和歌山会 秋の大祭教話

教会長 三宅光雄
11年11月11日


 皆さんおめでとうございます。只今は共々に和歌山会「平成二十三年 秋の御大祭」のおかげを頂きました。先ほどもこちらに来させていただく前に、和歌山市の奥城(おくつき)に参拝させていただいたのですが、雨が降っているといえども、神様が天に傘を差してくださって…。小雨の中を奥城で御祈念をさせていただきました。奥城でお迎えくださる役員さんには大変な苦心があるのですね。そのおかげ様で小雨でも奥城で土下座させてもらえる。そして御祈念をしている私の上に傘を差してくださって…。本当に有り難いことだと御礼申して、こちらに来させてもらったのですね。

 聖地泉光園の「祈りの塔」の中に、大恩師親先生の御神像があります。そこの床は全部黒光りした磨いた石なんですよ。まるで鏡の様です。そして私が御祈念をしようと頭を下げると、同時に大恩師親先生が頭を下げてくださるんです。どういう意味か分かりますか。御神像がありますね。上からライトが照っている。そして前方からもライト。そこで私が頭を下げると、ライトの加減なのか、この御神像が…。御神像は動かないんですよ。この映っている、床に映った御神像のお姿が、私のスピードと合わせて、実は私が動くからですが、同じように頭を下げてくださる。あれは上からと前方からのライトとの関係だと思うんですが、特に冬はよく見える。夏は4時には外がすでに白んでいるでしょう。意味分かりますか…。私は1年中同じ時間にお出ましさせていただくのですが、冬はまだ外が暗いでしょう。そこへライトが私の後方より照らされている。そして私の前の御神像の上にもあるライトがある。そこで私が頭を下げますと、御神像のお姿は、私に合わせて頭を下げてくださるのです。

 私はこれこそ神様だと思いますね。神様のお姿とは、「神様にお詫びしてお詫びして、私が床に頭を付けて土下座をして、パッと頭を上げたら、まるで土蜘蛛(自分の足より下に頭がある蜘蛛)のように、お詫びしている私を、さらに下から祈ってくださっている神様が、私の目の前におられます」と、大恩師親先生がおっしゃったことがある。それと同じですね。私が拝んでるのに御神像のお姿が…。勿体ないことでしょう。実はそれが神様の御姿だし、大恩師親先生の御姿ですね。

 25年前、私は大恩師親先生のお供をさせていただいてバングラデシュへ行きました。一番古いミヤケホームがインドで31年前にできたんですね。それから2年毎に4ヶ所。3番目に27年前に建てられたバングラデシュのミヤケホームの、その2年後なんですが、大恩師親先生がバングラデシュに行かれる機会があったのですね。そこで、折角行かれるのですから、いわゆるオーナーでしょう。あちらとしては三宅先生が来られるのなら、オープニングセレモニーをしてもらいたいと、計画の決まったとき(2ヶ月前)から願われて…。実際にはホームはすでに動いてるんですよ、2年経っているんですから、しかし大恩師親先生が来てくださったいうことで、あらためてその時に居た2,700名の子供たちも一緒に、オープニングの式典をしたのですね。

 なぜその時にバングラデシュに行ったのかと言いますと、確かAYC世界連邦アジア青年センターの総会があったのですが、それと同時に、今回の「東日本大震災」と同じように、あの時は、25年前にバングラデシュで有史以来最大という洪水があって、大勢の犠牲者がでました。なぜあんなことになったのか…。それは今、タイがそうでしょう。日本だったら水に浸かっても、数日で水は引くでしょう。日本はなぜそんなに早く水が引くのかと言ったら、山から海まで、短距離に高低差が大きく川が流れていますね。日本の地形は急勾配なのですね。タイはね80キロ向こうの街からバンコクまでの間は3メートルしか高低差がないそうです。80キロで3メートルですよ。

 しかしバングラデシュはもっと凄い。国そのものがそもそもヒマラヤのデルタですからね…。いったん水に浸かったら水がなかなか引かない。そういう状態が25年前にあったのですね。私は大恩師親先生のお伴をして行かせてもらって、大阪から1万人分の薬を持って行ったのですね。なぜかというと、その時は洪水というよりその後の、殆どもう9割以上が、その後の赤痢やコレラ、そういう病気で亡くなったのですね。大半がその後の衛生状態が悪くて亡くなったのですね。その薬をエルシャド大統領に直接手渡したのですね。大統領官邸に大恩師親先生のお伴をして行きました。

