月曜教話22 おはようございます。昨日から一泊で信徳殿が始まっておりますね。今回は25人の方が信徳殿に入殿されていると聞いております。昨晩も遅くまで信心共励の練り合いをされ、また今日も早くから祈りの塔・拝礼殿での早朝の御祈念から、そして6時の勢御祈念と、おかげを頂いておられますね。今日は昼の12時までですね。また今日は、「こどもの日」でもありますね……。 こどもの日と言いますと、私自身もいろいろと思い出しますね。その中でも特に思い出しますのは、もう何代も前の婦人会長の本田みねさんという方がおられましたね。この方はいつも、もろぶたにいっぱいの柏餅を「三代様(子供であった私に、当時この方のみが「三代様」とおっしゃっておられた)に頂いてもらって下さい」と言うて、お供えされましたね。勿論私一人で食べられるはずがないのですよ。さあ、80から90個は入っていましたね。もろぶたいっぱいですから、私が一人で頂けるはずがないですね……。 「三代様に頂いてもらいたい」。それはどういうことかと言いますと、神様からのお下がりを、私の名前で、教会所員の子供をはじめ、ご信者の大勢の子供さんにあげて欲しい……。なんとまあ。私にそういうような心くばりができるのかなあと思いますと、ようしませんね。 他にもいろいろありましたが、もう十年ほど経ちますか、今年から大学に行っている長女が、たしか小学生の頃でしたが、その長女が、こどもの日というのは、なにか当たり前のように子供が物を買ってもらう日のように思っていましたので……。何も与えませんと「こどもの日やから……」と言うので、「それは違うよ」。こどもの日というのは、「子供が親に感謝する日や」と言うたら、「ええー」……。理屈が分かったか分からないのか、それから一切、娘は何か買って欲しいとは言いませんね。でも本当にそうやと思うのです。感謝を忘れんためにわざわざある日ですね。それは母の日も父の日も同じだと思うんですね。まあいろいろとこどもの日の思い出は他にもありますね。 昨日は、泉光会という和歌山県のかつらぎにある出社にですね。ご大祭にやらせてもらいました。そこでお茶うけに柏餅が出たんですね。なるほどな、明日はこどもの日やからな……。今日も泉栄会のご大祭。これは神戸の垂水ですね。一昨日が東京の昭島会でしたから、昭島会から三日続いてご大祭にやらせていただくのですね。今日の泉栄会でも、たぶん柏餅が出ると思いますね。 あの柏餅はなぜ柏餅なんでしょうかね。私は昔聞いたことがあるのですが、この柏餅、柏の葉で包んでいますが、あの木は今までの葉が落ちる前に新しい葉がしっかり出て、ちゃんと働きをしてから前の葉が落ちるのですね。だから子孫繁栄というのか、代々続きますという意味だそうですね。なるほどなあと柏餅を見るたびに思っているのです。 昨日も泉光会へ行きますとね。5月2日に皇太子殿下の妹君の紀宮様が、かつらぎの地域に来られたそうですね。その時に出されたお菓子と同じ店から、わざわざ柏餅を買ってこられたというのですね。なるほどなあ。いつもの店より遠いのに……。先にも言いましたが、心くばりですね。 同じことのように思えますが、もう一歩進んで心くばり。ここが大切なんですね。皆しているんですよ。皆しているんです0が、もう一歩ということなんですね。しているで終わると、しているにならんのですね。しているしているですると、しているにならんのですね。そこからの一歩がとっても大事です。その一歩が神様に向かうというんですね。心が神様に向かう。そして心くばりですね。 ……(中略)…… かつらぎという地域は、柿や桃や苺や、いろいろな果物の産地なんですね。道路の側に柿とか桃とかといった農家がありますね。2年前だったか、やらしてもらった時に、柿の木や桃の木を見ていますと、その中に「薔薇売ります」という看板が見えたんですね。そのことを覚えておりました。この辺は薔薇も産地なのかと……。 そのことを高野口教会の森田先生にお話ししますと、それなら一般の薔薇園よりもちょっと遠くなりますが、すばらしい薔薇と言って有名な薔薇園があります。折角だからそこまで足を運びましょうということで、昨日ちょうど帰路に電車の関係で時間がありましたので、ご大祭後にその薔薇園まで行こうということになりました。