中近畿青年教師会

教会長 三宅光雄
12年8月16日


8月16日、泉尾教会にて中近畿青年教師会(大阪教会・白神紀美雄会長)の教会参拝が行われた。13時にお広前へ正式参拝ののち、13時半より2時間、19名の青年教師が親先生のお話を聞かれ、のち質疑応答。16時よりの交流会では30名のメンバーで泉光園内でバーベキューを楽しんだ。

皆さんこんにちは。本日は中近畿青年教師会の教会参拝。お天気に恵まれ、本当に有り難いことですね。一昨日とその前日も大変な雨が降りました。泉尾教会の信者さんも床上浸水という方もございましたね。その中で今日は屋外でのプログラムもありますね。これは神様のお守りも勿論ですが、先生方の日々のご信心で、こうして晴天のおかげを頂けたと、お礼申している次第であります。

いつ頃でしたか、青年教師会会長の白神紀美雄先生の方から「泉尾教会で研修会をさせていただきたい。そして先生にお話を頂きたいのですが…」と、お話を頂きまして、有り難いことだなと思いまして…。と言いますのも、私自身は本教の青年教師会の活動をしたことがないんです。勿論本教以外の場での活動はさせていただいてまいりましたが、本教での青年会活動というものはしたことがないのですね。勿論、連合会活動等はさせていただいていますが、青年としての活動は殆どしたことがないのですね。そういうような私に「一度話を聴いてやろう」と青年教師会の先生方がおっしゃってくださったのは、本当に有り難いことだなと思わせていただきましてね。どれだけの自分に信心の中身があるのか分かりませんが、今日は先生方に教えていただくつもりでお話をさせていただきます。

また、先ほどお結界で難波教会の近藤清志先生が、「もう昔のことになりますが、先代教会長(お父上)先生が若い頃に泉尾教会に「十四日会」という信心共励会があって、難波の教会と泉尾教会は距離が近いから、自転車で行かせてもらっていたことを思い出します」とおっしゃいました。当時は信心を求められる若手の先生方が大恩師親先生(三宅歳雄)に毎月14日にお話を聴かれて、共に信心共励をされたということがあったのですね。

先ず泉尾教会を語るには大恩師親先生・三宅歳雄なしには語れないんですね。私は、先生方もそうかと思いますが、生まれ乍らの教会の子弟でして、三十数年前に学院に行かせてもらった時に、最初のオリエンテーションでの質問用紙に求信日(きゅうしんび)というのがありました。私がそこのところを書けずにいますと、学院の先生が「三宅君は誕生日がそのまま求信日だから、誕生日と同じ日を書きなさい…」と言われましてね。ああなるほどなと思いましてね。私は生まれ乍らに信徒なのかと、その日が誕生日と同じ日でいいのかと思いましたね。それまでは全然そんなこと意識せずにいましたが、なるほどなと思いましたね。そしてこれはもっと後で気付くのですが、本当は生まれる前から祈られている私であるんですね。そのことを先生方よりもう少し若い頃、22歳でしたか、その頃に気付かせていただきましたね。

今日もどんなお話をしようかと、全くノーアイデアで今ここに座らせていただきましたが、今もその話が出ましたので、そのことについて先ずは話しますが…。この会堂は私が小学校6年生の時、今から46年前にこの会堂のおかげを頂いたのですね。三宅歳雄が布教しまして、今年で85年。玉水教会初代大先生のお言葉で、昭和2年の1月に泉尾の地に座らせていただきました。大先生と大恩師親先生は子弟の関係でありますが、と同時に伯父─甥の関係でもあったのですね。1月24日の朝に泉尾へ、大先生のお供をして来させていただいて、24歳でしたね。荷物は風呂敷づつみ1つですね。

泉尾教会という教会は元々あったんです。お教会はあったんですが、日々の勢祈念がない教会で、お広前には鍵がかかっていました。初代大先生が鍵をあけられて「ここへ座れ…」とおっしゃったのが、今から85年前の1月24日であります。なので泉尾教会では1月24日は「開教記念日」ではないのですね。泉尾教会は開教して93年の教会。なので泉尾教会は最初から「布教記念祭」と言いますね。大恩師親先生がこの地に座られて、布教されて何年ということをずっと言い続けておるわけでありますね。今年が85年であります。ですから、それから39年後にこの会堂が建ったのですね。85引く46は39ですからね。

