早朝勢祈念教話 「どんなことにも真剣に向かわないといけませんね…」。それには一寸(ちょっと)のことが大切ですね。「親先生そんなことぐらい大勢に影響ありません…」。そう言われる方が多いのですが、私は今あらためて、大恩師親先生のご信心、二代親先生のご信心というものを、私なりに思わせていただくのですね。「一寸のこと…」。1パーセントのことですね。「100のうち99は大丈夫なのですから1ぐらいは…」。全体から見れば確かにそう見えるでしょうね。 ここに「秤(はかり)」があるとしましょう。この「秤」が右に傾いたり左に傾いたりする。本当に良い「秤」であれば50対50なら水平になっていて、その「秤」が良ければ良いほど51対49でも傾くはずなんですよね。もっと良い「秤」だったら50.001対49.999でさえ傾くのですね。逆に言うと、60対40にならないと傾きませんという「秤」は、かなりぼけてきてますね。ということは、一寸のことぐらいどうでもよいということは、かなり自分がぼけてきているということです。錆び付いてきているのですよ。研ぎ澄まされれば研ぎ澄まされるほど、その一寸の違いが大事になってくるはずなんですね。 昨日の「おかげ祭」でも、皆からすると「そんなことくらい…」。いろいろと気付くのですね。それは、私が我慢してるのではないのですよ、神様が我慢してくださっていると思うのです。どこを見ても「んー」と思うのですが、所員に任せている以上は、できるだけ口を出さないでと思っています。勿論これ以上はあかんと思えば言いますが、ぎりぎりまでは言わないでおこうと思っているのですね。そんなことが昨日も何ヶ所もあったんですよ…。 今も話しましたように、60対40にならんと動かんような「秤」なのか。もしかしたら70対30になっても動かんような「秤」なのか。それなら完全に錆び付いていますね。そうではなくて、49対51でも動かないといかん。もっと言えば50.001対49.999でも動かないとあかんはずですね。昨日は本当にどこを見てもそんなことだらけだったのですね。 「そんなことくらい全体から見ても、大勢に何の影響もありません」と言われるかも分かりませんが、大恩師親先生・二代親先生は、そのたった0.001を、その本当に小さな違いを積み上げられてこられたのですよ。たったそのぐらいのことと思えることを積み上げることが、どれだけ大きなことになるかということなのですよ。1日に1分の時間を世人(よひと)のために使わせていただいたとしましょうか。そして次の日は倍の2分を。その次の日は3分をと積み上げたら、1ヶ月経ったらすごく積み上がりますよ。それこそ2ヶ月経ったら、1日に1時間以上の時間を頂けるのですよ。1年なら6時間ですね。そうしたら毎日6時間、新しい時間を作ることができるのですよ。24時間の間で、新しい時間を6時間をさらに持てたら、私は1日30時間持っているということですよ。そんな大きな差になってくるんですよ。そしてそれがどんどんと多くなるのですよ。その差なんですよ、偉大な大恩師親先生・二代親先生と、私との差は…。 だから、たった1分なんだけど少しでも前に出よう…。たった1分なんですが、一寸でもと…。そういう気持ちにならないと駄目なんですね。逆に言うと、1分ぐらい別によいわと思えば、その反対になりますから、その差は大きいですよ、プラスとマイナスの差はね…。 私は4日間、高熱ときつい下痢で寝こみました。4日間ということは100時間。20日から23日までの4日間、22日からはお広前には出させてもらっていますが、中途半端。23日はチャリティーバザーに出たいけれども出るのを控えた。それを全部合わせて100時間。正確に言いますと、祈りの塔で早朝にご祈念をさせてもらったのは今日からでした。もう一度今日よりは「1月1日に戻ってやり直させてもらおう」と思って、お出ましをさせてもらったのですね。 一寸のことをどれだけ丁寧にできるか。私はそれしか本当にないと思っているのです。本当は一人ひとりの人間の差なんてほとんどないのですよ。違いますか。たとえばこの中で、成人男性として、背の高さが2メートルの人もいなければ1メートルの人もいない。体重が90キロの人もいなければ45キロの人もいないでしょう。