大恩師親先生十六年祭教話

教会長 三宅光雄
15年9月1日


只今は共々に『大恩師親先生十六年祭』のおかげを頂きました。16年前の昨夜午後7時57分、大恩師親先生はご帰幽なさいました。本当にその日から今日の今まで、神霊様となられてなおご修行くださり、私共をお導き、お守りくだされておりますね。本当に有り難く、勿体ないことであります。

御祭詞でも申し上げましたように、私は今年6月にはAYC世界連邦アジア青年センターの、「三十周年世界大会」を、1984年に発会して初めて、初めて日本で、泉尾教会で、このお広前で開催させていただくおかげを頂きました。このことも、初代のAYC会長であられた大恩師親先生が願っておられたことですね。更には、ほんの数日前になりますが、私はフランシスコ教皇に謁見のおかげを頂きましたね。しかも善信先生、神戸灘教会の修先生と、兄弟3人揃って謁見のおかげを頂いたのですね。これも調べますと、兄弟3人での外遊は、なんと21年振りだそうです。なにもかも大恩師親先生の神霊様の、生き通しのお働きのおかげでありますね…。

大恩師親先生は14歳の時に、初代玉水教会大先生のお伴をされて、和歌山からこの大阪の地に教会修行に上がられたのですね。お伴をしてとこう申しますが、ちょっと下世話な言い方をしますと押しかけお伴ですね。玉水教会初代大先生が和歌山での御祭にご参拝になられた時に、お祖母様(玉水教会初代大先生の母親)の言い付けで、荷物を持って南海電車の和歌山市駅へお見送りに行かれて、そのまま電車に飛び乗られたのです。「何をするのだ」。「お伴させてください」。「それならもう和歌山へは帰れんぞ、それでよいのか。覚悟はできているのか」。「はい、お伴させてください」…。大恩師親先生は14歳ですね。それから96歳でご帰幽になるまでの間、ご信行くだされた。特に最初「おまえは信心しなければ30歳を迎えれんぞ」と、玉水教会初代大先生に、そのように聞かれたそうですね。いくら明治生まれといえども、30歳は早死にですよ。ところがご信心のおかげで、96歳という長寿を頂かれる。

20歳の頃、92年前に、銀座教会開設時に、銀座教会長先生のお伴をさせていただかれ、御用させていただくために、東京に行かれたのですが、直後の9月1日。今日は「防災の日」でしょう。92年前の9月1日に『関東大震災』があったのですね。あの関東大震災の時に銀座におられたのですよ。当時の銀座のお教会というのは今とは違うところにあったそうです。そこでご修行され、勿論大恩師親先生は、大震災だからといって大阪に戻られることはなかったのですよ。そのまま東京で大震災の後もご信行されたのです。ご自分は勿論寝る場所もありませんから、麻布教会という教会に身を置かせていただいて、そこを通る方や街で出会う方にお声を掛けられ、人々の助かりを願われ、東京を祈られたのですね。そして昭和2年に大阪に戻られました。昭和2年とは言いますが、昭和は2年から始まるようなものです。昭和元年は6日しかありませんからね。昭和の御代になって早々、泉尾の地にお座りくださった…。

「信心しなければ30歳を迎えれん…」。大恩師親先生もご晩年にはこのようにおっしゃっています。「私ほどメグリ深い者はない」。それで終わってしまったら、それはただの信心でしょうね。でもそこから大恩師親先生は切り替えられて、「だからこそ助けていただかなければいけない。メグリが深いからこそ助けていただかなければいけない…」。

そうは申しますが、先ず、自分がメグリ深い者かどうかということを分からないと、メグリ深いから助けていただかなければいけないとはならないでしょう。「私にはメグリなんかありません。良いことばかりしています。人のお世話はさせてもらっても、人の邪魔をするようなことや、人に憎まれるようなことはしていません」…。それは違う。確かに信心している人に、人の邪魔をしたり、憎まれるようなことを自分でわざわざしている人はおりませんよ。しかし知らないところで、気付かないところで、思わないところで、ご無礼お粗末を繰り返している…。

だから教祖様は、今から160年前、42歳の時に「のどけ」という病気になられた。命が有るか無いかというときに、義父様が神様に、「当家において金神様お障りはない、方角を見て建てた」と、また、「なぜこのようなことになるのですか」と、愚痴を言われるのです。どちらかというと神様にお願いしているのですが、お願いというよりも、ちょっとぼやくというところがあられたのですね。そうしたら隣の部屋から教祖様が這い這い出て来られて、「義父が申したのは、なんにも知らずに申したのでございます。どの方角へご無礼しておりますか、凡夫で相分かりません。以後、ご無礼のところ、お断り申し上げます」と、このように教祖様は神様に申されたのですね。その時に「其の方良し、信心の徳をもって神が助けてやる」と、神様の声が聞こえるのですね。これが金光教の始まりだと、私は思っているのですね。「立教神伝」より4年前ですね。

ということは、自分のどこにご無礼があるか分からないのですよ。信心しているのですから、ご無礼をしようと思ってしている人は無いと思う。しかし信心させてもらっていても、どこにご無礼があるか分からず、メグリを積んでいる。だからこそ自分はそれ以上に、出会う人、困っている人があれば、少しでもちょっとでもお役に立とうと…。そのことを貫かれたのが大恩師親先生ですね。

私は若い頃に、「大恩師親先生のご信心を一言で言えば」と聞かせていただいたことがあるのですね。私が孫だから聞いたのでしょうね。また聞けたのだと思いますね。その時大恩師親先生は、一言「足らん者の自覚」とおっしゃいました。「足らん者の自覚。これが私の信心です」と…。これは深いお言葉ですよ。だって、足りるか足らんかは、何に対して足りるか足らんかですよね。これはもう答えは簡単です。自分の頂いているおかげに対して自分の喜びが足らんということです。

