淡路地区信徒大会教話
教会長 三宅光雄               11年8月7日



皆さんおめでとうございます。本日は『御布教八十五年記念大祭』をお迎えする「淡路地区信徒大会」を、お天気に恵まれまして開催させていただきました。皆さんも全てに恵まれ、私自身も大変なお繰り合わせを頂いて、ここに参加させていただいているのですね。今日は泉尾教会ではこちらの「地区大会」の他に、先ずご本部での『少年少女全国大会』に若先生と30名程のご信者が参加され、大阪では今年2回目の「信徳殿」が開催され、その他に、「白浜会」と「枚方会」で月次祭と…。同時刻に5ヶ所での行事祭事が行われているのですね。本当に勿体なく有り難いことですね。私も「信徳殿」が終わって直ぐに車で泉尾を発って、ギリギリ来させていただいたのですね。本当に有り難いことですね。

先程の感話の方も「強いご縁」というお話をされました。結婚を考えられたとき、お見合いされたご主人が自分と同じ金光教のご信心。そして今、気仙沼教会という名前が感話に出ましたね。私も4月のご大祭直前に、そして常盤台の先生は3月末から、気仙沼教会で奉仕させていただいたのですね。その後、泉尾教会の青年会員もボランティア奉仕に行っておりますね。このように大変なご縁の中で、私たちはおかげを頂いている。有り難いことだと思わせていただくのですね。

折角ですから、私とこの淡路との「ご縁」ということを話しますと、今日は高速道路で「一宮(いちのみや)」という所から降りたのですね。普段は、「生穂会」に来させていただく時には、少し手前の「東浦(ひがしうら)」で降りるのですが、今日は高速で「一宮」まで来ました。そして少し地道を走りますと、ふっと見ますと「伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)…」。あっ「伊弉諾神宮」だと思って見ましたね。

あれはちょうど40年前。私は教会のボーイスカウトのシニア隊に入っていました。高校1年生。その時にキャンプがこちらであったのですね。その時に「夜間ハイク」がありまして、生穂から、淡路の東海岸から西海岸まで歩いたのですね。その途中で休んだのが「伊弉諾神宮」なんですね。ああここにあったのか…。生穂からたぶん8キロぐらいですか、しかし真夜中でしょう。道も分からんところを、地図1枚渡されて、磁石と水と地図1枚で、高校生が3人か4人で班になって、急に「行ってこい」と言われたんですね。その時のチェックポイントが「伊弉諾神宮」。真夜中に歩いたことを思い出しましたね。「この地域にも本当にご縁があるなあ」と思いましたね。これが40年前。

そして30年前には、大恩師親先生のお伴をさせていただいて、「津名港(つなこう)」。当時の「地区大会」はこちらに来るにはフェリーでしたよね。港にフェリーが着くと、大勢のご信者が津名港まで迎えに来ておられた。たしか「志筑(しづき)」で「地区大会」があって、30年前と25年前にお伴をしたことを思い出しましたね。

こちらの名前が「ふるさとセンター」。良い名前ですね。私にとっての「ふるさと」というのは、1つは母の里であります「滋賀県の高島町(たかしまちょう)」。ここにもよくボーイスカウトでキャンプに行かせてもらった。そしてもう一つのふるさとが、多分こちらでしょうね。若い頃、夏にキャンプに何度も来させていただいた。そういう「ご縁」がある。今、思い出しましたが、「生穂集会所」の「いこいの家」で、私が大学生の頃かな、今から35年程前。山の上(「いこいの家」)で熱を出した子がいて、確か「生穂集会所」前に病院があったでしょう、あそこまでその子をおぶって山の上から下りてきた。いろんな思い出があるんですよ。「チェルノブイリの子供たち」…。もう25年も前ですか、あのチェルノブイリで被災した子供たちを、長期にお泊めしたこともありましたね。

その中で特に、今も感話にも出ましたが、16年前の1995年、平成七年1月17日の朝5時46分。正確に言いますと52秒。「阪神淡路大震災」があった。私は、大恩師親先生のお伴をして寒修行中でした。大恩師親先生は4時からの、祈りの塔での御祈念ののち、5時40分にあらためてお広前へ「お出まし」になる。「お出まし」のお伴をさせていただいたのち、一旦部屋に戻らせていただいて着替えを、丁度着物を脱いだところに、ガタガタときたんですね。あの時はガタガタではなく、ドーンという音がした。大変大きな縦揺れでしたからね。勿論こちらの地域の方は私が感じたよりきつかったはずです。震源地ですからね。震度7.2。とても大きな地震でした。そして大きく横揺れしたんですね。直ぐに広前に行かなければと思って、とにかく白衣を着てお広前へ。着いたら5分位たっていたから、たぶん52分位だと思う。そうしましたら、大恩師親先生と二代親先生は、神様と霊様の前に仁王立ち。