それぐらいのものなのですね。世界中でも、身長でも体重でも10倍も違わない、そんなぐらいの差ですよ。ところが実際には、千倍も万倍も違ってくる。その差は何なんだろう…。 それは毎日の一寸したこと。一寸したことにお礼が申せるか、一寸したことにお詫びが申せるか。そんなことぐらいええわ。それでは駄目なんです。そこが大切なんです。それこそが大切なんです。これくらいなら後でできるわ。それは駄目なんです。確かに後でもできるんですよ。その方が合理的という時もある。そう思うのですね。(手を前に出されて)1回こうひねって、返ってきてこうひねって、次は行ってこうひねった。それは、極端なことを言って、行かなかったら、これもこれもなかったからゼロでええやないかと…。違うんですよ。無駄だと思う、その行く道中で教えられる。その掛かった時間で教えられているのですよ。 それが私が学院に行かせてもらう時に、大恩師親先生に「雑多(ざった)に教えられなさい」と御教えを頂いた…。「雑多」というのは、右にした時にとか、左にした時にとかだけではなくて、道中までも含めて。いや、行くのがしんどいなあとか、良かったなあとか、悲しいなあという気持ちまでも含めて教えられなさい、ということなんですよ。いやだと思うのも人間ですよ。嬉しかったなあと思うのも人間ですよ。有り難いなあと思うのも人間ですよ。そんなことぐらいと思うのも人間です。それまでも全部含めて、何故しんどいと思ったのか、何故嬉しいと思ったのか、それの積み重ねなんですよね。そこを私は…。だから一寸のことなんです。それだけの差なんですよ。それだけの差なんですが…。 人から言わせたら、「親先生何故そんな無駄なことをしておられるのですか…。そんなことせんでも、後で行って一緒にしても…」。結果だけなら確かにそうなんです。だけどそれが、どこかで変わってくるのですよ。どこかで変わってくる。例えば人間関係でも、友達と親友とは違うでしょう。問題にぶつかったとき、どれだけ真剣に自分のこととしてそのことに当たれるのか。1回なのか2回なのか100回なのか…。どうせ行くのだから、やるのだから…。 どうせ行くのだからと言ったら、極端なことを言って、それこそ理屈ばかり言う人は、何とでも言いますね。「神様は世界中におられるのだから、教会へ参拝せんでもよいではないか」と…。「どこででも自分で神様と思ってたらそれでよいではないか」と…。確かにそれも間違いではない。しかし教祖の神様は、「神に会おうと思えば庭の口を外へ出て見よ空が神下が神」とおっしゃっている。それは、外へ出るとは、今の自分の居てる場から一歩外へ、前へ出なさいということなんですよ。一歩というのはそういう意味ですよ。自分の今の場を良しとしては神様に出会えんということですよ。今の場から前へ出よという意味だと、私はそう理解しているのですよ。これは私の理解ですよ。学院時代に教えていただいたのでもなければ、他の先生に言われたのでもない。今の自分を良しとしたら、神様に出会えないという意味だと私は思う。「庭の口を外へ出て見よ」とはそういう意味。今の自分から一歩前へ出たら神様に出会うのですよということです。 ということは、進んで難しさを求めなさいということです。参拝が難しい人ほど参拝しないといかんのですよ。簡単なんですがね。なんで分からないのかなあと私は思う。こんな簡単なことを…。「あんた難しいやろう」。「はい、だから参拝できません」。違うんです。「難しいやろう、だから参拝しなさい」。なんでそれが分からないのかな…。「あんた荷物いっぱいやなあ」。「はい、だから荷物を軽くしてください」。違う。「だからこそもっと荷物を持たせてください」。何で分からんのやろう…。「いや、私もうこれでいっぱいです、だから無理です」となってくる。どうしてなんだろうなと思うのですね。「持てません、だから持たせてください」とならないといかん。何故かと言うと、そもそも持っていたと思ったものが、神様が持たせてくださっているので、そこのお礼がいる。そして持たせてもらってるのに持ちきれていないお詫びがいる。簡単なことなんですけどね。別に難しくも何でもない。私はきっと、釈迦もキリストもマホメットも、みんなそこに出会って、そこのところに気付かれた。教祖も大恩師親先生もそうだったと思いますよ。