早朝勢祈念教話

教会長 三宅光雄
12年7月25日


おはようございます。今も健児(けんじ)係より放送がありましたように、8月5日は「創立八十五周年記念健児大会」ですね。しかし今の放送はただ日にちを言っているだけで、係としてどんな願いであるかということを、もっとしっかりと話して欲しかったですね。

伝わるということは先ず叩かないと伝わらないでしょう。「トントン、トントン、こんにちは、こんにちは」ってね。「こんにちは」は、もしそこの家の扉が閉まっていたら、聞こえるように強く叩かないといかんでしょう。そうしないと伝わらないものね。確かに何も言わなくても、目と目で合図して分かる人もいますよ。だけど「おーい」と大きな声で言わないといかん人もおられますね。だから所員と私とはそこらへんがどうも違うと思う。そして私は、その元は何かということをいつも話をしていますね…。

その元は何かと言いますと、「私自身が、神様の本当のお思い(助かってくれよという御神願)がまだまだ伝わってない人間だ」ということ。これしかないんです。それなのに当たり前に助かっている。だから神様はよっぽど私の耳元で、「そっちじゃないぞ、こっちだぞ」と大きな声で言い続けてくださっている。それなのに私は、その「助かっている事実」を、他人様(ひと)に伝えんというのは間違っていますね。

私は阿呆(あほう)の一つ覚えのように毎日同じ話しかしていません。確かに毎日いろんなお話をさせてもらってはいますが、その中身は、「神様の『助かってくれい』という、その思いにどうお応えするのか。その願いにどう私たちは応えていくのか」というお話しかしてないはずなんですよ。伝わるまで何度も何度も、それがとても大事なんですが…。

先ほどより大きな声で鳴いている「蝉の声」。蝉は必死なんですよ。先ほども「お出まし」の時に所員に言いましたが、「あっ、もう死んだ蝉が石畳に落ちているね」…。すでにもう死んでいる蝉もいてるのですね。ということはその蝉は、たとえば成虫として10日間生きていたとしたら、10日前から鳴いていた蝉です。私は私の言い方ですが、多くの蝉が鳴き出す前に鳴き出す蝉を、フライング蝉と言っていますね。1週間ぐらい前から鳴き出したでしょうね。だからこの蝉は少しだけフライング蝉。フライング蝉というのはその蝉に失礼ですが、さらにその前に既に死んでいる蝉もいてるし、今から成虫になる蝉もいてる。しかし多くの蝉は大体この2週間、「土用修行中」に成虫になって鳴き続けるのですね。蝉は約1週間一生懸命鳴くので、私がいつもよりも大きな声でマイクで話すのですね。皆さん方にはしっかりと聞こえているそうですが、私からは「本当に聞こえているのかな」と心配です。それなのでいつもより大きな声で、力を込めて話すのですね。蝉も必死。私も必死。必死になったら伝わるんですよ。伝わらんのは必死やないから。必ず死なんからです。こっちも生きようと思うから、こっちは死ぬんです。こっちが死んだら向こうが生きるんです。

「親先生、私が死ぬのだったら、向こうは生きてもらわんでもいいです」…。そんなやり方でやっているから伝わらんのですよ。必ず伝える。必死いうのは必ず死ぬと書くでしょう。死ぬ思いでやれということです。そうでないと伝わらんのです。どうぞ何事にもそのこととして、しっかりと向かっていただきますように…。

さて今日は「大阪布教記念日」。7月25日は大阪教会の初代白神(しらかみ)先生が明治十二年に大阪にお道を伝えてくださったその日なのですね。133年前の今日、大阪は「天神祭」の日ですね。ほぼ毎年関西では京都の「祇園祭」から大阪の「天神祭」の間に梅雨が明けるのですね。そしてその頃が一番暑い頃。今日は35度の予想が出ていましたね。私の体温くらいの温度になって「真夏日」ですね。133年前の7月25日「天神祭」の日もそういう日であったでしょうね。金光教をこの大阪の地にお道開きされたのですね。私たちはそのおかげ様をもって、勿論その元には教祖様がおられ、また私たちは直接のことで言いますと、85年前に大恩師親先生がこの泉尾の地にお座りなってくだされたおかげであるのですが…。