大恩師親先生がご神前で、二代親先生がご霊前で呆然と立っておられた。すぐに側まで行きますと、内殿の八足台。三宝にお神酒さんをお供えしてある台があるでしょう、あの八足台の三宝も全て落ちて、大きな鉄の灯籠(とうろう)が倒れていた。そして所員が床を拭いているんですよ。その床には御神酒のガラスが割れて、突き刺さっていた。大恩師親先生は神様で、二代親先生が霊様でご祈念をされていた。その時に大地震。どちらも灯籠もお神酒も外向けに倒れた。お座りになっておられる半畳の膝衝(ひざつき)のところを避けて、外へ外へどっちも落ちていた。あれが内向けに落ちていたら、頭の上に落ちてきたら大変なことになっていた…。

実は、朝の7時50分位でしたか、大正区の三軒家西の辺りは停電したんですよ。泉尾教会の辺り400メートル四方が…。変電所がやられたのですね。そして約12時間。夜の8時前まで何の情報も入って来なかった。私は完全に大正区の辺りが震源地だと思っていました。そして電気が来てテレビがついた途端に、ブラウン管の中で神戸が燃えているんですよ。12時間前にも映ってたんですよ、しかし最初はニュースでも、「兵庫と大阪で地震がありました、しかし大したことはありません」のような言い方をしていた。それで電気が消えて12時間経ったら、大変なことになっているというニュースが飛び込んできたのですね。それで直ぐに奥へ集まりまして、大恩師親先生と二代親先生と三人で話しました。そうしたら二代親先生は、先ず信者の情報収集とおっしゃいました、そしていろいろと準備をして、救援に飛び出したのが19日早朝。幸いにも津名港へ行く大阪築港(ちっこう)からの高速艇は動いていました。私は所員の柳川を連れて、朝一番の高速艇でこちらへ来たのです。震源地の北淡(ほくたん)までも行きましたよ。

あの時に私が行かせてもらってご祈念をさせてもらったお家が、後で数えますと「生穂集会所」も入れて47軒。ご祈念をさせてもらった。それは後で記録を見て分かったのですね。その時は数えないで回っていました。それが16年前。同日、善信先生・修先生は神戸に行かれた。そして私は20日から神戸に行きましたね。一番最初に私はこちらの淡路島に来たのですね。その時には、仮屋浦教会にも行かせてもらった。お教会で「親先生のお祈りを頂いて参りました」と私が言いますと、「もうこれでおかげを頂きました。ありがとうございます。助けていただきました」勿論、仮屋浦教会は泉尾教会の手続(てつづ)きとは違うのですよ。しかし泉尾教会の信心を頂いておられますからね…。だから本当に喜んでくださった。あれが16年前。それから先代の教会長が亡くなられた、お葬式にも参拝しましたね。あれが11年前でしたか…。

「ご縁」ということから始まって、「天にまかせよ地にすがれよ」という講題のお話をする前に、話が長くなりましたが…。一言で「ご縁」と言いますが、全く気付かんと横を通っていても、すれ違っていても分からんことだってあるんですよ。気付くから「ご縁」だと言っているけれど、通り過ぎたら分からんことだっていっぱいある…。

この度の『東日本大震災』。皆さんは3月11日の午後2時46分、何をされていたでしょうか。私は、この4分後の50分に、この震災が分かったのですね。京都から大阪に戻る車の中で、ガタガタガタ…。「親先生4分ずれていますよ」…。実際に4分ずれているのですよ。震源地からこちらまで地震の揺れが伝わってくるのにね…。始めは横風かと思って危ないと思いましたね。それとも車がバーストしたのかと思いましたね。しかし揺れ方がおかしかったので、「スピードを落としなさい。横に止めてください。バーストですか」。「いや地震です」。「直ぐにサービスエリアがあるから、そこに入りなさい」。車を止めてテレビを直ぐに見たのですね。そうこうしているうちに、全てのテレビ局が日本地図が出てね「津波警報」。この辺りは黄色でしたね。ウワーこれは大変だと…。私は過去にこのような赤色の警報は一度しか見たことがないのですね。しかし今度は全国的…。

