月曜教話15

副教会長 三宅光雄 (02年9月30日)
 
 最近は携帯電話。もう何処でも誰でも携帯電話ですね。持ってない人がないといってもいいほどです。国内で登録されている携帯電話は、3,000万万台あるそうです。ということは、人口1億2千万人ですから。もう4人に1人が携帯電話を持っているんですね。PHSも含みますと、もっと多くなるでしょうね。ところがあの携帯電話は、どこでも話が出来るかと言ったら、そうじゃないんですよ。

  先日も、青森県の松緑神道大和山教団様へ行きますとね、通じないんですよ。あの森、深い森林、山の中でしょ。アンテナが無いんですよね。携帯電話っていうのはね、何処でも話せるようですけども、街中では見えないところに沢山アンテナが立っているんですよ。そのアンテナと電波で結ばれている訳です。

  私は、1カ月前に、南アフリカに行ってました。南アフリカは都市から遠く離れていても、見渡す限りのサバンナの中でも、何処でも携帯電話が使えるんですよ。おかしいでしょ。松緑神道大和山様の境内がいくら広いといってもですよ。いくら山やといってもですね……。それと比べて南アフリカでは、街から離れて、何処まで行っても話が出来るんです。何が違うかと聞きますと、ガイドさんが言うには、日本と南アフリカでは、電波の種類が違うそうですね。

  日本は短い距離のタイプを使ってるそうですけど、向こうは、長い距離まで届く、私は詳しくないんですけどね、短波とか長波とかいう言い方をするのでしょうかね。だから、アンテナなんか何処にも見えない。そりゃそうですよね、ずっと見渡す限り見えるんですから。アンテナが近くに無いとこでも電話が出来るんです。だからね、繋がるという意味では、まあ日本のシステムと南アフリカのシステムは電波の種類が違うんでしょうね……。

  その電波は、目に見えませんけども、その目に見える形でもし言うのなら有線の電話ですよ。普通の家庭の電話。あれは電話機がいくら新しくなりましてもね、線で繋がっているんです。しかし、最近は線の中身も変わってきましたね。ISDNとかいろんなものがあって……。昔だったら、例えば1という容量だったのが、10年位前に10くらいになって、今はそれが1,000くらいになってるんですね。今は、コンピュータだとか、有線で繋いでテレビも見れますよね。大容量の光ファイバーなどが使われていますね。

  最近では、双方向性。テレビがただ見れるだけではなくて、こちらからも送れる。だから、容量が大きくどんどんどんどん大きく、その線が太くなっていく。太くなっていくといっても、線の太さは同じなんですよ。中身が濃くなっていってるんです。まあ太くなってるという表現でいいでしょうね。ということは、まあ目に見えてる。もっともっと簡単な言い方をしますと、子供のころやった「糸電話」です。糸電話というのはね、こういう筒に振動する紙を貼って、その紙に糸を、そして1対1ですけども、相手と双方向で話が出来る。

  ネットワークっていうのは、今も言いましたように、繋がっていることがとっても大事なんです。これが切れますと伝わらない。例えそれが長波であろうが短波であろうが糸電話であろうが……。だから、糸電話だったら、私は数年前にテレビで実験を見ましたけど、大きなアパート郡で、その中のビルとビルの10階と10階とを結んで、糸電話で引っ張るわけですよね。何メートル先まで聞こえるか。その結果は、四百何十メートルのとこで聞こえなくなってましたけどね。それまでは、振動が行くんですね。真っ直ぐ張らなければいけませんから。そしたら、三百何十メートルは聞こえるぞ、400メーターも聞こえるぞ、500メーターはもう聞こえませんという、糸電話の振動の実験をやってましたね。だけど、これ繋がっている、糸電話ですけどもね。

  さき程は長波と短波の違いを話しましたが、もしかしたら違う方法の物があれば、1キロ先でも2キロ先でも糸電話で繋がるかもしれませんね。違う方法でしたらですよ……。ましてや今のように大容量で太さは変わらなくても、中身が何百倍も何千倍も濃いというものが、もし糸電話にできたらですよ。まあ糸電話なんかでそんな研究をする人はありませんよね。商売になりませんからね。あの電話線を、それを商売してたら世界統一ができるぐらい、それは儲かりますよね。世界中の方式を、NTTならNTT方式とか言って、どんどんそういう光ファイバーのようなものが出てくるんですけども……。

  ということは、繋がってないといけませんけども、弛んでいるといけないんです。糸電話の場合、分かりますね。ピーンと貼っていたら100メーターでも200メーターでも繋がるわけです。だけど、20メーターでも弛んでいたらこれ繋がらないんですよ。だから、繋がっているということは一番大事ですけども、ただ繋がっていたら私は良いと思いません。繋がっていると同時に、弛んでたらいかんと思うんです。ピンといつも緊張してないかん。

24年程前に学院に行くときに、広前こそは真剣勝負……。お道では、「広前は信心の稽古場所」、稽古やと。ところが、先代恩師親先生は、「真剣勝負の場所」、決して稽古じゃない。その時仰ったのは、「木刀を持っていくら稽古しても、うまくならん」。真剣を持って向かえば、そこに緊張というものが生まれてきますからね。失敗したら……。だから真剣白刃取りというのがありましょ。あれ木刀で稽古してもできませんよね。

よく私が子供の頃、テレビ漫画で、確か赤胴鈴之助だったかな……。本当にそれが何ぼやってもできない時に、何故できないんや、お前なんか切ってやると言われて、ぱっとやられたら……。師匠に「この間合いを覚えろ」とか言われて……。漫画ですけれどね。ほんまものでないと出来ないんですよね。練習だと思うとどうしてもそこに何か緩みが出てくる。だから、師匠に木刀でポンと叩かれる。だけど、真剣だったらもう受けないと死ぬんですから。この間合いを忘れるなよという、そういう風な漫画でしたね。