昭和24年に今のお土地を頂いた。それまでは、最初は20畳ほどのお広前でした。そして建て増し、建て増しをして、敷地いっぱいに、さらには買い足しをして。しかしご信者さんが多くなって座りきれないということで、お広前が数十畳のところに毎日1,000人ものご信者が…。それで昭和24年にこのお土地(泉光園)を買わせてもらったのですね。昭和24年に取得する前は、ここは豊田織機の本社でしたね。豊田佐吉さんの豊田織機ですね。大正区は「近代織物発祥の地」ですから、この辺りがずっと糸偏産業があったのですね。そのお土地を取得するにもいろいろと事情がありまして、大戦末期にこの辺一体は軍需工場になっていましたから、爆撃を受けて、そのまま1ブロック空いていたのですね。おかげ様で約7,000坪の土地を一括で手に入れさせていただいたのが昭和24年。そして26年の12月23日の日に、ここから150メーター離れた元の泉尾教会(旧教会)より遷座をさせてもらいました。

ですから昭和26年ということは、昭和2年から数えますと新しいお広前を頂くまでに24年。旧教会のお広前に24年、元々の泉尾教会ですね。今のお土地を取得してから2年掛けて、聖地を聖地たらしめるために大恩師親先生は毎日ご奉仕を、そして祈りを込められ、前の会堂お広前(旧広前)が建てられました。そのお広前は450畳のお広前でしてね。その新築落成大祭には、本願寺の裏方様を始め、GHQからもご来賓が来られました。確か大佐の位の方でしたね。

それからご本部からも来られましたが、「こんな大きな教会を建てて、今は良いけど、後の代になったらこんな大きなお広前をどうするんや…」と、ご本部の先生に言われたと聞いています。大恩師親先生は「有難うございます」と受けられて、「必ずおかげを頂かせてもらいます。しかしこれは仮の宮です」と…。450畳ですよ。そのご大祭でのご教話で「15年で新しい宮を神様より頂きます」とおっしゃいました。ちょうど15年目にこの宮が、今の宮が建ったのですね。だから46年前にこの会堂を頂いたのですね。

私は子供の頃、小学校4年生から朝の4時半からの「お出まし」という御用をさせてもらっていました。訳も分からず大恩師親先生の後をついて歩きました。私は来年で装束を着けさせていただいて50年になります。私は来年で57歳。7歳から三宅家の「宅祭」で装束を着せてもらってるのですね。勿論「ごまめ」(※大阪地方の方言「大目にみる」)ですよ。それが写真に残っていますね。尺がこんなに大きい。勿論尺は同じ大きさなんです。私が小さいから尺が大きく見えるのですね。それから数えて来年で50年になります。その頃は何も分からず辛くて、弟たちは普通に走り廻っているんです。今思うと、本当に勿体ないことですよね。しかし当時は分からんからね。分からん時はしょうがないのですね。

小学4年生から毎早朝「お出まし」で教会長のお供をしていました。私は夏休みが一番嫌いでしたね。夏休みになりますとね、さらにその前より奥庭の植木の水やりが始まる。まだ暗い3時半に起きて、4時前から照明を点けて水やりをするんですね。中学生になったころからは、こちらの会堂にお部屋を頂き、ここの反対側のお部屋でしたね。家族のお部屋は4畳半と6畳の二間なんです。父母が寝てる部屋と私たち兄弟3人の部屋。そして通路兼台所があって、全部で9坪18畳。そこに親子5人で…。私は大学は東京に出ていましたものですから、実際にはそこに6年間。

ところが朝のお出ましは、今の神徳館の奥玄関と同じ所ですから、向こうから出るんです。年に数度、私を起こしてくれる母が寝坊するんですよ。「光雄、ごめん」って言うんですよ。そしたらもう分かっているんです。もう寝間着の上にそのまま着物を着るんですよね。それが今では考えられませんが、チャイムが鳴るのは1分間なんですよ、キンコンカンコンと鳴って1分間。なぜ行けたのかは分からないのですが、その1分間で向こうまで走りながら着物を着ているんですよ。中学生だから走れたのですよね。消防士がサイレンが鳴って、消防服を着ながら上から下りてくるでしょ、あの感覚。そして教会長はそのチャイムが鳴り終わると必ず奥玄関を出られるのですよ。そして奥庭の角まで行かれて…。当時の私は、なぜ待ってくれないのかと思っていましたが、今は自分が毎朝させてもらっていると分かるのですね。本当は待ってくださっていたのですね。待ってくださっていた。そう思うと私自身は小学1年生から装束を着て御用をさせてもらい、4年生からはそういうおかげを頂いてね。そしてずっと…。思うと私ほど恵まれ祈られている者はいませんね。