今日は大阪教会で「大阪布教記念日集会」の、御礼の集いがあるのですね。「大阪府連盟」が主催ですね。この集会で、2年前には恵(若先生)が、今年は次女の薫が新任教師のお披露目をしていただくのですね。さらに今年は、新規として大阪センター職員のお披露目もありますが、薫が最長で1年間 、「大阪センター」で御用をさせていただくので、薫は2つのお披露目があり、今年はいつもより1つ多いのですね。
例年は2つのお披露目だけがあって、1つは新任教師、そしてもう1つは教師40年の先生方の紹介がある。だから教師は40年経ったら同じ場でお礼の申せるおかげを頂かないといかんのですね。私は33年ですね。40年経ってお礼が申せるということはね、41年目にはもっとお礼が申せないといけないし、42年目にはもっともっとお礼を申さないといけないですね。そしてそのもとが1年目なんです。そして2年目は1年以上。3年目は2年以上。そして40年は大きな区切りですね…。と言うことは、お礼にお礼が重ならないと、先のお礼が生きてこない。お詫びもそうです。お詫びにお詫びが重ならないと先のお詫びが生きてこない。

「もう謝ったやないの、あんたそのことをいつまで言うの」…。そんなのずっと謝らないかんに決まっている。「もう喜んだやないの、もうええやないの」。違う。ずっと喜ばないといかん。それが喜びですし、お礼なんです。大体みんな言いますよ、今日は「これを失敗したから、これに気を付けて…」。「もう同じことを何回言うんや、もう分かっています…」。その人は、絶対また同じことをやりますよ。だから喜びもお礼もお詫びも、一回限りじゃない。何事もそうですね。

そらそうでしょう。オギャーと生まれてから亡くなるまで、命は続いていると決まっているのに、命だけは続いていますが、出来事は別々です。決してそんなことはない。繋がっている。全てのことが繋がっているのですね。「これは謝った。もうそれでええやないか」。そうではないのですね。「これだけ喜んだ。それでええやないか」と違うんですよ。それがどんどんどんどん重なっていくということなんですよ。私はそのことをしっかりと…。

例えば133年のお礼がいるんです。大阪にお道を開いてくださった、というお礼がいる。もっと言えばそのもとに教祖様がおられる、そのお礼がいるんです。その上に今日の自分があるんです。個人で言ったら、私たちは私だけで存在せんのです。必ず親があるんです。そして親の親があるんです。またその親があるんです。そのお礼がいるんです。だから私はいつも話しますね、親先祖を祀るということは「信心相続」だと。「親先生、それは反対方向と違いますか」。違うんですよ。同じことなんです。「親先祖を祀る」ことと、「信心相続」で子供を祈り、伝えるということは同じことなんです。
神様に向かうということは、実は人に向かうということと同じことなんです。「方向が違うのと違いますか」と言われますが、同じことですね。神様に向かうということは他人様(ひと)に向かうということです。神様だけに向かっています。親先祖だけに向かっています。それだけではいかんのですね。親先祖に向かうということは「信心相続」。神様に向かうということは「人助け」。こうでなければ、私から言ったらあかん(ダメ)のです。あかんと言ったら言い過ぎかも分からんのですが、そうではないと、した(信心をしている)とは言えんのです。(信心が)できているとは、私は言えんと思っています。

そして昨日、婦人会が先日の「婦人大会」の反省会をされたのですね。私は他の御用がありましたからそちらに出られないと初めから分かっておりましたので、会長さんが「本日婦人会の役員で反省会があります。どうぞおかげにさせて頂けますように」と早朝にお届けをされた時に、「どうぞ一人ひとりがしっかり願いを持ってください」というお話をしたのですね。お結界で会長さんにですよ。そして会長さんは会員の皆さんに私の思い(一人ひとりが願いを持つ)を伝えてくださったと思いますね。

というのも今回の「婦人大会」の反省会といいますが、これは今回に限らんのですが、「ゴールはスタート」なんです。特に今年の84周年は、「婦人会創立85周年記念大会」の中身として、84年大会の当日に、そこの「日めくり」が365日前になっていたでしょう。分かり易いですね。1年前ですね。

