春の霊大祭 教話 教会長 三宅光雄12年3月20日 只今は共々に『春の霊大祭』のおかげを頂き、本当に有り難く、勿体ないことですね。お天気のお繰り合わせを始め、全てにお守りを頂いて…。お礼を申し上げたのですね。今年は「祈りの塔」での納骨の御祭も「拝礼殿」でおかげを頂き、引き続き、お広前で霊様の大御祭のおかげを頂いたのですが、ここ3年の内、雨が降って三度もお広前での「遥拝式」になりましたよね。お天気をお恵み頂き、本当に有り難いですね。 御祭詞でも申し上げましたように、昨年の『春の霊大祭』は、その10日前に、3月11日に、東日本を襲いました大地震、『東日本大震災』。その直後の大御祭でありましたから、亡くなった数多くの霊様への黙祷と、そして殆どのお話が、そのお話をさせていただきました。あれから1年…。 先日、3月11日に1年の『復興祈願祭』をさせていただきましたが、金光教は、泉尾教会は、「世と人のお役に立たせていただく」。これが大恩師親先生のご信心。泉尾教会そのものなんです。この時こそお使いくださいと、この1年取り組ませていただいた。勿論まだまだ終わっていませんね。まだまだこれからです。1万5,854名の方がお亡くなりになって…。ところがまだ3,000人以上の方が行方不明…。復興もこれからですよね。私も何度も被災地にやらせてもらいましたが、全く変わってないところもありますね。その中で私たちが今、何をさせてもらうことができるのか。御祭詞でも「人類共栄会の働きを始め、その働きによって私共が何からでもさせてください」と、このように霊様にお願いさせていただいたのですね。あれが1年前。そして1年経ちました。 「拝礼殿」で、今日お帰りになられるときに、「祈りの塔」のお扉が開いておりますから、あのお扉の中の、大恩師親先生の御神像をしっかりと、あの御神像の目を見てしっかりと御祈念してみてください。何を親先生はおっしゃってるのか…。 私は、神様・霊様にご安心していただく、喜んでいただく生き方こそが泉尾教会の信心だと思っています。一人ひとり信心の内容は違うかも分かりません。違うかも分からんが、しかし今私が申しました、神様に、霊様にご安心していただかずして、喜んでいただかずして…。これが泉尾教会の信心。その道を大恩師親先生が歩まれた道を。その大恩師親先生が歩まれた道を私たちは雛形として、お手本として歩ませていただく…。 そうすると皆さん、今、本当に皆さん方の親先祖の霊様に喜んでいただき、ご安心していただく道を歩めているのでしょうか。確かに皆さんは毎日一生懸命に歩んでおられると思う。しかしそれが、本当に神様の、霊様の願いに添ったご信心でしょうか。そこが一番大事なところなんです。信心させていただいているのですから頑張ってない人はいない。皆、頑張っていると思う。しかしそこに理屈があったり、言い訳があったり、逃げがあって。自分の理屈で、前回はこうしたから、ああなったとか、だから今度はこうしないとか…。それを皆さん方の親先祖の霊様は、大恩師親先生の神霊様は、本当に良しとされているのでしょうか。いつもそこに「計り」を持っていかないといかんですね。 例えば7といっても、7メーターなのか7センチなのかで全然違いますよね。数字を追っても、「計り」が、基準が違ったら、全然違うものになる。確かにそれぞれは一生懸命なんですよ。しかしその一生懸命の計りを、大恩師親先生のご信心の「計り」にきちっと合わさせていただいているのか…。親先祖が願ってくださっている、神様が願ってくださってるその願いに添っていってるのか…。私はそのことを、先程の「祈りの塔祭」でですね、あの御神像に向かって、「すみません。申し訳ありません」と、そう申しながら御祭詞を読ませていただいたのですね。 どうしても、毎日拝んでいても、毎日祈っていても、気が付いたら自分の我(が)が出ますね。自分の思いが出ますね。信心はしているんですよ。毎日そう願っているんですよ。だけども気が付くと、私の「計り」で物事を見ている…。 この霊舎には皆様方の親先祖の霊様が祀られています。その皆さん方の親先祖の霊様。ご両親がご存命で居られる方は幸せですね。しかし、私は早う親を亡くしましたとか、お祖父さんお祖母さんの顔は知りませんとかいう方があると思う。 私そのものが今あるということ、私が存在していることのその元は、確かに私の命は私の命ですよ。確かに私の命ですが、これは神様の命なんです。しかもその神様の命は、両親の命を通して頂いた命なんです。またその両親もそのまた両親の命を、そしてその両親もそのまた両親の命を通して頂いた神様の命。だから神様の命を私たちは頂いて、今日こうして生かしていただいてる。だから私たちは神様と一緒じゃないといかん。一体でないといかんのです。親先祖と一緒やないといかんのです。そしてその願いに祈りに私は添っているのか…。 ある方がおっしゃった。私はなるほどやなと思って聞かせてもらったのですね。「親と子のご縁は40億年分の1のご縁」とおっしゃった。凄い確立ですよね、40億年というのは、その方は地球に生命(いのち)が存在しての40億年。だから40億年とおっしゃった。もしかしたら35億年かも分からん。でもその方のおっしゃる意味はそういう意味です。40億年という長い中で、親と子の縁を頂いているのは、私と両親と、私と子供(達)しかないんです。そのご縁の中であるのにも拘わらず、自分が勝手に生まれてきたみたいな…。そんなことでどうするんでしょう。またそれは神様の命。それを自分だけの命だと思っている。そんなことでどうするんでしょう。神様の、親先祖霊様の、親様のその願いに添った中身。そのことを私は申し上げている。 今日こうして、今お話ししながら皆さん方のお顔を、今もずっと見させてもらっていますが、その中には何人かの方が、病院から直接参拝されている方もある。