早朝勢祈念教話 教会長 三宅光雄12年10月20日 おはようございます。今日はこの月の霊様の御祭日ですね。そして昨日は南田原教会のご大祭を始め、生穂会の霊様の御祭や教会では幾つもの諸行事がありましたが、その中でも国際宗教同志会の、今年度第3回例会・理事会が神徳館でありましたね。前回は会長のお役をお願いしております村山廣甫先生のご自坊、曹洞宗東光院萩の寺様での例会でしたから、今年は泉尾教会では2回目の開催になりますね。国際宗教同志会は年に3回の例会があるのですね。今回は『国際社会における宗教間対話─3.11以降の日本を視野に入れて』という講題の記念講演が、同志社大学一神教学際研究センター長 小原克博先生よりあったのですが、先ず皆さん方に「一神教(いっしんきょう)」とはということをお話ししないといけませんね。 「一神教」とは何か分かりますか。金光教もある意味では一神教と思いますが、本来日本宗教の多くは神道仏教を問わず「多神教(たしんきょう)」ですね。神道には八百万(やおよろず)の神様がおられますし、仏教にも諸仏諸菩薩が大勢おられます。 一方、「一神教」と言えば、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教ですね。このユダヤ教・キリスト教・イスラム教という宗教は皆同じ神様を信じている宗教なんです。その神様のお名前は皆同じなのですが、モーゼの『十戒』にあるように、「神の名をみだらに唱えてはいけない」というので、単に英語では、ジー・オー・ディーと書くGODと呼んでいます。この同じ神様を頂くのに、なぜ3つ違うのかと言いますと、3,000年ほど前に初めてそれを説いたユダヤ教のアブラハムという預言者ですね。この方が神様の声を聞いて理解をした宗教と、その次は、2,000年ほど前にイエスという人が聞いた。次にムハンマドという人が聞いた。皆、預言者と言われてる宗祖ですね。他にも、その神の声を聞いた預言者はたくさん居たのですが、最終的には、その3人に集約された。その人々が神様の声を聞いて、その声に従って…。だからそれぞれ3つの宗教ですが、もともとは同じGOD、神様なんです。 一神教にとって一番大事な要素は、排他的であるということなのです。ただ単に一人の神を崇めるだけでは不十分で、「アラーの他に神はない」というように、他者を否定しなければなりません。だから、この「一神教」という考え方は、本来日本人には縁りがないんですね。しかし、私たちの金光教をはじめ、多くが幕末維新期に生まれてきた教派神道は、それぞれ、天地の主宰者となる神様を頂いているのです。ある意味では「一神教」なんです。これは日本社会では珍しいですね。なので、この「一神教」という概念は、なかなか一般の日本人には理解できないんですよね。もちろん、日本人にも少数ながらキリスト教徒もおられればユダヤ教徒もイスラム教徒もおられますが、多くの日本人には馴染みがない。日本人は多神教的ですね。やはり八百万なんですよね。考え方の基がですよ。日本人には排他的絶対ということはなかなかないのですね。あらゆることが八百万なんです。 それは日本には四季がありますね。そこで生まれた文化ですからね。世界では特別なのですね。これは、世界の島国では2ヶ所しかない。島国であって四季のあるところは日本とニュージーランドだけです。日本とニュージーランドは、夏冬が反対ですが、四季があると「一神教」という考え方が生まれない。その反対に、砂漠の真ん中だったら光と影、あるいは生か死の二者択一ですから、「多神教」は難しいですね。文化や宗教はその土地の有り様が大きく関わりますね。何事も気候というものがそもそも元にありますね。 しかし、この「一神教」というものをもっと私たちは理解をしないといけませんね。日本のように温暖な四季のある国は「和をもって貴しとなす」ですが、気候の厳しい国はそうではないですね。皆で仲良く譲り合ってではないんですね。私の言うことは絶対的に正しい。そうでないと厳しい自然の中では難しいんですよね。 何か私たちは、「一神教」の信仰は他者を排斥して激しいとだけ思っているかも分かりませんが、決してそうではないのですね。どんな組織にも確かに一部にはそういう人達はいますが、大多数の人は多神教であろうが一神教であろうが、穏やかな人々で、そんなに差は無いんですよ。