早朝勢祈念
教話 教会長 三宅光雄 08年7月23日 おはようございます。昨日婦人会が『婦人大会』の反省会をされた。昨朝お届けをされましたが、「私は反省会に出ないようにします。その中で話し合われたことを、執行部の人たちがあらためて明日にでも私の所に来て報告してください」…。私がこのような会合に出ますと、結局私が全て話をすることになるのですね。 私はどんな会議でもそうですが、本来は会議に出席した以上は、参加した全員が一言でも発言をすべきだと思っているのですね。実際は難しいのですが、たとえば国会ですね。しかし国会の本会議は、そもそもが儀礼的なものになってしまっているのですね。ですからそれぞれに各委員会というのがあるのですね。一年生議員でも何らかの委員会に、2つ3つ入るのですね。そしてその委員会では、それぞれが何らかの発言をする。そして国会の本会議では、決められた人が決めらた様にするのですね、時間が決まっていますからね。その為に幾つも委員会があるのですね。それが国会期間中ずっと並行して行われるのですね。国会でさえ、一年生議員でさえそうなのですから、どんな会議でもそうなのですよ…。 会議に参加すれば、会議である限りは自分の意見を言い議論をする。そしてよく他人様(ひと)の意見を聞いてくる。そして決まったことは必ず実行するというのが会議なのですね。勢祈念(せいきねん)であれば、ご祈念をあげるというのが勢祈念。ですから会議ならただ会議に出ていました。これは会議ではないのです。だからただ勢祈念に出ていましたは勢祈念ではないのですね。勢祈念とは、先ずはご祈念の声を出さなければなりません。 いつも私が話しますが、そもそも5の力、10の力、20の力と、人それぞれ違いますが、ところが5の力の人が6の力で、6の力の人が7の力になって、気付けば皆20の力になって行くということにならないと、何にもならない。そしてそれが、いつもなら5が6になるところを、例えば『土用修行』の時には、5の力で向かっても神様が6の力や7の力にさせてくださる。神様のお力でですね。声も出さないようなご祈念を唱げていて、どうして勢祈念に出たということが言えるのか。会議に行って会議に行って来ましただけでは、会議とは違う…。 今でもそうですね。今は話を聞くという時間ですね。聞かなきゃいかん。では聞くとは何かと言うと、大恩師親先生は「きかんきかん糠(ぬか)に釘」とおっしゃった。聞かなきゃいけない。そしてその聞くというのは耳で聞くというのもあるけれども、効(き)くの効く。そして実際に行うということが要る。そうでなければ耳で聞いただけになってしまう。聞いている、効いている。これが大事だとおっしゃった…。 二代親先生が「なまけもの」というお話をされた。そのことがいつも私の中に残っているのですね。例えば今でも、シッカリとお話を聴かなければ、それはなまけものです。なまけものであろうとなかろうと同じようにこの場に居るのですね。国会に出ているのです。勢祈念に参拝しているのです。けれども国会に出ている者は議論をして、それを行うことが仕事でしょう。ということは国会で決まったことを行わなければ、その人はなまけもの。国会の場に居ただけ…。同じ勢祈念に参拝しても心を込めてご祈念を唱げていなければ勢祈念ではない。しかもそれは特に5の力の人ほど頑張らなきゃいけない。20の力の人よりも…。 しかし20の力の人も初めから20ではなかった。元々は5の力だった。しかし頑張って20の力になっている。勿論20の力の人も頑張らないで良い訳ではないのです。けれども5の力の人は余計に頑張らなければならない。そしてその一歩さえ踏み出させてもらえれば、後は神様が足してくださる。神様が足してくださるのですから、自分はまず一歩を踏み出すことだけが大事なのですね。「なまけもの」とは、誰がしても良いことを、今しなくても良いことをしていて、本来、今、自分がしなければいけないことをしない人を、なまけものと言うのですね。 さて、今日はこのメモに「今(いま)イコール今日(きょう)イコール一生(いっしょう)」と書いてある。