人間っておかしいですね。本当だったら健康な時ほど健康のお礼を申さないといかんはずですが…。確かに健康な時もお礼を申していますよ、申してはいますが、病気の時に「どうか助けてください」という願いや、「有難うございました」というお礼に比べたら、申してないと言ってもよいくらいのお礼なんですね。経済でもそうですよ。経済のおかげを頂いているとお礼を申していますよ。しかし、難しい時におかげを頂いたことに比べたら、申してないと言ってもよいくらいのお礼ですね。 そしてそこに、先程も話しましたような言い訳をしたり、逃げがあったりする。難しさから逃げて。逃げられるというなら、それも有りかも分からん。しかしそんなことないに決まっている。いやその難しさこそがおかげの元になっていく。常に神様に向かっての、40億年分の1のご縁をしっかりと頂いて、神様を頂いて、どんなことにもしっかりと向かっていく。その向かって行く先は「世と人のお役に立つ」ということです。「世と人のお役に立たせてください」と願うことです。「親先生、そんなことするより自分の思ったことしてる方が楽で、楽しくて、その方がいいです」…。とんでもないですね。 世と人のお役に立たずして私の命は私の命でないんです。これは皆さんの命も同じです。世と人のお役に立つんです。確かに一人ひとり違いますよ。だれしも皆と同じことができるとは限らん。しかし、私の目の前にある問題を、困った人を助けていく…。 先日あるご教団の教主先生がわざわざ。これは宮城県にご本部のあるご教団。仙台のご教団の教主先生が泉尾教会に来られた。「この度(『御布教八十五年記念大祭』)、私は泉尾教会に参拝させていただき、そして勉強させてもらいましたが、三宅先生から直接お話を聞かせて欲しい」とおっしゃって…。「なぜ金光教泉尾教会が、これほどまでに宗教界で、世界平和ということで中心的なお働きをされているのか。本では勉強させてもらいましたが、直接お話を聞かせて欲しい」と…。勿体ないことですね。本来なら私が教えていただかなければいけないのに、2時間程私の話を聞いてくださいました。私が申しましたのは一言で申しますと、「目の前に困っておられる方があったら助けずにはおれんというのが大恩師親先生のご信心。そのご信心が結果として世助け人助けという大きな中身になっています。その元は、本当にそこに困っておる人がいたら手を差し伸べる。ただそれの積み重ねなんです」と申し上げました。 どうぞ今日からは、目の前で一寸でも困っている人がおられたら何かさせていただく。先ず何も私にはできないと思われても「祈ること」はできるはずですよ。確か1年前にもそういうお話をさせてもらったと思う。 実際に被災地に行って人を助けることのできる人もいる。しかしその人をそうさせているその後ろには、100人の人がその人を祈っている。だから行った人は他の100人の祈りを受けて行ってる。逆に言うと行かずとも祈るということができるはず。1人ひとり違うのですが、必ずできることがある。そういうお話を1年前させていただいたと思いますね。 私たちは何でもいいんです。そして何からでもさせてもらうんです。そして一寸でも「世と人のお役に立たせてもらう」ことが、神様・霊様にご安心していただく、喜んでいただく道。その歩み方が大恩師親先生が歩まれた道。雛形、お手本。そのお手本の道を歩ませていただく。私はそのことしかないと、このように思っております。 1月22日には大変な御比礼(ごひれい)を頂いて『御布教八十五年記念大祭』を頂きました。さあここからですよ、私たちはおかげだけに甘えていたらいかんのです。いや私はまだ十分におかげを頂いていません…。とんでもない。今日まず参拝できていることがおかげなんですよ。今、問題に当たっていることこそがおかげ…。 来年の7月15日の『婦人会創立八十五年記念大会』に向けて『御布教八十五年記念大祭』のお礼の500日。その500日目からすでに19日が経ちました。500分の19日という日が経ったんですね。私はそのお恵お守お祈りに本当にお礼が申せているのか。そのお礼は神様に大恩師親先生には勿論ですが、世と人に向かわないといかんのですよ。必ず難しさの向こうには道が開けていきますよ。難しさ意外には道は開けていかんのですよ。道は開けていかん。そう思ってしっかり目の前のことをさせてもらいましょう。 この4月朔日には『二代親先生六年祭』を頂きますね。今も尚、(手を上げられて)この大恩師親先生のお写真の中にある二代親先生が、大恩師親先生と共にお働きくださっている。 ある教会の先生が、「泉尾教会は三宅歳雄先生だけお祀りして龍雄先生はお祀りしないのですか」と言われました。そうじゃないんですよ。12年前に、このお写真を吊り上げた時に、私が二代親先生に「二代親先生や私や、その後々の者はどうしたらいいのですか」と質問しましたときに、二代親先生は「この写真の中に私を見てもらう、そういう信心を私は今からさせていただく」と。「私が死ねばこの写真の中に私を見てくれ、そしてあんたもそうしてくれ」とおっしゃった。だからこの泉尾教会のお広前の中でのお写真は二代親先生は勿論ですが、私も、またその後の者もなく、たったこの1枚のみ。 「この中に私を見てください」。だから皆さんも同じなんですよ、皆さん方の親先祖も、また皆さん方も(手を胸に当てられて)この中に現れてこないといかん。他人様(ひと)を祈るという自分が現れてこないといかん。 お一人お一人今日の大御祭を、神様が、霊様が私のために仕えてくださったと頂いて。もう理屈も言い訳も捨てましょう。その捨てた時に「真」が生まれてくるのですよ。その真でいっぱいになって、それぞれにおかげを蒙らせていただきましょう。 |