500日前としてその日からご布教八十年が始まったのですね。その始まった一番最初のご祈念を二代親先生にお願いさせていただいた。ですから皆さん方も記念大祭で前の方に座られた方々はお聞きになられた方もおられたかも分かりませんが、ご祭詞で祭主の名前のところを、小さな声で二代親先生と私の両方の名前を呼ばせていただいた。ですからあの八十年祭は二代親先生が仕えくださり、私に仕えさせてくださった御祭。一昨年の9月15日から八十年のお年柄は始まっている。そして来年の7月13日まで。向こう500日と送る500日。延べ1,000日で、ご布教八十年のお年柄とさせていただいているのですね。そして今年はその一番中心の年。

そして私共はこの年にどれだけお蔭を頂いているのでしょう。「私は例年と変わりません」と、そうおっしゃる方があるかも分かりませんが、それはその方が気付いていないだけ。そして気付かせてもらった者は本当に有り難いことですよ。今までその事に気付かずご無礼をしていたこともある。よろこびの足らなかったこともある。この今年にどれだけお蔭を頂いているかということです。

私は本当にお礼を申さなければならないですね。余命1カ月・2カ月と言われた方がどれだけあるか。その全ての方がお蔭を頂いておられますね。またもう1秒違えば、ほんの少し違えば命が危なかったという方がどれ程おられるのか。そこを神様が守ってくださった。いや、人間には寿命があります。いずれは人間は亡くなります。経済もそうですよ、会社がおかげを頂くことは有り難い。しかし会社を閉めることもある。その中で守っていただている。ということは、今日一日に本当にお礼を申すこと。これこそが本当の信心だと私は思う。信心とは、どれだけ日々によろこび、一生懸命に向かい、お礼が申せるかですね。しかもそれは、もう5年前に申しました、10年前に申しましたということではない。今日の今の、どれだけお礼の申せる自分であるのか…。

私自身で振り返りますと、15年前の今日の日に倒れるのですね。そして翌10日に入院。命のあるかないかというところを2日3日…。肝臓ですね。11月上旬にスリランカに行かせてもらった。そのスリランカで病気になったのですね。A型肝炎。大体1カ月程の潜伏期間。ぴったり合う。11月上旬から1カ月…。40度の発熱が続きあげもどし。大変なことになった。肝臓の数値は二桁違い。普通はゼロから35という数値が、3,500を超してきていた。劇症肝炎ですね。もう100人のうち1人か2人しか助からない。その中を、15年前の今日ですよ、そして10日に入院。これは本当に、この命をどれだけお礼を申さなくてはならないか。そしてそれが15年前の事でしたでは駄目なのです。今日にお礼が申せなければ何もならないのですね。15年前にお礼を申しました、良かったです、ではない。今です。私はこのことを思わせてもらう。そして祈られているということを知ることです。

私共は祈られている自分ということを知ることが本当に大切なのですね。これ口で言うのは簡単ですがなかなか難しい。祈られている自分を知るということは、本当に真剣に神様に向かいませんとなかなか難しい。そうしますと何と自分というものが、我(が)の塊で勝手気侭な者だと分かるのですね。もう何に対しても理由を付ける。「でも、しかし…」。何でもそう言ってしまう。本当に申し訳ない。命そのものが守られているのですよ。そこが無ければ、でもも、しかしも無いのです。守られている自分。

何日か前のテレビで講演を放送していました。女性の方のお話でした。十数年前に子供が未熟児。産まれて10日目に、「自分が十月十日お腹にあった子だから抱かして欲しい」と、こう言ったそうです。そしたらお医者様が「分かりました」。育成器から出したら30秒だけ抱いてください」。本来は出してはいけないのですね。だけれども母の気持ちというのは分かりますね、自分の生んだ子なのに、育成器の中の姿を見ることはできても触ることができないというのはやはり辛い。お医者様もその通りだと思われたのですね。1分くらい抱いたそうですけれどもね。その時に「命さえあれば良い」と思ったというのですねその方は…。

ところがその子供さんは今は中学生だそうです。中間試験・期末試験、何故勉強をしないのか。もう一寸良い成績を取ってくれれば良いのになと思われたそうなのですね。その時は「命さえあれば良い」と思ったのに…。それは恵まれた命が、今は当たり前になっている。もう一度恵まれた命ということに気付かないと駄目だという話を、テレビで放送していたのですね。私がいつも同じ内容の話をさせてもらっていますが、あらためて他人様から聞かせてもらって、その通りだと思った。私自身だと思った。そして一人ひとりがそうですよ。

私は健康で何十年も病院に行ったことがない。それはそれで有り難い。けれどもその健康を頂いていることの本当のお礼が申せているのか。もう健康が当たり前になってしまっていないか。病院で入院していたらどうでしょうか。一日でも早く退院をしたい。歩きたい。しかし元気になればもうそれが当たり前になってしまっている。そんな事ではいけない。私自身に祈られているということをもう一度…。私などはその代表ですよ。このご神前に大三宝(おおさんぼう)に乗せてもらって、大恩師親先生が私が産まれた時ですよ。「神様から授かった子」。その通りですね。そしてそれは皆さん方もですよ。皆さん方ご自身が自分の命だと思っていたら、それは大間違いです。

勿論自分の命でもあるでしょう。けれども実は神様の命。神様の命を親を通して頂いている。ですから自分の命ではない。ということは世と人のお役に立たなければいけないということです。しかもその命は他の命で生かされているのです。他の命とは何でしょう。野菜・お米・お肉、全部命ですよ。命を糧に自分の命が生かされている。ということは、世のお役に立たなければいけない。自動的にそう決まっている。その命に対してのお礼ですよ。そして、お役に立たせていただいたことに、さらにお礼を申せてこそ信心。

私は本当に恵まれている。皆さん方も同じですね。そしてその事に本当に気付くことが要る。祈られている自分ということに気付く事こそ要る。気付くとは、どうしたら祈られている自分が分かるのでしょう。それにはたった一つしかない。それは人を祈る以外にない。本当に人を祈ると、祈られている自分が分かる。よく言うでしょう。親になって初めて親の有り難さが分かる。またお墓の前に行って、今頃になって親の有り難さが分かったけれども遅かったと悔やむ…。そういう話がよくあるでしょう。親になって初めて、30年前の、あの時の親のその思いが分かる…。ということは、祈られている自分を分かるためには祈る以外にないのです。世のお役に立つ以外にないのです。それこそが自らが、祈られている自分が分かるということです。私はそういう意味で本当に今日こうしてこの御用をさせていただけるということは…。15年前にまた新しい命を授かって、しかも15年前1回切りではないのですよ。毎日毎日新しい命を授かって、そうでしょう。食べる物を食べなければ、10日も何も食べなければ人間は死んでしまいますよ。新しい命を授かって生かされている。であるからこそ世のお役に立つ自分にならせてもらう。そこが一番大事ですね。

今年1年間を振り返り、この報徳祭というお祭は、「歴代金光様報徳祭」と言っていますが、実は大恩師親先生・二代親先生にお礼を申す、そしてこの1年にお礼を申すお祭。そのお祭を共々に頂かせてもらえたということは、参拝したくてもできない人も沢山あるのですから、参拝させていただけたということこそお蔭。そう思わせてもらいますね…。どうぞお一人お一人が、年末の最後の最後まで守っていただいて…。特に泉尾教会は12月はお礼の月とさせてもらっています。喜び感謝お礼の月として、この12月をシッカリと頂かせてもらって、共々にお蔭を蒙らせていただきますようお願い申します。