先程、「生まれた日が求信日」だと教えられた、その中身が本当にそうだなと…。それと同じことを果たして私が私の娘にできているかと言ったらできていませんね。それは玉水教会初代大先生が「歳雄、叩いた手の方が痛い、それが分かるか」と、玉水教会修行時代におっしゃったそうですね。私は子供の頃にそのお話を大恩師親先生よりよく聞きました。そこが分かれば必ずおかげが頂けるのですね…。

「神様居ませばこそわれあり。教祖様居ませばこそわれあり。玉水初代大先生居ませばこそわれあり。親先祖居ませばこそわれあり」。この四者があって、大恩師親先生は自分の存在があるとおっしゃいました。この四者がなければ自分はない。神様・教祖様そして師匠。師匠がなければ自分はない。

師匠と言えば娘(長女・恵)のことで私が今一番覚えているのは、私の娘が小学校に入る前に、オーストラリアで「WCRP世界宗教者平和会議」の世界大会があって、私は教会の別団体の団長として、信者さん二十数名と一緒に、私が娘を連れて行くことになっていたのですね。本体の大恩師親先生より一足早く出発したのですね。そして別都市を観光させていただいてから大会の開会式に出るためにメルボルンへ。出発する日のギリギリまで「娘を連れて行かせてもらいます」。大恩師親先生は「ハイ」とおっしゃっていました。当時は飛行機代金は20名以上の団体では小学生からだったのですね。そして今から行くというときに「娘だけおいていけ」…。今思いますと、朝のお結界でのお届けまでは、私に喜びがあったんでしょうね。そこからたった2時間の間に、喜びというものが当たり前になっていたのでしょうね。それを大恩師親先生はパッと見抜かれたんですね。これはあかんと思われて「娘はおいていけ」…。親娘で泣きましたが、私は御用ですから1人で行きました。

そのメルボルンでの大会で。大会は終わったのですが、大恩師親先生は国際委員長ですから大会の後に役員会があるのですね。しかし2日間空くんです。その2日間空く間に、玉水初代大先生の年祭に日本まで戻られました。そしてお祭だけ参拝されてメルボルンに帰られました。オーストラリアからですよ。2日しかなくとも日本へ戻って来られてまで、師匠の年祭が大事なんです。だからご晩年に車イスでしか参拝ができなくなられるまでは、本当に初代大先生の年祭を一番大切にしておられましたね。そしてさらにご晩年は、ご大祭にも参拝ができなくなられてからは「親教会のお天気のお願いをさせてもらうのが私の御用」と、ずっと祈っておられ、何日も前から食事を抜かれて、ご信行されていましたね。その姿は結局私に見せておられたのですね。私に見せておられました。それと同じく神様も親先祖も…。私は「神様居ませばこそわれあり」と頂いているのか…。

「氏子あっての神 神あっての氏子 あいよかけよで立ち行く」。この「あってのある」ということをお道は申しますが、この「あってのある」ということは。私はまだまだ不十分ですから、間違っていたら先生方教えてください。私の言葉で言ったら私は神様の「愛」。金光教に「愛」というイメージがあるのかどうかは分かりませんが、神様の「願い。祈り。愛」。「助かってくれよ」という願いですね。その願いを私たちが頂いて。それを受けてこそ「あってのある」があるのだと私は思っています。まずそこがある。それを頂いて、そして私たちがその神様を頂いている。だからどう言うのかな、「無償の愛」なんていう言い方がありますが、そんなものじゃないんですよ。そういう言葉で言ってしまうと何かこう薄っぺらいんです。「生命(いのち)」というか「存在そのもの」。だから「神様居ませばこそわれあり。教祖様いませばこそわれあり。師匠居ませばこそわれあり。親先祖居ませばこそわれあり」。と口が酸っぱくなるほどお話をされましたね。

しかし、本当に今思いますと、例えばさっきの子供の頃の「お出まし」の話だとか、いろんなことがありますが、全部私に聞かせようとされていたように思いますね。勿論私にだけではなしに、他のご信者さんも、そのことに自覚を持たれた個々の私にですね。それが10人なのか、100人なのか、1,000人なのか、万人なのか分かりません。でも100人居てるから100分の1では決してないんです。一人ひとりの100人なんです。たまたま今でもそうなんです。私は今もこういう形をとらせてもらっていますが、最初にも申しましたように、たまたまこういうようにこっち向きとあっち向きですが、先生方からも教えていただきたい。

