信徳殿教話 教会長 三宅光雄12年8月19日 今回の信徳殿は、入殿者が3つの班に分かれて長時間真剣に話し合いをされたのですが、今の各班の書記の方々の発表を聞いて、今年の大阪での各地区の「地区集会」は、例年とは違った形でしようと思わせてもらっていますね。今この場には、たまたま大阪の方ばかりですから、少しそのことを話しますと、今年の「地区集会」は、例年のように私の話が中心ではなしに、最初に皆で話し合いをして、そうですね、15人程で1組を作って…。そしてその代表の方が全体会で、皆の前でまとめた話をする。さらにはその後、参加者ももう一度加わって意見を言って、私が最後に話すという形が、変形のパネルディスカッションが良いのかなと思いましたね。それ程、今の各班での練り合いの発表は素晴しかったですね…。 3つの班の発表がありましたが、先ずA班の発表で、どうしても私の理解できないことがありますね。それは、「信心相続が難しい」…。勿論おっしゃる意味が分からんでもないんですよ。そして教会では「若い人にもっと楽しみをとおっしゃった…」。若い人にもっと「楽しみの場」を与えるということが大事だということは、私もそれも大事ではないとは思わないのですが、では、お一人お一人が初めて信心をされた時、ご神縁を頂かれたときには、泉尾教会が「楽しみの場」だから信心したのか…。そうであるなら、その人の子供さんや孫さんには、泉尾教会は「楽しみの場」としての信心でも私はいいとは思う。勿論私も「楽しみの場」がいらないとは思いませんが、確かに必要だとは思いますが、でもそれは第一義ではない。そして第二義でもないですね。だいぶ後の方ですね。やっぱり大事なのは、そこではないですね。そもそも各々が「楽しみの場」を求めて信心されたのかというところは、もう少し考えなければいけないですね。 大恩師親先生は、「人が助かればよし」とおっしゃいました…。答えは私から言ったら簡単なんですよ。先程も信心相続という話をしましたが、泉尾教会は「人が助かりさえすればよし」という願いの中から生まれたんですよ。難儀も難儀、前にも後ろにも動きもせんというところに、大恩師親先生は85年前に座り込まれた。最初は何もかもがそうだったでしょう。そこで昭和2年1月24日に泉尾の地に座られたのです。 そしてC班の発表でもそうですが、「どうして私はお道引きできないのか…」。答えは簡単なんです。今の私たちが難儀ではないんですよ。と言うのか、難儀から逃げていると言うか、今では難儀ではないんですよ。だからお道引きができない。だから二代親先生は、「自分がその泥の中に入って行かんと、人は助からん」とおっしゃいました。「自分自身も泥まみれにならんと助けれん。助からん」とおっしゃった。こっちは楽な上に居て、「おーい助けたるで…」と言っても届かない。そらそうですね、問題の中に自らも入らないと…。問題の中に自らも入って引っ張らないから…。分かりますか。そこで溺れている人が居るのですよ。私の目の前で溺れているんですよ。確かに上から、少しは手を引く人はいてるんですよ。しかし自分は安全な高い所から見ていて、「大丈夫か」と言っている。いやそれどころか声も掛けない。やっと手を出しても、自分は安全なところに居て、手を出しているわけですね。それでは人を助けることはできませんね…。 そこの中に、問題の中に自分も入って行って、もしかしたらその泥の中に入って行ったら自分も溺れるかも分からないですよ。というところまで行かないから、人を助けられない。だから逆にお道引きができている人を見てください。必ずその人の助けられた中身と同じことで人に向かっていますよ。そして必ずその人は、その問題の人を助けておられる。それは自分が問題の中に入っているからですね。本当はその人も、他のことでももっと問題の中に入らないといけないのですが、他のことだったら、それが問題だと分からないんですね。しかし、せめて自分が助けられた中身だけは分かっておられる。大半の人は自分が助けられた、例えば経済を助けられたのに、他人様(ひと)の経済は「大変ですね」で済ましていますよ。自分が病気で生きるか死ぬかで助けられたのに、その人のことは「祈っています」だけになっていますね。それも自分が安全な丘の上に居てですね。 85年前の泉尾教会(旧教会)のお広前は、この部屋のこの辺からあの辺いっぱいまでだったそうですね。そしてその後、敷地いっぱいまで建て増しをして、その上、隣地を買い足し買い足ししたのですね。だって昭和23、4年の大祭時には2,000人のご参拝があるんですよ。それはいくらお広前を大きくしても入れるはずがないですよね。1年に求信者が、昭和20年代は毎年1,000人以上です。1,500人の年もありましたね。それだけの人がご神縁を頂かれて信心を始められた…。だから泉尾教会はこの土地を買われたわけですよ。旧教会ではどうにもならないんですから。だから昭和23年ごろの、ご大祭の写真ではお広前から人々が溢れていますよね。