 それに、25年前には泉尾教会でメガネを集めましたね。使わなくなったメガネを皆さんに「ください」と言って、この中で誰か覚えてる人はありますか。どんなメガネでもいい。日本だったら目にメガネ(レンズ)を合わせるでしょう。しかしその時は、そこにあるメガネの中で、一番自分に合ったメガネを貰う。500個くらいの中から選ぶのですね。今でもそうですが、25年前のバングラデシュは、世界の最貧国のひとつでしたからね。確か当時は日本の200分の1の経済力でしたか…。

 25年前にダッカのミヤケホームのオープニングセレモニーがあったんですね。その時はミヤケホームに2,700人の子供が居ました。全ての部屋や教室に3段ベッドですね。それは、ベッドの数しか子供を収容できないからですね。ベッドは1人の幅が40センチくらい。そしてこんな短い柱で…。実際には一番上では危なくて寝ていないのですよ。なぜならベッドの数が2,700人分あれば2,700人の子供を収容できる。本来は900人の計画でホームを建てたのですね。だから教室でも廊下でも子供たちが寝ている。当時は、ホームの外では、水がすでに1ヶ月以上も引かず、両親もしくは片親が亡くなってしまえば、貧しい家の子は死ぬかもしれない。

 皆さんも戦後を経験された方は知っておられるでしょうが、今度の被災地もそうだったとのことですが…。私はその時、亡くなった人をずらっと道路に並べて置いてある(安置している)状態を見ました。まるで物のように並べて…。それをどうするのかと聞いたら、そののち役所からトラックが回って来て、荷台に積み込むというのですね。それをしないと衛生状態が悪くなりますから、誰の誰兵衛か分からなくても一緒に荼毘(だび)に付(ふ)すのですね。一人ひとり葬儀をしている余裕がない。当日、ミヤケホームに行く途中には、そのような道を通りましたよ。

 それまでの私のイメージは、孤児院の子供たちは「かわいそう」でしたね。しかし違うんです。ミヤケホームに居ればまがりなりにも食事が頂ける。私も一緒に食べましたが、お腹だけはいっぱいになるのですね。おかゆみたいなご飯にカレーですね。

 その時に、大恩師親先生が2,700人の子供を目の前にされてお話をされた、そのお言葉が未だに、25年前ですがあの時のお姿、あの時のお声が…。あの当時は私は写真係をしていました。ところが、写真が撮れないのですね。感激して、動けないのです。こんなに泣いたことがあるのかというぐらい泣きました。その時大恩師親先生は、その子供たちに何とおっしゃったのかと言いますと…。ゲストの市長さんだとか来賓が話されて最後に、「ここを寄贈してくださった日本の三宅歳雄先生です」と紹介されて…。大恩師親先生が立たれてお話しされる。勿論日本語です。それを先ず英語で通訳して、その英語をベンガル語にもう一度通訳するのですね。二重通訳ですね。2,700人の子供たちは二重通訳で聞いていたのですね。そして私は写真係をしてたのですね。

 そのスピーチの最後に大恩師親先生は「あなた方にはお礼がいります」とおっしゃった。「そしてそのお礼は私にするんじゃないのですよ。そのお礼は、あなた方の後に続く子供たちのためになる人間になることです」…。その瞬間に私は涙が出てきました。あんなに泣いたことは生まれて初めてでしたね。たぶんコップ一杯くらいは…。人間の身体に涙があれほどあるとは…。止まらないんですよ…。どんどん涙が出る。ウォンウォン泣いてる。もう写真が撮れない。