これ真剣なんです。これ緊張なんです。これがないといくらネットワークが繋がっていても、その線は不通ですね。ピーピーピーと聞こえますね。不通です。断線してますね。もしくは、もっと簡単な言い方をしますと、話し中ですね。繋がっているんだけど、繋がらないなと。これは、緊張感が無いからです。

私は、そのスリランカの話(註:教話当日の2日前に三宅光雄副教会長は、本教の国際センター所長の岩崎先生とお会いになり、スリランカにおける金光教の働きについて話し合いをされた)を聞かせてもらってね、神様がネットワークを広げて下さっていると思いますね。ただ、そのネットワークをピンと張ったものにするかどうかっていうのは、私の真剣さだと思うんです。私どもが、真剣度が無く、ただ繋がっていることに安座してたら、それは、ただ繋がっているだけなんです。ネットワークがあるというだけなんです。そのネットワークを活用させてもらう事が出来るのか。生かす事が出来るのかというのは、こちらの真剣度なんです。真剣に私どもが、向かいませんと……。

  それはどういうことかと言うと、先程申しましたね。こちらに五十年前に教会が移ってきたときに、先代恩師親先生は、教会が大変な中を、そのアメリカの牧師が、今アメリカで教会を建築しているので募金をしていると聞けば、このお金を使いなさいと。泉尾教会が大変なときにですよ……。今、必要としているお金を人様に使いなさいと。それがその真剣度なんです……。そうすれば、そのネットワークが更にそこから広がっていくんです。

  そのネットワークの広がりとその真剣度、太さですね。この緊張感。そのような働きがあればこそ、ご本部から、スリランカのことだったら、泉尾教会に聞かしてもらったら、いろんなことが分かるじゃないかと言うてもらえるような働きが出来てきた。

  では私どもは、いや私は、折角その、例えば海外でもいいです。海外のそのネットワークをピーンといつも緊張して張ってることができるのか。張ってるってことは、自分が緊張してなあきませんよ。凧揚げでもそうでしょ。こう引けば感じなきゃいけない、引けば感じなきゃ。自分の手にですよ。釣りでもそうでしょ。ぼっとしてたらこれ釣れないんですよ。凧でもそうですよ、ほっといたら落ちるんですよ。すべてこちらなんですよ、こちらです。こちらの緊張なんです。

  この名人上手と言われる人は、その指の先に感じるそうですね。見えない海の底の様子が、その釣糸を通して自分の指先に伝わってくる。その糸を常にピンと張っておくことが、伝わってくるということになるのですね。私などは釣りしてもよう釣りませんし、凧でも落としてしまうのかも分かりません。だけども、私どもは信心の、そういう意味では名人上手じゃないといかんのですよ。何故かと言うと、真剣勝負、稽古やない。もう落ちること出来ないんです。凧を落とすことできないんです。そういうところにある。

  いや最低限、先代恩師親先生は、このような私を、これだけしか能力のない、これだけしか中身のないものを、上にあげてくださっていたんです。ピーンと張って……。しかし、それを自分の力やと思っていますからね。上がってる自分がフワッと落ちるんです。それは、やっぱり引っ張ってもらってる。いつも言いますように師匠なんですね。

  その師匠の引っ張るということは、厳しいお言葉も頂きますよ。そんなことを、こんな大きな荷物を持てませんというような荷物を持てと言われますよ。それが、自分を上にあげてもらっていたんですね。それが繋がっているということなんですよ。凧と人が繋がっている。やっぱりピンと張ってるわけですよ。その中に厳しい風を受けるから揚がっていくんですよ。風もないとこやったら、どんなすばらしい凧でも揚げられませんよ。私どもも一緒ではないのでしょうかね……。

  そこのところがご信心。信心友達に対しても、お道引きをさしてもらっても、どうも繋がっているけどもピンとよう張らない。まあ遠慮があるというのかな。私の分も食べて下さい……。もうそれしか無いんです。私のことをどうぞお使い下さい。それしか無いんです。そうせんと、繋がっていたと思った紐が、プツンプツンプツンと切れていく。それでもう切れていると思ってるけど、神様の方はネットワークをどんどこどんどこ広げてくだされているんですよ。私どもがプツンプツンと勝手に切っていく。「もうあの人に何ぼ言うても無理や」。違うんです。その人こそ……。だから、自分が今必要としているときに人に貰ってもらうという、そんなこと、普通だったら考えられませんわね……。

  自分のとこにどうしても今必要だから借りるんですよね。そのお金を人様にあげて、その人様が喜んでいる姿が嬉しいと、自分が言わしてもらう時にこそ、そのネットワークの紐がピーンと張って、しかも強いものになっていく。私は、そう思わしてもらう次第であります。

  先日、東京にやらしてもらって国際センターの所長さんにお会いさせてもらって、お話させてもらったことから感じたことを今、話させてもらいましたけれど。いよいよ本気、いよいよ真剣勝負。毎日毎日の参拝が、勇みで喜びで嬉しい参拝にならないといかんですよ。そうじゃないと、折角参拝しても紐は繋がってるけど弛んだ紐。それではあかんのです。

  ピーンと自分で張らしてもらえば。神様と私。お結界・親先生と私。信者さん同士。そして一般の方々。これ皆ピーンと張った緊張の中で、活かしてもらうという事が、私は大切だと思うのです。一緒になってすべてのことを真剣に取り組み、ピンと張った生き方をさせていただこうではありませんか。

  今日から改めて、ご大祭に向かって、共々におかげを蒙らせていただきましょう。