早朝勢祈念教話

教会長 三宅光雄
11年9月23日


今日は霊様の大御祭、「霊大祭」を頂かせていただきます。今年の春も昨年の秋も雨でしたね。二度も大御祭直前の「祈りの塔祭」がお広前での遥拝式(ようはいしき)になりましたね。今日はお天気のおかげを頂いて、「祈りの塔祭」を拝礼殿で、仕えさせていただくのですね。

この霊様の大御祭は、泉尾教会は特に丁寧なんですね。それは大恩師親先生のご信心にあるのですが、そのことは後でお話ししましょう。

皆さん方もご存知のように、信心をさせていただいて先ず最初に「求信(きゅうしん)」があるのですね。求信とは、いくら参拝していても、実は求信とは言わないのですね。初めてお結界に進んでお届けをさせていただいた時が求信日ですね。これは何年何月何日と、日にちが教会に記録される。誕生日と一緒ですね。求信日として記録されているのですね。たまに求信日を間違っている人がおられますね。間違ってはいないんですが勘違いしているのですね。初めて参拝してお広前まで参拝したことを、参拝したとは言いますが、必ずしも求信日とはならないのですね。教会に残る記録は求信日。初めてお結界に進んでお届けをされた日が、教会に残っている、皆さんの求信日となるのですね。

その次に「信徒(しんと)」。これはこのお道を信じて、通常参拝する人ですね。例えば月に1回とか。半年に1回とか…。勿論、月に何度も参拝される方も、日参の方もありますよ、これが信徒。その中から次に「教徒(きょうと)」。これは「改式遷霊(かいしきせんれい)」と言って、自分たちの代だけではなく、親先祖までもがこのお道で助かりたいと願う人を教徒と言い、「改式(かいしき)」(親先祖を祀る)をするのですね。そしてその中に「教師」が居る。ということは、教師になるには学院を出るのですから、必ず教徒でないといかんのですね。教徒でないと教師になれないんです。別に偉さには差はないのですが、その中に教師と信者が居る。泉尾教会では「霊大祭」の前日に、「前日祭」という霊様をお呼び出しする御祭がある。しかし他の多くのお教会では、前日にお呼び出しをするという「前日祭」はないのですね。

私が「お呼び出し」の御用をさせていただいたのは大学に入った年でしたね。19歳の秋からですね。「お呼び出し」の御用のおかげを頂いた。ですが、それ以前より泉尾教会では私が生まれた時から前日の御祭があったので、私は「霊大祭」の前日に「前日祭」は当たり前だと思っていました。しかし今から約30年前。学院を出て、他の幾つかのお教会のことを聞きますと、ほとんどの教会では「前日祭」がないのですね。たとえ「お呼び出し」をされても、当日の「霊大祭」の前か中でなんですね。当日、今年お祀りさせていただいた霊様だけを「お呼び出し」されるのですね。「霊大祭」の前日にお呼び出しという御祭を丁寧にしている教会は、数少ないですね。

「助かる」とは、自分が助かるだけでなく、子供が助かり、親や親先祖が助かり、世の全ての人々が助かるの、この4つがなかったら本当の「助かり」ではないのですね。点と線と面ですね。本当の「助かり」にならん。点だけでは助からん。線だけでも助からん。面で助かる。いや本当から言ったら、時間軸を含めた4次元で助からないといけないのですね。4次元で助かるのです。しかし、4次元で助かるということは本当に難しい。だから、難しいから何もしない。それは違うんですよ。難しいからこそしないといかん。これこそが大恩師親先生のご信心ですね。

難しいからするんですよ。これが泉尾教会の信心です。ここは本当に大切なのです。他のことは少しぐらいずれても、このことだけはずれたらいけないのですね。大恩師親先生がWCRP世界宗教者平和会議を41年前に創られたとき。今でも文章として残っていますね。その前年にIARF国際自由宗教連盟の世界大会に参加された。今から42年前ですね。このIARFの世界大会に参加する前に、いろんなことに刺激を受けられて泉尾教会も正式加盟。たしか立正佼成会も同じその年に加盟でしたね。そして昨年、泉尾教会が正式加盟して41年後に、私がIARFの会長になっているのですからね。IARFの、世界の会長ですよ。有り難く、勿体ないことですね。

