早朝勢祈念教話 教会長 三宅光雄13年8月17日 おはようございます。「お盆休み」が長い人では明日までという人があるらしいですが、高速道路公団発表の高速道路の混み具合で見れば、多くの人が帰省は終わっていると、そのピークは越えたということですね。そろそろ私たちも、「暑さぼけ」「休みぼけ」から戻らないといかんですね。 今から25年程前、「消費は美徳」と言っていた時代に大恩師親先生は、「紙1枚 水1滴を無駄に使う人は、紙1枚 水1滴に泣く」とおっしゃいました。「ハッハ、何を言っておられるのですか、親先生は古いです」と、皆思っていましたね。そらそうですよ、その当時は1,000万円で土地を買って半年したら、2,000万円で売れたんですから。そしてまた半年したらそれが4,000万円になっていたんですから…。しかし親先生は「水1滴 紙1枚」と言っておられるけど、こっちは放っておいたって1,000万円が1年経ったら4,000万になる。皆そう思っていたんですよ。しかし、その時にしっかりと親先生のおっしゃることの意味を分からせていただいた人は、今おかげを頂いておられますね。しかし当時は、土地を買ったら絶対儲かると皆そう信じ、そうしていたのですね。しかし、その時の人は皆倒れましたね。しかしその倒れた、大恩師親先生のおっしゃっていることも守らずに動いた人をも、大恩師親先生は助けられたのですね。 「十把一絡(じっぱひとから)げ」という言葉がありますが、私はどうしてもそのようなことをしていますね。何事をさせていただくにも、教祖様がおっしゃった「実意丁寧神信心」でさせていただかないといけません。 今まで、「実意丁寧神信心」や「真の信心」と、いろんな先生がいろんな言い方はされましたが、大恩師親先生がそれを全て「御神願」と教えてくださいました。それは、別に信心のことだけではないんですよ。生活の何もかもが信心。「実意丁寧神信心」な生き方をすることこそが、自身が「信心になっていく」ということなんです。 努力していることは私はどんな場合でも認めている。しかし自分はただ流れに任せて楽をして、人には「あんたはゼロやないか」。それは認めない。しかも自分が努力をしていないことをごまかそうと思って、2キロで泳いでいますみたいな顔をする。いや本当は10キロの流れのところで泳ぐなら10キロで泳がないといかんのです。ではなぜ10キロなのか。それは神様が「あなただったら10キロで泳げる」と、神様は10キロの流れのところへやってくださっていたのですね。流れのスピードは1人ずつ違うんですよ。それなのに皆言うんですよ。「何で私ばっかり大変な目に遭うのですか」と…。当たり前なんです。神様はあなたを信じてくださっているんです。だから厳しい。 私はそれを、30歳まで気が付きませんでした。それまでは「信者さんのことがおかげになりますように」とお願いをしていた。しかし、30歳の時に「信者さんの中身そのものが私になりますように」と、遅々に気が付いたのですね。だから「私を、そのご信者と同様に、難しい大変なところに置いてください」と、自分がお願いしたのですよ。だから信者さんが5キロの流れの人、10キロの流れの人、15キロの流れの人がおられたら、私は30キロの流れを頂けるということですよね。仮に3人としたらですよ。5キロ、10キロ、15キロだったら計30キロですね。それが、私の元々の流れが20キロだったら、10キロも早い流れで。それなら、自分だけより「しんどい」やないですか…。それは違いますね。「しんどい」のは当たり前。私自身が神様に人の流れ(難しさ)を下さいとお願いしたんだから、30キロの流れにしてくださったのです。 だから私は、もし「しんどい」と思ったら喜ばないといかん。神様がそのように30歳のとき、私の信心の分岐点から、私の願いを聞いてくださっているのですね。30歳までは、それぞれの人が、5キロの流れの人には5キロの力で、10キロの流れの人には10キロの力で泳げますようにとお願いしていたのですね。しかしそれでは全然違っていたのですよね。このときが私の信心の分岐点、「分水嶺」ですね。 私の話は毎日、365日させていただいていますが、いつも同じ話を繰り返しているんですね。たった1つの話をですよ。「助かってくれい」という神様の願いの、角度が違う話だけで、同じ話をしているんですね。だから他教団の先生が、「三宅先生、よう毎日毎日お話できますね」と聞かれますが、当たり前ですね。1つのお話しかしていないんですから。1つのことを違う角度で話しているだけなんですから…。ただただ「助かってくれよ」という神様の願いを…。そして私たちの信心もたった1つ。