 「あなた方にはお礼がいります。あなた方は後に続く子供たちのためになる人間になることこそがお礼です」…。それは、そのまま私にかけられた言葉だと思いました。私ほど恵まれた者はない。なぜかと言うと、蹴ってもらっているんですよ。普通だったら蹴りませんよ。だいたいは「よしよし」と言ってもらう。それは絶対駄目。そうでしょう。もし一回しかご飯を食べに行かないお店だったら、もし問題があっても、「美味しいですね。良かったですわ」と言って終わりです。でも家だったら、もう一寸辛くして欲しいとか、もう一寸硬くしてとか。それは一番大事な奥さんだからです。ということは、蹴ってもらえるということは一番有り難い。叩いてもらえるということは一番有り難い。期待していなかったら、叩くのも大変ですからね。だって、1回で分かってもらえればいいですが、10回も20回も言わないといけないのですからね。しかも10回言っても分かってくれないかも分からない。それでもまた言うのだから…。これは有り難い以外にないでしょう。私にかけておられる。だから一番恵まれているのですね。

 そのお言葉は、私に向かって言っておられるのだと思いましたね。勿論そこに居てる大勢の子供たちに向かって言っておられるんですよ、2,700人の子供たちに…。ところがここが不思議、ここに奇跡が起こった。それまでは、大恩師親先生のお言葉は二重通訳をしていたでしょう。それが、だんだんだんだんと大恩師親先生のお言葉に、子供たちが直接拍手をするわけですね。直接、日本語に子供たちが反応し出したのですね。だからあれは、あの時は言葉の壁を超えたんですね。大恩師親先生が「しっかりやろう」と言われた時には直ぐに子供たちがウワーと言って拍手をしていましたね。私と同じタイミングで子供たちが感激していた。泣いている子もいた。不思議でしょう。英語でもなければベンガル語でもない、日本語ですよ。大恩師親先生のエネルギーがそのまま子供たちに伝わった。もうそこは1つの固まりでしたね。あそこを知っている者は、そこに居た者は本当に幸せでしたね。あの場に本当によく居させてもらえた…。

 それと実は同じことが皆さんにもある。皆さんも大恩師親先生・二代親先生、まあ私は不十分ですが、私もそうさせてもらおうと祈っていますが、そういう大きな祈りの中に皆さんたちはいるんです。私たちはそういう大きな祈りの中にいることを忘れてはいけない。恵まれているということなんですよ。

 「何で私ばっかりきついことを言われるんだろう…」。「私は3つ荷物を持ってるのに、あの人は荷物を1つも持っていないのに、なぜ私に4つ目を持てと言われるのか…」。「私はもうよう持ちませんわ…」。そうなれば私はどう言うかと言いますと、きっと「よしよし」と言うでしょうね。もし師匠に「よしよし」と言われたら、今は良くても必ず次の代で駄目になっていく。だから「厳しい」こそ有り難いのですよ。そこで自分が恵まれていることに気付き、「ようも教えてくださいました。叩いてくださいました」ということですよ。それが分からないといけませんね。私はそれをその時に感じました…。「私こそ恵まれた者だから、他人様(ひと)のお役に立たないといけない。他人様(ひと)のために何でもさせてもらわないといかん」。それは、自分にかけられた大恩師親先生のお言葉であると思ったのですね。だから私も泣きだしたんですね。本当に人間はあんなに泣けるのかと思いましたね。

 もし私が皆さん方に、「よしよし」と言いましたら、「ああ一寸あかんな」と思わないけませんよ。「よしよし」と言われたらあかんのですよ。「ご苦労さんでした」と言われたらあかん。「もっと頑張れ」と言われたら、笑顔で「有難うございます」…。

 感激して、それと同じ思いが私にかけられてることを感じたのですね。それがどこかでゆるんだんでしょうね。37歳の時に死ぬような病気にかかった。肝臓ですね。それから7年後にですね。その時に大恩師親先生は御神酒を吹いてくださった。一升瓶で3分の2ぐらいですね。肝臓だのに頭に。お腹に吹いてくださるんだろうと思っていたら、頭に吹かれた。それは私を「まるごと」お詫びされ、願ってくださった…。

 「世人のためにつくす人になれ」という願いは、私にかけていただいている願いだと7年前に思ったのに、それからの私はゆるんでいたのですね。それでその時に思ったのです。「私はこれで一度死にました。ここからの人生は、人のために生きる人生です」と…。実は皆さんも同じなんですよ。