やはり心くばりですね。 ところが、薔薇がないんですね。そこの農家の奥さんがおっしゃるには、「いつもの年にはもう出ていますが、今年は春先にビニールハウスが破れてその補修をしていましたんで、十日ほど遅いんです」。いつもの年より十日遅いということは、出荷は来週か来々週ということでしょうね。しかし送ることができますということなので、教会の住所を書きました。 その時「あっそうや」と思いました。私は昨年まで19年間、毎年かかさず甘木教会へ20年前に修行に行かせていただいたお礼に参拝させてもらっていたのですが、今年は今日まで日程の都合がつかず、まだ参拝させてもらえてないんです。5月の第2日曜は「母の日」ですね。できれば母の日までにはと思ったのですが、農家の奥さんが間に合わないかもとおっしゃっていましたが、甘木教会へ送らせてもらおうと思いましてね。甘木教会と泉尾教会へ送りました。 結果的にはそこの薔薇園は、今年の春先にビニールハウスが破れて母の日には間に合わないかも分かりませんが、しかしそれは結果です。良かれと思ってさせていただくことがとっても大事やと思うのですね。心くばりです。 ……(中略)…… 私は自分の中でいつも足らんなあと思うんですね。させてはもらっているんですよ。いつも申していますが、させてはもらっているんですが、してるしてるになる。どうしても。してるしてるでは本当にさせてもらったことにはなりませんね。させてもらってなお足らんということに気付かせてもらわねばいけませんね。いやなお足らんということを気付くためにさせてもらっているのやと思うんですね。足らぬということに気付くために……。足らぬということに気付かなければ、してないのと同意語ですね。同じだと思いますね。だいたいはしてるということなんですね。 ……(中略)…… 昨晩の8時半から10時までが、今回の信徳殿の私の持ち時間でした。今回は教話ではなしに質疑応答という形にしました。と言っても、やはり私の話が半分ほどありましたかね……。 その話の中で、責任を持って自分が何かさせてもらうということが大事ではないか。それと、自分一人でなしに、皆でさせてもらうことが大事ではないかというお話が中心になりました。責任を持ってというのは、自分がさせてもらうこと。皆でというのは、人にしてもらうということなんですよ。だから皆で皆が責任を持ってさせてもらうことが一番有難いわけですよ。難しいことですね。皆でして下さいということと、責任を持ってするということは、見た目には反対なんですよ。 ところがいざさせてもらう、本気にさせてもらうと、皆で責任を持ってさせてもらう以外ないのです。見た目と本当とは違うということです。本当に自分がさせてもらうと、皆にしてもらう以外できないということです。ただし大変な努力がいりますよ。自分一人でした方が楽だということがいっぱいあるのですよ。そのことを分かってもらう……。 昨日もね、泉光会のご大祭より帰ってきますとね、奥玄関の前に、芝生のロータリーがあります。そこで信徳殿に参加された方々が草抜きをされていた。今は芝なんですが、本来はあそこに蔦を生やそうと思っていたんです。3年前から蔦を挿し木して生やそうとしていましてね。1年かけて、やっと生え揃った。でも雑草も多く、私の留守の間に、蔦を刈らずに雑草だけ抜いて下さいとお願いしてあったのに、蔦ごと刈られてしまっていましたね。残念で涙も出ませんでしたね。 今年で3年目。またやっと生えてきたと思っていたら、今回も雑草と一緒にきれいに刈り取られていたんですね。そこで、昨日もその中の一人の人に、その刈り取った蔦を挿し木しないのですかと聞きますと、「いや、ちょっと今は……」。挿し木するのは、手間がかかるといっても簡単なんですよ。しかし、それを生かすのは難しい。挿し木するのは簡単。一寸の手間ですからね。抜いた直後にハサミを入れて挿す。とは言っても、挿すのも大変ですよ。でもその後の蔦を生かすのはもっと大変なんです。1年も2年もかかるのですからね。蔦が伸びようとする時、雑草の方が早いのですから、蔦の上に出てくる。雑草を丁寧に抜いてやらねばいけませんね……。 