「助けてください」と、大恩師親先生の歩まれた道を歩むだけですね。それしかないんです。それ以外にはないのに、少し自分が賢くなって、自分で勝手な、都合のよい道を歩んだり、いろんな小細工をしようと思うから、転けたり落ちたりするわけですね。 大恩師親先生は「阿呆(あほう)でもできる一生懸命」とおっしゃった。それは「実意丁寧神信心」。皆さんは何事も実意丁寧神信心でされているのですが、ただ自分流のやり方でやっているから、「なぜそうなるんですか」と…。しかし自分があまりやっていなかったら、「しょうがないか」となりますが、自分が思いっ切りやったと思っている時には、余計にそう言ってしまうんですね。それは、私から言ったらやってないより悪い。せっかく自分がやってきたことを、自分自身が崩していく。そんな時にだけ私は大きな声を出して叱るのですね。それはなぜか。それは一番大切なところができていないからです。そうでなかったら、例えば団体参拝が目標に届いていなくても、私が神様にお詫びするだけでいい。でもそこのところをしていないから叱る。私は常に、そのこと(「阿呆でもできる一生懸命」)をしなさいと言っているんです。そして精一杯したら、後は神様にお任せなんですよ。だけど私から言ったら事実はしていない…。 なぜあなたに10キロの流れの川でと…。他の人は3キロの流れの川を泳いでいるのに、なぜあなたには時速10キロの流れの川を泳ぎなさいと神様がおっしゃっているんですかということなんです。それは答えは簡単なんです。大恩師親先生はこういう言い方をされました。「私ほどメグリ深い者はない」そして、「だからこそ助けてもらわないといかん」とおっしゃった。このことなんです。だから10キロの流れを神様から頂いている。だから助けていただいているんですよ。 ここのところが分かれば…。しかし、こうして話を飛ばして乱暴にお話ができるのは、毎朝お話を聴いてくださっている皆さんだからこそできるんですよ。いつもお話を聞いておられない方にこれだけの話をしたら、「親先生、これは何の話でしょうか」と言われますが、皆さん方は毎朝お話を聴いてくださっているから、このお話の本当の意味が分かられると思うから、こうして話をするんですが、しかし本当はいかんのですよ。本当は一つひとつお話をしないといけませんが、時間が無いのでこのように話しています。「私だからこそ、神様はくださったのだ」と思わないといかんのですよ。だから自分はそこを泳ぎ切らないといかん。 逃げるのは簡単なんですよ。流れから、ちょっと水溜まりの方へ行けばいいんです。しかしそこにはおかげは無い。さらには、泳ぐのを止めて岸に上がってしまう人だっているのですよ。しかし実はその人のことをお詫びしながら、その人の分の5キロのスピードも足して15キロで泳いでくださってる親様がおられるということを分からないといかんのですね。もし、もう面倒くさい。こんな難しい問題から逃げてしまおうと思ったら、「すみません」と神様に謝ってくださっている、大恩師親先生の神霊様がおられるということが分からないといかんのです。しかしそこを分からんから離脱するわけですね。そう思うと私は、大恩師親先生が亡くなられても、今も尚ですよ。私が足らん分を、激流に向かってくださっている。それを思うとお詫びしかないんですよ。なぜ皆さんはそれに気付かんのか。それは、一つひとつを丁寧にするということですよ。「十把一絡げ」ではいかんということですよ。「実意丁寧神信心」なのですよ…。 今日は「極意」みたいな話をしましたよ。これさえ分かれば…。そしてそれが責任者であればあるほど丁寧にしないといかんのです。これを見てください(年間日程表を持たれて)。性格的なものでしょうか。私は、1年後の来年の8月まで、日程を一応組んである。勿論これは変わりますよ。しかし、これがあるからこそ「ではこうしましょう」と出てくるわけでしょう。もしこれが無かったら何もできないですよ。そしてできる限りこれに添おうとしています。あれは案で仮に書いたからどうでもよいというのではないのですね。ということは、責任者であればあるほど反省も厳しく、未来に対しての向かい方も厳しく長くなかったらいかんのですよ。 それが一番無いのは赤子ですよ。生まれた瞬間、その瞬間だけは無いはずなんです。全て母任せ。でもそれが1歳になればまた変わってくる。10歳になればもっと変わってくる。大人になればさらに変わり、親になれば全く変わってくる。その責任の重さが…。 ところが皆さん方はずっと赤子のままではないでしょうか。それなのに、なぜ歳をとっていけるのか。責任の場に置いてもらえているのか。