一生というのは人それぞれだからその長さは分かりませんが、日本人の平均寿命は男女平均して大体80歳かな。平均寿命を一生というかどうかは別の話ですが、計算しやすいように80年間というのを一生と仮にしましょう。今日というのは1日ですね。ということは、365日の80倍。すると2万9,200日。仮に3万日として、3万日と1日とは同じだという話をします。数学的には有り得ませんね。3万分の一。例えばここに3万円と1円とを持っている。それが一緒だと言うと、そんなことないでしょうと、数学的には言いますよね。それがそうでない。私は一緒だと思う。 それどころか今、1秒を以って今というのか、1秒の何分の一を以って今と言うのか、1分を以って今というのか分かりませんが、例えばこのお話の30分間を以って今と言うのか。一息吸った3秒の間を今と言うのか、ほんの一瞬の今なのか、これ、分かりませんが。3万と1が一緒だと言うどころか、そこからさらに例えば今が1秒としたら、3,600秒で1時間。1日はそれの24時間分ですから、確か8万6,400秒。そうすると約2億5千万対1が、億対1が一緒だと言う話を私はしようとしている。数学的には絶対におかしいですよね。 けれども、私たちの生かされているということは、実はそこにある。この瞬間が一生を決めているのですよ。一生はその瞬間の重なりでしかない。そしてその瞬間とは今ですよ。今なのです。この今のこの瞬間が、自分の一生と同じ。 しかし大恩師親先生はもっとこうおっしゃった。「今日の一日が今までの60年間より重い」とおっしゃった。ということは大恩師親先生の数字はイコールではなくて、一日の方が一生より、こっちむきの大なり小なりになっている。それが信心です。数学で言うとイコールでもおかしいし、まさか小なり大なりなら分かるけれども、大なり小なりのはずがない、これが数学。ですから、人間ごとで、計算ごとですると、信心というのは、いや人間が生かされているということは分からない。人間が生かされている、生きているということは、今が一生でなければならない。それどころか本当は自分の一生を超えて、親先祖も子孫も含めて、この今に懸かっていると言えると、私は思うのです。 この今の、自分のこの喜び、それの連続というのか積み重ねというのかそれしかない。「あぁ昔、30年前こんなに頑張れたなぁ」。そんな話は私から言うと要らないのです。それはただただお礼しかない。「30年前頑張れたな、有難うございます」というお礼の積み重ねしかない。30年前頑張ったから、もう今はしなくて良いという話ではない。昨日まで頑張ったから今日からは楽だ。そんなことないのです。「昨日まで頑張らせてもらえて有難うございます」。それは有る。それが大恩師親先生のご信心。「坂を越え坂を越えても峠かな」。「咲くまでは草と呼ばれる野菊かな」のご信心ですね。 これは本当に私たちが求めなければならない道ですね。どうしても、慢心・我が儘(わがまま)・気侭(きまま)・利己・安座・言い訳、放っておくと人間というものは必ずそちらへ流れる。だからこそ私たちは神様に向かう。前から時速5キロのスピードの流れがあるとすれば、自分は必ず5キロのスピードで泳いでいなければ今の場所に止まっていられない。6キロの力で泳いでいますと1キロずつ上流に進んで行く。その5キロのスピードで前から流れてくる川の流れというのが、それぞれの「めぐり」です。そしてめぐりの川の速さは、人によってそれぞれ違う。隣の人と同じように7キロのスピードで泳いでいるけれども、めぐりの川の速さが8キロの人と5キロの人であれば、8キロの人は7キロで頑張っているんだけれども下流に流されて行く。5キロの人は7キロで頑張っていれば上流に進める。だからこそ、めぐりの深い者こそしっかりと前を向いて泳がなければならない。 そして泳ぐということ自体が、私は助かりだと思う。その助かりというのは目の前にあるのではない。神様に向かって行く。例えば「宝物探し」ってあるでしょう。