 今日参拝されてるということは、大変なことなんですよ。そのお礼をしないといかんのですよ。『御布教八十五年記念大祭』ということは、自分だけ参拝してもあかんのです。勿論これは、おかげを頂いてる、この人にと思う人にこそ厳しく言っているのですね。極端なことを言って、信心が1年生には、「参拝しておかげを頂きましょう」と言いますが、3年生くらいになったら、「自分のことは自分でしっかりしなさい」と言いますね。そして高学年の5、6年生には、「他人様(ひと)を道引いて、それが自分の助かりとさせてもらわないといけません」と言いますね。もっと言えば、生徒会の役員の子には、小学校でもあるでしょう、生徒会。「もっと全体のことをやらないかんよ。他人様(ひと)のお世話だけしなさい」と言いますね。今日参拝されてる皆さん方は生徒会の役員ですね。「私は信心させていただいて30年です」と言われても、まだ信心はピカピカの1年生ではいかんのですね。勿論常に新しい気持ちというピカピカは良いけれども、信心が入口で止まってるような1年生では困る。他人様(ひと)をお道引きして、そしてその人と共に助かりの道を歩む…。

 「われひと共に助かる」と言うでしょう。でも本当は私から言うと、「ひとわれ共に助かる」なんです。この違いなんですけどね。一緒なんですが違うのですね…。「ひとわれ共に助かる」と、「われひと共に助かる」は同じように思われるかも分かりませんが、私から言ったら違うんですね。その辺の差だけなんですが、実は凄く大事なんです…。

 有り難いでしょう私。ご信者さんに心配していただくのですね。「親先生、寝られる時間はございますか」と聞かれるのですね。「寝てますよ。有り難いですよ」…。私は「寝られません」という人が分からない。疲れたら絶対寝られますよ。私なんか車に乗って動き出したら直ぐに寝てしまいますね。疲れていたら必ず寝られますね。「寝られません」というのは、疲れてないのですね。我(わ)が儘(まま)してるんですよ。一生懸命やらせてもらったら、何事にも一生懸命向かわせてもらったら、祈らせてもらったら、必ず寝られますよ。常に私が言わせてもらうのは、「昼間にお礼を申しなさい」と話すのですね。

 あるご信者がよく聞かれるのです。「親先生、これはどんな病気でしょうか」…。「私は医者やないから詳しくは分からないね」と言いますと、その人はだいたい私に「喜びが足らんのですね」とおっしゃる。そうすると「そのとおりですね」と言うのですね。その人は、私に「喜びが足らん」と言って欲しいのですね。本当は自分でちゃんと答えを持って参拝されているのですね。「そうですね、喜びが足らんのですね。一緒にお詫びをしましょう」と、そうお答えし、共に祈るのです…。

 頂く物事に本当にお礼を申してください。当たり前に頂けていないんですよ。たとえ病気であっても今日生かされているんですよ。これはものすごく大事なことなんです。言っておきますが、皆必ず病気はするのですよ。私は何度も話していますね。「信心したら死なんとか、信心したら転(こ)けんとか」。もしそんなことを言う先生がいたら、だいたいインチキですね。分かりますか、まやかしです。「信心しても死にます」と私は言いますでしょう。人間は絶対死ぬ。死ぬんですよ。大恩師親先生も亡くなりました。二代親先生も亡くなった。勿論大恩師親先生は大変な信心をしておられた。いや教祖様も亡くなっている。死ぬんです人間は、絶対に…。「信心したら転けん」。「転けます」。ところが転けているのですが、必ずおかげを頂いているのです。

 死ぬと言ったって、さっき私は十八年前に死ぬところを通りましたと言ったでしょう。肝臓の数値(GOP)が3,500を超えているなんてありえない。そうでしょう。今の私は27ですよ。標準値ですね。それが3,500もあったんですよ。死んでいる。いや「死んだんです」。だから「生まれ変わった」と言ったでしょう。そしてその生まれ変わったのは、「人のために」ということんなんです。それがなかったら生まれ変わったのとは違うんですよ。ところが、躓(つまず)かんというところを、いや実は躓いてるんですよ…。