そしてお互いに大いなる神を信じていますね。でも一部の人々に確かにあることは否定しません。どんな世界、時代にも一部の人はいますね。 昨日のお話で、「対話」というものにはいろんなパターンがあるということでしたね。私は始めから言っているんですよ。例えば、WCRP世界宗教者平和会議でもそうですよ。WCRPの中で話し合われることは、少しぐらい意見が違っても対話になる。何故かと言いますと、そもそも「対話をしよう」という人々が集まって来てるわけですから。始めから「話をしよう」としていますね。例えば、信心でもそうです。信心が進んでいる進んでいないと言っても、信心をさせてもらおうという人が参拝されている。それはそれですが、その人々でない人々…。「信心の話は嫌だ」という人に対しての対話が要るんですね。分かりますか。「信心は嫌だ」という人に対してのお道引きが要るんです。簡単に一言で言うと、その話を昨日されたのですね。対話と言うけれども実は対話の輪の外に居てる人たちが居られる。日本の場合は無宗教という言い方をしたらそっちの人の方が多いですね。それは日本だけでなく世界でも最近はそうなってきている。世界でもそれを「世俗化」と言っていますね。これは本当に怖いことなんです。世界の歴史でも何度も同じことを繰り返しているんですよ。そして必ず滅んで行っている。 信仰だけでなくて、全てのことがそうなんですね。成功してもその中だけでとどまっていたら、変わろうとしなければ必ず滅びるのですね。その滅びる元は何かと言いますと、それは他者との「対話」が無くなることなのですね。今も話しましたように、自分の言葉の通じる人だけと対話する。宗教なら同じ理解のある宗教の中だけで対話をする。そしてそれ以外の人とはしない。仲良しだけとする。確か女子学生の言葉があるでしょう。これを目の前で話されたら、何を言われても分かりませんね。何か違う言葉で話すわけですね。その仲間以外には通じない。本当に大事なのはその場に参加しない人たちとの対話なんです。だから信心してない人に対してのお道引きなんですよ。分かりますか。仲間同士の組織は、特に大会などをしても、だいたい大きなスローガンを立てて打ち上げ花火で、そしてそのスローガンを出したことで大会が終わったと思って、やれやれで終わる。それではいけないんだと…。私自身も本当に…。 同時に一番近いところは身内ですね。家族。親子。これが一番小さな単位ですね。そして世界まで行くと70億人まで、この瞬間に地球に生きている全ての人々が仲間なんです。その中の何処かに、私たちは属してるわけですね。その元の元は1人ですよ。その次の単位の一番小さいのが家族で、世界中まであるわけです。その中で私たちはどうなのか。対話ができているのか。そして、その元の元の一番小さな対話は何か。自分自身との対話があるでしょう。自分自身であろうと、世界中であろうと、それを全て恵んでくだされている大いなるものが神様ですね。それぞれの人によってそれを仏と言ったり、GODと言ったり、神様と言ったり、いろんな言い方をしてますが、これが大いなるもの、神様なのですね。 そして人間関係こそがその「対話」の元になるのですね。一番近いところは家族、そして親子。そしてそれはある意味難しい。そして世界中の人々との対話。その全ての人々が大いなる神様との対話。それが一個人なのか、家族なのか、70億人なのか、その単位は別ですけどもね。人間と人間。神と人間。過去から未来。そことの対話。私とあなたの対話だけでなしに、私と神様。あなたと神様。そして私の神様とあなたの神様との対話。どうぞひとつ。私はそのことずっと言い続けている。そしてやっと今世界が問題にしてきてくれた。そのことをどうぞ神様と真剣に向かって欲しい。 自分の都合の良いようなね、思惑だけのような、自分の勝手な理屈だけのようなことをやってたらいかんのですよ。それでは助かっていかん。確かにときには上手くいくかも分かりませんよ。ごまかせるかも分かりませんよ。しかしそれでは助からんのですよ。必ず「祇園精舎の鐘の音」ですよ。「諸行無常の響きあり」です。必ずそうなる。子や孫に徳を残さないといけませんね。それに気付かせてもらった、喜びのご大祭がもう5日後です。それぞれおかげを蒙られますように。 |