先ほど、こどもの日は親に感謝する日だと言いましたけど、本当にそう思いますね。蔦よりも何よりも弱い弱い人間ですね。で、雑草はいっぱいある。たとえば楽なもの、楽しそうに見えるもの、おいしそうな話、いろいろな雑念というものがいっぱいある。その中に弱い人間が生えている。 子供の頃から、先代恩師親先生は本当にわけの分からぬ私に、手取り足取り、時には叩いて下さり……。勿体ないことですね。自分は気付いてないのですよ。しかしまわりの雑草を抜いて下さっている。自分は極端なことを言いますと、何も悪くないのに叩かれたとばっかり思い、そのことばかりを言っている。自分はですよ……。蔦を格好だけでもそれらしくしてやろうと思うと、雑草を抜いたり水をやったり大変なことなんですよ。大変なお育てあって、なんとか格好だけは付けさせていただいていますね。 本当はそうしますと、感謝するというのは親であり、ずっと遡れば親先生であり、親神様でありますね。だから子供たちは、「若先生は何でも感謝や」と言うのです。長女が小学生の頃にそう言ったことを今でも覚えていますね。そう、なんでも感謝ですね。なぜ感謝かというと、感謝が足らぬ自分が分かってくるとそうなるんです。分からんうちは、私ばかりなんでこんなしんどいことになると思うんですね……。 ……(中略)…… よく「眼に見えるおかげより見えぬおかげの方が大きい」。こう申しますね。これ見えるということですね。おかげというものがそこにあるんですよね。それが和賀心(わがこころ)がどのように向かうかによって、見えてきたり見えなかったりする。しかも見えてきたというても、ほんの一部なわけですね。教祖様が、信心とは神の中を分けて通るようなものじゃとおっしゃる。神様の中を歩いている。だんだんと見えてきますとね、その実感といいますか、勿体ないということが分かってくるんですが、見えておりませんと、何が何かと分かりませんね。見えるということですね。 私自身、本当に見えてませんね。見えているように思っている。ところが見えていない。本当に見えていない自分だというのが、分かってもいないですね。ことあるごとにです……。勿論、表面的なことからもっと奥が深いところまでありますけれども。せめて、じゃ、表面的なことだけでも見ているかといいますと、その表面的なことさえも見えなくなってきているんですね。それは何が見えなくしているかというと、自分の我(が)でありますね。傲慢ですね。 4月25日の春のご大祭でも、神様が見える形でお天気を下さった。見える形で下さった物にさえも、じゃあ、お礼申しているかというと、足らんですね。見える物にさえもお礼が足らんのに、見えない物に対してお礼というものは無いに等しいですね。傲慢ですね。そしてその見えるべき物でさえ見えていない。見えるということは大切なんですね。私はご大祭の時に、本当にびっくりしたんです。見えぬということがね……。 今、眼を御神前の方に向けていただき、御神前を拝んでいただくとですね、見えてくるんですが、いっぱい問題点があるんですよ。内殿の中だけでもですよ。あの20畳の中でさえも、しかも表面的に見える物だけでもですよ。今言っているのは、本当はそのまだ奥にもあるんですよ。そこまで行かなくても表面的な物さえも……。 人間もそうでしょ。一番上は皮膚ですよね。だけど皮膚というのは、例えば湿疹ができましたといっても、これ皮膚が悪くて湿疹が出ているものもあれば、内臓の問題で出てくるものもあるんですね。 ご大祭の時には、皆さん方から御神前を拝んでいただくと、向かって一番左側に階(きざはし)といってね、御扉を開けるために、浜縁(はまえん)の上にあがる、まあ言えば階段ですね。その階段があるでしょう。その階(きざはし)というのは、本来は今の位置にあるんです。とっても重たいんですよ。そんなスッスッと動くものじゃないんです。ご大祭で開扉(かいひ)。御扉を開けさせてもらう時、これはそこにはないんです。何故そこにないかというと、御扉を開けますと、御扉が開いた分前に出ますでしょ。そうすると、開扉をした人が開いた御扉が邪魔で、浜縁を歩くことができなくなりますね。だから降りられるために階(きざはし)を開いた御扉より中に寄せないかん。 