 ここにも風邪のウィルスいっぱい居てるんですよ。ところが、風邪を引く人と引かない人がいるでしょう。ウィルスはいっぱい居てる。決してウィルスは風邪を引いた人の前だけに飛んでいたのではない。なのに風邪を引く人と風邪を引かん人とがいる。なぜなんでしょう。勿論、風邪を引いたら悪いという意味ではないんですよ。そうしたら、そこで考えるんですよ。そこでお詫びとお礼がいるんです。特に風邪を引いてない私にはお礼がいるんです。分かりますか。

 怪我をして、病気をしたら、その人にはお礼とお詫びがいるんです。同時に病気をしていない人はもっとお礼とお詫びがいるんです。ところが人間はおかしいんですね。病気をするまで、本当の意味での健康の有り難さが分からない。私も死ぬか生きるかというところを越えてふと思った。30歳の時(7年前)にそうだった、私にかけていただいた思いだったということが分かっていながら、緩みゆるみ、我が儘、ご無礼があった。そういうことを含めて、大恩師親先生が頭に御神酒を吹いてくださって、命を繋いでくださり、生まれ変わらせてくださった。

 しかし、この命は、皆さんも同じなんですよ。世のため人のために使わせてもらわなければ、本来死んでいた命。ねえ、だから「死ぬことは怖くない」んですよ、そういう意味では。本来皆さんも一度や二度は死んでいる。もっとかも分からない。「日が暮れたら大晦日と思い夜が明けたら元日と思うて…」。毎日、翌朝当たり前のように起きれてるということは大変なことなんです。だけど普通に起きていますね。起きたどころか「眠たいなあ、今日は仕事に行きたくないなあ」と思ってしまうんでしょう。申し訳のない、おかしなことですよ。そんなもの、起きれないでそのまま寝てしまってたら、それは思えませんよ。第一寝たままということは、亡くなったということですよ。死んだら「いやだな」さえないのですよ。そう思えているということは本当に勿体ないのですよ。

 そういうことは、生きている証拠(あかし)ですよ。「死んだら辛くない。辛いということは生きてるということなんですよ」。今メモをとってる人は、この一行はしっかりと書いておいてください。「辛いが生きている証拠」だと…。「生かされている」のですね。そうでしょう。そうしたら辛いことにお礼申さないといかんのですね。それを、「難あり、有り難し」と大恩師親先生はおっしゃった。私の話は回りくどいですが、大恩師親先生は直球でズバッとそこだけ言われる。だから有り難いんですね。

 それを、その喜びを、私は30年も信心していますが、未だにピカピカの1年生ですではあかん。人間成長、信心成長をしないといかんのですね。それがご布教八十五年であり、九十年であり、百年である。「いや親先生、私はもう100年までは無理ですわ…」。100年と言ったら私はもう100歳になりますと言われる人もあるでしょう。違うんですよ。その自分が祈った人の中に、自分が生きないといかんのですね。

 一昨日でしたか、春日丘教会のご大祭に参拝しました。「我が祈り あなたの中に生きとおす」と、大恩師親先生のお手で書かれた額がありました。大恩師親先生も間違いなしに死なれる。だから「我が祈り あなたの中に生きとおす」と書かれた。死んだのちもあなたの中に私の願いが、あなたの中に生き通すよということなんです。それが「生神(いきかみ)の道」でしょう。ずっと「生き通しの道」でしょう。自分は死ぬんですよ。間違いなしに死ぬ。もう一度言いますよ。私は死にます。皆さんもいつかは死にます。絶対に死にます。だから、難しさこそ有り難い。だからそれを踏まえて、「御布教八十五年記念大祭」は、しっかりと向かってください。そうしたら和歌山会は、今日参拝されている私の祈り人は皆、参拝できますよ。バスを何台も連ねて参拝させていただける…。

 「親先生それは無理です」。もうそれで止まる。違うんですけどね。ここを分かって欲しい。「親先生の話はよく分かりますが、実際は難しいです」…と言って、自分で壁を作るからね。1回そこから飛び降りて欲しいな、自分のビルから。心の壁と言うのか、1回飛び降りて欲しいな。神様はパッと下で受け止めてくださいますよ。「無理やろうね。怖いものね、飛び降りるのは…」。でもそこが大事なんですがね…。私はそう願っています。どうぞ一つ、何処からでも気付かせてもらって、そこからの一歩を出させてもらいましょう。必ずおかげにしてくださいます。