別に釈迦やキリストが3メートルで300キロあって、誰が見てもごついなあという人ではなかったと思う。しかし3メートルで300キロの人以上に大きく、輝いていたでしょうね。遠くから見て、見えていたでしょうね。 それをいろんな言い方をするのでしょうね。後光(ごこう)が差すとかオーラがあるとか、いろんな言い方をしたのでしょうね。それは人間としての中身の大きさでしょうね。 それは、今の自分を良しとせんという生き方。そこから前へ一歩出るということ。その小さいことを積み上げていかれた。一寸(ちょっと)の差なんです。その一寸の差が、雲泥(うんでい)の差になる。今からでもいくらでも間に合うのですよ。いくらでもあらたまれるのですよ。その気持ちを一寸変えさせてもらうだけで…。それを大恩師親先生は子供の時にお祖母さん(湯川サト様)が。私は何度も何度もお話ししてますね。「朝から私が参拝できなかった分も一緒に参拝してきてくれて有難う。しかし今のは昨日の分、病気で参拝できなかった分の参拝で、これは今日の分。もう1回参拝してきなさい」とおっしゃり、御献備(おけんび)を渡された。私から言えば参拝イコール、お結界へ進みお届けをして御献備をさせてもらうことですから、御献備をしない参拝なんて参拝でない。ただ教祖様もおっしゃったように、「たとえ藁しべ3本でも、揃えて結んで…」。それは、御献備をすることが大切で、しかしそれは額でも何でもない、真心ですね。その時の自分にできることをさせてもらえばそれでよい。だから親先生は綺麗な石をお供えされたこともあったのですね。御献備のお金がなかったので、紀ノ川まで行かれて綺麗な石を集められるという汗をかいておられますね、普段より遠廻りをして石を探すのですからね。それが真心ということですよ。その時できる最大限のことをする。 しかし、御献備だけでさせてもらうなら2日分を一度にでも良いはず。いや合理的という言い方なら、そっちの方が合理的でしょうね。時間が掛からないですからね。しかし違うのですね。時間が掛かることが大事。なぜそのようにおっしゃったのかと考えるのですね。「二度も参拝してめんどくさかったなあ」と、それも考えるかも分からない。しかし一度目と違う人に出会うかも分からない。雨が降ってくるかも分からんでしょう。いろんなことに出会う中で教えられていくのです。その差なんです。さらに合理性で言ったら、2日分の御献備を合わせて一度で良いはずですよ。もっと極端なことを言ったら、1つの御献備に2倍の額を入れたら「御献備」と書く手間だけでも減る。違う。何回も何回もお話ししていますね。「そんなん、親先生の言われるとおりしていたら不合理で不合理で…」。それはそうですね。私は合理を求めてないですね。助かりを求めているのです。なぜそこが分かってくれないのかなと思うのですね。 私は子供の時に、大恩師親先生から穴を掘りなさい。そしてその穴を元どおりに埋めなさい。また掘りなさい、そして埋めなさい、掘りなさいと。3度同じ場所を掘りました。合理的ではないですね。全く合理的でないですよ。掘っているものを埋めるのですからね。ただ掘るなら1回で良いわけですね。それは、その中に、自分が掘る時にやっぱり不満で掘っていたのか、喜びなしに掘っていたのか、大恩師親先生から見られた時に、それは違うと思われたわけですよね。こっちは掘っている行為だけを問題にしているわけですよね。できあがる中身だけ。しかし大恩師親先生はその有り様を問題にされているのですよ。それに気付かん。なんせ中学生でしたからね。それで不満になるわけですね。もうめんどくさいとなるんですね。すると余計にやり直しになるわけですね。そのことが、私が御用をさせてもらった頃にやっと分かってくるわけですが、分かってくると言っても、その時と今とはまた違う分かり方ですよ。そしてまた今から5年後、10年後には違うでしょうね。 いつもいろんな時にいろんな事に出会って…。「そんなもの少しぐらいかまへんやないか」。「かまへんのですよ。かまへんのですが、かまうんですね…」。そこが、実はそこが一番大事なんです。「神に会おうと思えば庭の口を外へ出て見よ」ということです。私から言ったら、外に出ると言えば既成概念を捨てるということですね。