その時は、「WCRP世界宗教者平和会議」の役員会が京都で終わった後で、勉強会が同志社大学であった。私は役員会で用があったので帰ったのですが、善信先生は同志社大学での勉強会に出ている。直ぐ電話をして、一番最初にしたことは何かと言いますと、「『日本レスキュー協会』に電話をしなさい」と指示をしました。レスキュー協会というのは犬ですね。救助犬です。泉尾教会のチャリティーバザーにレスキュー協会が来てくださっている。あの救助犬ですよ。そこに「直ぐ電話をしなさい」と…。そして「最大限の支援をするので1頭でも多くの犬を派遣してください」と…。犬を1頭派遣するといっても費用がかかる。国内ならそんなにかかりませんが、海外なら場所によっては100万円近くかかるのですね。

スマトラ沖の大地震を皆さんは覚えておられますか。「TSUNAMI」という言葉が世界語になった、あの大地震ですよ。あの時に亡くなった人は確か22万人。勿論1人も10万人も、人の命は同じですよ。しかし22万人という数は…。今度の『東日本大震災』も、戦後最大級の惨事。その10倍以上の方が亡くなった。22万人の方が、インド・バングラデシュ・ミャンマー・スリランカ・マレーシア、勿論インドネシア、その他の国を合わせて22万人が亡くなっている。本当に大変なことですよ。

あの大地震が12月の26日に起こっている。泉尾教会には「人類共栄会」。皆さんの多くの方も「人類共栄会」の会員になられておられる。皆さん方が会費を納めてくださっている「人類共栄会」の働きが、これほど世界に認められたことは今までになかったのですよ。ちょっと話は横へ飛びますが、12月26日だったのですね。しかし28日にはもう現地で動いていたのですよ。これは「AYC世界連邦アジア青年センター」…。たまたまですがベンガル湾の辺りには、あの辺りには「アジア青年センター」の活動拠点が多くあるのですね。そこに対して私は27日には銀行より送金をしたのですね。それで直ぐにそのお金を引き出して、それで「水を買って」とEメールを使って伝えたのですね。これは『阪神淡路大震災』の、その時に一番最初に必要だったのが水だった。とにかく人間が生きていくためには飲み水なんですね。特にあの辺りは、翌年の6月に行ったのですが、そうしたら海岸から1キロほどは何にも残ってなかった。今の気仙沼だとか石巻と同じですね。何にも無いのです。何にも無くて集落に残っているのは、何本か立っている壁と塀と、井戸の穴とトイレの穴だけかな。ということは、津波が来てそして引くときに、全部海へ引っ張っていったのです。津波が怖いのは、押してくるのも怖いのですが、引っ張っていくのがもっと怖いのですね。それで井戸にも大小便が混ざってしまうのです。だから飲み物が無くなる。そのことで亡くなる人も多いのですが、その後で赤痢とかコレラとか、そういうような病気で亡くなる人が大勢いるのですね。

『阪神淡路大震災』の時に経験したことですが、その時に、あるご信者さんのお宅へ行ったのです。その方は足が悪いので、きっと飲み水にも困っていると思ったのですが、ところが水はあるのですね。どうしたのですかと聞きますと、隣の方が水を運んでくださった。私たちはここを気を付けないといかんところですよ。「困っている人が困っている人を助けているのですよ」。東北地方でも、困っていない人は、世間で言う高見の見物とは言わないまでも、本当に動いているのは困っている人がボランティアをしているのですよ。本当は、困っていない人の方が助けられるはずなんですよ。しかし実際は…。

勿論助けているんですよ。しかし多くの方は現地で困っている人たちなのです。私は何度も行かせてもらって、4月も5月も6月も7月も行かせてもらいました。これからも行かせてもらうことにしている。毎月違う立場で、違う働きで行かせてもらっています。
先日も、地域のボランティアの責任者になっている方が、共に活動をしてお別れする前に、最後に言われたのは、「皆さんも頑張ってください」とおっしゃった。本当は反対ですね。そして「私も実は被災者で家内がまだ見つかっていません」…。私はそのことを聞かせてもらった時に、本当にこれでよいのかと思わせてもらいました。

