おかげ祭教話

教会長 三宅光雄
15年8月8日


おはようございます。今日は「立秋」ですね。そして昨日までが「土用」。教会では7月20日から19日間、「土用修行」をさせていただき、そして「土用修行に毎日二度参拝をさせていただいた人は、1年の健康を保証する」と、大恩師親先生がおっしゃったくらい、この「土用修行」は有り難いのですね。と同時に、参拝させていただくということは、全てにお守りを頂きませんといけませんね。勿論参拝させてくださいという気持ちが一番大事ですが、健康も大事ですし、お繰り合わせも頂かないといかんし、経済のおかげも頂かないといかんのですね。そして、それを私はさせてもらえたかと今思いますと、果たしてどうだったのか…。

「土用修行」の初日より私が申していますように、1日にたとえ二度の参拝をさせていただけなくとも、1日に1回の参拝であったとしても、それでも私は6日間抜けましたという人は、今日からさらに6日続けて参拝させてもらって、それで19回の参拝をもって、「土用修行」の参拝としてのお礼を申し上げないといけませんね…。本当は1日二度の参拝ですからね、そこにさらにプラス19回ですね…。それをもって、「土用修行で1年の健康を頂く」ということなのですね。有り難いことだと思わせていただくのですね。

今日は大阪は最高気温が36度と予想が出ていました。しかし、早朝は何だかすでに秋が来たのかなというような感じがしましたね。でもそれも束の間で、もうこの時間にはまた夏に戻ってしまいますね。しかし確実に季節は動いているのですね。

今日から1泊で少年少女の「夏のつどい」。そして明日は「健児大会」を頂くのですが、皆さん方は「夏のつどい」と「健児大会」を一緒のように考えておられますね。これは全然違うものですね。簡単に一言で言いますと、「健児大会」は健児団の大会ですね。これは88年前から、ご信者のお子さんだけでなく、初めからボーイスカウトやガールスカウトも参加して、信者さんのお子さんではない子供さんも参加しておりました。そしてそれは今でもそうですね。

私が健児団の御用をさせてもらっていましたのは、今から30年程前までですね。30歳からは、私はもうWCRP青年部会の御用をさせていただいていましたからね。私が御用をさせていただいていたのは30歳までですね。

そして「夏のつどい」とは、それこそ35年程前までは「修養会(しゅうようかい)」という名前でしたね。ご信者の子弟、お子さん、お孫さんが中心ですね。共に教会で2泊、3泊して共同生活をさせていただく。最近は1泊になりましたが、昔は3泊でしたね。私が一番覚えているのは、大恩師親先生が喜寿を迎えられた年ですから、77歳のお歳ですね。35年前になります。そのころは私が青少年の御用をさせてもらっていた頃ですね。大恩師親先生は「修養会」に参加した子供達の一番先頭に立たれて、バケツリレーで植木に水やりをされました。「77歳でこのパワーとは」と思ったのですね。大恩師親先生はその時は2時間以上バケツリレーの先頭に立たれて水やりをされたのですね。今のようにホースで植木に水をやるのではないのですね。先ず池から水を汲むのですよ。

当時、私が池で水を汲むのですね。それには非常に技術がいるのですよ。ところがその2年後水中ポンプでドラム缶まで一旦水を汲上げて、そのドラム缶から水を汲むことになりましたね。それでかなり技術が落ちました。池から水を汲むのは、自分の足より低い水面から水をバケツに入れるわけでしょう。バケツの持って行く角度とか、全部決まっているのです。そうすると一番水の抵抗が少なくて楽に上げられる。それからタイミングとか、バケツの運び方とか。私は子供のころからそれをずっとしていたのですが、水中ポンプを使うようになってからは、もうその技術がなくなりましたね。だから「便利になるというのは技術がなくなるということ」なのです。間違いない。

