早朝勢祈念教話 教会長 三宅光雄14年8月20日 おはようございます。今日は午後から月々の霊様の御祭ですね。そして昨日は、大掃除のおかげを頂きました。いよいよと今日から後12日ですね。8月31日の「大恩師親先生十五年祭」に向けて、一人ひとりが祈りを積み上げていく。より具体的に積み上げていくという日になってまいりましたね…。 私は明日から、イギリスで開催されます「IARF第34回世界大会」に出席させていただくために訪英するのですね。IARF国際自由宗教連盟は現在、私が国際会長をさせてもらっていますから、私が主催者なので、これは「大恩師親先生十五年祭」の直前だから云々ということを言えないのですね。そのために、この間は「祈りの伏せ込み」を、時間をかけてさせていただいてまいりました。直前の29日に帰国するのですが、ということは私にとりまして、あと1日ですね。もう24時間しかないのですね。その今日の御祭の直前に、この度「大恩師親先生十五年祭」で参拝された皆さんにお下がりをさせていただく「大恩師親先生教話選集(就)」が、今日の月次霊祭の直前に納品されるのですね…。 「大恩師親先生十五年祭」。大恩師親先生は皆さん方は勿論、参拝者の殆どの方が大恩師親先生にお祈りを頂かれた方々ですね。勿論この中には、信心が新しい方が何人もおられます。その方は二代親先生を、二代親先生がご帰幽になった後にご信心された方は私に、大恩師親先生を見ておられると思います。だから皆大恩師親先生のご信心を頂いておられるといっていいわけですね…。 大恩師親先生は明治36年。和歌山県和歌山市にお生まれになった。大恩師親先生の祖母であられる湯川さと様は大変熱心に金光教のご信心をされました。「一粒万倍」という言葉がありますが、そのご子息の湯川安太郎先生は、金光教玉水教会初代大先生ですね。玉水教会を始め、銀座教会、泉尾教会。さらには多くの教会、ご信者の皆さんが助かる元が、湯川さと様ですね。その湯川さと様の教えを14歳まで大恩師親先生は直接頂かれたのですね。大恩師親先生からいうと、お祖母様ですね。14歳の時に、和歌山での湯川家の年祭に、玉水初代大先生が参拝されたのですね。大恩師親先生は、その玉水初代大先生のお伴をして大阪に。そしてそのまま玉水教会で10年間修行をされた。この10年間で、元々の湯川さと様のご信心の上に、玉水初代大先生のご信心が重なり、大恩師親先生のご信心の基が築かれたのですね。それが24歳まででありますね。 そして24歳の1月24日に、玉水教会初代大先生のお伴で、「お前ここに座れ」というお言葉で、泉尾教会のお広前に座られた。昭和2年であります。そこから大恩師親先生は泉尾教会のお広前に72年間「人が助かりさえすればよし」とお座り続けてくださったのですね。そして96歳でお亡くなりになられた。 その昭和2年から昭和16年に第2次世界大戦が始まるまで。本当はもっと早くからですね。早くから「…事変」などの戦時体制だったのです。戦争だったのです。どこで区切るというのは難しいですが、そこを戦前と仮にいうならば、そこまでのご信心。そして戦中のご信心ですね。 ご布教されて2年後には「世界大恐慌」ですね。1929年です。もう世界中の経済が止まったのですよ。モラトリアムの発令によって、銀行へ行ってもお金を下ろせないのですよ。皆さんは銀行に自分でお金を預けたら、それは返してくれると思うでしょう…。しかし、お金を返してくれないという時代があったのですね…。そして資源に困り、世界で孤立して、戦争に突入していったわけですよね。その戦中の祈り。1人も死なせない。といっても、現実には何百万人という人が亡くなっていく。その中で個人の救済と同じように、世界の救済ということが大切だということを、あらためてですよ、勿論もっと前から祈っておられたのですが、目に見えて分かられた。戦中から特に戦後いち早く、終戦の日の8月15日の御祈念から、そうなのですね。勿論、戦中もされているのですよ…。 そしてこの「聖地泉光園」を昭和24年に取得された。25年の12月25日には旧教会より「御遷座」のおかげを頂かれ、26年には「落成大祭」を頂かれた。この宮ではないですよ。前の宮ですよ。それまでのその数年の大変なお祈り。大恩師親先生はまだ四十歳代前半ですよ。その時には、すでに大変なお祈り。