宝物を探して行くのだけれども、実は探している自分が宝なのです。これは、「青い鳥」という、チルチルとミチルの話がある。そのお話は、実際は自分の中にこそ希望があったというのが、話の締めでしょう。青い鳥を探して、彷徨(さまよ)って。私はそこ、そこを分かっていただく、そこを求める。それが大恩師親先生のご信心。しかし7キロのスピードで泳いでいる自分なのに、実際にはそれ以上に大変なおかげを頂いている…。 本来の私のめぐりは、もしかしたら8キロの流れかも分からない。本来であれば9キロのスピードで泳がせてもらえる自分にならなきゃいけない。だからこそいつも私は、プラス1で、プラス1でと言う。そうすると7キロのスピードしか出せなかった私が、8キロの、9キロのスピードを出せるようになり、そしてそのプラス1を積み上げている自分そのものが宝になっていく。そしてさらにプラス1を足しておけば、その分を子や孫に残していける。そして決して他人様(ひと)と比べてはいけない。私がこんなに頑張っているのに、あの人は頑張っていないのにと言った途端に崩れて行く。 『一生懸命』という言葉があるでしょう。これが私が今言っていることなのですね。「今イコール今日イコール一生」。最初に申しました。一生懸命というのは書いて字の通り、一生命を懸けると書いているでしょう。命というのは今。今を一生に懸けなさい。今をそれこそ頑張ればそれが生涯になる。だから一生懸命なんだ、そういう意味です。 しかも本当から言うと、今も話しましたように、流れの速さは、実は一人ひとり違うのです。だから難しいのです。同じことをしていても違うのです。だから他人様に「あなたはできていない」と言っては駄目だと言うのは、そういう意味ですね。私はそのことをご本部の学院時代に習った。 入学当時は23歳でしたから何でもできる…。あの人はなぜもっと速く歩けないんだ。なぜ休み時間にもっと汗を流して楽しまないのだ。せっかくの自由時間なのに…。ところが自分で足の骨を折ってみて、初めて歩けない人の大変、それを分からせてもらった。神様は有り難いですよね。「歩けるお礼」。歩けなくなってみて初めて歩けない人の大変が分かり、歩けるお礼が申せる。歩けないところをおかげを頂いて歩けるようにならせてもらい、歩けない人の思い、中身も一緒に頂くことができる。ということは「難(なん)あり、有り難し」と…。それを有り難しとできるかどうかは、私自身である。先程の話ですね。 実は私の中にある。その七キロのスピードで泳いでいる、八キロで泳いでいる私そのものが、実はおかげ。それを勘違いして、なぜあの人は六キロのスピードで泳いでいるのに、スースーと世間を渡って行けるのか。また反対に、なぜ私が八キロも九キロものスピードで泳いでいるのに泳げないのか…。その様に思った途端に、もっとめぐりを積んでしまう。 私などは逆に、本来の川は上から流れてくるものを、大恩師親先生・二代親先生のお徳のおかげで、下から上に逆流させていただいて、その流れに乗せてもらっているので、私が3キロ4キロのスピードで泳ぐ能力しかなくて泳いでいても、後ろから5キロの力で押してもらったら8キロ、9キロになっている。 「親先生、川は逆流なんてしないですよ」とおっしゃるかも分かりませんが、アマゾンでも、中国の黄河でも、その現象はよく言われるように、年に何度か潮の満ち引きで何百キロという長さを川が逆流して上がる。実際にある。でもそれは年に何度かだけかと言うと違う…。 私共の信心は大恩師親先生のご信心に少しでも近付かせてもらう。それは例えば、私は30年以上、50年以上も信心していますと言っても駄目ですね。そこのところをしっかりと分からせてもらえれば、たった一日でもおかげを頂いて行くのですね。そのことを50年も分からない人だっている。それは自分の信心だけしていたのか、お願いだけか、おかげだけか…。そしてお礼だけは言っていても、そこからの一歩が踏み出せるのか踏み出せないのか…。勿論30年信心している人は、30年おかげの中に在るのですよ。無いとは私は思わない。