泉尾教会では三宅歳雄を大恩師親先生と言います。教団的に言いますと四代教会長なんですね。登録上はですね。しかし私の親先生は大恩師親先生しかいない。それは三宅歳雄から言いますと玉水初代大先生しか実はない。そして玉水初代大先生の流れを汲まれる方が皆、代を重ねて親先生なのですね。玉水教会では大先生という言い方をしますが、これは教会のカラーですから、そこのところはそれぞれですから親先生ですね。その手続(てつづき)と言いますか流れの中に、私が助かっている。助けていただいている。そのもとはと言いますと、教祖様ですし、親神様ですね。神様と教祖様がなければ。教祖様の「あってのある」とおっしゃった中身はきっと私はそうだと思う。それは神様を頂かれての「あってのある」だからです。おっしゃり方はそうおっしゃっていますが、平行ではないと思うのです。私の浅学な未熟な信心から言いますと、私はそのように思うのですね。

今本当に思うんですよ。私が高校生であった当時の三宅歳雄が今ここに居てくださったら、私はいっぱい聞きたいことがある。いっぱい叱っていただかないといかん。教えていただかないといけないことがいっぱいある。しかし残念ながら今はここにおられない。しかし今なお神霊様としてお働きくださっている。だからないことは決してないのです。私が求めたらちゃんと私の中にある。私の中に生きてくださる。だから「生神」なんです。私はそうだと思っている。その大恩師親先生を生かすか生かさんかは、私次第なんです。でも当時の大恩師親先生がここに居て欲しいなと思う時がやはりあるんですね。

高校生の時に大恩師親先生に尋ねました。今になったら本当に宝です。「親先生、泉尾教会の信心は一言で言ったら何ですか」と聞いたのですね。すぐに大恩師親先生は「人が助かる信心。人が助かる教会」。それだけでした。それ以上でもそれ以下でもない。「人が助かる信心。人が助かる教会」が泉尾教会なんです。未だに私はそのことを忘れません。おっしゃったお顔まで覚えています。人が助からなければ泉尾教会の信心でもなければ教会でもない。助からないといけない。勿論助かりというものの中身。いろんな言い方はあるかも分かりませんが、運命まで含めた助かり。助かりというものは、一寸ここだけ上手いこといったという助かりも、それも否定はしませんが、そうではない。「人が助かる」ということが泉尾教会の信心。

私は4年間、東京の大学に行っていました。これも不思議ですね。私は3つ大学を受けました。今だから話しますが、同志社大学と関西学院大学と國学院大学。初めからこれは決められていまして、「宗教学部のある学校を受けなさい」。その中で3つ選びましてね。見事同志社大学は滑りましてね。神学部には、その年は2人しか通らなかったそうです。11人受けていましたね。今は分かりませんが、当時は東京より大阪の方が先に試験があって、東京の方が後であったんですね。そして東京の國学院大学に受験に行く前の日に、同志社大学から不合格通知が届きました。父が、父とは三宅龍雄ですが、世間では殆ど三宅龍雄は三宅歳雄の陰になって表に出ていませんが、今の泉尾教会がこのようにおかげを頂いているのは、三宅龍雄の信心が非常に大切だったということが今ではすごく分かりますね。三宅龍雄なしに三宅歳雄はなかった。本当にそれこそ裏方と言うかな、その御用をされました。これも不思議でいろんな先生に、最近いろんな場で、宴会のような場で教えていただくのですが、後でまた時間があったら話しますが…。
その時に、「滑ったら私の責任。通ったらお前の手柄」…。もうその一言で、何か分かりませんがワンワン泣いてた私がパッと泣き止みましたね。何もそれがどうだと言うわけでもなく、きっと「あいうえお」でも良かったのだと思いますが、私の責任だと…。当時は大学の受験勉強をしていたら怒られたんですね。勉強していたら怒られた。不思議でしょう。

この会堂ができて、今私は全部分かる。樹木がどうなっているか。全部ご信者さんと一緒に、石畳も1枚1枚全部敷いたんです。だからあの石畳の下がどうなっているのか、セメントが何センチ入っているのか全部分かっていますね。当時は学校から帰って来て直ぐに奉仕(外での作業)。特に夏は遅くまで明るいでしょう。天王寺駅を3時32分に出る環状線に乗るんですよ。それに乗らないと叱られる。私こそ帰宅部ですよね。そして奉仕部…。早く帰宅しないと叱られる。帰ってきたら毎日ご信者が何十人もすでに奉仕をされていましたね。泉光園の樹木は全てご信者と一緒に植えたんですからね。石畳も全部敷いたんですからね。勿論建物は竹中工務店が建てたんですよ、しかしその廻りは全てご信者の奉仕でですね。だから木々の1本1本全部信者さんの手植えですし、御献木ですね。淡路の方からが多いですね。だから絶対枯らしたらいかん。