いやいや私は置いて欲しくないんです。置いて欲しくないといっても、事実子供はいずれ大人になり、親になるでしょう。人間は生きている以上、責任の場にならんわけにはいかんのです。いやいや日本人というだけでも責任の場ですよ。私たちは別に贅沢しているつもりがなくても、世界の人から言ったら贅沢なんです。それは知らんだけなんです。であるならば、もう一度言いますよ、「実意丁寧神信心」と教祖様がおっしゃった。一つひとつをしっかり向かうのです。しかも人によって、その流れている川の速さは違うんですよ。何で私ばっかり10キロの流れなのに、あの人は5キロの流れのところでなのか。私の泳ぐスピードは時速7キロだから、あの人のところだったら平気で泳げるのに、私のところだけは流れがきついから…。それはあなただから神様は10キロの流れの川を下さっているんだということですよ。10キロの流れに負けないあなたになれということですよ。そこを本当の意味で理解できないと、何でも重たい重たい、しんどいしんどいになる…。 私はメヌエル病という病気に二十数年前になったのですね。それまでの数年間、毎年のように大変でした。しかしある瞬間に、本当のおかげを頂いたのですね。天井と床と、それから壁と全部違う方向に回るのですね。私の前に人が歩いて欲しくないんです。歩かれたらその人のスピードに付いて行けなくなって、目が回り、気持ちが悪くなり、倒れるんです。しかし貧血とは違うんですよ。大恩師親先生にお届けさせていただきますと、「神様にお任せ」とおっしゃった。ハッと思いました。そういえば他のことはしていたけれど、本当のお任せだけはしていなかったのですね。自分が大変や、これをせないかん…。そうしたら、力を出しているつもりで出していないんです。「結果はお任せします。努力だけさせてください」とお願いしたら、途端に翌日から一切無くなって、それから今まで二十数年間、一切無いのですね。勿論これは努力をしませんという話ではないんですよ。努力はするんです。そして結果は神様にお任せします。それまでは逆だったのですね。努力はしないのに、結果だけはこうなって欲しい…。そしてそうならなかったらどうしよう、大変やと心配するのですね。受験勉強の学生さんはそうですよ。始めからちゃんと頑張った人は、ちゃんと進学するんですよ。だけどそうでない人に限って努力しないで、この学校は通った、あの学校は通らなかったと、そこばっかり言うんですよ。違うのですよ。 神様にお任せするということは、「倍のおかげ、3倍の信心」と大恩師親先生がおっしゃった。おかしいやないか、「3倍のおかげ、2倍の信心」だったら合理的だけど、となりますよね。合理的とはそういうことですからね。しかし信心は合理的じゃないんですよ。合理でなく道理なのですね。そこのところが、しっかりと向かえて行きますと、全て開いて行くんですよ。それがなかったら全部閉じたままなのですよ。もっと言えば、初めは閉じていたからこそ神様に出会えた。この道の信心に出会えた。勿論、「五代前が出会ったから、私には関係ないんです」とおっしゃるかも分かりませんが、でも必ず最初はそこから始まっているはずなんです。そしてあなたも必ず1回や2回出会って、感激しているはずなんです。でもそのことを忘れている、その感激を…。 私は20年前に命を助けていただいたことを忘れていますね。だから自分の命を粗末にしている。いや粗末になんかしていません。違う。今日1日を粗末にしているわけですよ。これは命を粗末にしているのと同じですよ。計算しやすいように人生は3万日(82歳)としたら、1日は大したものなんですよ。3万日分の1日。ということは、1日を大切にせんということは、自分の命を大切にしていないことなのですよね。 人が助かるために、私たちが助けていただくためには、神様が私だからといって、わざわざ厳しい流れを下さっているのですから、それを喜ばないといかんのに、何で私ばっかりとなったら、もう反対ですからね。そしてその流れのおかげで自分は今日あるのに、それを避けて逃げてしまっている私が、なぜそこで泳がせてもらえているのかといったら、そこに2キロのスピードが足らんかったら、2キロ以上のスピードのエンジンを、補助エンジンを付けてくださっているんです。それは大恩師親先生が亡くなってからもそういう祈りをしてくださっているということですよ。それに感謝させてもらわないといかん。私たちはそのことをしっかり向かわせてもらわないといけませんね。 最初に申しましたね。お盆休み、「休みぼけ」にならんように、しっかりと、神様に、物事に向かわれまして、おかげを蒙られますように。 |