そんなことは当たり前なんですね。しかも私が開扉の御用に当たっている。もし当たってなくても、すべての責任者なんです。準備をさせてもらう最終的な責任者。なのに今回中央に寄せておくことを忘れた……。ご大祭当日は、前講でお話をさせていただきました。終わった後、御神前に向かってお礼をしてフッと顔を上げましたら、ハッと思ったですね。階(きざはし)を動かしていない。もう遅いですね。今さらどうにもなりませんね。 これは一例も一例です。本当に何も見えていませんね。これはまだ皮膚ですよ。でもお話としてはその方がまだ分かりやすいと思って言っているわけですけども……。そうすると、私の何が見えんようにしているのかといいますと、やっぱり慢心ですね。 数字では言えませんが、分かりやすいように言いますと、百しなきゃいけないのに、九十九までした人はこれで良いと思いませんと思わないですね。これで良い。百しなきゃいかんものを百できた人だけが、この百では良いとは思えんと分かるのです。教祖様の時代ということが難しければ、先代恩師親先生。先代恩師親先生は、「足らん足らん」といつもおっしゃっていました。足らんということが分かるという人は、百パーセントした人じゃないと分からんのですよね。実は、百パーセントしたところに足らんという部分が見えてくるんですね。だから「坂を越え坂を越えても峠かな」とおっしゃったんですね。 それは坂を越えたことのある人しか分からないのです。だって坂を越えるまでは峠の向こうが見えてきませんものね。違いますか。そこを越えないと見えないですよね。だから「坂を越え坂を越えても峠かな」ということは、実にそれは、坂を越えましたということですよね。だけどもまだ坂を越えたこともない人には、坂か峠か頂上か分からんですよ。ということは、百パーセントした人だけしか足らんということが分からんということですよね。百パーセントしていない人は、足ると思っているんですね。それこそ私の姿やなあと思いましたね。 もう、1時50分。ご大祭が始まるまであと10分ですよね。御神前に向かって拝をした時、フッと思いましてね……。 例えば皮膚。まあ女の人なら特にお化粧するでしょ。本当やったらまあ内臓から綺麗になっていかなければいけませんね。もっと言えば心が綺麗にならないといけませんね。心が綺麗、内臓が綺麗。心も綺麗でなく、内臓も良くない。しかも不平不満。そんな顔にいくらお化粧してもね、よく言うでしょ、化粧のノリが悪い。そらノリが悪いですよね。いくら高いお化粧をしても、それでは笑顔が笑顔じゃないですよね。 私は今、本当に表面だけの話をしているんですよ。だけどもさっきも言いましたように、実は見えている表面でさえもそうなんですよね。ましてや見えないものとなりますとね、本当に足りる、足らんという話じゃなくて、まずできていませんね。ようもようも中身のない……。よくハリボテと言いますよね。芯のない、こんなハリボテがこんなことをさせてもらっているなあと、思わせてもらうんです。内殿のたった20畳。せめて私は責任を持って、他できなくてもですよ、例えば66畳のこの外殿のことができなくなっても、240畳のこのお広前ができなくても、550畳あるこの二階全体ができなくても、ましてや6,000坪の泉光園ができなくても、いや日本中の世界中の人のことが分からなくても、せめて20畳の内殿だけでも責任を持てば何とかなるのに。それさえも抜かっている……。言い訳はできるんですよ、いっぱい。 ……(中略)…… させてもらってお礼が申せないと、おかげになりませんよ。お掃除だったらどういうことかと言いますと、汚いところをきれいにするわけですよね。汚いところをきれいにするのが掃除なんです。掃除の上におが付いたお掃除とか、奉仕の上にごの付いたご奉仕は、何が違うのかというと、させてもらってお礼が申せるかどうかなんです。 「なんで私がこんな……」。例えばお便所にしましょうか。「なんで私がこんな一番汚いところを掃除しなきゃいかんねん」と思い、なんとか表面だけでもやっとけというのが、これは掃除。私が一番めぐりが深いから、だからこそさせてもらえるのだということに気付き、お礼が申せる。これはお掃除。