2,000人の参拝ですからね。だから必然的にこのお土地をですね。聖地泉光園を買わせていただいたのですね。そのエネルギーたるや…。 そのもとは何かと言いますと、ここに書いてある。私は「人が助かる」「人を助ける」以外にない。しかし自分が安全地帯に居て、そして大変だなとは思っていても…。英語で言うところの「ドーネーション」とか「ボランティア」では…。何事も自分のこととしてしないといけない…。いや、それどころか、この頃は自分のことはお願いしても、それすらもできていませんね。だから「人類共栄会」とか「一飯(いっぱん)運動」に自分のこととして力が入らず、だんだんと減ってくる。「ドーネーション」とか「ボランティア」さえ嫌なんです。そして自分は何をしているのかといいますと、美味しいものを食べて、楽しいことをして、着たい物を着て…。それでは必ず、見ている間に音を立てて崩れていきますね。必ずです…。 「親辛道 子楽 孫乞食(おやしんどう こらく まごこじき)」。どんなことでも楽についたら必ず駄目になる。親が徳を積んでくれていても、自分がその徳を使い果たしたら必ず子供の代では…。それをしないためには簡単なんですね。大恩師親先生は「親辛道 子辛道 孫辛道(おやしんどう こしんどう まごしんどう)の道歩み」とおっしゃったのですから、その道を歩むしかない。折角親が積んでくださった徳を、さらに大きなものとして後に残す、その努力をする。少しでも楽についたり休んだりしてはいかん。常に辛道(しんどう)を歩む。しかし私たちは、ほっておくと楽につくのですね。 もう一度言いますよ。「信心相続」が難しい。難しいからもっと教会での楽しみを増やす。そうではないのですね。しかし、例えば青年会の働きでは、奉仕活動や人間創りと共に、それをしてくれたらいい。しかしそれも第一義ではないのですね。そしてもっともっと楽しいこともしたらよいと思う。しかし本当は、助かっている事実を、助かっている中身を、自分自身がしっかり「家庭で現す」ことですね。そうしたら子供は必ず信心を継ぐようになる。 しかし教会に参拝している時だけ「私は助かっています」と言っていて、家に帰ったら「大変やわ、教会で叱られて」とか、帰って来ても笑顔もなしでは、それでは子供たちはどう思いますかね。私はそんなこと絶対にしてませんと言っても、きっとやっているのですね。無意識にやっているから、それが子供に現れるのですね。そうでなかったら子供は絶対に信心を継ぐのですね。 この間あるご信者さんのお家の「宅祭」に行かせていただきました。もう有り難いとしか言いようがなかった。「新設報賽祭」をさせてもらったのですね。何が有り難かったといって、一番有り難かったのは、中学生と小学生のお嬢ちゃんが2人おられるのですが、玄関入った直ぐの所に2人の子供部屋があって、机が2つ置いてあるのですね。1人は世界地図に、1人は算数の覚えないといけない計算のところに、コピーでしたが、年頭に健児団で頂いた「お書き下げ」を、そのまま一人ひとりにコピーをして、毎日自分の見えるところに貼ってある。この子たちはそこに合掌してから勉強を始めるのですね。2人は毎日それを拝んでいるのですね。そしてそのお言葉を覚えている。仮に姉妹喧嘩をした後でも、合掌してから勉強するんです。それさえやり続けていたら…。そして何で分かるかと言ったら、子供たちがちゃんとご祈念を大きな声であげるのですね。こんな有り難いことはない。他にも良く似たお家はありますね。それを毎日やっておれば必ず、子供は信心が身に付き、ほうっておいても信心相続になりますよ。「嬉しいな、有り難いな。お父ちゃん、お母ちゃんは、神様のおかげで…」と、日々家で感謝をしていたら…。そして毎日起きたら神様に手を合わせて、ご神飯をさせていただいていたら…。そうしていたら、それが子供の当たり前になる。 だって、バングラデシュの「ミヤケホーム」の子供が、何年も前に聞いた「御神願」と「親先生」と「大阪の泉尾教会」と、3つしか覚えてないのに、何年も経って、日本に、国費留学生として来て、バングラデシュに帰国する前にお礼に泉尾教会まで来たくらいですからね。子供のときに聞いてる言葉というものは、必ずどこかに残っている。そして皆さん自身も、信心の二代目さん、三代目さんかも分からん。皆さんが初代とは限らん。その皆さんが今日こうしてご信心ができているのは、きっとそういう親様の姿を見て、信心ができているはず。そしてそれがもし子供にできていないのであれば、自分は親と比べて、もしくは自分は嫁ですという人だったら、自分のお義母さんかお義父さんか分かりませんが、その人と比べて、やっぱり自分のそういうところに対しての甘さが私はあると思う。それを時代だとか言ってしまう…。 昔は御神酒(ごしんしゅ)を持って難儀な人のところへ走ったものですね。私たちは御神酒でおかげを頂いたという、その事実を今は何処かへ封印しているのですね。