今の在り方を良しとする生き方を捨てるのだと、私はそういうように理解しているのですよ。そこから一歩出るということは、今、自分のさせてもらってることにお礼を申し、お詫びして、そこからあらたまるということです。そうしたら、神に出会う。そうしたらその神様は「空が神下が神」とおっしゃるのだ。全てに守ってくださっているのだということに気付くんだということだと、私は理解してるのですね。 その今の自分というのも、一生懸命しているんですよ。一生懸命している自分も、それで良しとしたらいけない。始めから一生懸命していなかったら、良しどころか始めから悪しですから、それはもう論外ですよ。今、私が言っているのは、頑張っている自分というか、一生懸命している自分そのものも、良しとせんという生き方なんです。頑張っているのだからこれで良いでしょう。違うなあ。 では今度は、私自身はどうでしょう。こう思わせてもらった時に、今の話とは全く反対のことになっていますね。反対どころか、庇われていますね。今の自分から前へ一歩出るどころか、後ろへ一歩退いている。それにもかかわらず、あらたまりもない、喜びもない私が、何という勿体ない場に、何という有り難い場に置いてもらっているのでしょうか。最低限、せめてですよ、それのお礼がいるでしょう。最低限、それのお詫びがいるでしょう。そこからですよ、そこからなんですよ。これで良しとしたらいかんのに、これで良しとするどころか、せっかく教えてくださっていることに対しても、目を瞑り、耳を塞いで通っている。それなのに、これ以上ないおかげを頂いている。申し訳ないですね。勿体ないですね。 勿論、おかげを頂いているということは、助けていただいているということですよ。勿論、助けていただいているということは、自分の思い通りにはならないということですよ。そこらへんが…。よく言うでしょう、「霧の中を歩いていると、全く前が見えない」。2メートル前も見えない。ところが、よく湖なんかに霧がかかっているでしょう。ボートを漕いでいて、どうして良いのか分からんけれど、その霧からぱっと出た途端に、前が開けていくでしょう。 私、2回経験があるんですね。1度目は諏訪湖。大学生の時に、ローバースカウトでキャンプに行って…。突然霧の中に入って、まったく前が見えませんでしたね。3台のボートを出していたのですが、声を掛けあって進みました。少し進むと前が開けて、まるで何もなかったかのように…。分かりますか。霧ってあるでしょう。特に湖にかかる霧ってね、白い固まりが動いて行くのです。止まっていたら、本当は霧の方から動いてくれたはずなのに、怖いから漕ぐわけですよね。あの時は本当に守っていただきましたね。そして抜けた瞬間に見えた。 分からん時は分からんのですよ。だけど分かった瞬間に見えてくるんですよ。その差と言うのは、10メートル向こうに霧が晴れる線が有ろうが、1メートル向こうに有ろうが、分からん時は側(そば)まで来ていても分からんのですよ。今は霧のまん中に居るのか、もうすぐそこが霧の出口なのか、分からんのですよ。開けてくるということはそういうことです。 今日は、特に関西は「ごとび(五十日)」とこう申しますよね。この月最後の「ごとび」でしょう。「ごとび」って分かりますね、5日、10日、15日、20日、25日。「ごとび」ですね。大阪は商売の街ですから。道路も込みますしね。全てに守ってもらわないといかんのですよ。 自分が一生懸命してるからといって、取引先に何かあったら…。だから取引先まで含めてお願いができていたのか。そこで反省しないといけませんよ。自分のとこばかり考えていたんじゃないだろうか。いや、自分のところと取引先、そしてそのもう一つ向こうにある、世のお役、人のお役というところをお願いできていたのか。もしかしたら自分の会社とか、自分が儲かれば、楽になれば良いとだけ思っていたのではないか。そこまで含めてのお祈りですからね。 そう思うと、特に今日という日は守られなければいけませんね。取引先に何かがあっても連鎖的にくるんですよ。そうでしょう。全てに守りに守っていただき、恵みに恵まれなければいけないのですね。そのためには、一寸のことこそ大切に…。どうぞ今日1日を本当にお礼の申せる日として頂かせていただきましょう。 |