1つのゴールが新しいスタートと同時なんです。「ゴール」と書いてあるリボンを目掛けて走って、そのリボンを切ったと同時に、そのリボンの裏には「スタート」と書いてある。「ゴールを切ったとはスタートを切ったと同じ」だというお話を何度もしていますね。これは繋がっているんです。1秒も空かんのです。同時なんです。

そして特に「一人ひとり願いをしっかり持ってください」と私はお結界でもお話をさせてもらいましたね。そしてその時に「私の願い」は。私がこの「ご布教八十五年」に懸けさせていただいている願いは、今から79年前。「教祖五十年大祭」の年に、大恩師親先生はご本部に、当時はご本部で一番背の高かった3階建ての建物を。泉尾教会の控所ですね。控所を建てられたのですね。そして私は80年経って、今、その控所を建て替えたいと願っているのですね。来秋の「教祖百三十年大祭」は、「創立85周年婦人大会」からさらに100日後ですね。

皆さん覚えていますか。今から29年前の「教祖百年大祭」の時には、泉尾教会は6,000人の参拝をさせてもらっている。あの時は1年前の夏には準備が始まっていたんですよ。当時の泉尾教会でもご本部に6,000人の参拝をしようと思ったら大変なことでしたね。大変な取り組みでしたね。しかし今はその努力をしてないですね。そして今の方が難しいに決まっている。本当は難しいからこそしないといかんのに、前だって難しかったのに、今はもっと難しいのにしなくなっている。それではいけませんね。

難しいことに向かうには、「寝たいだけ寝て、食べたいだけ食べて」。それではできない。あの時は、全てのことを辛抱して皆やったんですよ。だけど今30年経って、いや80年経って、あの当時、大恩師親先生が「教祖五十年大祭」に、ご信者がご参拝されるのに、そして半分以上の方はお道引きで初めてご本部へのご参拝ですから、初めて参拝する方々に、それは布教5年にして3列車で3,000人弱のご参拝ですからね。それまでは1,200人ほど。それが3,000人近い参拝です。倍ですね。それでその思いで、あの3階建ての控所を建てられたのですが、流石に80年経っています。もう20年程前からあそこを直し、ここを直し…。ところが何度も何度も話していますように、控所の前の道路拡張計画のために、建て直すと建物が小さくなる。それを今から20年くらい前に建て直そうという話が出たんです。当時二代親先生が役所に確認をされたのですが、やはり、その通りでしたね。約20年前ですよ。丁度「教祖百十年大祭」迎えでしたね。なのできっちりと調べてもらいましたね。もう何度も話していますが、控所の前の道路拡張工事の計画があって、建て替えは無理だということでね。しかし「無理だからやめます」というわけにはいかんのです。無理だからこそさせてもらう。

昭和43年1月23日。カナダ及び米国ユニテリアン協会々長のダーナ・マクリーン・グリーリー博士とユニテリアン社会局長のホーマー・A・ジャック博士夫妻に、同じくユニテリアンのヘンリー・E・ハンプトン氏が泉尾教会に来られたのですね。この4人の方々は、大恩師親先生と共にその前日まで京都国際会議場での『日米宗教者京都会議』に出席されており、大恩師親先生と大変共鳴されるところがあられて、その足で泉尾教会を訪れられたのですが、この時、『宗教者として世界平和についての役割、果たすべき使命』、そして『平和に貢献する宗教者の世界大会(後ちのWCRP世界宗教者平和会議)の開催について』、さらには、『金光教の平和観』などについて話されたのですね。その際に、大恩師親先生にお2人は言われたそうです。「宗教者が手を取り合って世界平和のために尽くす、そういう会議をしましょう」と…。「三宅先生一緒にやりましょう」と言われた時に、「それは難しいことです」と…。グリーリー博士もジャック博士もビックリされた。大恩師親先生なら一緒にやってくださると思って大阪まで来られた。しかし間髪入れず大恩師親先生がおっしゃったことは、「難しいから、無理だと言われるからこそ、今私たちがしなければいけません。一緒にやりましょう」とおっしゃった。と言うことは、現状をしっかりと知っておられる。と同時に、だからこそしなければいけない…。