そしていよいよと六二〇〇坪の「聖地泉光園」を取得されて会堂のおかげを頂かれた。その時のお広前は、今のお広前よりも大きいのですよ。お広前だけで四百畳。今のお広前は、お広前と周りのロビーを合わせますと五百六十畳。だけどお広前だけだと二百六十畳ですが、前のお広前は四百畳あったのですね。勿論お広前だけでロビーはありません。47歳で四百畳のお広前を頂かれた。日本で一番大きいといっていいでしょうね。昭和25年にですよ…。 その「落成大祭」の、その日のご教話で、神様から「15年で新しい宮を頂く。これは仮の宮。人が助かる宮。おかげの宮」だと、そういうお言葉を頂かれて、お言葉どおり、15年でこの新会堂を頂かれた。新会堂といっても、もう今から45年前ですね。この会堂のおかげを頂かれて、今でこそね、高いビルが周りに建って見えませんが、私が御用させてもらって3年目でしたか、ある業者の方とお話をさせてもらったら、その方は天王寺の方でしたが、「初めて泉尾教会に来させてもらいましたが、でも私は昔から泉尾教会のことは知っています」とおっしゃった。「どうしてですか」…。この宮が建った頃には、10年ほど前には、天王寺の、その方の自宅からこの会堂が見えたというのですよ。その間に全く高い建物がないからですね。「お屋根が光っていました」と…。 そしてその後、昨日も話しましたように、明日から行かせていただく世界大会の開かれる「IARF国際自由宗教連盟」に、1969年に正式加盟をされた。その時、立正佼成会の庭野先生も一緒に、立正佼成会も正式加盟されたのですね。そしてグリーリー博士、UUAユニテリアンの会長ですね。さらにホーマー・ジャック博士と一緒になって…。当時すでに昭和22年から「国際宗教同志会」が発足しておりましたから、それを母体として、また立正佼成会の庭野開祖先生にもお加わりいただいて、世界平和のために宗教の宗派を超えて、宗教協力、相互理解の組織として「WCRP世界宗教者平和会議」を創ろうと…。それは昨日も話しましたように、「第2バチカン公会議」という会議がその直前にあるわけです。世界の流れがそうなっている時に、この宮を頂かれ、いよいよと更に直接「世界助け」を、世界に打って出る…。「世界が助からなければ、個人の助かりもない」…。そういうおかげを頂かれて。そこからいくつもありますが、それを72年間積み上げられて、96歳でお亡くなりになった。その年から今年で15年…。8月31日に「大恩師親先生十五年祭」を頂くのですね。 今回そのご晩年の最後の九十歳代の大恩師親先生がお話しくださったご教話が、「聖地泉光園御神願成就」の「就」ですね、10冊目ですね。これで完結ですね。大恩師親先生の教話選集の最後の1冊。「聖地泉光園御神願成就」の「聖」という本。「地」という本。「泉」という本。最後に今回は「就」ですね。今回、今日の午後に遂に教会に届くのですね。いよいよと「大恩師親先生十五年祭」を頂く。大恩師親先生の昭和22年からの53年間で10冊ですね。その本が届くわけですよ…。 例えば、私は昭和39年に信心させていただき、今年で50年になります。私は60年になりますという方だったら、昭和29年。そういうことでしょう。その時のご本をもう一度読み直してください。ああこのお話を私は直接聞かせていただいた。この年は大病を患った年…。 「大恩師親先生十五年祭」は、どれだけご生前中にお祈り頂いたか。キリストは人々の苦しみを、難儀を背負って、ゴルゴダの丘というところで処刑されました。だからキリストは蘇ったのですよ。神の子として蘇えられた。人々のために、全ての人々の、いや自分を裁いた人も、処刑をした人の分の難儀をも背負って亡くなったのですよ。だから神の子として蘇られた。大恩師親先生もそうですよ。大恩師親先生が皆さんの中に蘇っておられる。それは私の難儀を大恩師親先生がお祈りくださり、お詫びをしてくださったという、本当に自覚されている人の中には蘇っておられるでしょう。だけど15年前に亡くなったなあという人の中には、ただのお国替えでしょう。この「大恩師親先生十五年祭」を、ただの15年前のお国替えとするのか、私の中に蘇っておられる大恩師親先生の、今なお生きておられる大恩師親先生の「十五年祭」とするのかは、あなた次第ですよ。あなた方次第なのです。 