この3月11日の2時46分には皆さん何をしておられたでしょうか。私は車に乗っていたのですね。そして「日本レスキュー協会」に連絡をするというところから始まって、泉尾教会の働きは、大変な働きをさせてもらっているし、まだまだ足らんのです。何もできていない。目の前に困ってる人がいるのですから。勿論震災だけではないのですよ。他のことを忘れてはいけません。例えば泉尾教会はUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)を通して、リビアでの難民の支援もしていますよ。大震災前に「フェースブック」で火がついて、確か今、エジプトのムバラク前大統領も裁判になっているでしょう。リビアの人々に対しても支援をしてるんですよ。大震災も、海外のこのようなことも、他のことも、困っているということに差はないですからね。

隣の人が困っているのと、10軒向こうの人が困っているのと、地球の裏側で困っている人がいるのと、それを知っているか知らないかによって違いますよ。たまたまそういうことの「ご縁」が、さっきも話しましたね、ご縁がある。

UNHCRには昔からご縁がある。ケニアのナイロビで「WCRP第4回世界大会」があったのです。27年前かな。私は行けなかった。大恩師親先生が国際委員長として、WCRP全体の責任者になられた時のことです。その世界会議が終わる間際に、現地の宗教者が、「こんな会議をしても意味がない。それよりも今は…」。あの頃のアフリカは大変な飢饉だったんです。「ケニアでは食べることができん人が出だしてるのに、その声も聞こえんと何が世界平和だ」と言うのです。そのことにみんな一言もよう答えんかった。その時に大恩師親先生が「分かりました。させてもらいます」とおっしゃって、言うだけなら誰でもできる…。

大恩師親先生は直ぐに動かれた。たまたま竹中工務店という日本のゼネコンがナイロビで仕事をされていた。アフリカと言ったらそこら辺にゾウやライオンがいっぱいいると思うでしょう、そらおるんですよ、おらんとは言わん。しかし都市は大阪や神戸と変わらない。ビルがボンボン建っている。そしたら「そこへ井戸を掘りましょう」ということになった。ケニア西部のブンゴマ村に、隣国ウガンダから大量の難民が流れ込んで、UNHCRが「国連難民キャンプ」を作っていました。そのWCRPの会議で発言した方がブンゴマの方だったんです。たまたまの「ご縁」でしょう。ブンゴマという地域に井戸を掘ろう。調べたら掘れないんですよ。掘れたら誰でもしている。そこのところを、どうしたらできるかと言ったら、十何キロもパイプラインを引けば、ブンゴマまで水を送ることができる。それは大変やと…。

即断でしたよ、「直ぐやってください」…。1ヶ月以内に完成をさせて欲しいとおっしゃった。その名前が『恵みの泉』。そののち、大恩師親先生はもう一度行かれた時に、その『泉』のところで、こうやってね、頭をお土地に付けられて、土下座をされた写真が、何年前かの写真集に載っていました。『信ひとすじ』。65年祭の時のだから、今から20年前の写真集に載っていましたね。

目の前に困っている人がいたら、その人を助ける。しかし目の前で出会っていても、「ご縁」がなかったら、それすら分からないですよ。「ご縁」があって、そのことを知って、困っている人がいたら、助けずにはおれんというのが大恩師親先生のご信心。助けずにはおれんのです。何ができるか分からん。しかしできる限りさせてもらいたい。だから私も助かっている。皆さんも助かっているのです。助けずにはおれんのです。今も言いましたね、「ご縁」なんです。

だから泉尾教会には、今は名前を全部変えましたが。勿論建物も施設も、名前を変えましたが、インドにもスリランカにもネパールにもバングラデシュにも、当時は「ミヤケホーム」いう名前の孤児院があった。今はそれぞれの名前に変えました。その支援も今では自立できるように、教育プログラムを作って学んで、今では自立をしています。しかし昔はそうではなかった。一番最初は28年前のインド。ムッチェラ村と言う村。やはり「ご縁」があって、WFM世界連邦のアジアセンターの会議があった。その時にその会議で、「私のところが困っています。どうぞ助けてください」という願いを、大恩師親先生が聞かれて、「ご縁」ですね。「ご縁」というのはそういうことから始まっているんです。もっと言えば、神様がその方と会わせてくださっているのですね。