昔はお風呂にお湯を入れるといっても、温度調節だって自分でしないといけなかっのですが、しかし今はポンと押せば何度と設定できるのですね。なので、お風呂の温度調節の仕方だって、私たちは当たり前にできますけれど、今の子供達は分からないのですよ。水の沸かし方もその場面その場面によって違うはずなのですが、今はもう初めから38度の温度に設定していたら38度のお湯になる。お風呂ひとつ焚くのもそうでしたね。その当時は焚き過ぎたら叱られましたが、それでも楽しかったですね。危ないことも多かったですが、今は安全安全安全。確かに安全ということは大切ですね。しかしそれしかできない…。その形しか駄目なのです。だから何もかも同じになってくるのですね…。

ふと思い出しましたが、それこそ私が小学校に入ったころ、まだその当時は、教会では薪でお風呂を焚いていましたが、私と所員が同じようにお風呂を焚いたら、親先生(大恩師親先生のこと)に叱られましたね。「それは所員のお風呂の焚き方で教会の子はそれではいかん」。「まず薪を整理して、その屑の薪でお風呂を焚いて、薪入れには揃った薪を残しておく」。「これが教会の子の御用の仕方で、所員と同じではいかん」と…。まだ小学低学年でしたね…。

今のわが国は、高級品か、極端に安いものしか売れなくなっているのですね。真ん中がない。高いか安いかで、真ん中がない世界。真ん中だったら売れないのですよ。全てそうですね。しかし本当はそこを選ばないといかんのです。私たちがそれを選ばなかった結果、25年間それをやってきた結果が今の日本になってしまった。100円ショップの安い物か、高いブランド品しか売れていないのです。どちらでもない他の多くの店々は、どんどんシャッター商店街になっていくのです。違うのですよ。街そのものが元気でないと、その街はいくら大きなショッピングセンターができてもだめですね。そしてもっとも悪いものは何かといえば、「弱い者は食べるな」ということですね。これはいかんのですよ。「頑張っていない者は食べるな」なら分かるのですよ。しかし頑張っているのに報われないという世界は良くないですね。両極端しかない世界は、そもそもが国の力が小さくなるのですね。しかしその方向に日本人は舵を切ったのですよ。私たちが舵を切ったのですよ。それは何故か。その方が「楽だから」ですね。格好が良いからですね。しかし必ず30年、50年後には最弱国になりますね。過去の世界の歴史が示していますね。必ずなるのです。歴史が言っていますね。

「健児大会」と「夏のつどい」は、そもそもが意味が違うのですね。ところが今回何と「夏のつどい」は、本来の意味の反対に、ご信者の子供さんたちの参加者は全体の半分以下ですよ。これはどういうことなのか。その答えは簡単なのです。1つには「恵まれている」ということです。恵まれ過ぎているのです。「恵まれる」に過ぎるということは実はないのですが、しかし、恵まれていることに対して喜びが足りませんね。そのバランスです。喜びの大きさよりも恵まれている中身が大きいからなのですね。恵まれることは信心させていただいているのだから、それはそれで良いのですね。それよりも大きい喜びで向かえば必ず答えが出てくる。ところが「恵まれている」だけで終わってしまうと、そこには…。

泉尾教会の信心は金光教の中でも特に「家族信心」なのです。一般的な日本人の家庭もそうですが、信者さんの家庭も、家族そのものが崩壊しているのです。「私のところは家族は崩壊していません」と皆さんはおっしゃるかも分かりませんが、多かれ少なかれそうなのですね。本当に親が大変なときに子供は助けに行くでしょうか。絶対とは言い切れないでしょう。はたして、神様が中心、親様が中心にという家になっているでしょうか。そうではないですね。ではそうさせているものは何か。その多くは、せっかく家族が一緒にいても、一人ひとりが別々になっている。例えばインターネットですね。SNSですね。テレビまでの時代はそうはいっても同じものを家族で見ていた。しかしインターネットの世界は別々なことを双方向にするのですね。だから家族で一緒にご飯を食べても、子供はネットをしていますよ。いや子供どころか親も。5人で食事をしていても、それぞれがここの世界ではなく違う世界で繋がっている。その違う世界と繋がっている人も、また違う世界の人と繋がっていて…。