今も話しましたね。私は大恩師親先生が亡くなってからしか信心していません。泉尾教会も知りませんでしたという人もある。それは二代親先生のご信心の中に大恩師親先生を見ておられるはず。いやいやまだ1年です、2年ですという方は、私の中に見てください。その大恩師親先生のご信心が、皆さんの中で、今も生き生きと生きておられる大恩師親先生にお礼を申し上げる。ご安心いただく、喜んでいただく「十五年祭」を頂かなければ、ただの、世間でいう一般の年祭ですよ。祭事ですね。そんなんではないのですよ。そんなんではない…。 キリストの弟子で、こう言われた方がある。「私の墓の上に教会を築け」…。これは聖ペトロの言葉で、現在のバチカンのサン・ピエトロ大聖堂のことですね。さあ皆さん方は大恩師親先生の弟子として、「私の上に、私の墓の上に教会を築け」と言えるでしょうか。私はおかげを頂いたけれども、もう子供の代、孫の代には、分かりません…。そんなことでどうするのですか。 私の上に墓を築けという意味は、そこから人が助かるという意味ですから。実際にはそうなのですが、今、私の言うのは、本当に墓の上に教会を築けというのではないのですよ。「そこから人が助かる」という意味です。自分の師匠の、その働きを、祈りを受けて、そこから共にという願いが、そういう言葉を出されたのですね。これは皆さん方がお誓いをする。そうしたら、今日参拝している方々は、家全部が教会にならないといかん。形は教会ではなくていいのですよ。教会という意味は布教者です。「人を助ける者にならないといかん」のです。それが今の個人でいう教会です。だから皆さん方が「人を助ける」人にならなければ、「大恩師親先生十五年祭」が「十五年祭」ではないということです。昨年の11月4日から300日間積み上げてきて、いよいよと11日前。私からいうとあと1日です。明日から私はイギリスですからね。明日からは日本に居ないのです。私はイギリスから祈らせてもらう。 そのイギリスから祈らせてもらう意味は、IARFの会長としてIARFを主催させてもらうわけです。そのIARFに1969年に加盟されたことが、大恩師親先生の、泉尾教会の、ある意味での世界助けの正式な第一歩と言っても良いかも分からない。それまでに「国際宗教同志会」もありました、他の活動もありました。しかし国連の経済社会理事会のカテゴリーTに属する、公の組織の、それの集大成としての会長としてのお務めをさせてもらうということは、紛れもなく「大恩師親先生十五年祭」へのお供えなのです。私も初めは、日程が重なって大変だなと思っていたのですが、私だけの意図では決められないのですね。18人の評議員のいろんな、イスラム教も、キリスト教も、ユダヤ教も、仏教も、いろんな方がおられて、青年のためにも夏休みの間にするということだけが、最初から決まっておりましたから、期間はある程度決まっている中で、この方々の一番都合がつく、全員の評議員が来られるというのは、この8月の末しかなかったのですね…。 初めは嫌やな、大変やな、難しいなと思いました。だけど今思うとこれがお供え。お礼のお供え。これをさせてもらってこそ「大恩師親先生十五年祭」を頂けるのだと、先日から思わせてもらって、勿体ないことだったな…。それを大変やな、嫌やな、難しいなと思っていたことを、今はお詫びばかりしています。そうではない。神様は、わざわざそこに他の人を使って、この日を下さったのだ。私だけだったらそんなことを言わなかったかも分からない。「7月末にしましょう」と言っていたかも分からない。これは勿体ないことですね。 さあ皆さん方も忙しいから参拝できない。違うのです。おかげを頂いて忙しいのですね。では暇になったらどうなる。経済も成り立ちませんよ。わざわざですよ。そこのところをしっかり分からせてもらって、「私の墓の上に教会を築け」と、言わせてもらう一人ひとりにならないといかんね。それは、「私の信心の上に、皆さんの信心を開いてください」ということですよ。布教者ですよ。一人ひとりが布教者です。そのためには、「あらたまりと喜びと感謝」がいるのです。毎日ですよ。そしてお詫びがいるのです。しっかりと神様に向かわせていただいて「大恩師親先生十五年祭」を自分のために神様が、親先生が、お仕えくださると頂かれて共々におかげを頂いてください。 |