自分や自分の親は御神酒でおかげを頂いた。せめて「苦しい時の神頼み」でもよいから、普段思い出せんでも、いざと言う時だけでも思い出して欲しい。本当は違うんですよ。本当はそうではないのですが、それすらないのですね。 その次の班は、「徳を頂く」でしたね。「徳が高い人」でしたか。「徳が高い人は魅力的」でしたかね。それも決して間違いじゃないんですがね。ひとつ言えることは、孔子の言葉に、「徳不孤 必有鄰(とくはこならず かならずとなりあり)」。これはどういうことかと言いますと、徳の高い人の側には必ず徳の高い人が集まる。ということは、徳が高い人が集まらんのは、自分に徳がないから。だからこそ徳積みがいるということなんですね。徳はひとつではない。徳を積むと、必ずその周りには徳を積んだ人が集まってくる。魅力的と言ってもいいんですが、皆さんももし洋室客殿にお掃除に行かれる機会があれば、私が李方子(りまさこ)様から頂いた額が掛かっています。あの書は李方子様の絶筆ですね。 李方子様が書いてくださった書には、2,500年前に孔子がおっしゃった言葉をくださった。皆さん方は、徳のある人に自分が引っ張られると思うのは、勿論そうなんですが、自分も徳者にならないといかんというのは事実なんです。勿論レベルの差はありますよ。しかし自分も徳を積んで徳者になっていかないといかん。そして徳を積むにはどうしたらいいか。これはもう何度も話しているから分かられますね。「人を助ける」しかない。 私が実は結婚する前に大恩師親先生より言われたことがあるんです。何とおっしゃったか。「一番難儀な人を貰え」…。普通は逆ですね。一番素晴しい人を貰えとか、一番明るい人を貰えとか、それなのに「一番難儀な人を貰え」。今ではその意味がだんだん分かってきましたね。まず一番最初に分かったのは、私自身が難儀な人間だということが分かった。もう1つは、難儀な人であるからこそ、人を助けられる。さっきの話ですね。泥の中に入らんと人は助けられないのです。そうすると、「人を助ける人と結婚せよ」という意味なのです。それを大恩師親先生的な言い方で、その時おっしゃった。私は今でも忘れることができない。そして私こそ「難儀な人間」だということなんです。 簡単なんです。難儀な者です。だから「われ凡夫(ぼんぷ)」と教祖様はおっしゃっている。その自覚があるかどうかが、「助けていただけるか、助からんか」のもとですね。そして「自分が助かるためには人を助けないといかん」のです。それこそ大切なのに、それを綺麗な言葉でごまかしている。「実意丁寧神信心」。その中身を問題にせずに、それさえ言っていればよいと思ってしまうのですね。何事もそれでごまかしてしまうんですね。 最後にひとつ、もう時間がありませんが、よく「おかげ信心」と言われるでしょう。それは、何か「おかげ信心」がご利益信心で、レベルが低いかのように「おかげ信心」を言いますが、これは最低限、教祖様と泉尾教会は「おかげ信心」でなかったらいかんのです。教祖様は「おかげ信心」です。勿論「おかげ信心」だけで止まっていないんですよ。しかしそれが常に根底にある。おかげを授けるということが教祖様のご信心の一番のもとなのです。勿論そこから展開していくのですよ。でもそれなしに初めから展開の部分だけ言ったって…。 だからそうでしょう。「願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ」と言っておられる。先ず「この難儀を助けてください」という自覚。それに対しておかげを授けるという内容。そして理解。理解というのはそこから展開していくわけですね。「理解申して聞かせ」。これが助かりの道筋なんです。 なのに私が難儀だという自覚がなかったら、まず助かりません。その次におかげを頂かないといかん。そしておかげを頂き続けないといかん。それはどういうことかと言いますと、神様に向かえば分かってくる。その次に、「理解申して聞かせ」なんですよ。 そしておかげは頂き続けないといかん。そのためにはどうするのか、徳を積むしかないんです。もう答えは決まっている。もう方程式を書いて皆さんにあげれば…。それこそ、そういう意味では免許皆伝。しかしいくら免許皆伝でも、巻物して口にくわえているだけではいかん。ドロンドロンでも消えない。これはやっぱり実行しかない。 今日は一緒に共励した人は信心友達だし、同志なんです。同志。「志」という字がありますね。皆さんどうぞ志をしっかり持ってください。「国際宗教同志会」があるでしょう。同じ志を持ってる人の集まり。やっぱり志を持たないといかんですね。今は信心してもフワッとしている。「助けてください」と言ったら助かっているものね…。しかし、助かっているけれども、実際はどうなのか…。 今日は皆さん良い時間を過ごさせていただきましたね。そしてさらに皆でもっと研修しましょう。皆持ってるのにね。共磨きしませんね。それぞれしっかり取り組んでください。 |