では家族とは何なのでしょうか。これこそが今後の日本の問題点であり、信仰もそうなのですね。会社もそうですし、日本社会全体の問題なのですね。20世紀から始まっている21世紀の問題は、「家族の崩壊」なのですね。家族は全ての中心ですね。だから一番大事なのは家族なのです。家族がやることは違っても、同じ思いで、同じ方向を見て向かっている家と、そうでない家ではまったく違うのですね。早くて5年、遅くても30年したら全て変わりますよ。間違いないです。そこからは「経済格差」ではなくて、「家族格差」というものが生まれてくる。家族が1つなのかそうでないのか。そもそも「冠婚葬祭」は、たとえ他がバラバラであっても冠婚葬祭だけは一緒にするというのが今までの家族親族だったのですが、この頃はその最後の「祭」さえも、お墓さえもバラバラですね。

泉尾教会は「御布教百年記念大祭」に向かい、一番大きな願いは「家族信心」。『家族が一緒に』を今から12年後に向けて実践していきます。今の時代は家族が崩壊しているか、崩壊していないかによって全てが変わるのですね。幸せというものの基準が変わります。「親先生そんなことありません、お金持ちの方が良いです。良い学校へ、良い会社に行った方が良いに決まっています。美味しい物を食べられた方が良いに決まっています」…。

確かにその瞬間はそのように見えるかも分かりません。しかしそれは違いますね。全ての元は、「家族が睦み和らぎ合う」ことですね。先ほども話しましたが、大か小かではなくて、大もあり小もあり、勿論その真ん中に多くが中だという、そういう社会こそ成熟する社会なのです。社会全体からいうと、勿論小の人は中を、中の人は大を、大の人は特大を狙うでしょう。競争は大変ですね。しかし特大だけ狙って、その元を忘れてしまった家は、家族は、会社は、国家は、最終的に滅びる方向へ行きます。だから私はそこを厳しく言うのですね。「祈る」のです。

泉尾教会の「ご布教百年」は「家族信心」がキーワード。今の言い方ですると、全ての中心は家族なのです。家族が揃って、同じ方向を見て、同じ思いで…。勿論やることは違うのですよ。お父さんの仕事もお母さんの仕事も、お年寄りも子供さんも、男性も女性も、やることは違う。一人ひとりの権利は、大人も子供も、男性も女性も皆一緒。しかし、やることは違うのです。それを間違えて、やることは一緒だと言っているのです。そして権利は違うと。権利は一緒なのです、皆人間ですから。私たち一人ひとりには「人権」があります。それは皆一緒なのです。これがなかったら差別です。しかし差別と区別は全然違うのですよ。同じ権利があっても、一人ひとり違う働きをするのです。
私には、今、私がしなければいけないことがある。私にしかできないことが必ずあるのです…。そしてそれは毎日あるのですね。今、今あるのですね。だから「一期一会」なのです。一瞬であり永遠なのです。それを分かった人は幸せなのです。それを分からないから苦しむのです。私たちは「幸せ」の基準を変えないといけませんね。「助かり」というものの基準をもう一度見直さないといけませんね。

教祖様は「信心は家内に不和の無きが元なり」とおっしゃっています。多くの御教えの中で「元」だとおっしゃっているのはこれだけですね。それは、「助かり」の一番の元は何か。それは「家族中が同じ方向を見て、和をもって過ごす」ということですね。それを勘違いして友達親子になる。友達親子は親子ではない。親は親。子は子で、それぞれある。

今日は更に御祭日です。しかもその上、「火難水難交通事故死者 水子慰霊祭」が仕えられますね。片や「夏のつどい」があり、そして片や御祭典を頂く。

「立秋」を迎えた今日。ここからまた新しいスタートをするのです。立秋とは秋が立つと書いて、これからどんどんと秋になっていく日なのですね。私は「立祈」と言いたいですね。祈りが立つと言いたい。今日を祈りの立つ日にさせていただきたい。立つとは始まるという意味ですね。

どうぞそういう意味で今日という日を大切に、そして私1人でもあらたまったら、考え方が変わったら、必ずや全てが変わっていくのです。それは、明日には変わらないかも分からない。でも明後日変わるかも分からないですよ。1年後かも5年後かも…。でも必ず変わるのです。そして私が変えなければ変わりません。私が変われば皆変わるのです。今日を「あらたまりの日」とさせていただきましょう。