それで、父の三宅龍雄がそう言って、私は東京の大学へ、國学院大学は合格したのですね。そして受験をして大阪に戻った翌日に、関西学院大学から合格通知が来ました。私は完全に関学と思いましたね。当時の関学は、憧れの大学でしたね。乗馬部があってね、とにかく格好いいんですよ。私は國学院大学に合格はしましたが関学に行きたい、いや行けるものだと思っていました。そもそも関学なら教会から通うこともできますからね。でも全て大恩師親先生にお伺いしてから、何事もおっしゃる通りしていました。親先生は神様ですから。

私は父…三宅龍雄のことを父と呼んだことがありませんでした。生まれた時から「先生」と呼んでいましたね。ずっとそう呼んでいました。父である前に先生ですし、祖父・三宅歳雄は祖父である前に「親先生」です。先ず先にそれがある。師匠と弟子の関係の方が、親子の関係より先にあるのですね。なので私の子供もそのように育てました。 大恩師親先生に「関西学院大学と國学院大学の2つが合格のおかげを頂きました」とそこまで言いますと、一言「東京に行け」。エエッと思いましたね。普通は誰が考えてもね。関西学院大学でしょう。東京ならアパート代も掛かるし、一方は教会から通えますものね。しかし大恩師親先生のお言葉は神様のお言葉ですから、私も気持ちを変えて東京へ行ったのです。東京へ行かせていただいて多くのことを学ばせていただきました。本当に恥ずかしい話ですが、私は環状線しか乗ったことがなかった。本当に何にも知らない。子供の時からお小遣いも貰ったことがない。自分でお金を持ったことがなかったのですね。環状線も6ヶ月定期を買ってもらって、切符さえ自分で買えない。本当に子供のときからお小遣い無しの生活をしていました。それなので何にも知らん。世間を何も知らなかったのですね。なので「東京へ行け」…。

東京へ行ったら全て自分でするのですね。買い物も洗濯も掃除も、そして自炊でしたね。そのおかげ様で、今では人以上に何でもできるようになりましたね。と言ってもできると思っている範囲の中での何でもできるだけですが。もっと言えば何もできない。その何もできないということが、今では弟の善信先生を始め多くの人々が私を支えてくださっているのですね。何でもできる。そして何もできない。これが私ですね。本当に恵まれている以外にないんです。私はもう本当に勿体ないなと…。

今日は松島教会の和田先生が、この講話の始まる5分前の打ち合わせで、どうしても、「三宅先生の、大切にされている信心とは何ですか」というお話をして欲しいということでしたが、それはやはり、高校生の時に聞いた「人が助かる信心」ということですね。

泉尾教会には三十数年前まで「十四日会」という信心共励の会がありました。そこに来られた若い先生方が、最近私は教区の会合や食事会に出させていただく機会が多いのですが、その食事会でたまたまテーブルに座りますと、そのときの先生が誰かおられるのですね。私は「三宅歳雄先生にお世話になりまして…」。全然私は知らないんですよ。私は「そうでしたか」と言いますが…。あるとき、ある先生がそんな席で、「三宅先生…」。その先生は一寸酔っておられたのか「あんたのところのお祖父ちゃん、歳雄先生にな、十四日会で『人が助かるとは、どうしたら助かるのか』と聞いたことがあるんや…」「三宅先生は何て言われたと思う」。「いや分かりません、教えてください」。「人を助けるというのはな、三宅先生は『執念』とおっしゃった。『祈りを超えた執念』とおっしゃった。私はそれから自分の信心がごろっと変わった。今おかげ頂いてるのは三宅先生のおかげや」と言われました。私より15歳ぐらい年上の先生ですね。