で、お掃除させてもらった者だけがいろんなことが見えてくるんです。不思議でしょ。だからただ掃除している時点では見えへんのです。ましてや掃除もせんのですね。するといっても言われてする。もしくはせん。 だから、@せん。A言われてする。Bする。Cお掃除をさせてもらう。Dお礼が申せる。段階。同じことをしててもですよ、段階がある。これは自分が気付いたもん勝ちですね。「おかげは受け徳、受け勝ち」とおっしゃっている。私から言わすと、気付いたもん勝ちですね。 同じことなんです。せん人もしなあかんなあと思っているんです。お礼を申せる人もせん人もほとんど同じことなんですよね。してる人もその今のお礼を申せる人もね。時間的にも同じですね。同じ時間を使っているんです。「なんで私が、人の為にしてて、こんなに怒られないかんねん。あんたの為にしたってんのに」……。同じことをやったら、「有難うございます。私、これで力が尽きました。重たい荷物持ってたから、力尽きました」。嫌なことを聞かせてもらったから、人さまの気持ちがよう分かって、自分は言わんようにしようと思って、どんどん自分の心が大きくなっていけるんですけどね。どこの段階に自分がいてるか。それが見えるということなんですね。 最初の話に戻りますが、だから見えなだめなんです。見えるというのは、最初、一番表面の表面の話をしましたけれども、実はその見えるというものは表面じゃないです。その最終的には心が見えるっていうんですかね。もっと言えば、神様のお声が聞こえる。見える。そこまで行かんと見えるになれへんのです。まあそこまで行かんでも、せめて表面だけでも見えないかん。お掃除ひとつそうですね。 私は学院時代、天理教のご本部へ研修へ行かせてもらいました。会堂にはものすごく長い回廊が廻っているんですね。百メートルぐらいじゃないですよ、もっと長い廊下が。そこをですよ、何人もの方がお掃除をしておられる。ここまできますとね、もう汚いからお掃除しているんじゃないんですよ。さっきのこの5段階あったもうひとつ上ですね。だってね、掃除しているグループの次に、また4・5人のグループ。ずっと向こうへ掃除部隊が、こう移動するわけですよね。そこまでになりますと、もう行(ぎょう)ですね。めぐりを徳に変えさせてもらう。有難い。 私はすべてに対しての向かい方がそうならんとあかんと思っているわけです。それが日々の生活にいつでもどこででもあるかということです。生活の中でただ汚いからするというのは、どこまでいっても掃除ですよ。だけどそれでなくて、自分のお礼を申すためにさせていただく。じゃ必ずできるかというと難しい。これはもうひとつ上になってきますよね。そして気が付くと、掃除をしていたつもりが、実は自分が汚(けが)しておるということが分かる。そこまで行った人のみが分かるわけです。それがさっきも言いましたように、坂を越えた人のみが、峠ということが分かるわけなんですよね。行(ぎょう)だと思ってさせてもらっていたことが、実は神様の顔に泥を塗っている行為だということが分かってくる。だけどこんなところ(・)の人やこんなところ(・)の人は「なんでやねん」と思っているから、そんなことを思えないんですよ。 いつでもどんな時でも、私自身がどの段階に行けるかが勝負だと思って、ここの段階の人はここへ。ここの段階の人はここへと願いを持って、ここに落ちたらいかんのですね。「してる」とか、「言われてする」とか、「する」とかね。こうありましたよね。段階があるのですね。そして、自分を清めさせてもらってると思って、させてもらっているのか。そしてさせてもらった人だけが、本当に神様のお育ての上に自分があるということに気付かせてもらって、神様を汚している自分というものに気付くわけです。だから先代恩師親先生は6,000坪の泉光園を全部手で撫でたとおっしゃったですね。祈りを込めたとおっしゃいました。そこまでいかな分からんのですよね。ここまで来ないと。その意味が……。 どうぞひとつ、見せていただける自分にならせていただきましょう。感じる自分。信心でいいますと、神様のお声を聞かせていただける自分にならせていただいて、共々におかげを蒙らせていただきますように、お願いいたします。有難うございました。 |