先ほどの感話の方のお話でも、「ご主人になる方が金光教の信者さんでした…」。それはたまたまかといったら、実は違うのです。神様が会わせてくださっている。それを知らんと行き過ぎることもあるんです。こっちが気付かん。これはいろんなことにあるのですよ。例えば病気をしました。会社が苦しいです。いろんなことがある。けれどもそれを知らなかったら、お気付けを知らんまま通り過ぎている。「おきづけ」。気付きなさいと言うことですよ。そのことをちゃんとこちらが分かったら、それはお気付けとして頂ける。そしてそれが自分のあらたまりに繋がる。それがたまたま通りかかった人が、その人に関係のないことだったとしても、人を助けられる。関係ないと思っていても、そこで自分が気付いたら、人を助けることができる。それはみんな神様のお働きの中で、私たちはいろんなことに出合わせていただいてる。

今日は講題が、「天にまかせよ地にすがれよ」。「お任せ」。例えば今日のこの「地区大会」。誰々さんに任せていますから、私は付いていくだけです。その日だけ参加したらいいんです。これはお任せしたんじゃない。結論を言いますよ。「お任せ」をいうのは、任せておくからそれでよいのではないんですよ。最大限の努力をしますいうこととイコールなのです。お任せしますというのは、私が最大限の努力をしますという誓いと、そして結果はお任せします…。分かりますか。任せておくと言っておきながら、その結果が悪いやないかというのは、人間関係でもこれはお任せやない。ましてや神様に対しては、最大限の努力をしますと誓えることがお任せなんです。分かりますか。最大限の努力をしますということが、神様にお任せしますということなんです。

それは、私が私のできることを、神様に向かってさせてくださいと願うことが「お任せ」。しかしそれをせずにお任せしているからいけない。しかしそれにもかかわらず結果は、必ずや神様は私の思う以上のおかげを下さる。私はいつも言う、一人ひとりそれぞれのコップ(自分の器)に入る量は違うでしょう。例えばこっちのコップ(講演台のコップを手にとられて)の方が入る量が多いですね。一人ひとり器の大きさは違うんです。例えば歩くスピードも違うはずです。持てる荷物の量も違うはず。声の大きさも違うし、みんな違うのです。また違っていて良いのです。それをみんな10キロ持っているから、あんたも10キロ持ちなさい。5キロの人もいますし、15キロの人もいる。一人ひとり違う。だけども常に自分は5キロの人は6キロを持たせてもらおう。10キロの人は11キロを持たせてもらおう。15キロの人は16キロを持たせてもらおう。自分の持っている100パーセント。100パーセント プラス 1パーセント。自分の持っている中身を超えさせてもらう。それが努力というものなんです。

「神は向(むか)う倍力の徳を授ける」というお言葉があります。これはどういう意味なのか分かりますか。ただ聞いたら、私が5で向かったら神様は10を下さるというように思われるかも分かりませんが。それなら、20で向かったら40も頂ける。得した得した…。それは違う。「神は向(むか)う倍力の徳を授ける」ということは、自分の持てる力の100パーセントの力にプラス1を足した時。それは人によって違う。一人ひとり違うんですよ。5の人は6で、10の人は11で、15の人は16で、100の人は101なんですよ。1を足した時の(大きく手を上げられて)、この1のここに、神様は倍力の、そしてこの倍力とは無限大ということです。(また大きく手を上げられて)この自分の持てる力を超えた時に、無限大のお徳を下さる。ということは、そこを超えさえすれば神様は無限におかげを下さる。でも超えなければ、自分の器の大きさ以上はないんです。だからこれだけしかできませんとなるんです。神様の力は無限ですよ。

先日も青年大会に常盤台の先生が、前教会長の美智雄先生から若い頃から聞かせてもらっておられる言葉に、青年大会でお話をされた。「山より大きい猪(しし)はない。海より大きな鯨はいない」。分かりますか。「山より大きい猪はいない」…。この辺に猪は出ますか。イノシシですよ。山を歩いているでしょう。そこでイノシシにでくわすとビックリするから、後で、実体より大きなイノシシだったと言うのですが、山の中で出遭ってるのですから、山の方が大きいに決まってる。山の方が大きい。

その時に教えてもらったのは、「神様より大きな難儀はない」と教えてもらったと…。難儀に出遭って、出遭った瞬間にビックリして、大きな問題にぶつかったと言うけれども、神様の中で出合っていることなんです。必ず神様の方が大きいに決まってるのです。それを難儀ばっかり見ているから、「難しいです…。どうしましょうか」になるわけですね。本当なら神様の中で出合ってるのだから、その難儀にまでお礼を申さないといかんでしょう。ということは今も言いました、100パーセントで向かえ。そこからがプラス。その瞬間に神様は無限大の力を…。神様だから難儀より大きい。だから無限大の力を下さる。これが「お任せ」なんです。自分が先ずそのことをしないといかん。それさえすれば必ずですよ、必ず思っている以上の、思ってるどころではないのですよ、神様なんですから、何倍もの力を下さる。私はそう思う。