泉尾教会には大きな楠があるでしょう。あの楠は茨木市にある出社(でやしろ)の、春日丘教会という教会の近くの。春日丘教会は今から22年前に遷座をして、今の水尾町というところに行ったのですが、その前はそこから5キロ程離れた田中町いうとこにあったんです。なぜ移動したかと言いますと、教会の3分の2くらいが道路拡張工事で取られるんですよ。大阪府がおっしゃることに文句は言えませんから、「他が8割方移転されたら教会も移転します。自動的に退きますからそれまではそこにおらせてください…」。そしたら「そろそろ8割ですから退いてください」と言われたんですね。それが二十数年前です。そこからさらに20年くらい前ですか、今から言ったら43、4年前の話ですよね。

大恩師親先生が春日丘教会のご大祭に行かれたら、たまたま帰りしなに前の道路を拡げるために植えてあった楠を抜いてあったのですね。大恩師親先生が工事の方に尋ねますと、「これはもう抜いて捨てる楠やから…」。本当だったら植木を移動するときにはご存知のように根回(ねまわ)しをするんです。本当に正しいのは一度根回しをして、もう一度1年間埋めるんです。そうしたら根回しをした中にまた新しい根がしっかり張って、次掘り直すと上手く根がつくのですね。そんなこと関係なく、抜くだけの木だから、機械で力ずくでバサッと抜いて、放ってあった木を見られたのですね。大恩師親先生が「どうされるんですか」。「もうこの木々は捨てます」。「頂くことできますか」。「自分で持って帰るならどうぞ」…。そう言われて、それならと翌日トラックを用意して泉尾教会へ持って帰ったのですね。この会堂が建って2年目です。その時に10本ほど植えました。

今では泉光園のいろんなところにありますが、それこそ枝も邪魔なので全て切って、根もほとんど付いていない、捨ててあったのを拾ってこられた。それに、それこそ毎日水をやられました。雨の日でさえも毎日ですね。私は子供の頃でしたが覚えています。そして今は見事な大木になりました。1本も枯らすことなく。

これしかないんですよ、人を助けるというのは。「こうなっている人は助かるけど、こうなっている人は助からん」。普通で言ったらそうですよね。助からん人です。もう根もないし、本当は皮のところに水分をあげるところがある。機械でこう持って引っ張っているから裂けているわけですよね。それに毎日水をやられて…。そしてお神酒さんをブワーッと吹かれて…。子供の頃ですが覚えています。何で木にお神酒さん吹いておられるのかなと思っていました。

1年経っても枝も出ず、2年経っても出ない。それでも水をやり続けられる。そのうちにやっと出だしましたね。今はもう見事な楠の大木ですね。あれは貰ってきた楠。貰ってきたと言うより拾ってきたと言ってよい、「捨てると言われた楠」…。それと同じように「人が助かる」と言うことです。それが助からなければ信心やないんですよ。

私自身が捨てられた木なんです。鈍物なんです。それを神様が、師匠が助けてくださった。その神様や師匠の思いに応えるには、人を助ける以外に無いんです。それが三宅歳雄の信心。私もそうなんです。人を助ける以外に神様にお礼の申しようがない。私を助けてくださった意味は、そのことをせよということなんです。私も大恩師親先生と同様にそう思っている。勿論不十分ですよ。私なんて三宅歳雄、三宅龍雄に比べれば「雲泥の差」と世間では言いますが、雲泥どころではありませんね。無信心者です。本当にできていない者です。しかしそれを、来年で50年ですよ。いやそれどころか生命(いのち)を頂いて57年。いやいやそれどころか生まれる前から祈られている。この場にお使いくださった。だからただの恩返し、お礼ですね。まだ信心まで行ってないかも分かりません。そんな中身の私なんですね。本当に不十分と言ったらそれ以上に言いようがないのですね…。

昨日は終戦記念日。泉尾教会は、これも不思議なことなんですが、話は長くなりますが、戦前、京都にアメリカ人のカトリックの司祭がおられたんですが、戦争になったのでアメリカ人でしたから本国に帰れということになったのですね。その方は戦争は国と国がするけれども、人は、日本人もアメリカ人も同じだと残られたのですね。そしてその人が、人を救う布教活動をしてることがスパイ活動だというように取られて、憲兵に捕まるんです。その時に同志社の牧野虎次総長から、大恩師親先生は金光教の教師ですから、神道ですから、憲兵のところに「あの人は布教活動をしているだけでスパイ活動ではないと言いに行ってくれ」と頼まれて行かれたら、教会長も捕まるんですよ。「あやしい」と言われて、お前もかと一晩一緒に留置場で寝るんですね。疑いが晴れて出してもらうんですが、その関係から始まって、カトリックとも古いご縁あるんですね。