大恩師親先生が「足らん」はずがないのです。しかし大恩師親先生は「足らん」とおっしゃる。それはなぜか。それは、自分が頂いておられるおかげが大きいということを分かっておられるからです。「どれだけ喜んでも、どれだけお礼を申しても、それ以上に大きなおかげの中に自分があるのだ」ということを、分かっておられたからですね。だから「喜びが足らん」ということが分かる。私はそれを聞いた時に、まだまだ若かったので、「大恩師親先生が足らんとおっしゃったら、私はどうしたらいいのか」と思いましたね…。ところが大恩師親先生が亡くなって、形の上で副教会長に。また二代親先生が亡くなって形の上で教会長というような御用の場に置いていただいておりますが、まだまだ足りませんし、また同時に、その御用が、足らんという中身を教えてくださいますね。本当に勿体ないこと、有り難いことだと思わせていただいております。

皆さんからご覧になると、先ず私が見えますよね。そして私の後ろに大恩師親先生のお写真が見えるでしょう。見えますね…。このように、泉尾のお広前では大恩師親先生のお写真だけですが、出社のお広前には、もう一枚、二代親先生のお写真があるのですね。これは出社のお広前だけです。大恩師親先生がご帰幽なされて『五十日合祀祭』の晩に、この霊舎の上にお写真が上がったのですね。そしてこのお写真を上げる時に、二代親先生に「ここで固定していいのですか。またその後外せるようにということはありませんか…」。「完全に固定しなさい」「このお広前には親先生(大恩師親先生)のお写真だけしか上げることはならん」とおっしゃったのですね。二代親先生に、「では親先生(二代親先生)や私はどうするのですか」と聞きますと、今から16年前ですね。そうしたら、「その時には、この大恩師親先生のお写真の中に私を拝みなさい」と、二代親先生はおっしゃったのですね。と同時に、出社のお広前には「出社は私もあなたも…」とおっしゃったのですね。今日も出社の代表が玉串を奉奠されましたね。今は出社の広前には、霊舎の上に大恩師親先生と二代親先生のお写真があるはずです。そしてそれぞれのお結界の後ろには、日々私が座れませんので、金色の額縁で私の写真があるはずです。ところがその写真の裏には、後ろに二代親先生、またその後ろに大恩師親先生のお写真を、当時と同じくそのまま重ねて入れてあるのです。表面に見えているのは私ですが、「私を通して二代親先生、大恩師親先生の御取次を頂いて、それぞれ助かりの道を歩んでください」ということなのですね。二代親先生のご信心は筋が通っておられますね。

大恩師親先生のご信心を頂き現すことこそが「大恩師親先生十六年祭」なのです。「ああ大恩師親先生は偉い先生でした。本当に有り難かったです。おかげを頂きました。助けて頂きました…」で終わったら、大恩師親先生を殺してしまっている。大恩師親先生が今の世に生きていただくためには、そのご信心を私たち一人ひとりが頂いて現さないといかんのです。頂くだけではいかんのです。そうでなければただの欲張りです。「あんた頂いたけど人にあげないの」…。それは欲張り。頂き現さないといかん。

お一人お一人あるはずですよ。大恩師親先生、もしくは二代親先生に掛けて頂いたその一言で、他の人には何ともなかったお言葉が、自分の心に響いて、「ああ助けて頂いた」…。でもそれを自分のものだけにしていたら、それはしないよりずっとましですよ、でもそこで止めてしまっていたら駄目でしょう。これを人に現さないといかん。「頂き現す」。私も私もと…。それが「大恩師親先生十六年祭」ですよ。

さて、ここに208日とあります。これは何の数字ですか。これはあと208日で「二代親先生十年祭」を頂くということです。私はこの大恩師親先生のお写真と言いますが、この中に二代親先生がおられる。だからすでにお2人が一体なのですよ。そして春と秋にお2人の年祭があるのです。神様の方から仕組んでくださっていますね。二代親先生の年祭でも大恩師親先生にお礼を申し上げ、大恩師親先生の年祭でも二代親先生にお礼を申し上げる。

そしてその翌日には、今日からいいますと9日後に当たりますが、「御布教九十年記念大祭」の五百日信行が併行して始まるのですね。これは大事なのですよ。何事も、1つが終わってから、次が始まるのではないのです。事実はそうかも分かりませんが、出社広前で、今一番表面に出ている写真は私ですが、その後ろには二代親先生が、そしてさらにその後ろに大恩師親先生のお写真があると申しましたね。「二代親先生十年祭」を迎えると同時に「御布教九十年記念大祭」の五百日信行が始まるのですね。

ですから今度は区切りとして9月10日の零時。真夜中の零時から朝のお勤めまでの間、私を始め教会所員を中心にご信者も、といっても参拝できる方は限られていますが、お広前で切れずのご祈念をさせてもらって、(手を前に出されて)こう重ねさせてもらう。ここから1つだ。そういうおかげを頂かせてもらいます。それも全部含めて、この「大恩師親先生十六年祭」の中身だと思わせていただきます。

今日は皆さん本当にお繰り合わせを頂かれ、ご参拝のおかげを頂いてくださいました。大恩師親先生の神霊様、いや同時に二代親先生の神霊様…。私も本当に皆さんのご参拝が嬉しい。有り難い。同時にそれを今申しましたように、「頂き現す」中身を、お一人お一人がしっかりと頂かれて、今日の御祭の中身とされますように。