168日後に、来年の1月22日に『御布教八十五年記念大祭』をお迎えする。168日間、今日からこの「地区大会」のおかげを頂かれた方は、先に神様から、まあ言えばメッセージと言うんでしょうか、お祈りを頂いた。

私たちが信心をしてるのは、なぜ信心させてもらっているのだろう。それは初めは、何かの「ご縁」で、誰かに連れて来てもらってとか、困った問題があったからとか、親が信心しているからとか、いろんなことがあるけれども、もう20年も信心をさせてもらっているのに、「何か困ったことがあるから」ばっかりだったら、それこそ困る。それは信徒会長も「激励の言葉」の中で言っておられた。「御神願(ごしんがん)」。どんな字を書きますか。御(おん)・神(かみ)・願(ねがい)。これは大恩師親先生が御神願というお言葉そのものを神様から頂かれたお言葉ですね。今でこそ金光教全体で「御神願」と言いますよ。しかし…。

神様の願い。私は、こんなこと言ったら語弊があるかも分からんけど、「神様」イコール「御神願」だと思っている。神様の願いこそが神様だと思っている。願いそのものが神様だと思っている。これだけ聞いたら一寸分かりにくいけれども、「助かってくれよ」という願いなんです。「神様」イコール「助かってくれよ」なんです。「氏子よ助かってくれよ」。これが神様なんです。だから私たちは助からないといかんのです。助かることが神様に向かうことなんです。「助かれへん助かれへん」では、神様に向かっていない。

「御神願」。神様の願い。神様の願いというのは今も申しましたね、「氏子よ助かってくれい、助かってくれい」としかおっしゃっていない。他は何もおっしゃっていないのですよ。何にもおっしゃっていない。その「助かってくれい」という神様の願いを現すことが、私たちの信心。そのために信心をしている。そのために命さえもある。そもそもが自分の命だと言っているけれども、確かに自分の命ですよ。だけども自分の命だけの命とは違うんですよ。そうでしょう、両親の命を通して神様の命を頂いてる。その両親もまたその両親の命を通して…。そしてまたその両親も…。しかも頂いた命は、それだけで生きているのとは違う。他の命を食べているんです。野菜も食べて、ご飯も食べて、肉を食べているわけです。みんな生きている命なんです。神様の命。だから授かり物なんです。その万物(ばんぶつ)の頂点にいる人間は「万物の霊長(れいちょう)」と教えてくださっている。だからこそ人間だけでなくて全体のことのお役に立っていかないといかん。

神様は「助かってくれ」とおっしゃっている。だから1月22日には「助かりました」という人を10人も20人も一緒になって参拝しなければいけない。そのためには、助かるためには、これは願わないといけない。何を願うのか。人の幸せと、世のお役に立つことを願わないといかん。これしか助かる方法はないんです。

助かるためには自分のことをお願いするのも確かにありますよ。自分の家族のお願いをすることもある。ないとは言わん。だけど基本的には私の言っているところの人(ひと)というのは他人様のことなんですよ。「人のお役に立つこと」が助かることなんです。そしてこれしか子供に残せないんですよ。「うちは金持ちですから…」。それでは絶対残せない。その財産に「徳」が付いていかないといかん。「徳」が付けば、その財産はいくらでも大きくなる。反対に「徳」がなければ、その財産で喧嘩をして、兄弟喧嘩をして仲違いをしてしまうことだってあるんですよ。「徳」を残さないといかん。そして「徳」を残すためには、人のお役、世のお役に立つことしかないのです。それが「助かり」なんです。

「天にまかせよ地にすがれよ」。「お任せ」ということは自分が努力をしますということです。「お任せ」イコール「自分は努力します」と覚えてください。もう一つ、「御神願」。神様は「助かってくれよ」とおっしゃっている。だから助からないといかん。そして助かるためには、世と人のお役に立つことなんです。もっと言えば他人様のお役に立てる自分であるということに感謝することなんです。それがおかげですね。

本当はもう一つ、親先祖というお話までしたかったのですが、時間がきてしまいました。今日は共々に有り難い時間を持たせていただきました。これがどうぞ168日後に、共々にお礼を申して参拝させていただく。有り難いな、神様に喜んでもらおう、とそう思って、一人ひとり、おかげを頂いてください。