その方が実はマッカーサーと中学校の同級生だったんですね。昭和20年8月30日に厚木という基地にマッカーサーが降り立った時に、日本に来て、マッカーサーが直ぐに会いたい3人の中にこの人の名前があったのですね。そしてこのバーン神父が天皇制護持と連合軍上陸に銃剣を着けずにということを頼まれるのですね。そしてさらにその方が1年後、昭和21年にはバチカンの特別全権大使になられる。それで泉尾教会とバチカンには太い関係ができていくのですね。それがWCRP設立にも繋がるのですね。太い強い縁があるわけですね。その時に縁ができた関係もあって…。

敗戦直後は、特に食糧が不足したのですね。配給されるお米だけでは全く足りなくて、当時はヤミ米というものがあったそうです。物資が無かったのですね。そんな時代に、幸い泉尾教会には、奈良とか和歌山のご信者さんには農家があったものですから、毎朝おにぎりを6つ持参されて参拝されるご信者がおられたそうです。しかも白米で。その頃は白米は無かったんですね。「親先生に食べていただきたい」と、曲げわっぱ(お弁当箱)に入れて持って来られる。そして前の日の曲げわっぱを持って帰られて、また翌日に…。

必ずそれをされていたご信者さんがいたそうです。そのご信者さんが大恩師親先生親先生のところへ行かれると大恩師親先生は「ありがとう」とおっしゃったから、そのご信者は嬉しくて嬉しくて参拝されていた。ある日、その前の日の曲げわっぱ、お弁当箱を取りに奥の台所へ行きますと、丁度役員さんが「ああ○○さんありがとう、あなたのおかげで大勢のお年寄りが喜んでるよ」。「ええっ」…。それはどうしておられたかと言いますと。そのおにぎりを大恩師親先生は、ご自身は食べずに近所のお年寄りに、役員さんに毎日1個ずつ持って回らせていらっしゃったのですね。

私は、これこそ私たちが助かる道だと思っています。なぜかと言いますと、「させてもらった人が嬉しい。人にあげている親先生が嬉しい。勿論そのおにぎりを貰っているお年寄りが嬉しい。その御用をさせてもらってるご信者も有り難い」。皆が有り難い道ってきっとあるんですよ。今の経済の計算ですると、どっちかが儲かって、どっちかが損をする。損と得で経済のバランスができている。そうじゃない。信心とは、皆が有り難い道があるはずなんです。皆が有り難い道、皆が助かっていく道を求めるのが信心。甘いと言われるかも分かりませんが、それが有るんだと私は思っています。その道を行かなければ最後の最後には経済の論理で言ったら、必ず損した得したが出てきたら、そのしっぺ返しが来ますよ。必ず有ります。なぜなら初めから神様なんです。初めから足らん者が使ってもらっている。自分その者は使ってもらうんですから。そして喜んでもらえるんですから。私はそれしかない。

だから私の一番大切にしてるものは何かと言いますと「人が助かりさえすればよい」というご信心を、如何に足らん私が使ってもらえるか。これは若先生と言われた時代もそうですが、なお教会長、親先生と言われる今になっても、それしかないと私は思っています。またそれ以上のことは私の浅い信心では分からん。「した人も、してもらった人も、勿論頂いた人も、御用に使ってもらった人も」。皆が嬉しい有り難い道というのがある。何故かというと全部が神様の恵みの上にあるからですよ。そのもとは神様なんです。させてもらった人と言っても、農家と言っても、そのお米のもとは神様が作ってくださるんですから。困っていると言っても、その人も神様が命をくださって、都会に生まれたから食べる物がなくて困っている。神様の上に実は全てあるわけです。その神様の上にある者が神様にお礼を申すということで、その御用をさせてもらっている。それぞれの立場は違いますよ。私はそれしかない。

では私は何なんだろう。そしたら、その反対ばっかりしてますね。皆にしてもらって、してもらって、してもらって、してもらって。弟たちや家族にも、信者さんたちにも、ましてや世間様にも、皆してもらってる。私自身がそれに気付いたのは本当に恥ずかしい話ですが、先生方とほぼ同じかもう少し若いか、30歳の時ですね。

泉尾教会には今から三十数年前から、インド、バングラデシュ、スリランカ、ネパールの4ヶ国に8年間、当時の名前は「ミヤケホーム」と言いましたが、今は全部名前を変えて運営されていますね。ミヤケホームという孤児院がありましてね。そのバングラデシュの孤児院で26年前、私が30歳でした。その30歳の時にバングラデシュでは大洪水がありまして、ご存知のように大阪もそうですが、大阪は淀川のデルタでしょう。バングラデシュはもっと規模が大きいんですね。あの辺はヒマラヤのデルタ。一度水に浸かりますと何ヶ月も水が引かないんですね。多くがゼロメートル地帯ですね。この辺も、大正区もそうなんですよ。確か9月でしたね。