IARFは米国のユニテリアンの人々が中心でしたね。その人たちと大恩師親先生と立正佼成会の庭野先生が中心になってWCRPを創ったのですね。そして初めは、1回かぎりの会議としてスタートしたのです。

そういう働き(WCRPを創る)をしようと、ユニテリアンの2人の中心者の方が泉尾教会に来られる。それで「これこれこれでと…」。こんなことをしたいと、こう言われるわけですね。そして「三宅先生はどう思われますか」と尋ねられたのですね。今も残ってるんですよ文章としてね。大恩師親先生は「これは難しい。しようと思ってできることではない」。お2人は大阪の泉尾教会の三宅先生に相談すれば何とかなると思って来日された。一瞬しょぼんとされるわけですね。その時に大恩師親先生は、「大変難しい。しかし難しいからこそ今、私たちがさせてもらわなければいけない」と答えられた。その切り替えなんですよ信心というのは…。皆さんは難しいからで止まってしまう。それは泉尾教会の信心ではないのですよ。もっと言えば難しいという自覚がないんですよ。なぜかと言うと真剣に向かわんと、難しいかどうかさえ分からんのですね。なんとかなるやろうと思っている。真剣に向かったら必ず壁にぶつかるんです。壁にぶつかる。(手を前に出されて大きく振られて)空気はこうしても壁はないでしょう。ところがね、高速で時速1,225キロ(マッハ1)のスピードを超えたら、あのジェット機でさえも音速を超えるときにはブォンと音がするんですよ。音を超える壁。そして衝撃波。必ず壁にぶつかるんですよ壁に…。空気でさえも音の壁にぶつかる。何もない空気でも、もの凄いスピードで飛んだら音の壁にぶつかるんですよ。何事も本気でしたら必ず壁にぶつかるんですよ。壁にぶつからない内は、本気やないのですよ。

私が出張したら出張先から教会所員に電話で聞くんですよ。「今日は何か問題ないですか、大丈夫ですか」と…。「大丈夫です、問題はありません」…。もうあかんですね。やってないのと同じこと。「私は何もやってません」と言っているのと同じことですね。「これが問題です、教えてください」が絶対あるはずなんですよ。なのに「やってます、大丈夫です」…。もうあかんなと、お詫びするのですよ。

空気でさえも、バットを早く振ればブウーンと鳴るんですよ。そして音速を超えれば壁に当たるんです。しかしそこを、難しいからと止めたらいかんのです。だからこそやるんですよ。そしてやるためには、早く振らないといかんわけです。本気でやって難しさが分かり、難しいから神様にお願いし、祈るのですよ。決まっているのですよ。それが泉尾教会の「黄金のルール」です。それが方程式なんです。そこさえしっかりしていたら、どんな時でも、どんなことでもおかげを頂くのですよ。だけど「もうこれは無理かなあ、あかんで」となるか、もしくは「できてます、大丈夫です」になるか。どっちもあかんのです。そうではないんです。それが「立つな座るな、座るな立つな」と言われている中身であったり、「何でもの願い」と言われている中身であったり、「何事も釘付けでない」と言われた中身でありますね。言い方がそれぞれの場で違いますが、そもそものベースはそこにある。

それを分からせてもらわなければ、私は30年信心しています、50年していますと言っても、信心の入口で止まっている。ずっと入口で足踏みだけをしている。その一歩を踏み出すんですよ。この一歩が、だから「お詫び」が出てくるんですよ。「喜び」が「御礼」が出てくる。しかしこれがないから、お詫びになれないのですよ。「頑張ったんですけど」となる。「しょうがないなあ」とか…。そうではないんですよ。だから私が若いころ大恩師親先生に泉尾教会の信心は何ですかとお聞ききしましたら、「足らん者の自覚」とおっしゃった。そしてある時には、「おかげの横領者」とおっしゃった。
もし今信心に、「免許皆伝(めんきょかいでん)」と書いたものがあるなら、皆さんが貰ったら、貰っただけでそれをするかせんかの問題はありますが、それしかないんですよ。泉尾教会の信心はそこにあるんです。本気でしたら必ず壁に当たるのですよ。壁に当たる。