皆さんどうですか。「この病気ではもう助かりませんね」と医者に言われたら「そしたら私は死にますわ」と言いますか…。たぶん、「先生なんとかそこのところを…。どうかこの手術を成功させてください」と言いませんか。「難しい手術ですね」。「成功したら成功したでいいですわ」と言われますか…。「そこのところを何とか…」と言いませんか。会社でもそうでしょう。何とかこの商品を使ってもらえませんかと頑張りませんか…。その「何とか」という思いが強ければ、必ず通してくださる。しかしそれを諦めた瞬間に何事も止まりますね。当たり前のことです。それが「なんでもの願い」なんです。

大恩師親先生は「難しい」とおっしゃった。しかしそこで、「だからこそ私たちが今しなければいけません。一緒にしましょう」とおっしゃったのですね。それでWCRPが生まれる。そして大勢の人々のお力を頂いてWCRPが始まり、今では世界でも有数な宗教者による世界平和に取り組む組織になっているのですね。

WCRPも最初は1970年に一度きりの会議として始まったのですね。ところがその会議の最後に、大恩師親先生が「これだけの会議を1回で終わらせたらいかん。これを続けたい」と発言されて、『事後委員会』というものを創られ、その初代委員長になられ、その第1回会合は泉尾教会であったのですね。でなければ1回きりの会議で終わっていた。だから「続く」というのが大切なのです。「難しいからする。そしてそれが続いている」。大恩師親先生はそれをしてくださった。

ではそのおかげを頂いてる、その続いている上に乗っている私たちが「難しいから続けられません。1回きりでおかげを頂いたら、それで有難うございます…」。「もう何度も有難うございますと言ったからこれで終わりです…」。それで良いでしょうか。「ごめんなさい」と謝ったからそれでいい。それは違う。ごめんなさいは続いてる。有難うございますは続いているんです。なぜそこのところを分かってもらえんのか。だから婦人会の会長さんに昨日、「私の願いはご布教85年のお年柄に、ご本部の控所を建て替えることです」と…。しかしその答えは難しいに決まっていますね。20年前に調べた時には道路拡張工事の計画が以前よりあって、「無理です」と…。では無理だからそのまま放っておいてもいいのか。そこのところを20年前から「何でもおかげにせよ」と、大恩師親先生も二代親先生もずっと願い続けてくださっているのですね。そしてその間に大恩師親先生も二代親先生もご帰幽になったのですね。

昨朝も話しましたね。善信先生が確か「二代親先生一年祭」の「しのぶ会」でのスピーチで、「子曰わく、父在(いま)せば、その志を観(み)よ。父没すれば、その行いを観よ。三年父の道を改むる無くんば、孝と謂(い)うべし。…」というお話をしてくださった。親の思いを3年間はそのまま頂いて、そしてその後は、新しいことを始めよと…。私は5年前、その翌朝のお結界からのお話で、善信先生のスピーチを受けて、「今の時代だから3年でなく5年ですと…。そして五年祭が終わったらその翌日から新しいことをさせていただきたい」と話していましたが、その「五年祭」からもすでに1年以上経っているんですね。今春には「六年祭」が仕えられましたからね。勿論「五年祭」の願いの中に、これは家族にしか話しませんでしたが、何故かと言いますと「五年祭」とは「ご布教八十五年」の中身そのものですから、「ご布教八十五年」のお年柄に控所を建て替えたいと話しました。そのお年柄とは、昨年と今年と来年の3年間ですね。その1,000日間ですね。