喜びお礼が有るのですから。しかし本当はそこから一歩、「私のようなものが何というお徳の上に乗せてもらって」…。 喜びの上に、さらに感謝。この時にこそ本当に下流から上流に川は流れて行くのですよ。それを頂く機会が、一生であり今日であり今である。そしてそれがたまたまの大チャンスとして『御布教記念大祭』であり、『婦人大会』であった。大チャンスです。しかし実は今日も大チャンスですよ。例えば『土用修行』という、普段と違う日であるのですね。 今までもその日とその日の一対一と比べてでもおかしいと思っていたのに、今日は今までの全ての合計と今日を比べて、今日の方が重い…。そうなのです。いくら70歳でも、いやもう90歳でも、生かされているということは、今日の息一つできなくなれば、それで命は終わりです。 さて今、蝉が鳴いていますね。この時期には5時20分くらいからこの様に一斉に鳴き出す。蝉は数年間、土の中で過ごすのですね。ところが人間が勝手にその時期の蝉を幼虫という言い方をするのです。そして一般で言う蝉は成虫という、交尾ができるから成虫と言うのであればそうですが、その蝉の一生の中から比べれば数年対10日。一生から言うと、成虫とか幼虫とかいう言い方がおかしいと思うのですが、同時に蝉にとっては、この一鳴きこそが命懸けですから。だからこう大きな声で鳴いているのです。命懸けです。鳴くことによって鳥とかの天敵に襲われる。危ない。地上が危なくなければ、幼虫という形で土中にはいませんでしょう。ところが危ない地上に出てきて、飛び回って交尾をして子を残す。子を残すために命を懸けて鳴いているのですね。 では私たちは、勢祈念に命を懸けてご祈念を唱げているかどうかです。命を懸けてご祈念をしていませんね。あの一匹の蝉の体の大きさと音の大きさを比較すれば、その本気度と言えば、思いっきり本気ですよ。私たちはどうでしょうね。先程も話しました様に、国会議員になっても意見も言わなければ…。ですから私は、WCRPでもWFMでもIARFでも国宗でも会議に出れば、意見を言い議論をして、他人の意見を聞く訳です。そして決まったことを実行するのです。それが会議ですね。それでなければ会議に行きましたというだけの話。本当に会議に参加したことにはならない。参拝ではない。教会へ行きましたにしかならない。教会を見てきましたと変わらない。教祖の神様も「買い物に行って買わずに帰るのと同じことぞ」とおっしゃった。買い物ということは買わなきゃいけない。それを見てきただけでは…。私はそこのところをしっかりと、本当に蝉が鳴く時期になるといつも思うのですよ。 それを「やれやれ」とか「そろそろ」とか、これはおかしい。全て「いよいよ」「ここから」ですね。このことを実は今から29年前、大恩師親先生が、『大阪布教百年』の大会で、フェスティバルホールでお話をされている。その時のテーマが「ここから」。「ここから」の、そのここからは、ここからだし、今からは今からですね。それが証拠に、今の言い方をしますと、その時のご講演をされた大恩師親先生は76歳。その大恩師親先生に『御神言(かみさまのおことば)』がその瞬間に、その場で神様から下る。その中身は「大きい信心せい」ということ。76歳の頃の大恩師親先生は私から見れば、宗教者として人間として、どこまでも大きな偉大な親先生ですね。その大恩師親先生が、「大きい信心せい」と神様から頂かれた…。 大恩師親先生が頂かれたお言葉ですが、私共泉尾教会に、いや金光教の全ての人が頂いたお言葉。だからこそあの場で神様が下さった。「大きい信心せい、自分一人の助かりでなく、世の全ての他人(ひと)の難儀を祈り助けよ」。私はこれこそが私の求める道だと思う。そして皆さん方の道だと…。 この土用修行期間中にこそ、神様の方から、一の力を二の力にしてくださるのです。ここをしっかりと頂かせてもらうこと、これが大事です。せっかくのチャンス。そのチャンスをおかげにさせてもらいたい。一人ひとりがしっかりと神様に向かわせてもらって、共々におかげを蒙られますように…。 |