その時は一万人分の赤痢とコレラの薬を持って行ったんですが、日本の政府からの許可は直ぐに取れたのですが、当事国のバングラデシュの大使館が駄目だと言うのです。何故かと言いますと、その薬で商売をするのではないかと…。時間は掛かりましたがオッケーがでて…。当時はエルシャド大統領でしたね。私はダッカの大統領官邸まで行きましたよ。ジュラルミンケースに1万人分の薬を入れて…、そして1,000人分の眼鏡を持って行ったのですね。

ご信者さんに古くなった眼鏡なら何でもいいと言いまして、度なんか何でもいいのですね。度はそれぞれの人が自分に合う眼鏡を後で探すのですからね。ともかく持って行けと…。早かったですね、10日もしないうちに1,000個ほど集まりましたね。その1,000個の眼鏡と1万人分の薬を持って行ったんです。その1年前に「ミヤケホーム」を建てていたので、大恩師親先生が来られるということなので開所式をあらためてしようということだったんですね。

その開所式で大恩師親先生が小学生を前に話されたのですね。私は当時写真係をしていました。30歳でしたね。ところが実際はスピーチが始まって1分もしないうちに写真を1枚も撮れなくなったのですね。人間の体からあんなに涙が出るかと思いました。ワンワンと泣けるのですね。それは、大恩師親先生のスピーチの最後のところで、「あなた方は、この助かった中身に対してお礼がいる」とおっしゃった。「そのお礼は勿論私にするのでもなく、神だけにするのでもなく」「あなた方のお礼は、あなた方の後に続く子供たちのためになることがお礼だ」と言われたのですね。私はもう感激して動けなかった。それは私におっしゃっていることと感じたのですね。

子供たちは恵まれているのです。何故かというと、今まで私は孤児院は恵まれていない子供たちが居てると思っていましたが、その時は本当に多くの人々が亡くなったのですね。しかし孤児院に居てるだけで命が助かっているのですね。私が今日ここに居てるということは後に続く子供たちのために…。(手を上げられて)私はたまたまここまで来ていますが、まだ分からない人を助けるために…。それが神様へのお礼だとおっしゃったお言葉が、私におっしゃっていることのように聞こえたのですね。だから涙が出てきて…。

あそこが私の分岐点。それまではどちらかというと形の方が優先していましたね。こうならなければいけない。こうあるべきだ。それは大恩師親先生の「助かりさえすればよし」じゃなかった。「助かりさえすればよし」ということは、「助かる」ということは形だけではないんですよ。

これは後日談ですが、それから12年ほどしてから、そこの池の前に知らん外国人が立っていまして、たまたま私が通りかかったんですよ。確か大恩師親先生がお亡くなりになる1年前でした。私が「どなたですか」と尋ねますと、片言で「ここは泉尾教会ですか」と聞くのですね。「そうです」。「親先生はいますか」と…。知ってる言葉、覚えてるのは「泉尾教会」「親先生」なのですね。その青年はそこの孤児院の子だったのですね。何と凄く勉強ができて、後に国費留学生として東京大学に行っていたのですね。そして卒業して帰国するのに関空から帰るので大阪へ来た。そして帰る前に、その覚えている言葉だけを頼りに、泉尾教会まで来たのですね。そこへ私がたまたま通りかかった。その人の話を二代親先生と一緒に聞かせてもらった時に「後の子供のお役に立つ人間になれ」と、その言葉をちゃんと覚えていたのですね。そして自分は「教育」ということが大事と思い、東大で教育の勉強をしたと…。これから国に帰って、私はそのことをしていきたいと誓って帰られました。これは全く後日談ですね。

「助かる」ということです。「助ける」ということです。私はそのことが一番大事だと思わせてもらいます。本当はきっと、先生方はもっと他教団でのお話とか、そのようなお話をお聞きになりたかったんだろうなと思ったのですが、予定された時間になりましたので、これで終わらせていただきます。休憩の後は小一時間、質疑応答の時間がありますので何でも聞いてください。そして教えてください。私も一緒に考え学びたいとと思います。そして今日が、私たちの新しい出発点、分岐点になりますように祈らせていただき、お話を終わらせていただきます。