これは私の責任だと思うのですね。そらそうですね。生まれた時からご本部に控所があって、それを当たり前のように使わせていただき、楽をさせていただいてきました。これを子や孫や曾孫の代に…。だって私たちが今あんなに便利に、あんなに楽をさせてもらっているのは、80年前に大恩師親先生を始めそのことに頑張った人々があるからでしょう。そうでなければ皆さんが本部参拝に持って行った荷物を、持ったままで本部広前へ参拝したり、雨が降ってきても休憩もできずに、お茶のサービスもなしに、足も伸ばすこともできずに本部広前参拝をするんですよ。しかもそれが泉尾教会ほど素晴しい場所。金光駅から直接あの橋ができて…。この話も何度かしていますね。私の子供のころは遠回りをしていましたが、今では泉尾教会のためにそこに橋を架けてくださったと言ってもよいでしょうね。金光駅を降りたら橋を渡って、目の前が泉尾教会の控所ですね。一旦そこで荷物を置いて、皆で御祈念をあげさせていただいてから、あらためて本部広前に参拝させてもらう。正式参拝ですね。

80年前と言いますと、大恩師親先生がご布教されて5年目ですからね。だから計画より1年かかったとしてもご布教四年の年、大恩師親先生が28歳の年に。28歳の青年教会長がですよ。28歳の青年教会長が金光町で一番背の高い3階建ての控所を。300畳に、当時はそこで3,000人弱の人が休んだ。今とは違いますよ。1畳当たりに10人座るのですからね。今では考えれませんね。その計算で建てられた。そのおかげ様をもって今の私たちは本当に楽をさせてもらっている。しかし老朽化ですね。20年前からそう思っていますね。だから私の願いは、ご本部の控所をご布教八十五年のお年柄に建て替えたい…。

願えば必ず神様は通してくださる。なのにこちらの願いを諦めるから…。「先生どうか助けてください」と医者には言うでしょう。「ちょっと難しいな」と言われたら。「そうですか、そしたらしょうがないですね。1回死にますわ」とは言わんでしょう。何故か。1回しかない命だからですね。それなのに皆、2回も3回も、何度でもあると思うからですね。1回しか無いんですよ。今日との出会いは1回切りなんです。だから毎年の御大祭も1回限りの御大祭なのですね。大恩師親先生はおっしゃいましたね。私の若い頃、30年程前でしたか、ご大祭の早朝に、「今日は、今までの全ての日を合わせたよりも、今日の1日の方が重い」とおっしゃいました。1回切りしか無い大祭だということを…。だけど大祭はまた来年もあるから、来年参拝したらよいと…。無いんですよ。それが大祭どころか、毎日がそうですよ。今日の日は来年はないんですよ。明日も違うんですよ。今日出会える人は今日1回限りなんです。夫婦なら「明日も明後日もあるから後回しでもええわ…。有難うと思うけど、その有難うのお礼は明日言ったらいいわ」。そんなんあかん(ダメ)に決まっている。

今日という日は133年前に、初代白神先生が大阪にお道開きをしてくださった日です。そしてその元は教祖様ですよ。その教祖様が亡くなられて今年は129年ですよね。「教祖百三十年大祭」は来年ですからね。

難しいからと言ってやめるのは違うのです。だって神様は助からん私を助けてくださっている。そしてもし大恩師親先生に「もうおまえは助からんから、願うのをやめとくわ」と言われたら、私なんかとっくにアウトですね。それがこうして曲がりなりにも形を付けてもらっているというのは…。そしてそのお思いに応えるためには、私もその願いを続けなければいけない。そしてそれは皆さんも同じです。一人ひとりがしっかりと願いを持つ。だから昨日の反省会は、反省と同時に「願い集会」にしてくださいと、昨日そう言わせていただいたので、きっと皆さん方はそうされたと思います。

絶対できます。オリンピックで体操の内村選手という青年は、今一番金メダルに近いと言われていますね。これはやってみないと分かりませんよ。だけども4年前のインタビューで、「4年後のオリンピックでは金を取れる選手になります」と言っていますよね。19歳の青年がですよ。そのためにはよっぽど努力をしているんですよ。あの人には才能があるから、あの人はできるから…。いやできるからこそ一生懸命しているはずですよ。できるからこそ、できんが分かるはずですよ。そしてできんが分かるからこそ、その努力を私たちはさせてもらって。一寸でも世と人の、本当に世と人のお役に立つ者にならせてもらわないといけませんね。今日一日を大切にして、共々に助かりの道を歩ませていただきましょう。