私はそう思いますと、壁に当たっていませんね。申し訳ないことやなと、本気が足らんなと思うんですね。何でもですよ。ところがおかげだけは勿体ないほど頂いている。それはなぜかと言うと、神様・師匠・親先祖。私の場合は師匠と親先祖が重なっていますね。しかし皆さんも同じだと思います。大恩師親先生を他人だと思っている人はいないはずです。確かに血は繋がってないですね。しかし「御神縁」で繋がってる。大恩師親先生はご晩年、「七転八倒して死にたい」とおっしゃった。これは例えばキリストが、人々の罪を背負って死に、そして人々の中に生きる。「復活」と言うでしょう。どの信仰もみんなそういうことなんです。そしてキリスト教で言うなら「愛」と言うでしょう。それが神様と言うのか、天地自然の道理と言うのか、働きなんですね。そこを理解と言うのか、いろんな言い方をするのですが、そこの働きに自分がなれば、何の問題もないんですよ。

しかし、ぶつかることさえしてませんからね。ただ本気になればいいんですよ。一人ひとりの本気を出せば、必ず…。と言うことは、簡単な言い方をすると、駄目だとか、難しいとか、ややこしいという人ほど、大変な人ほど、たくさん問題を貰えばいいんですよ。なぜなら、その方がぶつかり易いから。1個にぶつかって行くのは難しいけど100個あったら、どこかに当たるでしょう。変な言い方ですがね…。

そしたら、これしなさいと言われたら、「有難うございます」。「ハイ」…。答えは決まっているんやけどね。「遠いですから、時間がないですから、年を取りましたので、男ですから女ですから…」。みんな言い訳をする。私は不思議でしょうがないんですね。
私は、もう10年になりますか、左顔面麻痺をしました。その時に、後で聞いたんですよ。家内がね「お茶断ち」をしてくれていた。お茶断ちって分かりますか。お湯を飲んでいたんですよ。そんなことしたからと言って、顔面麻痺が治るのか。そんなことしたから私の左顔面が治るか治らんかというのは、医学的に言ったら別。ところが精神的には違うんです。自分も何かすることによって、共に。お茶を飲むのを我慢して共にという思いで…。後で聞いて勿体ないことやな、有り難いことやなと思った。何か自分はさせてもらわなければ前に進めませんよ。お願いしているだけではいかんのですよ。

お願いをする。勿論それなしではいけません。そしてさらに一歩進むと、壁に当たるのですね。お願いしていたら壁に当たる。そこから一歩越えるためには、何なのかということですよ。私たちはどうしても楽に付いてしまう。大恩師親先生は私が若い頃よく言われました。「寝たいだけ寝、食べたいだけ食べて、どうしておかげが頂けるのか…」。実際には寝たいだけ寝て、食べたいだけ食べてるのではないのですよ。忙しくしているんですよ。だけど食べてないかと言ったら、食べているんですよ。寝てないかと言ったら寝ているんです。「できません、忙しかったです、すみません」と言っているんです。常は3キロの荷物を持てる人が5キロ持ってね、「わあしんどいなあ、もうこれ以上持てません」という時に、「さらにもう2キロ持ちなさい」と言われた時に、「もう私は持てません」と言ってしまうんです。「有難うございます…」。実はその2キロこそが、自分をフワッと浮かせてくれているのですよ。しかし自分が、もしその2キロがしんどいと言ったら、せっかく神様が下さったのにとなる…。

どうぞ今日の御祭、親先祖の霊様に「有難うございます」という感謝の気持ちで、もう一度しっかりと向かい直された上で、それぞれにおかげを蒙られますように。